2021-08-01 23:50

#6621/8/1 比類なきポテンシャル

エペソ-23からの礼拝メッセージ。2021年8月1日録音。「神様の全能の力」について、その比類なき偉大さを新鮮なイメージで見直してみましょう。

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エペソビトへの手紙 1章19-23
また、神の大能の力の働きによって、私たち信じる者に働く神の優れた力が、どれほど偉大なものであるかを知ることができますように、
この大能の力を、神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座につかせて、
すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、
今の世だけでなく、次に来る世においても、唱えられるすべての名の上に置かれました。
また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストをすべてのものの上に立つ柱として教会に与えられました。
教会はキリストの体であり、すべてのものをすべてのもので満たす方がみしておられるところです。
以上です。
今日はこのところから、「ひるいなきポテンシャル」と題して見言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
8月最初、8月1日の礼拝ですが、始まっておりますオリンピック、日本勢の海峡や金メダルに湧いていますが、
しかし、埼玉県でも、明日から今月いっぱい、緊急事態宣言が発令されます。
オリンピックの喜び歓喜、その一方で漠然とした不安、そして猛暑がつきまとう日々がしばらく続きそうですね。
まさに祈りたい気持ちになるかもしれませんが、パウロは人知を遥かに超えた神様の祝福を知ることができるようにと、この17節から祈っています。
先週2つ見たんですが、今日はその3つ目の祈りから、神の全能の力を中心に3つの点から学びます。
私たちはこの全能の神という言葉に慣れすぎてしまっていますので、
今日、精霊様が私たち一人一人に、新鮮なイメージをその心に焼き付けてくださることを願いながら学んでいきましょう。
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まず最初の点ですけれども、ひるいなき全能のポテンシャル、神の能力の可能性、ひるいがないということです。
19節をもう一度読んでみます。読める方はその場で一緒に読んでみてください。
また、神の大能の力の働きによって、私たち信じる者に働く神の優れた力がどれほど偉大なものであるかを知ることができますように。
この19節の御言葉、ここでパウロはエペソのクリスチャンが神様の全能の力を知ることができるようにと祈っています。
彼は言葉を駆使してその神様の力の偉大さを表現しています。
赤い字で書いておきましたけれども、大能の力とか働き、優れた力などですけれども、
例えば今の言葉のダイナマイトの語源となったデュナミスというこの力という言葉、
あるいは今のエネルギーの語源ともなったエネルゲオ、働くという言葉をここに使っています。
そしてそれだけではなくて、このどれほど偉大なもの、偉大な力かという言葉、直訳ではどれほど非類なき偉大な力かとなっていて、
英語ではHis incomparably great power, incomparablyというのがNIBですけれども、比較できないほどの偉大さ。
それから他のニューアメリカンスタンダードバイブルではboundless greatnessといって、
バウンドレス、無制限の偉大さ、そのようにも訳されています。
このようにパウルは何とかして、私たち人間には捉えられない神様の全能の力を表現しようとしているわけです。
そしてもともとのこのギリシャ語のしつこいニュアンスを生かして、私なりに訳してみてこのような訳になりました。
神の能力の全能の働きを原動力として、信じる私たちの中に向かって働いている神の力、
神が働かせている力の偉大さがどれほど比類ないものであるかを知ることができますように。
このような感じですね。
このもう一方で、19節冒頭の神の大能の働き、神の大能の力、こういうニュアンスがあるんですね。
題名にもありますが、神様のポテンシャル、神が持つ力の可能性、それは全能であるという意味なんですね。
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そしてその全能の力をポテンシャルに留めず、文字通り神様が働かせて何かを行われるというニュアンスがあるわけです。
今東京オリンピックでメダルを獲得した選手が取り去されていますね。
マイナーなスポーツでも金メダルを獲っている。フェンシングのエペとかですね。
その時まで知らなかった。アッパーの間違いじゃないかと思いましたけども、
そのようなマイナーな種目で金メダルを獲る選手がたくさん今回いるわけですね。
急にマイナーな競技やその選手がもてはやされますけれども、しかしそのメダル獲得には根拠があるわけです。
そのマイナー競技であっても、メジャーな競技であっても、そこには選手の比類なき能力、そのための計り知れない努力があるわけですね。
そしてそれが選手の実力となっているわけです。
私たちはそのポテンシャルをたまたま知らないだけです。
しかし何度も言いますが、それぞれの選手にはメダル獲得の根拠となる能力が備わっているというわけです。
これは神様の全能の力と、私たちクリスチャンとの認識の関係にも似ています。
どういうことでしょうか。
神様の全能の力は、このパウロが言っているように、信じる私たちに働く、あるいは働いています。
そしてそこにはちゃんとした根拠があります。
それは私たちが知らないか、あるいは気づいていない神様の実力であって、何者にも比べられない、この比類なき全能というポテンシャルが根拠となっているわけです。
私たちはこの全能の神という言葉に慣れっこになって、その全能の意味を忘れてしまっているかもしれませんね。
ですからパウロはこう祈っているわけです。
神の能力の全能の働きを根拠として、信じる私たちに向かっている、働いている神の力、神が働かせているその力の偉大さが、どれほど比類ないものであるかを知ることができますように。
2番目のポイント。
それはどのようにして具体的に表されるのでしょうか。
2番目はイエス様を蘇らせ、神の右の座に据えた全能の力ですね。
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イエス様を蘇らせ、神の右の座に据えた神様の全能の力。
そのことをパウロは20節、21節で書いています。
この大能の力を神はキリストの地に働かせて、キリストを死者の中から蘇らせ、天上でご自分の右の座につかせて、全ての支配、権威、権力、主権の上に、また今の世だけでなく、次に来る世においても、唱えられる全ての名の上に置かれました。
こう記しているわけです。
この言葉の特徴はですね、セットがあるわけです。
十字架と復活がセットになっているように、今度は復活と天の御座、復活と天の御座に着座するということもセットになっています。
そしてイエス様が蘇り、天の右に着座するために、神様はそのひるいなき全能の力を発揮されたというわけなんですね。
私たちは時にイエス様の復活に慣れすぎて、死んだ人が息を吹き返す、蘇るということが、どれほど類稀なことか忘れてしまいます。
聖書の中でも、例えば使徒の働きでは、ドルカスやユテコという人が出てきますね。
ドルカスはペトロによって、ユテコはパウロによって、死から蘇生した。
最も有名な人は、イエス様が墓の中から腐っているかもしれませんと言われた、墓の中から呼び出したラザロかもしれません。
ところで皆さん、これはご存知ですよね。
AEDのサイトによると、AEDとは自動体外式除細胴器。
それは、心臓が痙攣し、血液を流すポンプ機能を失った状態、進出細胞になった心臓に対して、電気ショックを与え、正常なリズムに戻すための医療機器です。
心臓が止まっているように見えても、しばらくは小さく動いているそうです。
そして、1分、心臓マッサージや蘇生が遅れるごとに、生存率が7%程度低くなるそうなんですね。
7分以内にできれば対処してほしいそうです。
このAEDの電力がどれくらいか調べてみたんですけれども、
電圧が1200から2000ボルトあるそうです。
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電流は30から50アンペアですね。
そしてこの掛け算によって電力というワット数が出るんですけれども、大体最低36,000ワットから10万ワット。
それどれくらいかというと、家庭用のコンセント1つは500ワット。
家庭用のコンセント1つが100ボルトだそうです。
例えば家のブレーカーなんか25アンペアですから、コンセント1つで500ワット。
それの24個から66個分の電力に相当します。
1000ワットの電子レンジと換算すると、最大100個分の電子レンジの電力に1個のAEDが相当するわけです。
電子レンジ100個分が小さいAEDの中で作動するんです。
そしてそのような巨大な電力だからこそ、1回長さ1000分の1秒から100分の1秒の一瞬の間、この電力を心臓に送って、心臓を蘇生させることができるわけです。
このようなAEDの装置の巨大な電力からわかりますように、死んだ人が蘇生するため、まさに神様の全能の力が働いた。
それが聖書の例です。
ただ、よく考えてみてください。
このラザロでさえ一時的にイエス様によって蘇らされても、その後必ず肉体の死を迎えなければなりませんでした。
一方、イエス様は復活の後、天に挙げられました。
つまり、復活後にもう死ぬことがなく、天の右の座に着座された。
決して復活の後に死なれていない。そして天に登り、神の右の座に着座された。
それこそ、この出来事こそ、ひるいなき偉大な出来事。
そして、これこそ、ひるいなき神様の全能の力が行使された証拠以外の何物でもないということなんですね。
私たちも残念ながら、やがてこの世の命を終えます。
しかし、私たちの将来には、よみがえの希望があるわけです。
そのよみがえの希望は、この神様のひるいなき全能の力に根拠を置いている。
その力の働きのゆえだということを、もう一度心に留めましょう。
それでは、最後の点。半番目です。
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そのような着座されたイエス様は、敵の首を足下にし、さらに私たちの必要を満たすというお方です。
22節から23節を読める方は、その場で結構ですから、読んでみましょう。
また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストをすべてのものの上に立つ柱として教会に与えられました。
教会はキリストの体であり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。
実はですね、先ほど読んだ聖書の後半から、イエス様がミザについてどういう状態であったかということが記されています。
その背景はこういうことにあるんですね。
この手紙の受け手であった当時のエペソの人々。
世界の七不思議に数えられている巨大なアルテミスの神殿があったことからも、魔術が盛んなところでした。
そしてそこではですね、エペソでは、あるいは当時のギリシャ・ローマ世界では、霊的な力が働いて人に災いをもたらすと考えられていました。
この中のカという字は災いという字ですね。
そしてこの霊的な、得体の知れない存在からの災いを防ぐために、魔術が行われていたわけです。
そしてエペソの人々がパウロによってイエス様を信じた。
そして魔術の本を焼いた。
だいたい当時のお金で5千万円ぐらい相当のその魔術書が焼かれたわけです。
当時パピルスとかコーカーだったわけですしね。
まあそのような背景があった。
しかしそれでもイエス様を信じてから、このような偽りの力やそのような意思での不安から彼らは逃れることができました。
それをはっきりとパウロはここで宣言しています。
その根拠としてイエス様はそれらの霊とされているどんな力よりも高いところに出しておられたからです。
戻りますけれども、この天井で神の右の座について全ての支配、名の上に高く置かれた。
そこが一つですね。
そしてそれだけではなく、それらの得体の知れない霊的なものを足下にされた。
神はイエス様の足の下にそれらの霊的勢力と言われているようなものを置かれたと言われているわけです。
そして右の座というのはですね、力と栄光を表しています。
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またその最も親しい間柄も示しています。
神の権力の執行の代理人とさえ言われているんですね。
さらには旧約聖書にはこういう出来事があるんです。
後で見てほしいんですけれども、このヨシア記の実章の24、25節ですけれども、
ヨシアが征服した国々の王を捕虜として連れてきました。
そして彼らを跪かせて、いわゆる土下座させてヒレをふさせた。
そして何をしたかというと、その王たちの首の上に足を乗せたと言うんですね。
それはどういう意味か。
それは勝利と支配を完全に行使する。
相手の敗北を完全に宣告するという意味で首を足で踏みつけるという表現があるわけです。
イエス様はこれらの霊的存在と言われているものを味言いされた。
それはイエス様の圧倒的な勝利と支配を宣言されたということです。
ただ大事な点、注目すべき点があります。
パウロは、私以前も殺さえびとの手紙のところでも言ったんですけれども、
2章の10節あたりだと思います。復習する方は復習してみてください。
ここでパウロは、この悪しき霊について詳しく述べていないんですね。
その正体を突き止めてもいません。
当然エペソの人たちも、何かわからない漠然とした霊的な存在に不安を抱えていただけだったわけです。
大切なことは、それを特定するのではなくて、
パウロはその不安の原因となる漠然とした対象に対してさえも、
イエス様は完全に勝利された、それを支配されたということを教えているということです。
正体は明らかにしなかったけれども、あえて。
でも彼らの不安に寄り添い、イエス様の圧倒的な勝利をこのように宣言したということが大事な点です。
言わずもがな私たちも、コロナ禍において、病や死について恐れがあるかもしれませんね。
いわゆるデルタ株、変異株の広がりから、若い人たちにもCOVIDが広がっている。
そして東京はついに4,000人超えた。
簡単に感染する。そんな中で恐れがあるかもしれません。
当然コロナ禍に限らず、現在あるいは将来に対して、あるいは自分の健康に関して明確なあるいは漠然とした不安があるかもしれません。
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当然私たちはですね、できる対策はすべきですね。
でも同時に、神様はイエス様を、それら漠然とした敵を足現するべく、
大なる支配者として復活だけではなくて、天の溝に据えてくださっている。
そのことを新しく心に刻んでください。
そしてイエス様は、私たちのすべての必要をあらゆる方法で満たすことができる豊かなお方です。
そのイエス様が教会に与えられていると聖書は約束しています。
その豊かさ、祝福を知るために、自分のためにも祈り、またお互いのために祈り合う教会となりたいと思います。
この最後の教会話から読める方、一緒に読んでみましょう。
23節のところから、教会話ですね。
教会はキリストの体であり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
あなたは全能の神なるお方で、その力は比べ得るものがない偉大なものでございます。
しかし、私たちはそれに慣れ親しんで、あるいは目が見えなくなって、その偉大さを覚えることができない時があります。
どうぞもう一度、知恵と啓示の見た目を与えてください。
心の目を開いて、そのあなたのひるいなき全能の力を知ることができるように、どうか導いてください。
イエス様の復活、またミザの着座、そのことにあなたの全能の力を思い、めぐらせながら、今の日々、先行き見えないそのような日々、歩んでいくことができるように、
祈り、ささやっていくことができるように、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは皆さん、それぞれのところでしばらく主に応えてお祈りしましょう。
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