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神科薬性書 2017年度版から読みします。
エペソビトへの手紙2章、8節から10節
この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。
それは、あなた方から出たことではなく、神の賜物です。
おこないによるのではありません。誰も誇ることのないためです。
実に、私たちは神の作品であって、良いおこないをするために、キリストイエスにあって作られたのです。
神は、私たちが良いおこないに歩むように、その良いおこないをあらかじめ備えて下さいました。
以上です。
今日はこのところから、
恵だけが頼りと題して、見事もの取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
今日は8月15日で、76回目の終戦記念日ですけれども、
ここ数日の豪雨、それからですね、先週中盤でしょうか、8月11日に
厚生労働省に助言をする専門家のアドバイザリーボードからも発表がありましたけれども、
この爆発的な新型コロナウイルスの感染が新しい段階に入った、災害時に匹敵する、まさに危機的な状況だというわけですね。
そして、総勢に圧倒される終戦記念日も忘れてしまいそうなんですけれども、
今、デルタ株が出現して、感染力が1.5倍から1.7倍とも言われています。
ブースターと言われてですね、2回ワクチン接種した人でも感染すると。
そんな中で、もはや予防の観点からワクチンがないとか、まして感染した後、なす術がない。
できれば、この間も菅首相はですね、なるべく家で行ってくれみたいなことを言っていた大騒ぎになりましたけれども、
感染しても入院できない。 自分で状況をコントロールすることができない。
そういうことがですね、私たちの不安を煽っているな。この間もある人から、買い物しか行ってないのに感染したなという、そんな話を聞きました。
まさに、予防もそして感染後も状況をコントロールできない。
その、なす術がないという点はですね、罪と私たちとの関係に似ています。
しかしですね、罪に関しては、先週見たように私たちは、人々は罪の中に死んでいた。
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ですから、より深刻なんですね。 罪の死から私たちは救われなければいけませんけれども、
今日はその、私たちを救う神様の恵み、そして私たちの弟としての信仰という観点から、3つのことを学んでいきます。
まず第一は、神様の恵みによる救い。 恵みだけが頼りということで、恵みと賜物、そして信仰ということを見ていきましょう。
この掲示した御言葉を読める方、2章8節9節、もう一度心に留めて読んでみましょう。
3、この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。
それは、あなた方から出たことではなく、神の賜物です。
おこないにゆるのではありません。 誰も誇ることのないためです。
ここの大事な言葉は、この恵みのゆえに、 神の賜物という言葉です。
最初に恵みと賜物について見ていきましょう。 新型コロナウイルスの話に戻りますが、
今、法律によってワクチン接種の費用も、入院治療の費用も全て無料です。
つまり、ワクチンと医療費が無料であるということは、
行政による恵みと賜物のおかげだということです。
無料ということは、行政による恵みと賜物のおかげだということです。
これは今の御言葉にある、救いとは神様の恵みであり賜物であるということに似ているんですね。
ただで治療が受けられる。 私たちはただで一方的な神様からのプレゼント、
恵み賜物として救いに預かることができる。 しかし今、
COVID-19についての問題は、ワクチン接種がなかなか受けられないし、 感染しても治療なかなか受けられない。それが大きな問題ですね。
カクテル療法というのが承認されましたが、感染がわかってから一定期間内にその治療を行わないと効果がないわけですから、
しかも天敵ですから、自宅ではその治療を受けられません。 そのように、
感染しても治療なかなか受けられない。 ワクチン接種もなかなか受けられないというのが今の大きな問題です。
しかしそれに比べて、神様の救いというのはそういうものではありません。
神様の救いの恵み賜物は、いつでもどこでも私たちのために用意されているんですね。
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これについて、ある学者はこう説明しているんですね。 この赤い字で前に掲示しました。
恵み賜物の救いとは、救いの全プロセス、すべての工程において、 神ご自身の働きがあるということであるんですね。
レジュメに書いていませんが、このギリシャ語の言語で見ると、
恵みよりあなた方は信仰によって救われた。 そしてこれは、あなた方から出たことではなく、
そして行いから出たことではなくという、 私たちに由来しないで、神様だけにその根拠と由来があるということ。
救いのすべてのプロセスは、神様の働きによるということが、 恵みによる救いということなんですね。
それはどういうことか、私たちの救いのプロセスを順を追って説明すると、 救いの始まりから完成まですべて、
神様の一方的な働きによっているということなんです。 もう少し詳しく言うとですね、まず、
私たちの救いの根拠である十字架の救い、 それも神様とイエス様からの一方的な賜物、神の御業ですね。
そして、神様は信じた私たちに、 聖霊によって承認をしてくださいました。
そしてそのようにして救いを保障してくださいました。 そうやって救いの人生が始まりましたけれども、
この救いの完成に至る人生は、 天に向かう旅だと例えられていますね。
ですからこの人生の旅路においても、 救いのプロセス、成果のプロセスにおいても、
聖霊が共にいてくださって、私たちを罪から清め続けてくださる。
それで祝った時は共にあって、慰め励ましてくださる。
この旅の途中も、この救いの旅の途中もですね、神の業だ。
そして当然ですね、この世の旅路を終えた後、 私たちを蘇らせ、イエス様と同じ姿に完成してくださる。
そして先週、先々週見ましたが、 私たちを天の御座につけてくださる。
それも神様の御業です。
そして驚くことに、世界が始まる前からですね、 もうすでに神様は私たちを救いのために、
清めるために、要死のために選んでくださった、ということですね。
このように救いは全てのプロセスにおいて、 神の一方的な御業、恵みの賜物だということです。
さらに忘れてはならない、驚くべき神様の救いがあるんですね。
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つまり、病気を治すことと比べるとですね、 病気で治すことができても、やがて死んでしまいます。
私たち、この地上の肉体は。
そして死んでしまったら、もう治療することはできませんね。
しかし、神様の恵みと賜物により、 神様は罪に死んでいた私たちをイエス様とともに、
生かしてくださいましたよね。
そして私たちが、たとえこの地上の旅路で、 この世の命を終えたとしても、
新しい命にイエス様とともに、 蘇らせてくださるという、そういう希望があるわけですね。
この救いにおける神様の恵みと賜物ですけれども、
もう一つ、第一番目の点の二番目の点になってしまいますが、 信仰ということを見ていきましょう。
ここ前にも掲示しましたが、
信仰とは何か。
信仰とは、神様を信じ、神様に信頼するということである。
そのように、世界的パウロの研究の第一人者が言います。
信仰とは、神様を信じ、神様に信頼するということです。
それに続けて、その学者は、 このような大切な真理を明かしているんですね。
ちょっと読める方は、ここを読んでみましょうか。
せーの、
信仰とは、神様が約束してくださったゆえに、
それは実現すると、無条件に信じることである。
そして、死んだイエス様をよみがえらせた神様に、 信頼するということである。
二つの点ですね。
信仰というのは、神様が約束してくださったから、
だから必ずそうなるんだと、 無条件に信じることだと言うんですね。
世界的なパウロ研究の学者ですから、 私たちよりもずっと頭の人ですよ。
そういう人がですね、 無条件に信じると言い切っちゃってるんですね。
そして内容はですね、 このイエスを死からよみがえらせた全能の神様、
その神様に信頼する。
どんな神様に信頼するんですか?
その全能の神様に信頼するということだと言うんですね。
だからこそですね、
死んでいた、罪に死んでいた私たちさえも救い、
私たちにこの世の命が終わっても、 新しい命に私たちは生きることができる。
その世に私たちを救うことが神様ができるんだと 信じることができます。
先週8月12日のですね、東京新聞の記事に、
この新型コロナウイルスの感染拡大の 救急医療の逼迫状況について載っていました。
ある神奈川県の病院ではですね、
救急の入院の要請が1日毎日ですよ。
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40件以上あるんです。毎日40件。
しかし病棟がないと言って、毎日30件近く 断らなければいけないと言ってるんですね。
さらにある千葉県の救急隊、消防署のですね、
隊長の証言なんですけれども、
ある60代の男性患者をですね、
おそらくコロナが疑われて救急搬送しようとしました。
そして私も経験ありますけれども、
救急車に乗ったら病院に電話するんですよね。
受け入れてください。
で、それをやったんですけど、
なんと58の病院に断られたんです。
そしてやっとですね、
59個目の病院で入院を受け入れてもらった。
その間、救急車の中で4時間以上も待たされた。
患者さんはそういう状況だったというわけなんですね。
こんな状況に本当に陥らないことが何よりもなんですけど、
もし私たちが救急搬送する救急車の中で待っている立場としたら、
もう信じて待つしかないわけですよね。
そしてもちろん、治療を受ける際も
医者を信頼して、
医者の指示に従うしかないわけですよね。
まさに無条件の信頼。
これは今、現在の状況に絡めて説明しましたが、
それ以上に今、私たちは神様の救いに対してできること、
まあ私たちはバブテス巻で救われた方がほとんどですが、
私たちがしたことは、神様が提示する救いに、
恵みに、無条件で信頼してすがること以外にないというんです。
反対に、それさえできれば私たちは救われる。
まあそれだけしたので、私たちは救われたということなんですね。
これが第一番目の、神様の恵みによる救いということです。
その中には、神様の恵みと賜物という神様から出たものと、
そしてそれをただ信頼して受け取るという、
私たちの応答としての信仰という要素があるわけです。
では二番目の点を学んでいきましょう。
神様の恵みによる作品ということです。
私たちは神様の作品であるということですね。
2章の10節の前半だけここに抜粋しました。
読める方はここを読んでみましょう。
実に私たちは神の作品であって、
良い行いをするためにキリストイエスにあって作られたのです。
この作品という言葉が鍵なんですけど、
これはですね、言語のギリシャ語ではですね、
ポイエーマーと書くんですね。
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ここから英語のポエム、死という言葉が生まれて、
今のギリシャ語でポイエーマーというと死という意味だそうです。
しかしここではその死というよりも、
神様の被造物という意味が込められていて、
どういうことか、それは、
イエス様を信じて救われた私たちに対してですね、
創造主なる神様の再創造の宮さんが
起こったということが強調されています。
第2コリント5章17節ではですね、
誰でもキリストの家になるならその人は新しく作られたものです、
ということもありますけれども、
この神様の再創造という点が
このポイエーマーという言葉に強調されている。
神の恵みによる作品。
この大事なことのもう一個はですね、
キリストイエスにあって作られた、
キリストイエスにあってというのは、
ギリシャ語ではエンクリスト、英語でインクライストですね。
イエスキリストの家に作られたということです。
これはどういうことか、
まあこれ一つのトーキーを出しておきましたけれども、
この明皇によって作られたトーキー、
何千万もするトーキーなんで、
テレビで出てきますけれども、
これはですね、
陶器師が土を混ぜ合わせて作りますね、
こねて、こねて、こねて、
そしていろんな色の塗料を、
何て言うんですか、この絵の具と言いますかね、
いろんな色の顔料と言いますか、
その塗料を塗って、
それが火の中で溶け合って、混ぜ合って、
絶妙な色になるわけですね。
この粘土がこね合わされ、混ぜ合わされ、
塗料が火の中で精錬され、
混ぜ合わされて、
素晴らしい作品になります。
同じように私たちは、
神様によってイエス様と、
イエス様を死にして、
イエス様と一つにされます。
土がこねられて混ざり合うように、
そして塗料が火の中で混ざり合うように、
私たちとイエス様が、
試練の中で、
あるいはこの世の闇の中で、
こねられて混ざり合って、
塗料が火の中で混ざり合うように、
私たちとイエス様も、
試練の中で混ざり合って、
神様の良い作品として、
作り上げられていくということなんですね。
イエス様が死んだ瞬間に、
新しい創造が始まりますが、
このようなプロセスを通して、
神様は私たちを、
生涯かけて、
神様の作品として、
完成させて下さい。
これが神様の恵みによる作品ということですね。
3番目、
そしてパウロは続けて大事なことを述べています。
神様の恵みによる善行、
神様は良い行いを既に用意しておられるという真理です。
2章の10節の後半、
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これを読んでみましょうか。
3、
神は私たちが、
良い行いに歩むように、
その良い行いを、
あらかじめ備えて下さいました。
このように、さらに驚くべきことは、
神様は私たちが成すべき良いことさえも、
既に用意して下さっているんですね。
このあらかじめ備えて下さったという言葉もですね、
一つのギリシャ語になっている。
あらかじめという説得がついたギリシャ語です。
先週見たエペソの、
先々週見たエペソの2章の1節から3節ですね。
先週見た。
かつて罪の中に死んでいた私たちは、
悪しき道にしか歩むことができませんでしたね。
罪の中にあるとき私たちは、
悪いと思ってもしてしまう。
パウロもローマ7章で、
私の中に住む罪が私に罪を犯させると、
葛藤を述べていますけれども、
かつて罪の中に死んでいた私たちは、
悪しき道にしか歩むことができませんでした。
しかも、
今日の2章の8節、9節が証言しているように、
私たちは、
自分の行いによっては、
神の救いを獲得することができないんですね。
このように私たちは、
自分の誇りを取り去られました。
私たちの行いが無に帰したわけです。
しかしですね、
神様は、
神様の作品として私たちを作り変えただけではなくて、
良い行いで自分を救えない私たちのためにですね、
私たちを救ってくださいましたけれども、
今度は、
私たちが神様のために良い行いができるように、
その良い行いをあらかじめ準備してくださるということが、
素晴らしいことなんですね。
陶器でも、
良い音楽でも、
その作品の素晴らしさとともに、
作者が褒めたたえられますね。
同じように、
私たちを通して神様が褒めたたえられるようになる。
そのために神様は、
私たちがなすべき良い働きを用意してくださっているんですね。
ちょっとこれ見てください。
これは何かというと、
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テトリスというゲームのBGMに、
なんとですね、
フランス組曲第3番が作られています。
これ作ったの誰か知ってますか?
バッハさんです。
オリンピックのバッハじゃなくてですね、
ヨハン・セバスチャン・バッハ。
このヨハン・セバスチャン・バッハの曲が、
こういうゲーム音楽にも使われているわけなんですね。
実は、あるこのブログではですね、
クラップというブログの中で、
竹内さんという方がこういうことを言っているんですね。
バッハ作曲の平均率クラビア曲集、
平均率クラビア曲集というのがあるんですけども、
それはピアノ家の音大生全員が学ぶことから、
クラシック音楽の旧約聖書と呼ばれているんですね。
そしてこのバッハの作った理論を基に発展した、
機能和製という和音の基本があるんですけども、
それは現代のJ-POP、洋楽、演歌、アイドル音楽に
アニソンもですね、
元をたどればこのバッハの築いた機能和製理論に
たどり着くっていうんですね。
こういうところが彼が音楽の父と呼ばれている
ゆえんの一つだっていうんです。
何が言いたいかというとですね、
この数々のゲームの音楽や、
またこれらの今聴くえる名曲、
それもですね、バッハに由来しているということであれば、
この300年ほど前にですね、
もう作られたバッハの曲や作法、
あるいはバッハによって300年前に
あらかじめ用意された曲や技法をもとに、
数々の名曲が生まれているとも言えるわけなんです。
このようにですね、
それ以上に神様は私たちのために
良い行いを用意してくださっている。
実はこのある学者はですね、
神様の備えられた良い行いは、
私たちが奏でるべき良い楽譜に似ているっていうんですね。
この良い音楽は作曲者の存在を明かしするように、
私たちが言うこと、すること、
そして私たちが奏でる良い音色によって、
私たちは神様の存在を明かしするものになっている。
その画面の楽譜を神様も既に書いておられて、
私たちの人生の歩みの中に
それを奏でることができるように
用意してくださっているっていうんですね。
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これはまさに恵みによる救いではなくて、
恵みによる善行です。
神の恵みによって私たちの成すべき良い技が
あらかじめ備えられているという
恵みによる善行とも言えるでしょう。
私たちはですね、時に真面目すぎてですね、
自分のことをネガティブに考えすぎて、
私は神様のために何もできないとか、
私は神の前に役に立たない存在だと
感じてしまうことがあるかもしれません。
ましてやですね、このコロナ禍において
身動きができないときは、
なおさらそう思うかもしれません。
しかし、私たちの救いと同じように、
何もできないからこそ、私たちは
ただただ神様の約束を無条件で信じること、
それ以外にないということなんですね。
何もできないからこそ、
ただただ神様の約束を無条件で信じる、
私は神の作品であって、
神様が私の成すべき良い行いを
もう備えてくださっているんだと、
神の約束をただただ無条件で信じ受け入れていく、
それが私たちの拠り所になるわけですよね。
イエス様をよみがえらせて、
そして私たちをもイエス様とともによみがえらせてくださった
その神様にともに信頼していきましょう。
最後に、この大事なエペゾー2章10節をともに読んで、
御言葉の解きを終わりたいと思います。
読めるかで読んでみましょう。
3、はい、実に私たちは神の作品であって、
良い行いをするために、
キリストイエスにあって作られたのです。
神は私たちが良い行いに歩むように、
その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
あなたの恵みと賜物により救われたということ、
私たちはそれを信じることしかできない。
信じることによってあなたの救いを得るという、
なんと単純でしかし奥深い真理でしょうか。
どうかその約束の素晴らしさ、奥深さ、豊かさを、
私たちが知ることができるように、
知恵と啓示の御霊を与えてください。
また、私たちは日々の歩みの中で、
誇ったり、あるいは弱ったりすることがあり、
あなたのために用いられたいと願いながらも、
救いをできないもどかしさを感じることもあります。
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どうぞ、ただただあなたが備えてくださった、
その約束の上に、それを信頼します。
どうぞそのあなたの約束に信頼して、
あなたが用意してくださった、
良い業の内を歩むことができますように。
そうして私たちが意図するところ、
あるいは意図しないところで、
あなたの証が身を結ぶことができますように。
そのことを信じますから、どうか導いてください。
このことを感謝し、あなたに委ねて、
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは、主の御言葉に応えて、
黙祷を持って一分ほど主にお答えしていきましょう。