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2022-05-05 08:47

#67 会津といわきで育った村野守美さんがマンガ・アニメで大活躍した話

会津若松市といわき市で育った村野守美さん。事故による障がいのため車いすの生活ながら、手塚治虫さんを師事し、マンガ・アニメの世界で大活躍しました。すごい人です。

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はい、おはようございます。本日の放送は2022年5月5日、木曜日です。
子供の日ですね。本日は第67回目のお話となります。
このチャンネルは福島県郡山市在住の特撮アニメ漫画大好き親父のピョン吉が
響きになったことをダラダラとなしをしていくという番組です。
そんな親父の一人言を聞きになりまして、もしもあなたの心に何かが残ってしまったら
ごめんなさい。悪気がなかったんです。
不幸にもこの番組に興味を持ってしまったら、ぜひ今後もご協力のほどよろしくお願いいたします。
そんなわけで、ダラダラといかせていただきます。
この放送は前日に収録しております。
ゴールデンウィークってことで、今日は家族で夕方にスタミナタロウに行って食べる予定なんですよね。
食べ放題のお店です。
というわけで、ついでにちょこっと奥さんに頼んで、飲み放題をつけてもらおうと思って
90分で1078円で飲み放題になるんでね。
というので、90分間でどのくらい飲めるかなっていつもチャレンジしちゃってぐでぐでになってしまうんですよ。
そんなわけで、次の日の収録ができなくなってしまう可能性があるので、前日の日中に収録している状態です。
今回は、シャープ64石森翔太郎ふるさと記念館でゲゲノキ太郎の思い出話の時にちょっと話しました。
村野森美さんについてのお話です。
村野森美さんは、満州国大連市生まれの方です。
満州から日本へ引き上げる時、集合墓所になっていた学校の窓から転落するという事件がありました。
それでね、脊椎を損傷してしまって、以降ですね、車いす生活になってしまった方なんですね。
戦後はですね、福島県藍津若松市で幼少期を過ごしました。
福島県ではですね、障害を持った子が通える学校が湯脇市にしかなかったんでね。
というので、湯脇市の方の平、そちらの方の学校の方で勉強をしたわけですね。
1960年頃に状況をいたしまして、爆弾論記という作品を発表いたします。漫画ですね。
これはですね、手塚治虫さんそっくりの絵で描いてしまったんですね。
そしたら手塚治虫さんからね、呼び出し来るんですね。
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で、家に呼ばれちゃうんですよ。
というのでね、手塚治虫さんの絵をパクったのでね、それで怒られるんじゃないかなというのでね、
ドキドキしながらですね、行ったらですね、すごく褒められたんだそうですよね。
そんな頃ですね、1961年にはですね、手塚治虫さんのアシスタントになります。
この頃ですけどね、すごいんだけども、手塚治虫さんの前にはですね、もう福島県の藍津の人だらけなんですよ。
前にこのコーナーでやりましたね、手塚治虫さん。
それからこれからですね、やる予定の平田翔吾さん。
それから船久保さんとまたもいらっしゃいました。
さらに日本初のですね、女性アシスタントだろうというね、星さんという女性の方もですね、藍津若松出身なんですね。
全員藍津の藍津漫画研究会の出身なんですよ。
そこにですね、藍津漫画研究会じゃないけれどもね、村野さんも参加ということでね、かなり藍津がね、多かったような状況ですよね。
手塚治虫さんの周りはね、本当に不思議な縁ですよね。
で、そのままですね、アシスタントの方から1962年ですね、虫プロダクション。
そちらの方にですね、会社形式になったので入社いたします。
で、手塚治虫さんはね、それに支持しながらね、鉄道マンアトムのアニメ制作に携わるようになります。
虫プロじゃないですけどね、なんとか知らないけど、ビッグXっていうのがね、手塚治虫さんのアニメがね、制作されるんですが、別の会社でね、そちらの方でも脚本の中として参加してるんですよね。
この頃なんですけどね、脚が悪いので動けないっていうのでね、よく虫プロの資料室で寝ていたらしいんですね。
そうすると手塚治虫さんがね、資料探しに来てね、そしてよく話をすることがあったみたいなんですね。
で、虫プロダクションがね、その後経営状態が悪くなって退社。
で、再びですね、漫画を描き始めます。そして描いた漫画が非常に人気になっていくと。
1980年にはですね、ホエロブンブンっていうのがテレビアニメ化されます。
これはもともとですね、虫プロが出していた雑誌でね、コムっていうのがあったんですね。
そのコムに連載されていた作品なんですね。
で、その時ですね、現代はね、ホエロボボっていう名前なんですよ。
ところがこれはね、一部地域においては放送行動に抵触する恐れがあるっていうためですね、
テレビアニメにするとき、ホエロブンブンっていうのが出てくるんですね。
そのためですね、テレビアニメにするとき、ホエロブンブンっていう名前に変更したんですね。
で、その後ですね、1987年にはですね、これは劇場アニメになるんですね。
というわけでですね、その80年代頃からですね、アニメと漫画の並行活動を始めます。
1983年にはね、哲川治さんの原作のユニコの続編ですね、
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そのユニコ魔法の姉妹っていう作品でですね、監督を務めます。
これは三輪が作った綺麗なアニメーションなんですね。
非常に謎めいた作品で面白かったです、これも。
1984年にはね、SF新世紀レンズマンがアニメ化されてるっていうので、
高段下のほうから漫画としてコミカライズとして出してます。
1985年にはですね、門川英吾の矢野哲さん原作の神威の剣。
こちらのキャラクターデザインとして参加してます。
2003年には監督を務めた石ノ森翔太さん原作の側の女高。
これでですね、東京国際アニメフェスフェア作品賞を受賞してます。
これは石ノ森翔太をふるさう記念館で、ずっと放映されてる作品なんですね。
漫画もですね、作品がたくさんあります。
例えばですね、1994年にですね、漫画少年野口秀夫って漫画も描いてます。
この本はですね、実は一般に市販されてなくてね、
稲橋の町の野口秀夫記念館からしか買えない本なんですよ。
というわけでね、一般に売られてない本なんでちょっと貴重なんですね。
1997年にはですね、日本松杉生まれの知恵子。
知恵子。知恵子少女馴染みの知恵子。
それについて描いた漫画、高村幸太郎・知恵子の漫画がですね、
小学館から学習漫画として出していたりとかします。
そして2011年の3月7日に名付けられた。69歳ってことですね。
例えば大友克博さんがね、今で最大的な漫画家さんだったわけですが、
これなんかもね、実を言うと村野もるびーさんの原稿がね、わざとね、落としたらしいんですよ。
それで、あの子さんのために誰かがいい原稿ないかというときにね、
じゃあアシスタントのね、大友さんの漫画をぜひとも載せたほうがいいよっていうね、
勧めたので、それで大友さんがデビューした、そんなエピソードもあります。
というわけでですね、手塚治虫さんの後を継ぐのにですね、
アニメと漫画を2つの世界で活躍した福島県出身の人がいたってことをね、知ってほしいと思うんですよね。
村野もるびーさん、ぜひ覚えてもらいたいと思ってます。
それではまた次回、よろしくはピョン吉のオタクの話にお付き合いくださいね。
本日もお聞きくださいまして、どうもありがとうございました。
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