2022-06-03 08:52

#96 新地町育ちの横山孝雄さんのまんが道っぽい話

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漫画家を目指す新地町育ちの横山孝雄さん。石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さん、手塚治虫さんらとの出会いのエピソードがすごいです。目標の漫画家と大成することはできなかったけれど、フジオプロでマネージャーとしてマンガに関わっていきます。マンガ界の第一線を離れた後には、アイヌ民族の研究家として活動。横山さんの生き方を知るといろいろと考えさせられます。

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おはようございます。本日の放送は2022年の6月3日、金曜日です。
本日は第96回目のお話となります。
このチャンネルは福島県郡山市在住の特撮アニメ漫画大スクエージのピョン吉が響きになったことをタラタラと話をしていくという番組です。
そんな大事な一言を聞きになりまして、もしもあなたの心に何かが残ってしまったら、ごめんなさい、悪意がなかったんです。
不幸にもこの番組に興味を持ってしまったら、ぜひ今後もご協力のほどよろしくお願いいたします。
今回はですね、赤塚富士夫さん、石上翔太郎さん、それから時和荘などに関係する新地町育ちの横山孝夫さんの話をしたいと思っています。
横山孝夫さんですけどね、1937年生まれの方です。
1946年、日本が敗戦になりまして、両親の故郷である福島県新地町に引き上げされたわけですね。
昭和20年の後半に漫画少年という雑誌が出ましてね、そこで投稿での乱音で読者の参加が企画されたんですよ。
というので、そこで漫画マニアの人たちがね、子供たちが集まるようになったんですね。
毎日中学生新聞という本の方でもですね、漫画投稿のスペースが出てきましてね、それでいよいよですね、漫画ファンたちが増えたらしいんですね。
それを見た横山少年はですね、一生懸命に投稿してたらしいんですよ。
そしたらですね、その漫画少年の方にですね、東日本漫画研究会会員募集というのを募集している人がいたんですね。
それがですね、石ノ森翔太郎さんなんですよ。当時は小野寺翔太郎さんっていうんですが。
というわけで、住んでいた福島県の新地町からね、すぐ隣の宮城県のところ、そこにね、そんな人がいるんだなーってことを知ったわけですね。
というわけで、早速その会員となりましてね、福島県の相馬高校に行ったんですが、ちょうど修学旅行が松島だったんですよ。
急いでそのところを脱出しましてね、それで、その小野寺翔太郎さんがいる宮城県立佐沼高校に行ったんですね。
佐沼高校のところで石ノ森翔太郎さんと出会ったんですね。 もうすでにですね、石ノ森翔太郎さんはですね、天才少年で、その漫画少年にですね、連載を持ってたんですね。
二級天使という作品です。 彼の家に泊まりましてね、漫画描いてるのを見たりとかしてるんですね。
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その際には石ノ森翔太郎さんと有名なお姉さんがね、美人のお姉さんがいるんですが、その美人のお姉さんにうどんをごちそうになったりとかしてるんですね。
そして、いよいよ高校卒業の時にですね、就職なんだっていうので、どうにか東京の出版社に勤めたいなぁと思ったんですね。
どうにか就職したいというので、そういえば自分の勤めたい出版社はね、手塚治虫さんが漫画を出したりを気づきまして、
じゃあこれ石ノ森翔太郎さんに頼んで、そこからは手塚治虫さんに頼んで、そこから就職というのができないかなというので、交渉するんですね。
というわけで東日本漫画研究会、そちらのほうのつてで東京のほうのね、ある部屋に行くんですね。
その部屋っていうのが赤塚藤男さんの部屋なんです。 当時はですね、赤塚藤男さんが漫画家になることを宣言していましてね、横田特工さんと共同生活してたんですね。
赤塚さんと横田さんの部屋のところでですね、一晩過ごすんです。 その時ですね、永谷邦夫さんとも出会うんですね。
そしてその次の日ですが、手塚治虫さんのところに行くんですね。 手塚治虫さんはもう時はそれでた後でね、大きな家に住んでいらっしゃったんですが、そこのところで会いまして、
そして新人漫画家さんたち、永島新二さんとかね、そういう人たちと会うんですね。 その晩ですけども、手塚治虫さんと一晩過ごす形になるんですね。
というわけで、これですごいところは、この方ですが、もうすでに石上翔太郎さん、赤塚藤男さん、それから手塚治虫さんと3人と同じ部屋の中で寝てたんですよ。
という非常にですね、貴重な経験された方なんですね。
その翌日ですけどもね、時はそうに案内されまして、寺田博夫さんに会って、いろいろな話とかするんですね。
ですが残念ながらですね、出版社に勤めることができなかったんで、おもちゃ工場とかね、そちらの方の会社の方に勤める感じになっちゃうんでね。
というわけで、なかなか仕事があって忙しいというんですけども、月に2回だけね、お休みの日があるんでっていうんで、その時には映画を見たり、あと時はその方に行ったりとかしてたんですね。
というのは、石上翔太郎さんと赤塚藤男さんがね、もうすでに住んでますから、それから長谷さんもそこに手伝いに行ったりしますから、
というので、もう知ってるメンバーの人たちがいるんで、よく通ってたわけですよ。
今度石上翔太郎さんのところにね、どうにか原稿の穴埋めできないかっていうね、編集者の人が現れたわけですね。
そしたら石上翔太郎さんがね、赤塚藤男さんに任せたりみたいな話を聞いてね、それで赤塚藤男さんが漫画を描いたところ、大ヒットして、赤塚藤男さんがヒットするところも出会ってしまいます。
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そして自分はやっぱり漫画家になりたいんだっていうね、会社辞めまして、漫画に近い仕事を許してたんですけどね、なかなか仕事がない。
その時ですね、人気作家となった赤塚藤男さんがね、アシスタントを募集っていうね、というので横山さんごと呼ぶんですね。
というわけで、赤塚藤男さんの初めてのアシスタントは横山さんとなります。
その後ですけども、永谷邦夫さんだとかね、横里孝さんとか、その他の人たち含めて、赤塚藤男さんはね、七福神プロダクションっていうのを作るんですね、1963年に。
それがあと1964年にですね、フジオプロっていうのを作る時にはね、そこにも参加いたします。
そこで長年にわたってですね、フジオプロのマネージャーとなるわけですね。
1982年にね、実質的にフジオプロが活動したようになるまで、ずっとそこでフジオプロの企業に参加する形になります。
1974年の頃ですね、たまたま海外旅行で南米行ってたらしいんですよ。
そこでですね、日本のアイヌ民族のアトリっていう人と出会うんですね。
その人と会いまして、少数民族っていうのを存在にね、意識するんなんですね。
そして1976年に、アイヌ民族の女性の方と出会いまして、結婚。
そしてフジオプロが解散とともに、北海道の方に移動して、アイヌ民族のためにいろいろな活動をするんですね。
そして2019年の8月31日に亡くなったわけです。
現在アニメーションで有名なゴールデンカムにありますけどね、あの作品の中でもね、原作の資料の中にはね、横山さんに関係する本も入っているらしいんですね。
というわけで、新島市育ちの漫画家さんがね、いろんな漫画家さんたちと出会ってきて、そして現在にも漫画にもいろいろと影響しているってことなんですよね。
というわけで、ゆくまの高田さんの子が福島県内の人もっと知ってほしいなと思っているわけです。
それではまた次回。よろしくはペンキのお互いの話で落ち着いてくださいね。本日もお聞きくださいまして、誠にありがとうございました。
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