2021-01-17 23:20

#38/21/1/17 手遅れになる前に

コロサイ3:5-10からの礼拝メッセージ。21年1月17日録音。本日からオンライン礼拝です。罪を放置して手遅れになる前に処置をするように、少し過激な表現でパウロが命じています。私たちの無意識の破壊的言動から逃れるために、聖書から学びます。
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2017年度版でお読みします、殺さえ人への手紙3章5節から11節をお読みします。
ですから、地にある体の部分、すなわち、みだらな行い、穢れ、情欲、悪い欲、そして、鈍欲を殺してしまいなさい。
これらのために、神の怒りが不従順の虎の上に下ります。
あなた方も、以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。
しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、生きどおり、悪意、罵り、あなた方の口から出る、はずべき言葉を捨てなさい。
互いに偽りを言ってはいけません。
あなた方は古い人をその行いと共に脱ぎ捨てて、新しい人を来たのです。
新しい人は、それを作られた方の形に従って新しくされ続け、真の知識に至ります。
以上です。
今日はこのところから、手遅れになる前にと題して御言葉をお勧めします。
皆さん、おはようございます。
皆さんの反応は見れないのですが、このように、今日は初めて私たちの教会でオンライン礼拝を捧げることになりました。
去年の緊急事態宣言が出た時には、都内の教会など、いろいろな教会でオンライン礼拝をしていましたが、
なかなかうちの教会は、いろいろな事情があってできませんでしたが、
今日はある意味、記念すべき第一回目のオンライン礼拝となりました。
皆さん聞くだけだとちょっと厳しいので、多少、説教も短めにしてありますから、
どうぞ、それぞれの場で御言葉に耳を傾けてください。
さて、今、このコロナ禍の中で、命の選別が話題になっていますね。
病床が足りないということ、あるいは、いろいろな人工呼吸器なども足りないということで、
緊急の治療が受けられない、あるいは、
自宅で待機していても、なかなか病院に行けない、そんな中で、命の問題が取り沙汰にされています。
実は、このパウロは、3章の1節から、キリストと共に生きること、また死ぬこと、そういうことを繰り返し語っています。
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今日はまた、5節から、再び彼は、
クリスチャンとイエス様との死の結合について語っています。
先週までは、イエス様の復活との結合についてでしたけれども、またイエス様と共に死んだという話です。
それはある面、古い自分に死ぬことであって、7節にもありますが、こういうことですね。
あなた方も以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。
そのような古い歩みと決別することを、パウロはここで明示しています。
その具体的なことは、性的な罪と、人間関係を壊す罪についてです。
これら2点を、3つの点を取り上げながら、話を進めていきますので、共に学んでいきましょう。
パウロは、もう一度ですね、3章5節6節、性的な罪ということで、この御言葉を取り上げますけれども、
3章5節から6節で、こう明示しています。
ですから、地にある体の部分、すなわち、
乱らな行い、汚れ、
情欲、悪い欲、そして、鈍欲を殺してしまいなさい。
鈍欲は偶像礼拝です。
これらのために、神の怒りが不従順の
コラの上に下ります。
今、一人入ってこようとした方がいるので、
ちょっと進めていきましょう。
すみません、オンラインですといろいろありますね。
この3章の5節6節はですね、主に
性的な堕落について語っています。
オンラインでいきなりちょっとシビアなことを取り上げるのもどうかと思ったんですが、私たちの教会はとにかく
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御言葉が語られている順に従ってしっかりと学ぶという姿勢ですので、取り上げていきます。
第1番目は、この性的な罪を殺しなさいということです。
実はここで列挙されている御言葉、
これはですね、最初の部分と2つの部分で分かれますけれども、
乱らな行いと汚れというのは、
具体的には、結婚外の肉体関係を表します。
そしてその次のですね、情欲と悪い欲とは、その性的な堕落や罪に関わる欲や考え方、
人間の内面性に関わる問題です。
具体的な行動とその中内にある思いとかですね、汚れた思い、そういうことの2つにこの御言葉は分かれているわけです。
パウロはそれらについていずれも、殺してしまいなさいと強い口調で明示しています。
まさにギリシャ語を見てもですね、殺してしまいなさいと非常に厳しい言葉です。
これはですね、言語の通りに訳すと、 身体の部分というところはですね、
身体の悪い部位を表している。その身体の悪い部位を殺しなさい。
ある面、腐った手足ですね。 腐った手足を命を守るために切り捨てなさい、殺しなさい。
それがギリシャ語の言語で言われていることです。
今、緊急事態宣言下で病院がいろいろ逼迫していますけれども、昨年の第1回目の緊急事態宣言下、
私はですね、大腸の内視腸検査に予約したんです。
しかしですね、緊急事態宣言に入る前に予約したんですが、宣言が出されたので、宣言後に予約を取り直しました。
そしたらまた延長されましたね。それでその再延長になって、5月になったでしょうか、やっと
大腸の内視腸検査をですね、地域の病院でしたわけです。 その時に
大腸のポリープがですね、2つ小さいのが見つかりました。 で終わった後、先生が取れましたよって言ってですね、
まあ言ってくださって、安心してくださいと言ってくださったんですけど、私もですね、
2つ取れた、しかも数ミリの小さいものだったので安心していたらですね、 お医者さんがこう言ったんですね、
1つのポリープ、直腸、肛門の側にある直腸のポリープは、これは放っておいたらガンになってましたよって言われたんですね。
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だからまあ今、ほぼ取れたので安心してください。でも念のため来年もう一度同じ検査を受けてくださいと、
そういうふうに言われてしまったんです。 まあそこで私はですね、
驚いた。ほっとしたんですけども、 非常にまあ、ガンになってたのかもしれなかったんだと言って大変驚いたんですね。
このように私の場合も手遅れになって放っておいたらですね、手遅れになって、 ポリープがガンになっていたわけです。
ところでこの御言葉が言う、 貪欲を殺しなさい、それはどういう意味でしょうか。
それはですね、今の話のように、放っておくとガンになるポリープを、 手遅れになる前に切り取りなさい。
そういうニュアンスと似ています。 どういうことかと言いますと、もちろんまず先ほど申し上げた具体的な
結婚外の性的交渉をやめるということもありましょう。 まあそういう方は少ないと思いますけれども、そういう具体的な罪に至る前に、
罪の行動に至る前に、 情欲と悪い欲、
その心の中にある、あるいは考えの中にある悪いものに気づいて、 その悪い考えを捨てることを殺しなさい。
悪い部位を切り取りなさい、とパウロは表現しているわけです。 悪い欲と情欲をその抱く思いに気づいて、その悪い考えを捨てることをですね、
パウロはここで言っています。 でイエス様も実際、
マタイの副文書でこのように述べているわけですね。 マタイの15章19節。
悪い考え、殺人、勧引、不貧乏、盗み、偽証、罵りは心から出てくるからです。
悪い考え。 そして新約聖書の約部の手紙1章15節にもこのように警告されています。
欲が腫らむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。 いずれも、
悪い考え、そういうものは人間の内面にあって、それが具体的な悪い行動につながると述べられているわけです。
実際ですね、悪い考えが浮かんでくることは避けられない、なかなかそれを完全にそこから自由になることは不可能と言えるかもしれません。
しかし手遅れになる前にそこから離れることです。
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例えばこのコロナ禍において多くの人はテレビやまたネットなどのメディアに触れることがあります。
特にネットメディアには様々な不健全な情報が氾濫しているわけですね。
その時に私たちがまず見るものや聞くものに気をつけること。
そしてあるいはですね、そこから始まったいろんな悪い考え、そういうものに気づいて、そういうものから離れること。
それがこのパウロの言うところの殺しなさい、切り捨てなさいということですね。
そのように、罪に誘う、憎なる部分を切り落とす、それがパウロのまた御言葉の明示でいることです。
2番目、次にその偶像礼拝との関係を見ていきましょう。
パウロは3章の5節で最後にこう述べていましたね。
鈍欲が偶像礼拝です。
鈍欲は偶像礼拝です。それはどういう意味か。
例えば当時のローマの宝飾です。
美味しいものを食べるために履き戻して、そしてまた美味しいものを食べるということをパーティーで繰り返していたような様子。
あるいは背筋主義ですね。
そしてこの性的代表、性的罪、性的堕落を代表するこれらの
むさぼりが、鈍欲が偶像礼拝だとパウロを言うんです。
実はある学者はこの偶像礼拝と性的な罪についてこのようなことを述べているんです。
ここにも述べましたが、掲げてありますが、こう述べています。
自分自身より大きい存在、神に使いようとする本能は人の魂に深く根付いており、生殖本能も人の根本に関わるからだ。
それが偶像礼拝と性的罪の関係がある理由だって言うんですね。
一方が、つまり神への礼拝が間違った方向に進むなら、もう一方も同じく誤る。
本能が根源的であるだけその歪曲は著しいと言っているんですね。
難しいのでこのように書いてみました。
つまり神様を礼拝することも、人が子孫を残そうとすることも
人間本来に備わっている最も基本的な欲求だということです。
その最も基本中の基本の神への欲求が間違った方向へ行くと、他の基本的な欲求も誤った方向へ向かうということなんですね。
ある学者はこう言います。
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神とは違うものに注目し、身を捧げること。
神とは違うものに注目し、それに身を捧げることが偶像礼拝である。
このように食べることも、金銭により生活の糧を得ることも、そしてもちろんこの性的な生活も、
誠の神様をそっちのけにしてしまうと偶像礼拝になるとパウルは警告しているわけです。
それでは最後の点ですね。
関係を壊す罪を捨てなさい。
ということです。
3番目の点は関係を壊す罪を捨てなさい。
パウルは今日見たところの後半で、教会の一致を壊す罪について語ります。
狭く言うと教会の一致を壊す罪ですが、広く言い換えると、
人間関係を壊す罪とか、怒りに関わる罪だと言うんですね。
今コロナ禍の中で人間関係がギスギスしていると、そして身近な人間関係が壊れるという、そういう話をよく聞きます。
慶長に値するパウルの言葉だと思いますが、具体的にこう書いていますね。
三章の八節から十節。
しかし今はこれらすべてを、すなわち怒り、生きどおり、悪意、罵り、あなた方の口から出るはずべき言葉を捨てなさい。
互いに偽りを言ってはいけません。
この一つ一つの言葉を少し詳しく見ていきます。
参考になればと思いますが、
このまず怒りですね。
怒り、それは憎しみで絶えず心をくすぶらせ、煮え立たせた状態です。
そしてこの生きどおりというのはですね、この怒りが言葉や行動に爆発した状態を指します。
この次に悪意ですね。
それは人を傷つけることを目的とした悪意です。
そんなつもりなかったんですって言いながらですね、
辛辣な言葉を投げかけたり、そういうことも含まれるかと思います。
罵り、これは言語ではですね、ブレスフェオマイという、神を冒涜するという意味の言葉です。
そこから転じて、この悪意を実際に表した言葉がこの罵りなんですけれども、
その背後には神様の形に作られた人間を罵る言葉、
そういう言葉によって実際また神を冒涜していることになるという意味があるんですね。
次に恥ずべき言葉、それは下品な連想や悪い企みによって語る人や聞く人を怪我す言葉です。
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下ネタなんかもそういうことになるかもしれませんね。
そして十節の互いに偽りを言ってはいけませんの偽り、
その偽りを言うとはですね、真実を曲げて見せかけを良くするために取り繕う言葉を言います。
なかなか厳しい指摘ですけれども、これらのことをパウロは捨て去りなさいと言っていますが、
なぜそういうか、私もそうなんですけれども、
実は私たちは考えなしにこのような怒りを抱いてそれを放っておいたり、
憤りを表現してしまうわけですね。考えなしに反射的に。
しかしそれらはイエス様とともに十字架についた古い人間です。古い自分です。
当然ですね、天国に行くまで私たちは聖火の途上にありますから、
完全にこれらの罪をやめることはできないかもしれません。
これらの悪意から自由になることはできないと思います。
しかしまずは今まで気づかずにやり過ごしていたこれらの思いや態度に、
この目を止めるということが大事ですね。
真実に目を止めると自由になるという心理学的な言葉もありますし、
イエス様も真理をあなた方を自由にすると言いますから、
自分のこの真実、やり過ごしていたこのネガティブな感情にきちんと目を止めるということが第一歩かと思います。
先ほども言いましたが、このコロナ禍において身近な人間関係が壊れていく例を耳にしますが、
手遅れになる前に私たちはこの態度に気づき、
神様に頼りながらそれを捨て去るということを御言葉は明示しているわけです。
私たちそれをですね、うちなる精霊に頼って、
これらの悪い性質を捨てる決意をするということも大事でしょう。
そしてまた、悪い思いに気づいたり、そういうものが表現されてしまった時にはですね、
何度も言いますが、イエス様の十字架によってこの自分の罪を贖われていることを神に感謝して、
うちなる精霊に私を変え続けてくださいと願うことも大事かと思います。
これらの今日見た御言葉は厳しいあるいは難しい言葉ですね。
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イエス様と共に死ぬ、それなりに死ぬ。
しかしパウルはこの続きにですね、新しい、生まれ変わった、
その新しく生まれ変わった人についてこの前向きな目標を掲げているんですね。
来週はそのイエス様と共に新しく生まれ変わった新しい人について学んでいきます。
その御言葉を最後に取り上げて、説教終わりにします。
朗読します。
互いに偽りを言ってはいけません。
あなた方は古い人を、
失礼しました。
互いに偽りを言ってはいけません。
あなた方は古い人をその行いと共に脱ぎ捨てて、新しい人を来たのです。
新しい人はそれを作られた方の形に従って新しくされ続け、真の知識に至ります。
コロサエビトへの手紙三章十節
お祈りしましょう。
天の父なる神様、
今日はこのような形でありますけれども、
共にあなたを礼拝し、
またその中であなたの御言葉に耳を傾けることができましたことを感謝いたします。
パウロのこの厳しい言葉の指摘、
私たちは心を探られまた、あるいはその弱い自分に気づくことがあるでしょう。
しかしどうかその中でまた、
イエス様の十字架を見上げつつ、
内なる精霊に頼りつつ、
これらの思いに死に、
またそれらを切り取り捨て去る決意をすることができますように、
どうか私たちを導いてください。
これらの願いと思いを、
私たちの救い主、
主イエス様の名前によって祈ります。
アーメン。
それではいつものように、
しばらく御言葉に応えてお祈りしましょう。
献金を捧げる時間はありませんけれども、
どうかそれぞれがお捧げくださいますよう、
その時間を取りましょう。
しばらく祈りましょう。
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