2022-07-16 10:16

#139 平田村にあったミュージアム詩音眞のおもひでと郡山市の看板絵師の話

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郡山市で看板絵師をされていた三瓶勝吉さん。2007年から平田村で「ミュージアム詩音眞」を開設していたけれど、東日本大震災で閉鎖。2019年には阿武隈川の決壊による水害に遭われたようです。ですが、現在もいろいろ映画に関係した活動されているみたいです。

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はい、おはようございます。本日の放送は、2022年7月16日、土曜日です。
本日は第139回目のお話となります。
このチャンネルは、福島県郡山市在住の特撮アニメ漫画大好き親父のピョン吉が響きになったことをタラタラと話をしていくという番組です。
そんな親父の一言を聞きになりまして、もしもあなたの心に何かが残ってしまったらごめんなさい。我にはなかったんです。
不幸にもこの番組に興味を持ってしまったら、ぜひ今後もご協力のほどよろしくお願いいたします。
今回はね、映画に関するお話です。
ツイッターをね、ちょっと見ていたらですね、郡山市の看板絵師に関する話題が流れてきました。
50年ぶりにね、新作映画の絵を描きました、というものでした。
つぶやかれたと言ってもですね、もう10ヶ月以上前につぶやかれたものなんですね。
そういうのでね、そうそう郡山市に看板絵師の方がいたんだよね。
もしかしてあの人かなと思ったら、写真が載っていて、ビンゴ、その人でした。三平克樹さんでした。
まず、看板絵師っていうのをね、説明しないといけないかもしれませんね。
現代のようにですね、拡大コピーが気軽にできる時代じゃない時代にはですね、
映画館の入口付近にね、ポスターなどの絵を拡大した絵を描く専門の絵師がいたんですね。
描いた絵はですね、上映が終わると捨てられるわけですからね、そんなに丁寧に描くこともできないし、
当時娯楽は絵があったから上映される作品数も多くてね、周囲に何作かも描かなきゃいけないっていうね、時間的なヌルムもあってみたいですね。
というわけで、残ることがないアートなんですね。
映画産業がね、規模が小さくなっていくにしたがってですね、そのように入口にね、絵を飾るってこともなくなってしまいまして、
その人たちはね、だんだんと消えていったわけです。
自分が記憶ある50年くらい前にね、ギリギリ看板絵をね、見ることができたんですね。
それがですね、平田村の廃校した小学校の跡地を使ってですね、ミュージアムシネマっていう美術館みたいのがあったんですよ。
古い文庫の一角をね、映画関係の博物館、残りの部分をね、自分のアトリエ。
さらにもう一部をですね、地域の人たちが使う小民館みたいな感じ。
そういう風にして使っているところだったんですね。
かなりですね、平田村全部ですね、扁平なところにあったんでね、案内看板がね、あちこちにあったんですが、
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それがないとね、辿り着くのが難しそうなところでした。
入口を入るとね、巨大な映写機がありまして、すごいなーって感じでしたね。
もらった映写機だったそうです。
そしてその周辺にはですね、館長さんっていうんですかね、その方が描いた絵がずらーっと並んでいたんですね。
奥の方からですね、館長さんが出てきましてね、いろいろとお話しすることができたんですよ。
それが三平勝吉さんだったんですね。
ペインターネームは前野内光春さんというそうです。
これらの飾ってある絵は当然、映画館に実際に描かれたものではなくてですね、
新たに描き直したものだというんですね。
仕事じゃないのにね、描かれたっていうのはすごいなーと思ったんですね。
その映写機とですね、自作の絵がある部屋を通り過ぎますとね、
奥の方にはね、懐かしい雰囲気するものがいろいろと展示されていたんですね。
古い映画のポスターとかね、チラシラとか、あるいは古い雑誌だとか本だとか、
そういったのが並んでありました。
中でも個人的にすごいなーと思ったのはですね、三平さんが撮影した多数の映画館の写真なんですよ。
それはですね、郡山市の映画館なんですね。
自分も見たことのない映画館が多数写っていたんです。
これは何かと思ったらですね、看板掲げた時にですね、仕事として記録として写真で撮っていたっていうんですね。
というわけで、郡山市周辺の映画館、それからその映画館の周辺の様子がね、分かる非常に貴重な仕様だったんですね。
これは貴重ですね。なぜこれ郡山市じゃなくて平田村でやってるんですか?と質問したらですね、
郡山市はですね、こういうのを展示できるスペースがないっていうんですね。
ここも借りているんだけどもね、でも地域の人たちも使うんで、非常にちょっと使いづらいと。
もっといいところがあればね、そちらに移動して展示したいんだけどもなーという話だったんですね。
三平さんはですね、1942年の12月生まれだそうです。
中学校卒業するとですね、郡山市の絵看板の会社に入社したそうなんですね。
で、18歳の時にですね、絵の看板を描くデビューをするそうなんですね。
そのデビュー作が山下進吾さんのデビュー作であった風小僧だったそうです。
1960年代のね、郡山はですね、東北で最大のスクリーンの日活直演の日本劇場だとかね、
10館以上の絵画館があったそうなんです。
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しかしですね、1970年代の前半あたりからですね、看板絵というのはですね、だんだん取られてしまいます。
簡単にね、大きな印刷することができるようになったというのもあるでしょうし、
またあと、そういうふうに大きな絵を飾るという習慣もなくなっちゃったからですよね。
そして2007年頃にですね、平田村で孫立の文庫が廃坑になっているというので、
それを活用してね、公募があったらしいんで、それに応募して、
それに採用されまして、ミュージカルシネマというのを立ち上げたということだったんですね。
というわけで、自分が訪れたのはもう15年以上前の話です。
その後訪れようとした時にはですね、ミュージカルシネマはなくなっていたんですね。
2011年ね、東日本大震災でかなり文庫に被害があったみたいなんですね。
そのためですね、閉鎖せざるを得なくなっていたそうなんですよ。
それでどうしたらいいのかなとずっと思っていたんですね。
その後ですね、氷山市にね、アトリエ兼自宅を借りてコツコツと作品作りを続けていたそうなんですね。
ところがですね、再び不幸が訪れたみたいなんです。
2019年10月の阿部熊川の決壊なんですね。
氷によってですね、貯めていたパンフレット、ポスター、映画資料、
それと書き溜めていた絵看板、それもみんな泥の中に入ってしまったっていうんですね。
非常に落ち込んでいたんだそうです。
2020年の10月にですね、友人に誘われて、
藍津三里町のね、新富座、そこが復活しているっていうのをね、
気分晴らしにっていうので見学しに行ったそうなんですね。
12月にですね、その新富座のイベント用にですね、看板絵を描いたところですね、非常に好評だったと。
それで新富座との交流が生まれて、氷山市のアトリエにもですね、そちらの方の映画フォンが訪れるようになったそうなんですね。
それからですね、宮城相馬の朝日座、これみたいな映画にもなりましたね、その舞台になった朝日座。
それから元宮社の元宮映画劇場、それから藍津三里町の新富座、その3館をめぐるバスツアーっていうのができましたね。
それで映画関係の人たちとも繋がれてきて、今回ですね、新作映画の看板絵、それを描いてみようと思って描いたっていうことらしいんですね。
それがニュースとなってツイッターで流れてきたっていうわけなんです。
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自分に知らなかったやつもね、いろいろと悲しいことがあったみたいですね。
それでもね、前向きでいろいろ活動を始めたっていうみたいで、非常に良かったです。
そうにしてもその水害で膨大な氷山市の映画資料がね、破棄されたんではないかっていうのが気になるんですよね。
あれは本当に貴重だからね、平田村じゃなくて氷山市で保存したらどうかっていうことでね、市にも提案したことがあったような気がします。
その時に市が動いていればと思うんですが、多分動かなかったでしょうね。非常に残念です。
そうにしてもですね、お元気そうな写真なんでほっといたしました。
はい、それではまた次回よろしく。ペンキスの男の話をお付き合いくださいね。
本日もお聞きくださいまして、誠にありがとうございました。
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