2021-08-22 23:36

#69 21/8/22 埋められたディスタンス

エペソ-13 からの礼拝説教。2021年8月22日録音。ソーシャルディスタンスの確保が当たり前になりました。一方で人間と神様の間には埋めることの出来ない距離があるとパウロは告げます。しかしそんな神も希望もない状態から救われる幸いについて、3つの点から学びましょう。
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エペソビトへの手紙、2章11節から13節をお読みします。
「ですから、思い出してください。あなた方はかつて、肉においては違法人でした。
人の手で肉に施された、いわゆるかつれいを持つ人々からは、無かつれいな者と呼ばれ、その頃はキリストから遠く離れ、
イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、
この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。 しかし、かつては遠く離れていたあなた方も、今ではキリストイエスにあって、
キリストの地によって近い者となりました。」 以上です。
今日はこのところから、埋められたディスタンスと対して見言葉を取り継ぎます。 皆さん、おはようございます。
本日は、私が昨日、新型コロナウイルスワクチンを2度目接種したということで、
副反応が心配されて、霊波がどうなるかみたいな話がありましたけれども、皆さんの祈りに守られまして、
とりあえずオンラインですけれども、共に霊波ができることを感謝しています。 そんなで、
今、ワクチンの話も出ましたが、この新型コロナウイルスの蔓延に伴いまして、 いわゆるソーシャルディスタンスを確保することが、今や当然となりましたね。
今、デルタ株という変異株は、感染力が強いということで、なお一層の距離を取ったり、スペースを必要とする、
そういう状況なんですよね。 実は、
今日の聖書の箇所で、パウロは近づくことのできない距離を取り上げています。
その近づくことのできない距離は2つなんですけれども、まず民族的距離という意味での近づくことのできない距離です。
このことは来週詳しく見る予定ですので、今日は詳しく取り扱いませんが、 大前提として皆さんに知っておいていただきたいことがあります。
それはいつも言っていますが、 神の民としてのユダヤ人という人々と、その部外者の違法人という考え方があったこと、
その両者に民族的な距離があったということを理解しておいてください。 それが今日読んだ2章の11節から12節の背景です。
今日の説教の取材は、神様との距離感、神様と私たちとの距離感です。
パウロは、違法人クリスチャンのエヴェソの人々と神様との間には、 かつて埋めることもできない距離があったと、今日の箇所で言っています。
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それは当然、今の私たち、かつてイエス様を信じる前の私たちにも当てはまります。
私たちもイエス様を信じる前は、神様との間に埋めることのできない隔たりがあったということですね。
その結果として、かつての違法人の私たちの状態をパウロはこう述べています。
この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。
このように描写しているわけですね。
神の民とされた祝福をパウロは、このエヴェソ人の手紙で語っていますが、
それを語るにあたって、もう一度イエス様を信じる前の私たちの過去を思い出すように、今日の御言葉で明示しています。
それによって、神様から与えられた霊的な祝福の素晴らしさが浮き立つということもあるでしょう。
また、この後パウロが語っていく民族的距離が縮まったということとも関係しているかと思います。
何よともあれ、今日は3つの点から、神との距離を考えていきます。
第一が希望という言葉をもとに、第二は誠の神を知るということをもとに、
そして第三番目は、その神との距離が埋まるということを共に学んでいきましょう。
失礼しました。
希望がない、第一は希望がないということで、英語で言えばホープレスということが言えると思います。
今日の1章の12節をもう一度読める方は、読んでみましょうか。
3、その頃はキリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、
この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。
この御言葉の背景、つまりエペソーではアルテミスをはじめ、様々な神々を崇めていました。
それらの人々や、また当時流行っていたギリシャの哲学に学んでいた人々の希望のない様子が、この御言葉に描写されているわけです。
その様子を、ある学者はこう表現しているんですね。
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パウロが描写している人々は、明るい将来を展望することができなかったし、この世の後の人生にも希望が持てなかった。
例えばギリシャ人は、未来の栄光よりも過去の黄金時代を解雇していた。
将来の希望の見えない世界観は、彼らの死に対する考え方にも顕著に表されている。
エペソーの人々は、この様々な宗教や哲学を拠り所としていても、今生きているこの現実の先に希望を見出すことができませんでした。
ましてや、地上の生涯を終えた後に、希望を持つことなどできなかったわけですね。
そして、現在と未来に希望が持てないばかりではなくて、過去の黄金時代を懐かしみ、そこに縋っていたというのですね。
実はこれらの状況は、コロナ禍における私たちが抱く不安と似ているかもしれないと私は思いました。
例えば、いつコロナ禍から解放されるのか先が見えない、そう思ってしまったり、よく言われるのは、コロナ以前は楽しかった。
いつそのような昔のような時代が来るのか、希望が持てない、そんなような考えがあるかもしれません。
さらに、先週大きな話題となったのはですね、感染しても治療が受けられない、そして命を落としてしまうというケースがいくつも見られましたね。
そうすると、自分も感染して病院に搬送されない、命を落としてしまうかもしれない、そういう不安さえ、昨今の状況は抱かせるわけです。
実はですね、この世において望みがないということは、キリストから遠く離れ、真ことの神様を知らないこととは無関係ではないとパウロは伝えているんですね。
言い換えれば、この希望のなさ、それは神様との埋めることのできない距離と関わっているというわけです。
それでは、第二の点を見ていきましょう。 真ことの神を知らない、ガーデレスと言えるかもしれません。
もう一度、1章12節を読んでみますね。 その頃は、キリストから遠く離れ、
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イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人でした。 この世にあって望みもなく、
神のない者たちでした。 この、
神のない者たち、 それはですね、ギリシャ語で
アセオイって言うんですね。アというのは否定形です。セオイというのは神様セオスという神様から出た、これは複数の名詞ですけど、アセオイ。
これは英語の無神論者を表すエイティエストという言葉の語源になった言葉です。
しかし、ここで神のない者たちというのは無宗教とか無神論者を言うのではなくて、
真ことの神様に関する知識がない、そういう意味なんですね。 いろんな神々を拝んでいるけれども、真ことの神々を、真ことの神を知らない。
真ことの神を知らないということが、この 神なき者という言葉に込められた意味なのです。
実はその結果を、ある学者がこう説明しているんですね。
希望のなさと関連づけて、こう説明しています。 そのような人々は、
この世のものによって制限された、この世の中に生きていて、その中で様々な試練や悲しみや
当爆に直面しても、神を知らないゆえに、それらの試練や悲しみなどの意味や目的を解釈することができないままであった。
こう表現しているわけなんですね。 このように、
キリストから遠く離れて、真ことの神を知らないことと、この世にあって希望がないということは深く関係しているわけです。
つまり、私たちが人生の苦しみの意味を見出して、希望を得るためには、
時間と空間を超越した、永遠の神様を信じなければならない、というわけなんですね。
いわゆる聖書が掲示する、永遠の神様だけが真ことの神様で、その永遠の神様こそ、
私たちのこの有限の世界、この世に生きている私たちに、苦難の中での希望を与えることができるということなんです。
突然ですが、私はしばらく前からスズムシを飼い始めたんですね。
知り合いから、非常にたくさん、20匹くらいですかね、もらいました。
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たくさんもらったので、最初はちょっとケチケチして、100円ショップで小さいケースを3つ買ったんですね。
分けて入れたんですけれども、なかなか鳴かなかったんですね。
スズムシは、完全変態ではなくて不完全変態といって、サナギにならなくて、
だんだんこのステージが上がるような成長の仕方をします。
いわゆる終霊、最後の年と書いて、一番最後の幼虫の形で留まってですね、こうやって羽を鳴らすような最後の成虫になかなか鳴らなかったんです。
ですからですね、私はちょっと大きめの入れ物をわざわざ買いましてですね、そして
餌もですね、もらった粉末のではなくて、この
きゅうりをですね、切って、このようにですね、きゅうりを切って
爪楊枝に刺して、地面に刺したり、あるいはですね、ここではケースですけれども、アルミホイルにですね、カツオブッシュを入れてですね、3つぐらいですか、この地面に置いた。
きゅうりもいっぱいいるからですね、2本か3個ずつ付けて、5個も6個もですね、地面に刺したわけです。
そうしたらですね、昨日の朝5時半頃、リンリンとちっちゃく鳴き始めたんですね。
やっと鳴いたな、でも遅いなと思ったら、もう今朝はですね、もうリンリンリンリンですね、盛んに鳴いたわけです。
こうやって私が環境を整えてあげたらですね、
スズムシも成長して、鳴くことができたわけですね。
で、このようにですね、スズムシには自分たちは小さい器の中に入れられて、餌も不足していましたから、
自分たちより外の大きな、自分たちよりも大きな世界からの介入、つまり私の介入が必要だったわけですよね。
まあ、この人間をスズムシに例えることに抵抗があるかもしれませんが、もしそのように私たちをスズムシに例えるならば、
外部から介入した私の存在は、まさに時間と空間を超えた神様が私たちの人生に介入して、助けのべき希望を与えてくださることに似ているかと思います。
スズムシからしたらですね、突然この揺さぶられて、ケースを逆さにされてですね、違うところに入れられてしまったり、
巨大な手が入ってきてですね、きゅうりが何本も地面に突き刺さったりして、本当に追っかなかったかもしれません。
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でも、そのような私の外部からの介入があったからこそですね、この成長できないというジレンマから出して、無事ですね、成長して、リンリン鳴くことができたわけですね。
同じように神様も、自分たちの世界の中で閉じこもってしまう私たちを、外側から介入して、ご救いの手を述べてくださった。
この永遠なる神様が、私たちとの距離を埋めるために、私たちの有限の時間と空間に来てくださった、それが救い主イエス様。
人となられた神なるイエス様でありますね。 ですからパウロはこれまでのクライクチョーと比較して、13節で大きな声でですね、
しかしながらと希望について述べているわけです。それが最後の点です。イエス様にあってということですね。
2章13節読める方は一緒に読んでみましょう。
しかしかつては遠く離れていたあなた方も、今ではキリストイエスにあって、キリストの血によって近いものとなりました。
エピソードの人々の例に例えるまでもなく、人はどのような神物にすがっていようと、
またパウロが言うように、神の民であったユダヤ人として生まれ滑稽を受けていたとしても、あるいは今で言えば、
たとえクリシアンホームに生まれたとしても、心に罪の責めが生まれます。
この罪ゆえに埋めることのできない神様との断絶を、パウロは今日の箇所でこのように表現しています。
2章12節13節で、その頃はキリストから遠く離れ、
イスラエルの民、神の民から除外され、そしてまたかつては遠く離れていた。
かつてはキリストと神から遠く離れていたあなた方と、パウロは12節13節で表現しているわけです。
しかし、その後に続き、パウロは13節で、
しかし、かつて遠く離れていたあなた方も、今ではキリストにあって、キリストの血によって近いものとなりましたと、パウロは述べていたわけです。
まさに大きな声で、希望の福音をですね、ここでもう一度思い起こさせているわけですね。
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この罪を解決するただ一つの道、私たちと神様とを隔てている罪を解決するただ一つの道、それはイエス様の血です。
キリストの血とありますが、イエス様の血、すなわち十字架の贖いの死がですね、私たちの罪の許しの根拠となっています。
そのイエス様の十字架の死を知り、受け入れるときに、神様との心の距離も埋まるわけです。
罪が解決され、神の前で清いものとされますから、神様との距離が埋まるわけですね。
で、しばらく前に見たエヴェソの1章7節で、パウルはそのことをこのように既に述べているわけですね。
読める方、1章7節一緒に読んでみましょうか。
3、このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の許しを受けています。
これは、神の豊かな恵みによることです。
別の聖書の箇所では、心に血の注ぎを受けて、邪悪な良心を清められたと言っています。
私たちが心に罪のせねを感じ、神様との距離を感じるときにですね、このイエス様の血によって、私の背きの罪が許されていると宣言して、そのような在籍官から解放されるわけですね。
それこそ、神様の豊かな恵みです。
さらに素晴らしいこと、それはイエス様によって、神との距離が埋まるに留まらなかったわけです。
私たちはイエス様と一つとされたわけですね。
この2章13節のキリストイエスになって、近いものとなりましたというのは、イエス様と一つとなった。
英語では、Union with Christ、キリストとの連合、そういう表現で表されているわけです。
そのイエス様は、私たちの心の中に住んでくださっているわけですね。
私たちの教会にも、私たちそれぞれの中にも住んでくださっているわけです。
イエス様によって、罪の問題が解決された私たちは、このイエス様と一つになった。
それがイエス様にあって、近いものとなりましたという意味です。
そして私たちのうちに住まれるイエス様、そのイエス様こそ、私たちの希望です。
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私たちのうちに住むイエス様は、私たちにとって希望となってくださったわけです。
このエペソビトの手紙と、双子の手紙と呼ばれているコロサイビトの手紙、
同じ頃に同じ地域で読まれたコロサイビトの手紙の1章27節で、パウルはその素晴らしい栄光のこと、望みのことを述べています。
最後にこの御言葉を共に読んで、説教を終わりたいと思います。
3.この奥義が、違法人の間でどれほど栄光に富んだものであるか。
神は生徒たちに知らせたいと思われました。
この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
お祈りしましょう。
私たちの知事なる神様、あなたのお名前を賛美します。
天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝し、世界の元に置かれる前から私たちを選び、
あなたのことをしようとしてくださったことを感謝いたします。
私たちは罪許され、イエス様の十字架によって贖われる前、神なく希望のない者たちでした。
しかし、イエス様によって罪が許され、また神様と近くされ、またイエス様を内に宿し、あなたから希望を与えられていることを感謝します。
どうぞ、今のコロナ禍において生きる日々において、また将来、たとえこの世の旅路が終わった後でさえも、
あなたにある永遠の命の希望があることを覚えて、この地を歩いていくことができるように導いてください。
ご精霊様がどうか、私たちの日々の歩みの中で、栄光の希望であるイエス様について、さらにさらに深く教えてくださいますようお願いいたします。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは、神様にお答えするために祈りの時間を持ちましょう。
どうぞ、1分ほど黙祷の中で主にお答えください。
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