2021-05-23 25:16

#56 21/5/23 聖霊の祝福

使徒の働き2章1-8、7-14朗読によるペンテコステ礼拝の説教。2021年5月23日録音。聖霊の祝福には様々なものがありますが1.イエス様の救いへの導き、2.生き様の変容、3.祈りにおける助け、の3点を学びます。コロナ禍において弱さを覚える時に、聖霊による助けも頼りにになるでしょう。

00:07
朗読します。 使徒の働き2章1節
五巡節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。 すると、天から突然、激しい風が吹いてきたような響きが起こり、
彼らが座っていた家全体に響きが当たった。 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人一人の上に留まった。
すると、皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、 他国のいろいろな言葉で話し始めた。
さて、エルサレブには、敬虔なユダヤ人たちが、 天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
この物音がしたため、大勢の人々が集まってきた。 彼らはそれぞれ自分の国の言葉で、弟子たちが話すのを聞いて、
あっけに取られてしまった。 彼らは驚き、不思議に思って行った。
みなさい、話しているこの人たちは皆、 ガリアヤの人ではないか。
それなのに、私たちそれぞれが生まれた国の言葉で話を聞くとは、 一体どうしたことか。
14節に飛びます。 14節。
ペトロは11人と共に立って、 声を張り上げ人々に語りかけた。
ユダヤの皆さん、並びにエルサレブに住む全ての皆さん、 あなた方にこのことを知っていただきたい。
私の言葉に耳を傾けていただきたい。 今は朝の9時ですから。
この人たちは、あなた方が思っているように酔っているのではありません。
これは、預言者ヨエルによって語られたことです。
神は言われる。
終わりの日に、私は全ての人に私の霊を注ぐ。
あなた方の息子や娘は預言し、 青年は幻を見、老人は夢を見る。
その日、私はあなたの下目にも、 端目にも私の霊を注ぐ。
すると彼らは預言する。
また、私は上は天に不思議を、 下は地に印を現させる。
それは、血と火と立ち昇る煙、 主の大いなる輝かしい日が来る前に、
太陽は闇に、月は血に変わる。
しかし、主の皆を呼び求める者は皆救われる。
以上です。
今日はペンテコステ礼拝ですので、 聖霊の祝福と題して御言葉を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
昨日までのどん天や雨が、嘘のように今日は晴れやかな朝となりました。
03:03
ペンテコステというのはですね、五重説、
五重という意味の、元々はユダヤ教のお祭りでした。
それがですね、イエス様が復活した日曜日から
50日目に、今御言葉で読んだ、
聖霊が弟子たちに下ったという出来事が起こったんですね。
このことから、教会はこの日を、その日以来、 特別な日や、あるいはお祝いしているわけです。
何が起こったかというと、聖霊というのは旧約時代は、 特別な王様とか預言者にしか注がれなかった。
しかし、このイエス様が来られた終わりの時代には、
すべての人に、奴隷にも、男奴隷、女奴隷にも関わらず、 年齢に関わらず、聖霊が注がれるということです。
そしてこれは何を意味するかというと、今まで、
いつも言っていたように、神の民といえば、
神の民といえば、
イスラエル民族だけだったのが、イエス様を信じるすべての人が、
異邦人が神の民に加えられるということです。
ですから、このルカだと思うんですけども、
起こっている出来事があまりにも稀なことで、 どう表現したらいいかわからないということで、
このような表現を使って、本能のような分かれた人が下ったとか言ったんですけども、
カギはですね、いろんな国の言葉で突然、ナザレの田舎、 ガリダの田舎者が話し出したということで、
世界中に神の民が広がったということの始まりを、 霊の来臨と共に告げた出来事となったわけです。
それは、教会の誕生日であります。
霊の祝福というのは、数多くあってですね、 語りきれないんですけども、今日は時間の都合で、
3つの点、私たちの目を開く、私たちに良い行いをさせる、 そして私たちに祈りを導くという、
この3点に絞って、皆さんにお分かちしていきたいと思います。
最初の点はですね、 聖霊は私たちを救い主イエス様への信仰へと導いてくださる、
日本風かもしれませんが、救いへの開眼という祝福です。
ちょっと長くなりますが、2ヶ所読んでみましょう。 ヨハネの15-26、イエス様の御言葉です。
私が父のもとから使わす助け主、すなわち父から出る真人の御霊が来る時、 その方が私について明かしして下さいます。
そしてパウロはこう伝えています。第一コリント12章3節。
ですから、あなた方に次のことを教えておきます。
神の見た目によって語る者は誰も、イエスは呪われよということはなく、
また、聖霊によるのでなければ、誰もイエスは主ですということはできません。
06:04
これらの聖者の言葉によると、人間が神様の御言葉を信じ、 そしてイエス様を救い主だと受け入れることができる。
それは、聖霊の働きにほかならないというのです。
ある信学者はこのように言います。
罪深い人間は根本的には神の言葉を聞くことができないというのです。
ですから、私たちは自分の力ではイエス様の救いを受け入れることができないのです。
4月のある時、職場の営業の責任者から声をかけられたのです。
大卒2年目の女の子を連れて営業に行ってくださいと。
帰ろうと思って、金曜日だったので5時には上がって、 教会に来て祈ったり準備したりする日なんですけど、呼び止められました。
そしてその人と一緒に事業所の近くに行って、 個別訪問をピンポンやろうと言ったのです。
私たち通常業務は顧客対応なんですけども、 営業もやることになっています。
その人と歩きながら、あれこれ話したらびっくりしたのは、 その方は入社2年目なんですけど、
全く営業の訓練をしたことがないんです。
皆さんの感覚どうかわかんないんですけど、 私の通常の仕事の営業というのはすごく大事な分野だったので、
土木も抜かれたんですね。 コロナ禍だったので社員研修も回らない。
それでそういう営業の座学も、 オン・ザ・ジョブトレーニングも全くしていないと聞いてびっくりしちゃったんですね。
歩きながら、こうやって言ってごらんなんですね。 自分が言ったのを真似させて、それでやって。
事業所のそばだったので、お客さんが多かったんですね。 もともとのうちのお客さん。
だからピンポンしても、みんなもう簡単に言うと営業の対象じゃなかったんですけど、
普段だったらいけませんかちゃんというのが、わざわざ出てきてくれて話してくれたりして、
新人というか2年目の人も良かったみたいです。
営業をやったことある方、営業じゃない仕事の方いらっしゃいますけど、
営業が一番簡単にできることの一つは、 顧客がもう購買意欲を持っているということです。
購買意欲がないお客さんに買いたいという思いを入れかせることは、私にとっては不可能ですね。
だからその方にもですね、自分が言葉によって買えるんじゃなくて、
やりたいって人を探すだけだから、めげずにやり続ければいいんだよって言ったら、がってんが言ったようですけども、
次元の違う話ですけれども、似てることがあるといえばですね、
09:03
ある人がイエス様の十字架と復活を信じることができる、それを我がこととして信じることができる、
信じる意欲が与えられるというのは、 それは精霊の働き以外に何ものでもないんですね。
僕は職場の人によくそんな営業できると言われたんですけれども、
僕は全然一番難しいものを売ってきたからと。
僕が死んだの前は学生さんに、キリスト教の布教をして大学の中で言ってたから、
一番難しいものを売ってたから、ヘでもないですよって、
悔し紛れじゃないですけど言うんですけどもね。
本当にですね、僕が20年以上やってきて思ったのは、
イエス様を信じることができるように私は誰も説得できないんです。
でも皆さんが経験しているように、不思議にですね、
私はイエス様を信じたいですっていう人が教会に導かれてですね、
イエス様を信じてまたバブテス様へと導かれるんです。
何を言いたいかというと、皆さんも分かっておられるように、
イエス様を信じたいという気持ち、それは精霊が働いている以外に何者でもないんですね。
ある著名な神学者はこのように言っているんですね。
ちょっと読んでみますね。下の段。
精霊は人々を準備させ、彼らをキリストへと導くために、恵みをもって彼らに臨む。
ちょっとこれ難しいから読んでみましょうか。
精霊は、よみがえられた死を彼らにあらわし、死の言葉を思い起こさせ、理性を開いて、彼の死と復活を理解させる。
ごめんなさい、死はですね、死のですね。
ここで分かりますように、精霊こそがですね、人をしてイエス様を信じるようへと導くということなんです。
ですからもしあなたがナザレジンのイエスを救い主と信じることができるとすれば、
つまり自分の罪を認めて、イエス様の十字架の贖いを私のものだと信じることができるなら、
そしてイエス様の復活という奇跡をですね、自分の罪の救いと永遠の命の希望だとして信じてイエス様を受け入れられたとすれば、
それは精霊の祝福を受けている、それ以外何者でもない、そのようにぜひ確信してください。
二番目、精霊の祝福の二番目ですね。
精霊は私たちの生き様を導き、私たちを変えてくださるということです。
パウロはこのように言っているんですね。
あなた方は知らないのですが、正しくないものは神の国を相続できません。
あなた方のうちのある人たちは以前はそのようなものでした。
12:00
ここから読んでみましょう。
しかし、主イエスキリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなた方は現れ、聖なるものとされ、
リトを認められたのです。
第一コリントの6章の罰水ですね。
8章14節読んでみましょう。
神の御霊に誓われる人は皆、神の子供です。
私たちがイエス様を信じた後、もし良い行いをしたい、
そう願ったり、神の規定に従うことができたとすれば、それはまさに、
聖霊のおかげです。
と同時に、私たちがクリスチャンとして良い行いをするためには、
聖霊は必要不可欠だということです。
ある神学者の言葉、またもう一つ引用しますが、こうも言われているんですね。
聖霊は心を動かし、その結果、信仰者は、立法が明示はするが、
立法それ自体では実現できない事柄において、生きようと願うのである。
私たちの心を動かすのは聖霊だ。
その結果、私たちクリスチャンは、神の御規定では、命令では実現できない事柄、
そこに生きようと願うというんですね。
私がイエス様を救い主として信じ、またバブテスに向けたのは、大学生時代でした。
今から30年以上前ですけど、その当時ですね、ある著名な伝道者で、
本田孝司という人がいたんですね。
青山学院の当時大聖堂に、イースターの礼拝に行ってですね、
そこで説教を聞いて、イエス様信じますなんて導かれた事も思い出します。
その後も、私たち属する教会の夏のキャンプにしょっちゅう先生が来てメッセージされたんですが、
その先生の印象的な言葉の一つにですね、こういうのがあったんです。
あなたがイエス様を信じれば、あなたの意思が新しくされますと語っておられたのを、
今でも忘れる事ができません。
その時に、そうなんだと思って聞いた事も忘れられないんですね。
その先生の言葉もここで言う、精霊の祝福の一つですね。
精霊に導かれる生き方、神様の御心を行いたい、良い行いをしたい、
そういう風に願い、意思とする事、そしてそこに生きる事がまさに精霊の祝福です。
その結果、私たちは最初の御言葉にありましたように、正しくない行い、
以前付けていたその悪しき行いからですね、古い生き様から完全なる変容を遂げる事ができる、
15:03
変身する事ができる、と言うんですね。
でも、よく言いますように、私たちには不完全さという現実も伴います。
でもそれにも関わらず、精霊が与えられているという事はですね、
必ず終わりの日にイエス様と同じ姿に完成するという事の保証でもあるんです。
だから私たちは失敗しながらも良い事ができるわけですね。
そしてその約束は失望に終わらないというんです。
そのようにですね、不完全ながらも良い事を行いたい。
失敗しても精霊が与えられているから完成するという事が保証されているというのはですね、
これはですね、精霊の祝福の、また別の点でですね、霊的渇望と希望という範疇なんですね。
その他ですね、今日挙げませんけれども、精霊の祝福には、自由、新鮮な爽快さを伴う開放体験、
ああイエス様信じて救われた、という思いとかですね、
子としての立場、神の子として養子とされたという事もあります。
今日は詳しく触れませんけれども、精霊の祝福、
2番目は良い行いへと導かれ私たちが変容させられていく、変えられ続けるという事が2番目の祝福です。
最後3番目、祈りを助ける精霊の祝福です。
ちょっと長いんですけど、慎重にゆっくり読んでみましょうか。
同じように御霊も弱い私たちを助けて下さいます。
私たちは何をどう祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が言葉にならないうめきを持って取り出して下さるのです。
人間の心を探る方は御霊の思いが何であるかを知っておられます。
なぜなら御霊は神の御心に従って生徒たちのために取り出して下さるからです。
またこれは後で御言葉レジュメにもありますけれど、じっくり読んで心で思い描いていただきたいのですけれども、
これは言葉にならない祈りを精霊が助けて下さるというのです。
ある学者が言わせれば、このパウロの祈りの言葉の背景にはパウロの身体的な弱さと関係があるというのです。
例えば第二コリント十二章を読んでもらうとわかるのですが、白外における彼の苦しみとか、
あるいは第二コリント十二章にもありますが、病名は不明ですけれども、ある不治の病か、その後遺症に彼はずっと悩まされていたのです。
18:03
いろんな人を癒したパウロが不治の病に悩まされたというのは不思議ですよね。
何度もその病が取り除かれるように、三度真剣に祈ったけれども、その祈りが聞かれず、取り除けられずに、その弱さを受け入れたとパウロは告白しています。
弱いときこそ強いと言っています。
そしてこのパウロ研究者の第一人者がですね、この箇所についてこう言うんですね。
パウロ研究者の第一人者の学者がですね、この御言葉についてこう言うんです。
これはパウロの精霊理解の驚くべき特徴であると言うんですね。
そしてここ解説しています。
ちょっとこれも大事なんで、読める方だけでいいので読んでみましょうか。
三、見たまは強さにおいてではなく、弱さにおいて体験される。
見たまは正確な言語によってでなく、言葉にならないうめきを通して体験される。
見たまの働きはまさに言葉で表現できない状況でこそ顕著になる。
これはですね、もしかしたらこういうことを案に批判しているんじゃないかという説もあるんですね。
当時ですね、霊的に偉大だとされている人物がいたと。
カリスマの強さみたいな。
そういう霊的偉人に対して彼女の力ある技によってその評価がされたということを
批判するためにパウロはこういうことも書いたのではないかというのです。
霊的弱さということがパウロの力になっていた。
また霊的強さを誇示することの批判だというんですね。
このような言葉から分かりますように、
つまり私たちは弱いときこそ恵み深い神様に頼ることができるというんですね。
そして精霊の働きはまさに言葉にならない状況でこそ明らかになる。
私の尊敬する同じグループのある牧師がですね、こう言ったんです。
最も真実な祈りは苦しい中から生まれる助けてくださいとの一言だ。
それ埋め木なのか分かりませんけど。
この言葉にも象徴されているように、
言葉にならない状況でこそ精霊の働きはまさに明らかになる。
言葉にならない思いを祈りの中で取り直してくださるのも精霊の祝福だというんですね。
21:06
これはですね、また極端なですね、
人間が理解できない言葉を精霊によって語るというのと違うという学者もいますし、
また単なるですね、不平不満をぶつけるというのも違うというんです。
もちろんそういう苦しみをぶつけてもいいんですけども。
しかし皆さん苦しみの中にある方は知っていると思いますが、
本当に言葉にならない苦しみや痛み、どう祈ったらいいかわからない、
そういう思いを持ってですね、神の前に助けてください、救ってください、
私を憐れんでください、その時にですね、
精霊がまさに私たちの言いようもない埋め木を神に取り直してくださるということなんですね。
このようにざっとですけども、
信じた私たちは確かに精霊を受けました。
精霊は目に見えません。イエス様は風のようだというんですね。
風のようで目に見えないけど、その働きによって確かに精霊が働かれたということがわかるというんです。
私たちここに挙げられている祝福を知り、体験しているならば、
私たちは確かに精霊を受けたわけです。
そしてこれからもですね、苦しみの中で、そして喜びの中でもちろん、
ここに挙げられている神様の祝福、精霊の祝福を私たちは知ることができるわけですね。
不完全でありながらも、天に至るまでこの感性を、精霊を約束し保証してくださっています。
日々の歩みを導いてくださいますから、
それらの導きや、これらの精霊の祝福を知り続けること、それもクリスチャンの祝福でもあるわけです。
最後にまたパウロの御霊と神の愛についての御言葉を読んで、この説教を終わりたいと思います。
ちょっと長いんですけどですね。
このキリストによって私たちは、信仰によって今立っているこの恵みに導き入れられました。
そして、神の栄光に預かる望みを喜んでいます。
ここから読んでみましょうか。
それだけではなく、困難さえも喜んでいます。
それは、困難が忍耐を乱し、忍耐が練られた品性を乱し、練られた品性が希望を乱すと、私たちは知っているからです。
この希望は、失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
24:00
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
今日はペンテコステの礼拝です。
2000年前に、あなたが天から聖霊を下し、またイエス様がその溝から聖霊を私たちに授け、私たちはあなたを信じ、また聖霊を受けたことを感謝いたします。
その聖霊の働きは目に見えずしかし、深く広いものです。
どうかその祝福を私たちが、喜びやまた苦難のあるこの地上の生涯において日々ますます知ることができるように導いてください。
どうかまた苦しみの中にあって、天で完成する、またあなたとまみえるその希望を望みとして、あなたの愛の核性として生きることができるように導いてください。
この言いようもない感謝と願いを、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
どうぞそれぞれその場において、主に応答しお祈りしましょう。御霊に導かれてどうぞお祈りください。
25:16

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