佐藤俊郎の経歴と活動
はい、おはようございます。本日の放送は2023年の6月14日、水曜日です。 本日は第472回目のお話となります。
このチャンネルは福島県郡山市在住の特撮アニメ漫画大好き親父のピョン吉が響きになったことを誰だか楽し押していくという番組です。
そんな親父の一言が大きくなりまして、もしもあなたの心に何かが残ってしまったら、ごめんなさい。 悪意がなかったんです。
不幸にもこの番組に興味を持ってしまったら、ぜひ今後もご協力のほどよろしくお願い致します。
今回は、藍津若松出身の漫画家の佐藤俊郎さんについての話をしたいと思っております。
この方も手塚治虫さんと関係が深い方なんですよね。
1936年生まれの方なんですよね。 もう2018年の4月に亡くなられているんですね。
本名は佐藤俊郎さん。 佐藤俊郎はカタカナで書くんですね。
あとそれから佐藤芳郎っていう名前で書いていたことにもあります。 歌詞本自体はこれで名前ですね。佐藤芳郎さん。
あと、劇画作家としては、北隆一郎という名前で書いていることもありますし、また三上太郎という名前も使ったこともあるんですね。
そんな漫画家さんです。 1954年、藍津若松で印刷所でデザイナーをしながら、
佐藤俊郎、カタカナの俊郎の名前で、朝日グラフや読み入りグラフを投稿して入選しているんですね。
その他、福島民放や福島民有で社会漫画を投稿して掲載されております。
1957年になりまして、藍津漫画研究会に入会するんですね。
ですが、すぐにその年の9月に上京してしまうんですね。 笹川博史さん。笹川博史さんが上京したのに影響されたんでしょうかね。
翌年の1958年、佐藤嘉郎の名前で、箇所本漫画のアカシア書房や非売書房、その他の短編作品を発表するんですよ。
その年、平田昌吾さん。 藍津漫画研究会の平田昌吾さんが、手塚治虫さんのアシスタントになったんですね。
その縁がありまして、その翌年の1959年、紹介されまして手塚治虫さんと会って、
師匠さんとして上山寄りになるんですね。
手塚作品を手伝うようになるんですね。 この頃、手塚治虫さんの周りですけどね、
笹川博史さんでしょ? 平田昌吾さんでしょ? それと、藍津漫画研究会から行きました船久保さんという方も一人いますね。
その他、さっき言いました佐藤敏郎さん。 この4人が手塚治虫さんの周りにいたんですよ。手伝っていたんですよ。
しかしですね、あの敏郎さんは完全に虫プロ所属っていうわけじゃないですね。 1960年少年誌の方で、漫画の方を発表しています。
その一方ですね、先ほど言いましたね、劇画作家としても活動しました。 歌詞本漫画の方で、たくさんの作品を発表していくんですね。
東京トップシャーのスリラーシリーズだとかね。 あるいは、剣豪シリーズという形でね。
ギャング映画とかね。時代映画とか、そういったものを題材として漫画を発表しているんですね。 そして独立して漫画を描いていたんですね。
ちょっとここで話が横道にずれます。 1964年ですね、虫プロの平田翔吾さん。
魔人バンダーの制作
チーフアシスタントの井上悟さんと組みまして、勝手にですね、悟プロという名前で活動を始めたんですよ。
秋田書店のね、冒険王という雑誌があったんですが、その副編集長の成田さんという方がいたんですね。 その成田さんもね、藍澤賀松出身だったんですよ。
そしてですね、今度ですね、魔人バンダーという特撮作品が作れるので、その漫画家を頼まれるんですね。
もともとはですね、手塚治虫さんのね、魔人ガロンという名前だったんですよ。 その作品で作っている予定だったんですが、ところがですね、途中でね、製作会社の方がね、魔人バンダーという名前に変えまして、そして別の作品を作り始めたんですね。
というわけで、手塚さんのところでね、その漫画を作るわけにいかないわけですよね。 というわけで、手塚さんに非常に絵がそっくりな井上悟さん、その方にね、描いてもらおうということなんですね。
それでまた、さっき言いましたね、悟プロという名前で活動を始めたわけですよ。 テレビ漫画という名目でですね、そこで魔人バンダー、そちらの方ですね、連載するんですね。
そして人気が上昇していきます。 ところがですね、その魔人バンダーなんですがね、テレビ局の都合で放送できないんですね。
もしもですね、その時にされていればですね、マグマ大使、ウルトラマンよりですね、早いですね、特撮巨大ヒーローだったんですよ。
実際に放映されたのはですね、ウルトラセブンより後の1969年なんですね。 ちょっとその不幸の特撮作品があるんですけどね。
4年ぐらいですね、遅れ入りになってたもんね。 その間にウルトラマンだとかウルトラセブンとか登場してましたね。もうすごくですね、古い感じの作品になっていたんですね。
そんな風な魔人バンダーという作品があります。 手塚治虫さんは勝手にですね、独立してね、セトルプロが独立したので怒ってたんですね。
ですけどね、マグマ大使をですね、牛尾草司さん。 友達の牛尾草司さんがね、Pプロ、そちらの方で制作するっていうね。
そちらの方のマグマ大使をですね、自分が描いているのは忙しいんで、そのマグマ大使の手伝いをね、平田さん達にやって欲しいって言うんですね。
そしてそのうちですね、自分のね、マグマ大使が入ってましたけども、そちらの方をね、あのセトルプロの方でやって欲しいって言うようになったんですね。
というわけで、下請けの形でマグマ大使の漫画を描くことになるんですね。
手塚治虫さんとの仕事、セトルプロ時代
で、そしてまあ人手がね、セトルプロの方では人手が足りないって言うのでね、1966年の時に平田昌吾さんがね、運営するセトルプロの方にですね、佐藤敏夫さんがね、誘われるんですよ。
そしてそこに参加するんですね。
佐藤敏夫さん達が参加したそのマグマ大使なんですかね。 残念ながらですね、マグマ大使の本のとこに載ってないんですね。
この作品はやっぱり手塚さん自身の作品ではないというね、というわけで単行本化されていないんですよね。
ちょっと残念です。
で、次がですね、翌年の1967年ですね、手塚治虫さんに頼まれましたね。 黄金バットをね、今度テレビアニメ化するらしいと。
でも自分はね、黄金バットをね、描くわけにいきませんので、それで是非ともね、セトルプロの方でやって欲しいと言うんでね、セトルプロの名前で黄金バットを制作するんですね。
というわけで、そちらの方の黄金バットの手伝いもね、佐藤敏夫さんもやったはずなんですね。
その後ですね、セトルプロですね、全員ですね、虫プロに入らなかったね、手塚さんに言われましてね、というわけでまた虫プロの方に入ってくるわけです。
ところがですね、佐藤敏夫さんはですね、新規一転しましてね、1968年からですね、北龍一郎の名前ですね、青年誌を中心にですね、劇画作品、そちらの方を描くようになるんですね。
漫画娯楽だとかね、別冊漫画天国、そういったような青年誌がね、ボンボンと出てきた時代なんですね。 そちらの方で活躍します。
またですね、1970年からですね、ちょっとね、エロチックな作品、そういった作品では三上太郎と別の名前でも活動していたんですね。
その後ですね、多くの漫画作品を描いていくんですね。 手塚治虫さんは1973年にですね、虫プロ、そちらの方が倒産してしまうんですね。
腐敗を抱えた手塚治虫さんがね、1973年に描き始めたのはブラックジャックですよ。 その描く時にもね、なんか手伝いをしたそうなんですね。
北龍一郎さん、佐藤敏郎さんはですね、漫画だけでなくてね、ベイブルース物語だとかね、シートンどうぶつきだとかね、黄金仮面だとかね、そういった作品のね、差し描画家としても活躍したんですね。
北龍一郎としての漫画業、最終時期
そして1987年からですね、最初の名前をね、佐藤敏郎、カタカナの敏郎に戻しましてね、アニメ本のね、白鳥の王子だとかね、不思議な国のアリス、こういった作品を発表しています。
その後ですけどね、アートに目覚めまして、アート作品などをいくつか発表していたんですね。 そして2018年に4月19日に亡くなったと。
というわけでですね、手塚治虫さんを手伝ったりですね、独立したりとかね、それを繰り返した漫画家さん、そういう方がいらっしゃるんですね。
そして歌詞本漫画、そこは劇画、そちらの方で大活躍された、そんな漫画家さんがね、藍津若松出身でいらっしゃったってことですね。
ぜひ知ってほしいですね。
はい、それではまた次回よろしくはペンキのオタクの話をお付き合いくださいね。 本日もお聞きくださいまして誠にありがとうございました。