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はい、おはようございまーす。本日の放送は2022年の7月10日、日曜日です。
本日は第133回目のお話しとなります。
このチャンネルは福島県郡山市在住の特撮アニメ漫画大好きの私のピョン吉が響きになったことをだらだら話をしていくという番組です。
そんな私の一言をお聞きになりまして、もしもあなたの心に何かが残ってしまったら、ごめんなさい。
これは言えなかったんです。
不幸にもこの番組に興味を持ってしまったら、ぜひ今後もご協力のほどよろしくお願いいたします。
アニメのね、監督で好きな監督というとですね、福島県出身者でね、笹川祥司さんが好きなんですね。
ですが、福島県に関係した監督というとですね、もう一方いまして、出崎治監督が好きなんです。
出崎治監督ですよね。1943年生まれで、2011年の4月17日に亡くなっております。
67歳で亡くなられたんですね。
自分と同じ年代のことだったらですね、明日のジョー、エースを狙え、岩場の冒険、元祖天才バカボン、家なき子、
宝島、明日のジョー2、ベルサイユのバラ、スペースコブラ、ブラックジャック、そう言われると、ああ、あの音、わかると思うんですよね。
ストーリーの最後にね、画面が突然透明になってね、強調されたりとかね、あと太陽がね、キラッと光ったりとかですね、
あるいはですね、強調するためにですね、バンバンバン、3回繰り返してね、登場してきたりとかね、そういった技法を使っている方なんですよね。
あの技法ですけどね、現在のアニメでもね、CGになった時代でも結構使われてますよね。
実は、出崎大三監督のお兄さんもね、アニメ監督をされていまして、出崎哲さんと言います。
キャプテンなどをね、手掛けられた監督さんなんですね。というわけで、5兄弟でアニメ監督されているんですよ。
その出崎兄弟なんですが、福島県と関係あるんですね。どんな関係かというとですね、
幼少期ですが、福島県の相模市で過ごしたってことなんですね。 出崎大三監督さんはね、1943年に生まれたってことですが、
生まれたのは東京都目黒区なんです。 当時、航空科学専門学校の教授であった出崎明さん。
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そちらの次男として誕生したらしいんですね。
ちなみにですね、明治時代なんですが、福島県相模郡、
出崎英太郎という方がいましたね。その人の暇言にね、あたる方が出崎大三監督さんなんですね。
出崎英太郎というのはどんな人かと言いますとですね、福島県の選挙者とよく話題になる方なんですよ。
どんなことをしたかと言いますと、元々は関西の岸和田出身の方なんですけども、非常に発明するのが巧みな方だったみたいで、
明治の初めの頃にですね、みんな足踏み式でね、回していた排水機、あれをですね、蒸気を使って排水するようにね、仕組みを作ったんですね。
というので、これは便利だというので相馬に奪いまして、当時ね、水が多いところがあったんで、そこのところをね、組み立て上げるのに、それに使ったんですね。
それで相馬のところでですね、監督事業を行ったんですね。 それがまあ、非おじいさんで、というわけでお父さんが技術の専門学校の先生っていうのはね、そういう家系なんでしょうね。
そういうこともあって、戦後ですけども、相馬市に移り住んだんだそうなんですよ。 ところがですね、当時は大家族制度が当たり前の時代でね、
その家をおばあちゃんがね、もう消し切ってたんですね。 そしておばあちゃんはね、昔ながらのね、人なんで、
人なんでいるおさむさんの方はね、長男のてつさんとね、可別して育てているんですね。
ところがですね、小学校1年生の時にね、父親が欠格で亡くなっちゃうんですね。
というわけで、以後はですね、相馬市を離れて、東京都で渋谷役場とか板橋区、そちらに移動してね、母子家庭の状態で育った感じになります。
というわけで、そういう経験するとね、福島県を嫌いになりそうな気がするんですが、
おさむさんはね、相馬市嫌いではなかったみたいなんですね。 お兄さんのてつさんの話だと、亡くなったら相馬市のね、墓に入れてくれっていうことだったんで。
というので、遺骨はね、相馬市の方に持って行ったらしいんですね。
それからと、てつさんの死なない時にですね、たびたび相馬市に戻ってきてね、親戚が会ってたみたいなんですね。
おばあちゃんにね、差別されたっていうね、そういう辛い思い出があるんですけどね。でもやっぱりおさむさんのアイデンティティというかね、それはですね、やっぱり相馬市のところにあったんでしょうかね。
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そうしてもてつさんですけども、えっと、2011年にね、おさむさんが亡くなって、
その当時相馬市っていうと、東日本大震災でね、津波で被害が非常に大変だった時代ですよね。
当時、津波で亡くなった人もたくさんいるような状態だったし、
そしてさらに原発事故でね、避難が起きていた時代ですよね。 その時にですね、相馬の墓のところにね、納骨しなきゃいけなかったんだから、かなり苦労されたんでしょうね。
多分、あの日おじいさんが開拓したところ、そこもかなりね、津波の被害があったんじゃないかなと思いますね。
話をね、おさむさんに戻しますとね、小学校の時にですね、手塚治虫さんに憧れてストーリー漫画を描くようになったらしいんですね。
で、中学校3年生の時にはですね、野球少年という雑誌でね、漫画コーナーがあって、そこに応募したら入選したらしいんですよ。
その時の審査員がね、寺田博雄さんなんですね。 時和尚のリーダーのことなんですよ。
そして、高校時代にはですね、カシオン漫画の作家として、もうデビューするんですね。
まあ、お母さん一人でね、稼いでいる状態だからというので、なるべく早く稼ぎたいというのがあったんでしょうかね。
ですがですね、高校2年生の時になったんですが、1年間ね、活作活動した時ですが、もうちょっとカシオン漫画という時代がね、もうすいたら見えていたらしいんですよ。
それで、大手出版社に持ち込むんですが、全て断れたんで、もう漫画家になる道を諦めちゃうんですね。
現在とは境遇とかね、時代が違うとはいえ、すごいですよね。
もうね、漫画家になって、そして活動して、そして時代が変わったからという漫画家を諦めちゃう。
まあ、お兄さんがね、東芝の方に勤めていたというので、まあ遠古採用で東芝に入ったということですね。
というわけで、兄弟揃って東芝っていうのもやっぱりこれ、技術者の家系なのかなーって気がしますね。
ところがですね、入社してもかなりやんちゃで困った社員だったみたいですね。
当時ですね、虫プロダクションがね、鉄腕後も始めた頃なんですね。
1963年というと。
そして5月にですね、入社試験があることを知って、入社試験を受けちゃうんですね、虫プロの。
そしたら合格したらしいです。
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ただしですね、かなりそのやんちゃぶりが目立っていたようですね。
面接の試験を担当した人はね、落とそうとしたらしいんですね。
ところが、鈴井義三郎さんっていうね、うちにアニメ監督になる人がね、絵が上手いならね、撮りましょうよっていうことで入社決まったらしいんです。
オサムさん自身はね、たぶんね、義三郎さんが自分のね、歌詞本漫画を描いてたのを知ってたから、だから撮ったんじゃないかなというふうに思ってたらしいですね。
そして東芝を退社して虫プロに入るんですが、
9月に入社して、もう動画のデビューはですね、9月24日なんですよ。
そしてですね、12月になったらですね、もう第二原画って言って昇格しまして、部下を4人持つ立場になっちゃうんですね。
すごいですね。そして翌年の4月にはですね、もう原画を担当するようになっちゃうんですね。
そして1970年には虫プロで明日の城の監督をすると。
明日の城などね、そういったキャラクター、ちょっとね、社に構えたっていうのはですね、これはあの出崎さん自身の相馬市、それから東京でね、
そういう幼少期に過ごした、あの時代の思い出などがね、バックになってんだろうなと思いましたね。
はい、まあそんな方がね、いらっしゃったとね、ぜひ知ってほしいなと思っております。
はい、それではまた次回よろしく、ピョンキシャのお宅の話につき合いくださいね。本日もお聞きくださいまして、本当にありがとうございました。