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フィレモンへの手紙、23-25 キリストイエスにあって、私と共に囚人となっているエパフラスが、あなた方によろしくと言っています。
私の堂老者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカがよろしくと言っています。
主イエスキリストの恵みが、あなた方の霊と共にありますように。 以上です。今日はこのところから、
恵みとは、恵みとはと題して、御言葉を取り継ぎます。 皆さん、おはようございます。
なかなか6月半ばになりかけていますけれども、梅雨に入らず、暑い日が続いております。 そんな中、
体調悪く家庭で礼拝守っている方もいらっしゃれば、また礼拝と共に守れる兄弟姉妹もいること、本当に感謝しています。
そして今日はですね、いよいよ フィレモンへの手紙の最後の部分です。
この3節読んだ中の最初の2節、23節、24節、いろいろな名前が出ています。
これはおそらく、いろんな説がありますが、私たちとしてはエペソという場所に登録されていたパウロと共にいた
パウロの堂老者たちから、コロサイの教会の知人たちへの、いわゆるよろしくという挨拶、これは手紙の締めくりでよく使われる
手法なんですけれども、その名前が出ています。彼の名前はですね、
コロサイ人の手紙、同じフィレモンもコロサイ教会と関わっていて、自分の家で教会をやっていましたから、
同じコロサイ人への手紙の、同じ地域のコロサイ人への手紙の4章の10節から14節で説教しました。
3月21日の説教に、確かな拠り所という、そういう説教の中で、この今日出てくる登場人物について触れていますので、
彼らについて今日は触れません。 気になる方は同じ日のレジュメやまた音声を参考にしてください。
今日はですね、その一番最後の25節、この祝祷、祝福の祈り、
牧師の礼拝の最後の祈りのような祝祷からですね、学びます。 よく聞きながらも見過ごされがちな言葉から学んでいきます。
まず礼について簡単に取り上げ、そして恵みという非常に大事な言葉について、3つの点からお話しします。
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まず最初、こちらにも掲示しました。 ここでパウロが言う礼とは何か。まず25節、もう一度読める方は小さい方でいいですので、前にあるとおり読んでみましょう。
シュイエスキリストの恵みが、あなた方の礼と共にありますように。
ここでパウロは珍しくですね、あなた方と共にではなくて、あなた方の礼と共にありますようにと言っています。
ここで言う礼というのはですね、いわゆる聖礼ではありません。 神様の礼じゃなくて、私たち一人一人の礼という意味です。
では礼とは何か。 人間の礼。
パウロはですね、おそらく人間全般を指す意味で礼という言葉を使っている場合があります。
そしてそれに加えて、人間の深い部分を指すために礼という言葉を使います。
その人間の深い部分にイエスキリスト様の恵みがありますようにという、本当に牧師らしいと言いますかですね、
ピレモンと教会の人への配慮に満ちたイエス様の恵みに委ねる祈りが最後に捧げられているわけです。
礼がわかるためによく使われる魂と礼の魂ということを少し触れますけれども、前にも書きました。
魂とはですね、パウロの使い方を見ると、人間の活力とかですね、生きている人間自身とか体そのものを指す場合に魂という言葉を使います。
プッシュ系という言葉です。 人間の見える部分、体はそうですね、見える部分と関係した言葉です。
一方、礼というのは先ほども言いましたが、より内面的で見えない部分を指して、人間の神に向かう側面、英語でですねゴッドワードディメンション、
ワードというのは方向という意味なんですね、神に向かう人間の部分とか、人間の崇高でより深遠な部分を指すのが礼です。
パウロ研究の第一人者の学者はこう言うんですね、
私たち自らの礼を神の礼、精霊に対して開くときにこそ、人は健全となり得る、と言うんですね。
今日の午後もがんてつ学会でカフェをやります。いろいろな病気の方のケアとか、危機にある人のケア、スピリチャルケアというのが日本で見直されていますが、
日本人にスピリチャルという概念がわからないんですね。でも、魂で言い換える専門医もいるんですけど、実は
魂よりもっと深い神に向かう部分を礼というわけです。
で、実はですね、おそらく皆さんもクリスチャンですけども、クリスチャンじゃない人よくわかるのは何か祈りたい、祈りたいという気持ちが起こったり、
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まあ素直に神仏にすがりたいという気持ちが起こりますね。これはもう誰の中にもある
霊の存在の証拠と言えるかもしれません。 また、
歴史上ですね、世界史の教科書にも載るような有名なキリスト教の哲学者や思想家がいます。
その方々の言葉からも霊のことがわかると思います。例えば、アーグスチヌスという人ですね。
ちょっと読める方は難しいかな、読んでみましょう。3、神様、あなたは私たちをあなたご自身のために作られたので、
あなたに安らぎを乱すまでは行うことができないのです。 こういう告白という有名な岩谷文庫でも出ています。
その中で冒頭ですね、彼は神に向かって告白している。 あるいはパスカルという人。
ちょっと難しいかな、これまた読める方は小さい声でも読んでくれる。 読める方は読んでみましょうか。3、人間には神の形の真空がある。
そしてそれを満たすことができるのは、神の形のイエス・キリスト以外ないのである。 このパスカルって聞いたことないですか?
梅雨になりますね、台風来ますね。何て言います? ヘクトパスカル。そのヘクトパスカルのパスカルです。
彼と関係する言葉です。彼もやはり人間の霊の部分をうまく言い表して、それがイエス様によって満たされるということを表す言葉です。
このようなことからですね、 パウロはこの人間の神を求める深い部分にイエス・キリストの恵みがあるようにと祈って
手紙を締めくくっているわけです。 それでは恵みということについて、まず第1点。
3つ目のうちの第1点から見ていきましょう。 恵みとは、
神様の自発性や気前の良さの表れだって言うんですね。 もう一回ちょっとここ25節読める方は読んでください。
今テレビで国際的な話題の一つが 取り上げられています。それがG7
主要国先進国サミットですね。久しぶりに対面で行われました。 そこでですね、バイデン大統領が新型コロナウイルスのワクチンを
貧しい国を中心に5億回分提供すると約束したんです。 5億回ってさらっと聞いちゃいますけど、
日本人1億2000万人だとしたら、日本人が4回受けても余るぐらいの量のファイザー製のワクチンを
バイデン大統領は貧困国を中心に提供すると約束したんです、サミットで。 彼はですね、こう言ってるんです。
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これはひもつきではない。アメリカが提供するワクチンは何らかの見返りや情報を求めるものではない。
人々の命を救い、感染拡大を終わらせるためだけにやっている。 これ何でこう言ってるかというと、ある大国が自分の国のワクチンをあげるから
台湾と外交しないようにって言ってる国があるそうです。 日本の近くに。わかりますよね、どこかね。それと比べてひもつきでない。
見返りや情報を求めない。 まさに
この言葉に、神の恵みのような概念が現れているわけです。 この恵みというのは
自発的な善意や物惜しみしない施しを言うんですね。 そして人間と神様の関係についてパウルは広角心して恵みという言葉を使っているんです。
神の人間に対する計画が最初から最後まで神様の寛容な自発性と 誠実さに基づいている。この
寛容な自発性と誠実さ、これ英語の文なんですけど、寛容っていうのは英語でジェネラスって言うんです。
ジェネラスっていうのは 金持ちがですね
惜しみなく豊かに施すことを言うんです。 神様の恵みっていうのは
このように惜しみなく、そして自発的しかも約束をたがわない誠実さ
の 現れである。
そういうものが現れるのが恵みだって言うんですね。
別の言い方をすれば、主導権は神様にあるんです。
主導権は神様にある。 先ほどのワクチン提供の例を
もう一回挙げるならばですね、このワクチンを提供する、提供される国は自分の国では買えないわけですよね。
提供する、アメリカが挙げるって。 5億回分も挙げるって気前よく言ってくれたから、アメリカが主導権を持って決めてくれたから
このワクチンをもらえるわけですね。 アメリカが初めて主導権を持って言い出して、初めて実施されるように
恵みも神様が率先して恵みを私たちに施してくださる、そういう性質です。 だからパウロは恵みという言葉を使うときによくセットにした言葉があります。
それは賜物とか贈り物です。ドレアンというギリシャ語。
その贈り物という言葉とよくつながった中で恵みという言葉を使うんです。 だから恵みには
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神様によってこそ与えられる恵みという、そういう信仰概念があるわけです。 実はこのことをよく表している御言葉、パウロは手も手の手紙でこう書いているんですね。
第2手も手の一章の9節から10節。 前にありますね。見ていますね。
神は私たちを救い、また聖なる招きをもって召してくださいましたが、
下線の部分だけ読んでみましょう。3文。 それは私たちの働きによるのではなく、
御自分の計画と恵みによるものでした。 この恵みはキリストイエスにおいて私たちに永遠の昔に与えられ、
今私たちの救い主キリストイエスの現れによって明らかにされました。 そのキリストは死を滅ぼし、福音によって命の不滅を明らかにされたのです。
この下線の部分で明らかにされているように、 私たちの働きではないんだって言うんですね。救いというのは。
私たちが頑張ったからではなくて、 神様が自ら計画して
恵みを施してくれたのが 救いだって言うんですね。
そしていつ、それは私たちが生まれる、この世に存在するずっと昔の、 永遠の昔にも既にその恵み、救いの恵みが与えられた。
ここにも神様の主導権が見て取れるわけです。 そして私たちがそれを悟ったのではなくて、イエス様がこの地に来てくださって、
現れてくださって、私たちにその
救いを明らかに示してくださったって言うんですね。 恵みの第一点、それは
神様の自発性、神様の気前の良さの現れが恵みだって言うんです。 二番目、
恵みというのにはですね、行動が伴うんです。アクション。 ダイナミックな概念が恵みの中にあるんです。
恵みとはですね、単なる思考とか姿勢とかではないんですね。
ワクチン、貧困国にあげられたらいいのになぁ。
あげるよって口約束じゃない。 それは
動的な概念、ダイナミックコンセプト。 ダイナミックなものだったんですね。
そして神様の力強い行動を示すから、 力とか、デュナミスですね、精霊と
重なって用いられることが多い。 繰り返しますが、その恵みっていうのは、人間が神様によって捉えられるという
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ダイナミックな体験を描写する言葉であるって言うんです。 パウロの戒心が、使徒の9章に書いてありますが、まさにパウロも
ダイナミックに迫害している最中にイエス様に撃たれて、 米が見えなくなって、そしてイエス様の声を聞いて救いを得たわけです。
このダイナミックな体験、ダイナミックさということで、先ほどの米国のワクチン提供についてもう一回振り返ってみますが、
今年の2月に準備としてオンライン会議があったんですね。 主催国のこの
ボリス、何でしたっけ、ボリスベッカーじゃなくて、 エリティーじゃなくて、ボリス
ジョンソンさん。 ジョンソンさんがね、こうやってハーイなんてやってますけれども、この2月にオンラインでG7サミットを行ったんです。
その時にですね、アメリカはすでにワクチンの支援総額を4200億円にするって決めたんです。 これどれくらいかっていうですね、この4月に日本で発表された
事業支援額があるんですね。 埼玉県も含めて全国の都道府県が事業者に支援する時のお金を補助しますよ、その総額が
5000億円、予備費の中の10分の1ですけれども、 日本の都道府県の事業支援費の総額が5000億円です。
それに匹敵するくらいの額をアメリカはボンとですね、外国のために出してしまう。
このダイナミックさですね。 このようにですね、
神様の恵みを口約束だけではなくて、 ダイナミックに肝よくボンとですね、私たちに
与えられてくるものなんですね。 そしてこの
恵みという概念にもう一つ大切なのはですね、 イエス様によるあがないという概念です。
神様はイエス様によって罪をあがなってくださった。 それが基盤にある。
恵みの基盤にある。 そういう
キリストの行為、イエス様の十字架とは無関係では語ることができないということもあるわけですね。
そしてこの神様のダイナミックで、 私たちをこの救い出す恵みについて、有名なパウロの御言葉がこのようにありますね。
見てください。 第2コリント12章9節、読める方一緒に読んでみましょうか。前に掲示しました。
しかし主は、私の恵みはあなたに十分である。
私の力は弱さのうちに完全に現れるからであると言われました。 この弱さのうちに完全に現れる
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イエス様の力。 これは直訳すると
私神様の力、 イエス様の力は
弱さの中にこそ完成すると言うんです。 私たちが弱いからこそ
イエス様の力の働きがいがあって、それが完成すると言うんですね。 本当に素晴らしい約束です。
なんと幸いなことでしょうか。 ではなぜ私たちは
神様のダイナミックで気前の良い恵みの申し出を 素直に受け入れられないのでしょうかね。
プライドのせいかもしれません。あるいは、 この自分が恵みの気前の良さに甘えて怠けてしまって堕落してしまうんじゃないか。
そういう不安があるかもしれません。恐れもあるかもしれません。 あるいは、日本特有の恥の文化、施し受けるのが恥ずかしいという文化があるかもしれません。
ある学者はですね、こうも言うんですね。 ある啓発文が
警戒心を生んでいる。こういう啓発文。
上手い話には気をつけろ。 こういう警戒文、こういう警告文はアメリカの公衆トイレにも貼ってあると言ってましたけどね。
その警告が私たちの中で忘れられないから、 これらの理由もあるんでしょうか。私たちは神様の恵みや愛に
自らを委ねることができない。こういう学者はいるんですね。 けれども私たちは
そういうタダを外して
大胆そして素直に、このダイナミックな神様の恵みにより頼むことができるんですね。
最後、3番目。 恵み、それは
感謝でしかお返しができない。 最後の大事な要素は、恵みとは一方的でお返しをすることができないという考え方なんです。
実はこの恵みという言葉は当時のパウロの時代、一般的にも使われていたんですが、 そこの背景には語形関係というのがあるんです。お互いに恵みを分かっちゃう。
だから施された方は同じ程度のものを返す。
これからお中元の季節ですけども、だいたい釣り合ったものをやり取りするというのがウルルかもしれません。
釣り合ったものに釣り合ったお返しをするという語形関係が元々のノンクリスチャンの背後にはあったわけです。
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だから私たちそういう性質も私たちの中にもありますから、神様の恵みにお返しできないなと。
だからダイナミックな恵みに寄りすがったり信頼することができないのかもしれませんね。
でもパウロは当時のこのギブアンドテイク、語形関係の恵みの概念を取っ払ったんですね。
そして人間は同じものを神様に返すことができない。
そのことを明らかにしたわけです。
あえて私たちが神様にお返しをするとするならば、それは感謝という形でしかできない。
それが新白聖書や聖書全体の中での信仰の態度、教えなんです。
神の有り余る恵みに対する私たちのできるお返し、それは神に感謝することなんですね。
まとめましょう。
私たちは自分の力では神様に到達できません。
そればかりか神様を求めることさえ、そして神様を知ることさえできないんですね。
しかし神様が一方的に手を差し伸べてくださった、この地に降りてきてくださったイエス様。
その神様の一方的なアクションがあったからこそ、私たちはイエス様の救いを知ることができたわけです。
そしてイエス様自身も十字架の上で死んでくださって、よみがえってくださって、私は決してあなたを離れないと約束してくださいました。
そのまさにイエス様の一方的な親切さや有り余る寛容さ、イエス様の恵みが私たちと共にあるからこそ、
私たちはイエス様の信仰から離れることがなく、イエス様を知る喜びに生きることができるわけですよね。
先ほども言いました。自分は立派でもなく、努力が足りないから神様の恵みを受け入れる資格がない。
そして多くを神様からもらってもお返しができない。
そしてそのような悩みや嘆きがあるから大胆に神の恵みを求めることができない、そういうことがあるかもしれませんね。
でも考えてください。資格がないからこそ与えられるのが賜物でありプレゼントであり恵みなんですね。
そして唯一神様にできるお返しは感謝しかない。
イエス様ありがとうございます。 それで十分だと言うんですね。
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詩編の中にダビデの3ヶがありますが、そのダビデの3ヶに私たちのこの神への感謝を表すあるべき姿が記されています。
それを最後読んで終わりにしましょう。 詩編の103編の2節から5節ですね。
ダビデはこう歌っています。 まあ褒めたたえよというと感謝と
同じと考えてもいいかもしれません。 我が魂よ、主を褒めたたえよ。主がよく知ってくださったことを何一つ忘れるな。
主はあなたのすべての咎を許し、 あなたのすべての病を癒し、
あなたの命をあなたからあがなわれる。 ここで読んでみましょうか。
主はあなたに恵みと憐れみの冠をかぐらせ、 あなたの一生を良いもので満たらせる。
あなたの若さはわしのように新しくなる。 お祈りしましょう。
天の神様、 あなたの恵みや愛の偉大さは大きすぎて、
私たちは理解することや捉え切ることができません。 しかしどうぞ、
私たちの心の目を開いて、 あなたから与えられている愛がどのように偉大なものであるかを知ることができますように。
あなたの恵みにどうぞ大胆に自らを委ね、 またあなたの恵みゆえに
確信を持って素直にあなたにお伝えすることができるように、 どうか導いてください。
そしてまさにあなたを知る喜び、あなたに生かされる喜びを、 この地においてかみしめていくことができるように、
そうしてあなたに感謝と賛美を捧げ、 この地を歩んでいくことができるように、どうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、 主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど神様にお祈りをして応答していきましょう。 黙祷の時間をとってください。