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それでは、ピレモンへの手紙、17節から20節を読みします。
「ですから、あなたが私を仲間のものだと思うなら、私を迎えるようにおねしもを迎えてください。
もし彼があなたに何か損害を与えたか、不才を負っているなら、その請求は私にしてください。
私パウロが自分の手で、私が償います。」と書いています。
あなたが、あなた自身のことで、私にもっと不才があることは言わないことにします。
そうです。兄弟よ、私は主にあって、あなたの行為に預かりたいのです。
私をキリストにあって、安心させてください。 以上です。
今日はこのところから、リフレッシュ、リフレッシュと題して御言葉を取り付けます。
皆さん、おはようございます。
北海道地方もですね、いわゆる慢望ではなくて、緊急事態宣言が出ています。
まさに先が見えない状況ですが、繰り返し述べてきましたが、このピレモンへの手紙は、福音の実践の手紙です。
言い換えると、私たちの日常生活や日常の礼拝において、どのように神様の愛、福音が実践されるか、
またそれらをどのように体験したりするのかということがテーマです。
まさに手がかりを得ることができます。
ですから今、この中において、非日常が日常となっていますけれども、
その中、この手紙に耳を傾けることに意味があるのかと思います。
今日も3つの点からお話をしますが、まず第一点。
神に受け入れられる。
それはどういうことか。
17節の御言葉、読める方は小さい声でいいですので、前を見て読んでください。
ですからあなたが私を仲間のものだと思うなら、私を迎えるようにおねしみを迎えてください。
このパウロとピレモンとトーボドレのおねしもとの関係がここに隠されているのですけれども、
次のことがわかるのです。
この3者の関係は、私たちが神様の前に食い改めて出る時に、
神様は私たちをあたかもイエス様のように歓迎してくださるということです。
だんだんわかりますから、とりあえず覚えておいてください。
何度も言いますが、パウロに対してピレモンは恩義があります、ある意味。
ですから当然ピレモンは、パウロがピレモンに訪れたら歓迎します。
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その様子と同じように、パウロの代わりにトーボドレのおねしもが行った場合に、
ピレモンに歓迎してほしいとパウロは願っているわけです。
この背景を説明します。
先ほども言いましたが、パウロもピレモンを救いに導きました。
そしてそのことが示唆されることが、
使徒の19章9節10節に書いてあるんですね。
読んでいます。
しかしある者たちが心を堅くなにして聞き入れず、
大衆の前でこの道のことを悪く言ったので、パウロは彼らから離れ。
これはですね、パウロがこのエペソの街で福音を伝えた時に、
いつも通りユダヤ人の街道でイエス様を明かししたらですね、
ユダヤ人たちが反対したという意味です。
ちょっとこれ見にくいんですけども、ここが陸地ですね。
これは旧トルコで、こっちが英語界で、
この第3次電動旅行の時かな、
エペソをパウロが訪れて選挙をした。
そして大衆の前で、当時のユダヤ人の教会のようなところで、
ユダヤ人がパウロを罵った。
そしてパウロは彼らから離れて、
そして弟子たち、手も手をはじめ彼らも鎮かせて、
毎日キラノの行動で論じた。
ここだけ読んでみましょうか。
これが2年続いたので、アジアに住む人々は皆、
ユダヤ人もギリシャ人も旬の言葉を聞いた。
この全てというのは誇張表現かもしれませんが、
2年間エペソにパウロが滞在して、
キラノの行動、ニーザー市民会館みたいなところです。
そういう大行動で、2年間福音を語ったので、
アジア地方の者、このアジア地方の者、
みんな誇張か知りませんけど、福音を聞いた。
そのアジアにコロサイ教会があるコロサイ、
ピレモンがいるコロサイも含まれている。
ここは大体いつも言いますが、
150、160キロで大事な港湾都市ですね。
今で言えば横浜でしょうか。
ですからよくここでは商売上の行き来がありましたので、
ピレモンもエペソでパウロに出会っていた可能性が非常に高いし、
そこでパウロを通してイエス様を信じたということがあり得るということです。
そういう2年間の中でピレモンがイエス様をパウロによって信じた。
ですからピレモンからすれば、
たとえ突然パウロがピレモンの元を訪れてきたとしても、
パウロをあたかも命の恩人がごとく、
またキリストにある身の親として歓迎するに違いない。
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その恩義や関係をもとにパウロはピレモンに対して、
私と同じようにこの逃亡奴隷の悔い改めたお主も、
歓迎してほしいとお願いしたわけですね。
ところでですね、皆さんはどうかわかりませんが、
私日曜の夜8時から大河ドラマを見ています。
今、渋沢栄一ですね。
この間の放送でこれに似た例があったんですね。
ここにありますけど、この吉沢良を演じる渋沢栄一と、
この甲羅慶吾を演じる渋沢貴作がですね、
徳川よしのぶの即婚、平岡縁代、
津泉なんとか、津泉信一を演じるですね、
この徳川よしのぶはちなみにスマップだった、
あの年出は名前出てきませんけど、草薙くんですね。
即婚がですね、2人にお見染めて、
俺たちの家臣になれって言ったんですね。
そして京都に呼びつけたんです。
でもこの2人はですね、幕府にも反発心を持っていたので、
幕府転覆の計らいを、
彼らの幼馴染の友達に手紙で送ったんです。
そしたらですね、その友達が捕まってしまって、
その手紙、彼らの食わたての手紙が幕府に行って、
それがこの平岡の耳に入ったんです。
その手紙の内容はですね、横浜焼き討ちの計画とかですね、
あるいは当時のいわゆる勤納の志士、
幕府を転覆させようと思っている輩を放棄させて、
幕府に歯向かおうという策略が入ってあったんです。
そういう手紙が彼の耳に入ったわけです。
そしてこれからこの二人は捕らえられたり、
お調べになるんじゃないかというところだったんです。
そのことを実はこの平岡が知って、
二人を呼びつけてどういうことだと。
で、実はその時ですね、この二人は、
吉野部の家来になるのか、
あるいはそのまま討伐を進めるのか迷っていたんですね。
でもこの英一は一切合切自分の書いたことの罪をですね、
告白してこんなこと書きました。申し訳ありません。
前に後ろにも進めなくなりました。
といわゆる土下座をして平岡の前に謝ったらですね、
この平岡はですね、よしわかった。
じゃあお前たちが腹を決めて吉野部に仕えるなら、
俺の家臣になるならば、
俺が幕府に取り入ってお前たちを無罪訪問にしてやるって江戸弁で言ったんです。
いやおそらくそうなるんでしょうね。
そういうことがですね、前回起こったわけです。
で、皆さんお察しの通り、この平岡英一郎がですね、あたかもイエス様。
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この渋沢英一があたかも罪を犯した、
神の前で罪を犯した私たちのような存在だって言うんですね。
で、このようにですね、どこの馬の骨かわからない深谷の田舎者がですね、
幕府、東幕府、桑田寺ってそんなもんですね、
ちょっと前だったらすぐ安政の大獄なんてありましたからすぐもう死罪です。
しかしこの平岡に免じて無罪訪問となった。
お神はですね、彼らではなくて平岡を見て、平岡を見て、
二人を無罪訪問としたように、私たちが神様の前に出る時に、
神様は私たち以上にイエス様のことをご覧になって、
私たちを、許し私たちをイエス様ごとく歓迎してくださるということなんですね。
皆さんですから、祈りの中で神の前に行く時にこう思ってください。
あ、私は神様から見たらイエス様のように、
イエス様がごとく今受け入れられているんだ、そういう確信を持って神の前に祈ってください。
パウロはその幸いについて、
失礼しました、パウロの前にイエス様の愛する弟子がこう書いています。
第一予犯認証一節、読める方は小さい声でいいので読んでみましょう。
私の子供たち、もし誰かが罪を犯したら、私たちには道の前で取り出してくださる方、義なるイエスケリストがおられます。
神様はイエス様の義を見て、私たちを許してくださる、歓迎してくださるわけです。
そしてパウロはこう言っています、ローマ八章三十四節、読める方は読んでみましょう。
誰が私たちを罪あるとするのですか?
死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるケリストイエスが、
神の右の座につき、しかも私たちのために取り出していてくださるのです。
このイエス様が今も取り出してくださるが故に、私たちの罪は許され、
そして私たちが神の前に出るときに、神様はイエス様ごとく私たちをウェルカムしてくださるわけですね。
そして私たちは魂に安らぎを得るわけです。
これが最初の点です。
第二のポイントを見ていきましょう。
イエス様は私たちのいかなる罪も担ってくださった、さらに深い愛と許しがあります。
ピレモンの十八十九節を読んでいますね。
もし彼があなたに何か損害を与えたか、不才を負っているなら、その請求は私にしてください。
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これを読んでみましょう。
私パウロが自分の手で私が償いますと書いています。
あなたがあなた自身のことで私にもっと不才があることは言わないことにします。
ここでもパウロとオネシモとピレモンの3人の関係が浮き彫りになっています。
ここには商業的な表現がなされています。
何か、ここは自分の手で私が償いますと書いているということです。
オネシモの借金をパウロは肩代わりします。
パウロの口座に振り返ってくださいという契約書を、パウロ自身が自筆でサインをしているということです。
そしてこのことから、私たちのイエス様にある恩義がわかります。
私たちが神様に支払うべき罪の不才を、神様がイエス様の口座に振り返ってくださったということです。
そして、もっと注目すべきことがあります。
実はこのオネシモの罪が何だかはっきりわからないということです。
いろんな説があって、一番有力なのは当時の奴隷がよく知っていた、お金や物を盗んだという説です。
そしてもう少し過激な説は、それと同時に、
強姦罪、強盗障害罪だった。
オネシモが誰かを怪我をさせて、お金を奪って逃げたということを言う学者もいます。
あるいはですね、パウロはここで何の罪か実際知らなかったという学者もいるんですね。
そしてそういうふうに、オネシモの不才の内容や犯罪の内容は特定できませんけれども、
パウロがここで言いたかったことを、ある学者がこうやって上手に表現しているんですね。
ちょっとこれを書いてあげます。
ピレモンよ、オネシモについてあなたが言う罪が彼の罪である。
そしてあなたが弁裁してほしいと思うものは、何でも言う通りに私が償いますと言っているのです。
借金とは違うんですけれども、パウロがですね、あなたのいいねで私は支払いますと言っているようなものなんですね。
これはすごいことです。
それはどういうことかというと、実は私たちも自分の罪を神様に告白して悔い改めるかもしれませんが、
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自分の罪、神様がご存知の罪を私たちはどうあがいても知り得ないんですね。
それへ紙編の51編や32編にもありますけれども、あなたが宣告するときそれは正しいとありますが、
神様が罪だというものが私たちにとっての罪であり、神への夫妻なんですね。
しかし私たちはそれが何か知り得ません。
知り得ないと許しの確信がなく、平安や心の安らぎがないかもしれませんが、
しかしイエス様は神様に対してこう言ってくださっているわけですね。
ここに書いてあります。
父なる神様、あなたが言う罪が彼の罪、彼女の罪であり、
あなたが弁裁してほしいと思うものは何でも言う通り私が償います。
十字架の上で全て償いました。
それがイエス様の贖いだということなんです。
ぜひ皆さん、自分の罪に苦しむとき、わからずに苦しむときに、
あるいは神の前に出るときに、このイエス様の態度というか覚悟を思い出してください。
神が罪というものが全部私たちの罪です。
しかしそれをすべてイエス様は引き受けてくださった。
これが福音ですね。
ですから私たちは自分の罪を詮索する必要はないんです。
告白していない罪があるとか、わからない罪があるといって怯える必要はないんですね。
このイエス様の深い贖いや、神の前でのイエス様のこの覚悟、
弟子のペテロはよく知っていると思うんですね。
彼はイエス様に言われましたけど否定して、
あなたのことを知らないなんて言いませんと言ったのにもかかわらず、
3回もイエス様を知らないと言ったんです。
そのペテロは後に手紙の中でこう告白しているんですね。
第1ペテロ2章24節、読める方一緒に読んでみましょう。
キリストは自ら十字架の上で私たちの罪をその身に追われた。
その打ち傷の上にあなた方は癒された。
第1ペテロ2章24節
ペテロはまさに知らないと言ったその時にイエス様が無知打たれる姿を見ていました。
そして自分がイエス様を知らないと言って泣き崩れました。
しかし後にイエス様に許しの宣言、また使徒としての期待を告げられてですね、
やがて彼はですね、そのことを思い出して、
イエス様の打ち傷の上にあなた方も私も癒されたと告白しているわけです。
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このイエス様の広く深い許しをする時に私たちの心は安らぎを得て新たな力を受けます。
最後にリフレッシュその新たな力を受けるということをもう少し詳しく見てみましょう。
20節でパウロはこう言っていますね。
読めるかで読んでみましょう。
3、はい。
そうです、兄弟よ、私は主にあってあなたの行為に預かりたいのです。
私をキリストにあって安心させてください。
ここでパウロはピネモンが願い通りに逃亡奴隷のおねしみを受け入れる。
それによって獄中のパウロを安心させてほしいと願っているわけですね。
この安心させてくださいという言葉は同じピネモンの7節でも使われています。
そして新海約聖書の前の訳では力づけるとか元気づけるという訳されていますね。
そしてある英語の聖書の箇所ではリフレッシュと訳しているんですね。
リフレッシュマイハートとある英語の訳で言っているんです。
ここで共通しているのはパウロもピネモンの教会の人々も
ピネモンの親切さやその行為を経験することによって平安や新しい力を得る、リフレッシュできる。
そういうことが背景にあります。
これまでずっと見てきましたが私たちはイエス様にあって神様の前で受け入れられていますね。
根拠もしっかりしています。
ですから私たちが神様の前に出る時にしっかり許されていることを知りますから
私たちも平安や新しい力を得てリフレッシュすることができるわけですね。
仕事で失敗しちゃった。
罪じゃないけどね。
あんなこと言わなきゃよかったって私は後悔することがあるんですけど
その時本当に神の前で罪のことは告白しますけど
後悔も神にあらゆる告白をして
まさに神に受け入れられていることを確信してリフレッシュされるんですけれども
このですね神の前でリフレッシュされるっていうのは日々のお祈りだけじゃなくて
実は日曜の礼拝でもそうだって言うんですね。
この礼拝というのは
みんなで集まる礼拝というのは私たちが神の前に出て
神様に会って喜ぶ時
イエス様に会ってリフレッシュされる時だって言うんです。
ある信学者はこのように表現しているんですね。
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ちょっと読んでみますね。前に書きました。
日曜ごとの礼拝は小さな復活祭であり
私たちが週イエスと共に死んで復活する時です。
毎週日曜日が復活祭いわゆるイースターの日曜日なのです。
ちょっと読んでみましょうか。
私たちは復活の日である日曜に礼拝することによって
私たちをそして全てのものを新しくしてくださったキリストに感謝を捧げ
その恩恵を受けているのです。
日曜の礼拝はそういう時だ。
イエス様と共に蘇らされている。リフレッシュされている。
そういう時だとこれからも考えてください。
その中にはイエス様に感謝を捧げるということもあります。
実はこの礼拝での感謝ということが喜びをもたらすと
この学習は続けてこう言っているのです。
ちょっと難しいのですが読んでみましょう。
教育や才能や食物のこと
そのような基本的で現実的なこと
日常的なことのために神様に感謝すること
神様を褒めたたえること
それが礼拝に喜びをもたらす。
私たちはですね
あまりにも日常のことに慣れきっていますけれども
食べられることとか
家族がいることとか仕事があることとか
そういうことを本当に日常的なことを
神様に感謝する時に喜びが湧いてくるというのです。
リフレッシュされるというのです。
すべてのものを復活のイエス様によって新しくされたということを
新しく知ることができるというのです。
このように一週間
日曜から月曜まで
礼拝において
日々の生活において
私たちは
この神に受け入れられ力を与えられている幸いを感謝して
そして喜びが与えられ
リフレッシュされ
歩んでいくことができるということですね。
最後にこの
よみがえらされイエス様に許されているという幸いを
コロサエビトの手紙の中でパールを書いた
この一言を見て終わりにしたいと思います。
読める方
小さい声でもいいので読んでみましょう。
コロサエ2章13、14です。
3、はい。
そむきのうちにあり
また肉のかつれいがなく
死んだものであったあなた方を
私はキリストとともに生かしてくださいました。
私たちのすべてのそむきをゆるし
私たちに不利なさまざまな規定で
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私たちを責めたっている債務証書を無効にし
それを十字架に釘付けにして
取り除いてくださいました。
お祈りしましょう。
天の神様
皆を賛美いたします。
ピレモンがパールのゆえに
逃亡奴隷のおねしもを受け入れ歓迎したように
あなたはイエス様のゆえに私たちを歓迎し
罪なきものとしてくださっていることを感謝いたします。
その上で日々の歩みの中で
たくさんの良きものを備え
与えてくださっていることをありがとうございます。
どうぞこのイエス様にある深く広い罪のゆるし
また多くのあなたからの祝福
何よりもあなたに歓迎され
愛され受け入れられている
その幸いの深さ広さ長さ高さ喜びを
どうぞ私たちが日々の生活の中で
祈りの中でまた礼拝の中で
知ることができますように
そして感謝と喜びをもってまた
あなたにお答えすることができるよう
どうか導いてください。
そのような姿がどうぞ無言の証となり
人々はあなたの心に向けることができるように
私たちをお持ちください。
この願いと感謝を私たちの救い主
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
どうぞしばらく1分ほど
それぞれが神様にお答えして
お祈りする時間をとりましょう。