2021-08-08 22:45

#67 21/8/8 死んだ者が生かされる

エペソ2:1-7からの礼拝説教。2021年8月8日録音。罪の中で死んでいた私たちを神様は生かして下さいました。コロナ禍において命の危機について考える今、キリスト共に生かされる幸いについて考えましょう。
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一神二章一節
さて、あなた方は自分の背きと罪の中に死んでいたものであり、かつてはそれらの罪の中にあって、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち不従順の孤らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
私たちも皆、不従順の孤らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、他の人たちと同じように生まれながら身怒りを受けるべき孤らでした。
しかし、哀れみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、園木の中に死んでいた私たちをキリストと共に生かしてくださいました。あなた方が救われたのは、恵みによるのです。
神はまた、キリストイエスにあって、私たちを共によみがえなせ、共に天上に座らせてくださいました。それは、キリストイエスにあって、私たちに与えられた支配によって、この限りなく豊かな恵みを浸るべき世々に示すためでした。
以上です。今日はこのところから、死んだものが生かされる、死んだものが生かされると題して見言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。東京オリンピックが今日で閉幕しますね。先ほどまで男子マラソンもやっていたようですけれども、実はこのオリンピックは紀元前8世紀のギリシャで始まりました。
そして、パウロの時代にもこのローマで行われていましたから、パウロも知っていて、エブソには少し戦いというイメージがありますけれども、他の、例えばコリンティビティの手紙などではですね、賞を得られるために走ろうとか、
このマラソンやですね、陸上競技のランナーのイメージとか、あるいはレスリング、そのような戦いというイメージをパウロは、オリンピックのような、オリンピックもイメージしたような表現を聖書でよく使っています。
そうは言いましても、今日のところにはありませんが、今そのオリンピック、いわゆるコロナ禍の下、緊急事態宣言下の中で行われたオリンピックは異例の事態ですね。
いろんな評価がなされています。運営は問題だけど選手は問題ないなと。ただ、やはりこのお祭りムードという空気が人々の行き来を盛んにして、そして今、新型コロナウイルスの感染拡大がある面、爆発的になっているわけですよね。
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まさにですね、お祭りムードという空気感に流されて、新型コロナウイルスのことを忘れてしまいがちな昨今ですけれども、パウロはですね、この時代の空気に流されて、罪に歯止めのかからない、死んだような人間の状態を、今日の2章の1節から3節で告げています。
ちょっと長いですけど、もう1回読んでみますね。
今言われたことを頭に入れながら振り返ってみましょう。
さて、あなた方は、つまりエピソードのクリスチャンもイエス様を信じる前はという意味です。
自分の背きと罪の中に死んでいたものであり、かつてはそれらの罪の中にあって、この世の流れに従い、空中の剣を持つ支配者、すなわち不従順のコラの中に、今も働いている霊に従って歩んでいました。
私たちも皆、不従順のコラの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、他の人たちと同じように生まれながら、身怒りを受けるべきコラでした。と書いています。
死んだような人間の状態をパウロはこう書いていますが、まずその死んだような人間の状態から始まって、今日は神様が死んだ人を生かすそのことを、残りの2点で合計3点から学んでいきましょう。
まず最初のポイントは、霊的な死です。
先ほども言いましたが、パウロは2章の冒頭で、突然ですね、それまで福音的なこの救いのイメージがありましたけれども、突然ネガティブなイメージに転換して、こういうことを言っているんですね。
救い主イエス様を信じる前の私たちの状態を述べています。
さて、あなた方は自分の背きと罪の中に死んでいたものであり。
死んでいた。罪の中に死んでいた。
ここでですね、ぜひ覚えておきたい言葉があります。
霊的な死です。スピリチュアリーデッドですね。
ここでパウロが言う、あなた方が死んでいたというのは、肉体的な死でないことは、読んで明らかです。
霊的な死とはどんなことか。
それはですね、聖書が掲示している誠の神様との関係において死んでいるということを意味するわけです。
神様との関係において死んでしまった状態を霊的な死と言います。
ここに過電が出ていますが、よく電気経路の検査などの言葉で、この回線は死んでいるとか、
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この教会にもいっぱいコンセントがありますけれどもね、こういうところにも。
このコンセントは死んでいるなんて言いますよね。
それは何か、それは例えばですね、死んだコンセントにコードをつないで、
この過電のスイッチを入れても、そこに電流が流れていない。
電力源につながっていないわけですから、どんなに高級で便利で最新式な過電であっても、
この巨大な発電所から流れる膨大な電力をエネルギーとすることができないわけです。
回線が死んでいますから、このような素晴らしい過電でさえ死んだような状態になってしまうわけですね。
同じように、人は聖書が証しする、創造主なる神様との関係、
神様につながっていなければ、それを信じていなければ、霊的に死んでいるとパウロは言っているんです。
その2説、3説には、霊的死のありようが表現されているわけです。
それは大雑把な言い方になりますけれども、この世の空気に流され、
罪を罪とも思わない、そして肉の欲望の赴くままを行っている様子ですね。
悪いと思っても罪の力に勝てない。
そして、ここが大事なんですけれども、
罪を犯して後悔しても、誠の神様に立ち返る道を知らない。
そういうことなんですね。
この歩んでいましたってことがありますよね。
死の道を歩んでいた、間違った道を歩んでいても立ち返るするを知らない。
それが霊的に死んだ状態とも言えます。
パウルは、そんなかつての霊的死を体験していたエペソのクリスチャンに対して、
私たちに対して、このイエス様に救われる以前の状態を2回も繰り返して言っているんですね。
自分の背きと罪の中に死んでいた。
あと、神の見怒りを受けるべきこれだった。
あとの説でも、あなた方は自分の背きの中で死んでいた。
繰り返して霊的死の状態を強調しています。
でもここで終わりじゃないんですね。
パウルが他の聖書の言葉でも言っているように、
罪が増し加わるところには恵みも増し加わる。
この後ですね、とてつもない神様の愛と恵みを語ります。
その前振りとして悲惨な状態をあえてパウルは伝えてきたわけです。
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2番目、失礼しました。
神様の憐れみ。
4節5節には、よく専門用語で神様のご性質って言うんですね。
Attribute of God。
神様とはどんな方ですか?という神様の性質が4節5節に書かれています。
ちょっと読める方、こちらを読んでみましょうか。
しかし、憐れみ豊かな神は私たちを愛してくださった。
その大きな愛のゆえに、
背きの中に死んでいた私たちをキリストと共に生かしてくださいました。
あなた方が救われたのは恵みによるのです。
パウルは4節から今日の単元の7節までを使って、
その中であらん限りの言葉を使って、
神様の恵み深さや愛の大きさ、
そのことを表現しています。
神様の愛がどれほど恵み大きくて恵みが深いのか、
それがひるいなきものなのか、
その神様の愛と恵みの豊かさ、偉大さを、
言葉が尽くして表現しています。
ちょっと印をつけて、もう一度書き直してみましたけどね。
例えば4節5節、ここを前に見ていただければ、
赤い字で書いてあります。
憐れみ豊かな神は私たちを愛してくださった。
その大きな愛のゆえに。
そしてここではわざわざパウルは、
ソーニュークを入れているんですね。
感動的な言葉で。
あなた方が救われたのは恵みよのです。
そして長節では、私たちに与えられた慈愛によって、
この限りなく豊かな恵みを私たちに施した。
このように言葉を尽くしてパウルは、
神様の愛の大きさ、恵みの豊かさ、
憐れみの深さ、そのことを伝えているわけです。
実はこの7節の前では赤い字で書いてあります。
7節の慈愛という言葉。
これは言語では親切、
kindnessというのも英語で言います。
親切という言葉なんですね。
この親切という言葉をもとに、
さっき言った4節から7節について、
ある学者はこう表現しているんですね。
パウルはこの4節から7節を使ってこういうことを知っています。
4節から7節に描かれている神様の親切心は、
純粋で、信じがたいほどのもので、
崇高である、ありえないと言いますけど、
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それほどの親切心をパウルは、
4節から7節をもって豊かに伝えているわけなんですね。
これこそパウルは最も読者に私たちに伝えたかったことです。
だからあえて1節から3節の暗い状況を持ってきた。
そのコントラストを浮き立たせるために、
死んだ状態を話しながら、
神様の愛と恵みの豊かさを爆発的に表現しているわけなんですね。
大事なことは、
神様の愛や恵み、
それは実際の行動として現れた、現れるということなんです。
最後3番目に、
神様がその愛と恵みに基づいて、
私たちに実際指摘してくださった具体的なことを見ていきましょう。
3番目。
キリストと共に生かされてということです。
2章の5節、6節、ここに書いてありますけれども、
ちょっと読める方読んでみましょうか。
3、はい。
そむきの中に死んでいた私たちを、
キリストと共に生かしてくださいました。
あなた方が救われたのは恵みによるのです。
神はまたキリストユースにあって、
私たちを共によみがえらせ、
共に天上に座らせてくださいました。
2章の5節から6節。
ここにはですね、神様の3つのアクション、
具体的な行動が語られています。
3つの動詞が使われているんですね。
で、ちょっと難しいかもしれませんけれども、
この、共に生かし、
神様は私たちをイエス様と共に生かし、
共によみがえらせ、
共に天上に座らせてくださいました。
この3つのことをパウルは、
神様が具体的にしてくださったこととして書いているわけです。
伝えているわけです。
この、共に生かしという言葉はですね、
3つともですね、
ギリシャ語で見るとちょっとわかりにくいかもしれませんが、
1つの単語になっているんです。
で、これギリシャ語のシグマですね、大文字。
これ、共に生かしは、
で、よみがえらせるというのは、
で、天上に座らせるのは、
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シグマ、この最初の3文字、
シュンという言葉が共通しています。
これはよく言いますけれども、
シンクロナイズドスイミング、今なんかアーティスティックスイミングって言うんですね。
昭和の人間ですから、アーティスティックスイミングなんて言うやつだら、
シンクロナイズドスイミングの昔の、今の呼びなんですけど、
そのシンクロ、よくシンクロという言葉のシン、
英語でSYNですね。
そのシンというのは、このギリシャ語のシュンという言葉から来ていまして、
共にという言葉なんです。
で、パウルはこのシュンという言葉をよく頭につけて新しい単語を作ったんです。
それはどういうことか。
イエス様と共に私たちが運命をするようになった。
イエス様の上に起こったことが、私たちにも同じ祝福として起こった。
それを表現するために、このシュンという言葉を使っています。
先週の説教の中でですね、
神の全能の力の働きはどこに働いたかっていうことを話したんですけど、
それは、死んだイエス様を蘇らせた。
そして蘇らせて、例えばラゾロなんかは蘇っても死んじゃいましたよね。
肉体的に。
でもイエス様は死んでも、蘇った後決して死ぬことがなく、
その後天の御座に座らせられた。
永遠に生きる方になった。
そこに神の全能の力が働いたってことを先週見たんですが、
その同じ神の全能の力が私たちにも働いて、
信じる私たちに働いて、
私たちはイエス様と共に生かされたっていうんです。
霊的に死んでいて、神との関係に死んでいても、
イエス様信じて、罪許されて、
神との関係に新しく生かされた。
そして実はですね、この共に生かしということの具体的なさらなる内容が
この二つになってくるんですけども、
霊的に共に生かされたということは、
つまりイエス様と共に死から蘇った。
霊的に死んで、罪の中に死んでいたものが、
イエス様と一緒に蘇らせる。
そして肉体的に死ぬことがあっても、
やがて約束の日には、
イエス様と共に天の御座に座るものになったっていうんです。
実はこの三つの動詞は、
簡単に言うと何系か、
癒し系ではありません。
渋谷系でもありません。
渋谷系でもなくてこれは、
簡単に言うと過去系です。
この過去系というのはどういう過去系かというと、
過去に起こった出来事が、
ずっと効力を持つという形の過去系なんです。
ギリシャごとくいうの。
だからおかしいですよね。
私たちはまだ天国に行って座ってないですよね。
でももう、イエス様が神様によって天に座らせられて、
私たちはバブテス様を受け、
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私たちもあたかもイエス様と一緒に天国にいるようだ。
そういう言い方よりもむしろ、
必ず私たちはやがてイエス様と共に天の御座に座る。
それが確約されているということなんです。
そして私たちがやがて死を迎えますけれども、
共に蘇らされた。
一つには、私たちはその罪の力と戦っていて、
精霊のゆえにイエス様の新しい命のように勝つことができる。
あるいはもし負けたとしても、神に立ち帰る道を知っています。
十字架という、イエス様の完全な許しに立ち帰ることができる。
そして肉体的な死を迎えたとしても、
私たちはやがてよみがえりの希望にあってですね、
新しい体を持って必ずよみがえる。
そういう確約があるわけです。
だからすでにイエス様と一緒にあなたはよみがえったと宣言されているわけですね。
これらの三つの出来事、
それがですね、イエス様に働いた神の全能の力が、
私たちにも働いたということなんです。
神の愛と恵みが、ただ実らや言葉だけのものではなくて、
実際に私たちにもたらされたということです。
で、聖霊の助けによって私たちは不完全ではないまでも、
例えば罪への勝利を体験するとかですね、
不安の中でも不思議な平安を体験するとか、
そういう天国の前味を今味わうことができるわけです。
霊的に死ぬべき私たちがですね、このような恵みに預かった、
それは前にも言いましたが、
一方的に神様が私たちを選んでくださったからなんです。
世界が始まる前から名前を読んでですね、
要子として霊的な祝福を与えようと神が選んでくださった、
それこそ一方的な恵みなんですね。
そこに神様の深い愛、そして純粋な親切心が現れているわけです。
先週も言いましたが、私たちはそういう聖書が約束する祝福に慣れっこになってしまう。
出来事に慣れっこになってしまうんですけど、
もう一度ですね、よく考えて、それがどれほど偉大なものであるか、
どれほど豊かな祝福であるかということを思い巡らしていく必要があって、
その時、神の祝福をやはり実感できるわけなんですね。
さっき言うとなかなか見えない状況ですけれども、
どうぞ神様のこれらの祝福を思いながら、日々の歩みを進んでいきたいと思います。
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そして来週以降ですね、この神の恵みということを、
その祝福の豊かさをですね、さらに深くパウダーは解き上がっていくので、
共に学んでいきましょう。
それではお祈りします。
天の神様、皆を賛美いたします。
今日は台風が近づいていて、雨で薄曇りの日ですけれども、
このようにあなたを共に街道において、またリモートにおいて、
礼拝できる幸いをありがとうございます。
この雲の上には晴れ間が広がっておりますけれども、
私たちはかつて罪の中に死んでおり、また今もそのような部分を持ち、
罪はまた日常の出来事に悩みます。
しかし、あなたが全能の力によってイエス様と共に私たちを生かし、
よみがえらせ、天の御座に約束をおいてくださったことを感謝いたします。
どうぞまさにあなたが私たちの心の目を開いて、
これらの祝福がどのように素晴らしいものであるかを知ることができるように、
どうか導いてください。
これらの願いと思いを、私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは皆さんそれぞれの場所で、
1分ほど神様に応えて、黙祷の時を持ちましょう。
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