2021-05-09 25:52

#54 21/5/9 つらい時には

ピレモン13-16節からの礼拝説教。2021年5月9日録音。キリスト者であることを逆手に取られることがないように、またキリスト者同士の関係の祝福を知るために、さらにコロナ禍を始め私たちに起こる悪しきことを受けとめることができるように、パウロの短い手紙から学んでみましょう。
00:06
13節から16節を読みします。
しばらくの間、あなたから話されたのは、おそらく、あなたが永久に彼を取り戻すためであったのでしょう。
もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。
特に私にとって、愛する兄弟ですが、あなたにとっては、肉においても、種にあっても、なおのこと、そうではありませんか。
以上です。今日はこのところから、つらい時には、と題しての言葉を読みます。
皆さん、おはようございます。ゴールデンウィークがありまして、ある方は少ないと思いますけれども、まだ勉強中という方もいらっしゃるかもしれません。
最後の休みという方もいらっしゃるかもしれません。
何よともあれ、緊急事態宣言、私たちの身近なところですと、東京に出されていました、その宣言が、今月いっぱい延長されて、
そして、そのコロナ禍において、なかなか先が見えないということが、ずっと続いています。
そんな中、私たちは、コロナ禍の状況においても、また、自分の生活や人生においても、何でこんなことが起こるのかということが、降りかかってくることがあります。
その点を、クリスチャンとして考える上で、そしてまた、それと前後しまして、人間関係、クリスチャンという名のもとに、それを健全に生きるため、その点をですね、今日の箇所から3つのポイントで学んでいきます。
その前に、この手紙の背景をもう一度おさらいしますが、いつも出しています、ここにある地図のように、
この永劫海沿岸のおそらくエペソ、ある説によればローマでパウロは投獄されていました。
その間に、このコロサイから逃げてきた、主人ピレモンのもとから盗みを働いて逃げてきたオネシモとエペソの獄中でパウロは出会い、オネシモはここで戒心したわけです。
だいたい105、160キロですね。そしてテキコという人に託して、テモテとパウロのもとからですね、コロサイ人の手紙が届けられ、またコロサイ人の手紙と一緒にですね、コロサイの教会にも出入りしていたピレモン、
03:11
彼もまた自分の家で奴隷を抱えるほど大きな家でしたから、教会をやっていた、そんな感じでいいんですけれども、そのピレモンにこの手紙を書いたわけですね。
短い手紙ですが、真香のエッセンスがギュッと詰まったところです。今日の数節でもそれが伺えます。今日の箇所の要約はですね、この獄中において戒心したピレモン、オネシモをパウロは最初手持てのように自分の弟子としてですね、手持てのように手元において、
そして獄中で仕えてもらおう、そうやって福音の働きに従事させよう、それは強いてはピレモンというパウロにも追い目がある、ピレモンに代わって奴隷のオネシモがパウロに仕えることになるから良いと思ったんですね。
でも考えを改めて、ピレモンの自発性に任せようと思って、そういう強制できる立場にあったにも関わらず、パウロはオネシモを送り返すということ、そしてその手紙を添えたということですね。
そしてオネシモをですね、許してあげてくださいと、そして奴隷として働かせてあげるだけじゃなくて、それ以上に兄弟として、神にある家族として受け入れてくださいということが今日の御言葉の箇所の要約です。
では内容を見ていきます。3点のうちの最初の点。キリスト信仰を悪用し、悪しきことを強要されないとかしないという、そういうことをまず最初見ていきましょう。
13節14節ここに書きましたが、ちょっと長いですが復讐のために読んでみましょうか。
私は彼を私のもとに留めておき、極中にいる間、復讐のためにあなたに代わって私に仕えてもらおうと思いました。しかしあなたの同意なしには何も行いたくありませんでした。それはあなたの親切が強いられたものではなく、自発的なものとなるためです。
背景でも説明しましたが、ここにパウロは書いています。先ほど少し触れましたが、パウロは当時の奴隷制度の正当的な手順をもって、お値下をピレモンのもとに返したのです。
そしてその同じ正当的な手順を踏んで、もし主人のピレモンが望むなら、彼が正当的な手順で奴隷のお値下を解放して、解放奴隷というのが当時ありました。
そして自由の身にして、ピレモンがお値下をパウロのもとにもう一度送り返して、ピレモンの合意のもと、お値下がパウロに仕えるようにということを願ったわけです。
06:13
前も話しましたが、先々週だと思いますが、自発的に自分で決めるという、そういう自発性をパウロはきちんとピレモンを尊重した上で、このことを進めようとされたわけですね。
そして何かも言いますが、当時のローマの奴隷制度にきちんと基づいて手順を踏んだわけです。
このことを理解するために、あえて逆説的な言い方をしますと、こうなるんですね。
パウロが、自分の人的な権威を振りかざしたり、あるいはクリスチャン同士という、そういう口実に甘えて、ピレモンの許可なしにお値下を自分の手元に置いておくこともできないことがなかったわけなんですね。
そういう信仰を悪用して、あるいは自分の人的権威を振りかざすこともパウロはできたわけです。奴隷制度のルールを破るということもできたわけです。
しかし、さらにもっと分かりやすく言いますと、極端な言い方をしますと、こういうふうに要求することもできたわけですね。
前にも記載しましたが、
「使徒である私の言うことを聞きなさい、ピレモンさん。私によって返信したオネシモは、もはや私の子、私の下辺なので、あなたの元には返しません。
しかも彼、オネシモは、福音宣教という大事な働きのために、私のために使えるのですから。」
こういう使徒的な権威を振りかざして、そしてクリスチャン同士の良しみのような甘えというか、ことを根拠に制度破りの要求をすることもできないこともなかったわけです。
ではここから、今の私たちどう考えたらいいんでしょうか。
実はですね、クリスチャン生活を長くやってなくてもですね、仕事上やプライベートで知り合った方がクリスチャンだということがわかる場合があります。
で、そういう方々の中には、クリスチャン同士だからという理由で、私たちに無理な要求をする場合がないとも言えないんですね。
あるいは、未信者の方であっても、あなたクリスチャンなんでしょ?だったら犠牲払うのは当然じゃないですか。
キリストを見習いなさいなんてことを言ってですね、例えばお金を無視にするとかですね、あるいは商売上無理なディスカウントを要求したり、あるいはですね、上司の立場の人は無理な労働を課すかもしれません。
しかしそのような要求があっても断るべきです。
09:03
あんまりシリアスな例じゃなくてですね、15年ほどぐらい前にこんなことがね、私あったんです。あんまりシリアスじゃないか言えるんですけど、
私あるお店であるものを見つけたんですね、あえて言いません。
で、まあそれ通常500円ぐらいか300円ぐらいで売ってるのが1000円で売ってたんです。でも私の目から見たらもっと高く売れるはずだと思ったから、それ1000円で買いました。
そしてそれの価値を知っているお店に持って行って、まあもっと高く売れるかなと思いましたけども、5000円で売れたんですよ。
で、良かったと思って、当時5000円でメガネ買えたんで、そのお金でメガネをね、買いに行った覚えがあります。
で、その話をですね、あのメガネを作る時、いろいろ時間がかかりますよね。
で、自分がクリスチャンであり牧師であった話から、そういう話をしてお金作りましたって言ったらですね、「え?牧師さんがそんなことするんですか?」って言ったんですよ。
え?意味がわからない。サンドイッチマンじゃないけど、ちょっと何言うのかわからない。
だからすごく身近な例で、当たり障りない例ですけど、そういうクリスチャンであるから金儲けしちゃいけないとか、そういうことを言うかもしれません。
ちなみにですね、後で私が売ったものをそこのお店のホームページで見たら、私1000円で買って5000円で売りました。
そのお店で23000円で売ってたんですね。
だから見かけめきで良かったなと思ったんですけど、もうちょっと多分買ってほしかったなとかいろいろ思いました。
何やともあれ、今のは本当に寂しさわりない例ですけども、皆さんに信仰という理由で教会外の人がそうやってですね、無理な要求することがあるかもしれませんが、そういう辛い目に遭った時はですね、はっきり断ることができます。
パウロはですね、このピレモンに対してピレモンの自主性を尊重して、当時の奴隷制度のルールをしっかり守った上で無理な要求はしなかったということですね。
何回も言いますけども、私たちはキリスト信仰を理由に私たちの自発性を踏みにじるような辛い要求に応える必要はないんですね。
本当に困ったらですね、私に相談してくださっても結構ですし、教会の兄弟姉妹に相談しても結構ですけども、基本的にはそういうことです。
今あえて否定的な話になりましたけども、そうは言うものの、やはりクリスチャン同士の関係には特別な結びつきがあるわけです。それが次の点ですね、2番目。
クリスチャンというのは、永遠の兄弟姉妹としての幸いを得ているということです。
長くなりますけども、15、16節、15だけ読んでみましょう。
3、おねしもがしばらくの間、あなたから話されたのは、おそらくあなたが永久に彼を取り戻すためであったのでしょう。
12:09
ここから全部読みましょうか、3、もはや奴隷としてではなく奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。
特に私にとって愛する兄弟ですが、あなたにとっては、肉においても種にあっても、なおのことそうではありませんか。
後でも見ますけれども、この後のところでパウロは、クリスチャン同士の兄弟姉妹の特別な関係として、罰を与えることなく、おねしもを許して受け入れなさいと言っています。
あなたもキリストに許されたのですからという根拠です。
そういう意味では、超法規的な要求もされるわけですね。法的に罰することをしない。
それは置いておきまして、おねしもは許されたとしてもピレモンにとっては職務上、制度上まだ奴隷だったんです。
でもパウロは今や愛すべき主にある兄弟となったと言うんですね。
そしてパウロがそうであればあなたはなおさらですと言いました。
つまりパウロにとっては、ついこの間まで赤の他人であって、ご口で知り合ったに過ぎないおねしもが、尊い愛する兄弟になったのであれば、なおのこと同じ彼の下でロークを共にしたピレモンさん、あなたにとって彼はクリスチャンになったのであれば、愛する兄弟という喜びを覚えませんか、そういうアピールをしているわけですね。
さらにこの肉においても種においてもという表現も大事です。
この肉においても種にあってもという表現、これはですね、ここにも書きましたけれども、肉においてもというのはですね、神様のこととは関係ない単なる人間同士の関係という意味なんですね、肉というのは。
それと対照的に種にあってもの種にあってというのは、最も大事なキリストにある救いの経験の共有や、誠の神様を知っている者同士という何もとにもかえがたい結びつきがあるとか、さらには、
さっき御言葉にはありましたが、永久に取り戻すとあったように、この地上の生涯を終えても、いつまでも続く神様にある巨大関係というものが含まれているんですね。
先ほどキリスト社の関係においての注意点に触れましたが、やはり健全なクリスチャン同士の関係というのは、深いものがあり励ましがあります。
そしてつらい時にも、お互い神様にあって励まし慰め合える関係が種にある兄弟姉妹の幸いです。
15:06
仕事上の知り合いとか家族関係などもですね、皆さんもこれからもそういう種にある兄弟姉妹に出会うことがあるかもしれません。
いろんな私もありましたけど、例えばですね、今日の午後もありますけど、がん哲学外来カフェ、クリスチャンでない方からたくさん医療者も含めて関わっていますが、
主催者の日野沖夫先生はクリスチャンなんですね。だからそのやっぱり彼の根底にある考えとか、そういうものに触れてよくわかることがあります。
ある都内の有名なキリスト教系の病院で働いているお医者さんが言ってたんですけども、その方はクリスチャンで洗礼を受けていました。
でも言えませんね、仕事を。いくら病院がキリスト教でも、西流科国際病院とかね。
だけども患者さんが私クリスチャンです、祈ってますって言った時に限って、私もクリスチャンですよって言ってあげると、すごく励まされるって言うんですよね。
地獄に仏じゃないですけども。
そういうふうに、がん手伝い会いのカフェでもですね、がんの患者さんの中で、本当に神様に会って癒されましたとかですね、励まされましたっていう話を聞くとですね、
祈りましたって話を聞くと、自分もクリスチャンとして深いところで神様に救い求めたこともありますから、やはり深い結びつきを覚えるわけです。
このようにですね、皆さんも教会の外でクリスチャンの兄弟姉妹と出会ってですね、お互いの立場が男性、女性、仕事の上司、部下に乗り越えて、お互いを認め合って受け入れ合っていく。
辛い時に支え合っていく。そんな出会いをこれから体験していくことができるわけです。その幸いを神に感謝しましょう。
最後の点ですね。
ちょっと難しい言葉ですが、3番。ここにありますが、神の説理を知り、神様に信頼するということです。
先ほど読みましたが、もう一度15節大事なので、一緒に読んでみましょうか。
おねしもがしばらくの間、あなたから離されたのは、おそらくあなたが永久に彼を取り戻すためであったのでしょう。
ここでどういうことをパールは言っているのか。これはですね、人生における試練や苦難と関わりがある、神の説理ということです。
ぜひ神の説理という教理を覚えてください。神の説理。
ここに言われている信仰的な背景を説明しますと、
おねしもは何度も言いますが、娘を働いた逃亡奴隷でしたね。
そして一時的にペレモンの元を逃げて離れていきました。
ここで言っています。しばらくの間あなたから離されたという通りですね。
しかしおねしもが国中でパウロによってイエス様を信じて救われたゆえに、
18:01
クリスチャンであった主人のペレモンと同様にこの逃亡奴隷の盗みを働いたおねしもも
戒心してクリスチャンになって、
二人共々兄弟となり、神の前で永遠に生きるものになったということなんですね。
ここでさっきも言ったかもしれませんが、十五節の対比。
しばらくの間あなたから離されたのはおそらくあなたが
永久に彼を取り戻すためであったでしょうと言われています。
神の説理を考えて言い直すとこうなりますね。
おねしもが盗みを働いたことは確かに主人のペレモンにとっては悪しきことであった。
しかし神さんはそのことをさえおねしもの戒心という良いことのためにお持ちになられたということです。
実はこのようなことは私たちの人生でも既に起こっていますね。
私たちにとって一見つらいことや悪しきことが降りかかります。
イエス様を信じる前はもちろん、イエス様を信じた後でさえも。
しかし神様はそのことをさえ良いことのためにお持ちになられるんですね。
でもこれはですね、つらいことをしても無理して感謝しなさいということじゃないんです。
バカにするわけじゃないですけれども、つらいことがあっても何でも自動的に晴れるやっていなさいというね、そういう教える方もいたようなんです。
そういうことじゃないんですね。
つらいときはつらいということを正直に祈りの中でイエス様を打ち明けましょう。
イエス様だって十字架にかかる前にかかりたくありませんと言って血の涙を流して祈られましたよね。
どうしてこういうことが起こるんですかということを素直に祈ってみてください。それは良いことです。
と同時にこのような神様の摂理の約束があることを心に留めてください。
これらの約束は私たちの力になり苦しみの時の希望になるわけです。
ここにもありますね。
このような約束は私たちの力になる摂理の約束が力になり苦しみの時には希望になり、そして試練を乗り越えた時の神様への感謝となるんですね。
ある神学者がこう言っています。イギリスのアリスター・マック・グラスというオクスフォードの神学者ですけれども、
こう言っています。読める方読んでみましょうか。
キリスト社はたとえ今起こっていることを完全に理解できなくとも、神が自分たちのために全てを良しとするように働いていることを確信して良いと言っているんですね。
21:01
旧約聖書の中にヨセフ物語というのがあって、この摂理のことを表す有名な物語があります。
皆さんもお世紀の40章くらいから読んでみていただきたいんですが、
簡単に言うとヨセフは10人兄弟の末っ子でしたが兄たちに妬まれた。
末っ子って親に出来合いされるんですね。特別な着物を着て、そうじゃないという末っ子もいますけれども、特別な着物を着せられたりして。
10人の兄たちは妬んで、簡単に言うと彼を死んだことにして、エジプトの奴隷商人に売り飛ばしてしまったんですね。
売り飛ばされた先でも誤解されて、牢に入れられて忘れられて2年間、牢に閉じ込められたままでした。
簡単に言いますと、その後、エジプトの王ファラオが彼の能力を見据えて、彼をエジプトの第2番目の地にまで引き上げました。
そしてエジプトをはじめ世界で起こった7年間の貴金の時に彼がその場を引き入って、世界中を生かした。
そしてその中に、彼を売り飛ばした兄たちや父たちも含まれていたわけです。
兄と父たちは貴金の中、食べ物を求めてエジプトに下って行って、このヨセフと再会します。
驚きを持って再会するんですが、ヨセフの正体を知った兄たちはですね、
エジプトのナンバー2になったこのヨセフが自分を仕返しするんじゃないかと怖くなって、涙ながらにヨセフの前にひれ伏していたんです。
申し訳ありません。許してください。
その涙ながらに謝罪通、兄たちを見てヨセフも涙を流して、こういう風に信仰告白をしたわけです。
有名な言葉、創世紀50章20節ですね。読める方読んでみましょう。
ヨセフの告白3、あなた方は私に悪を諮りましたが、神はそれを良いことのための諮りとして下さいました。
それは今日のように多くの人が生かされるためだったのです。
この神の説理によって見事にヨセフも救われ、ヨセフの兄弟も救われ、
そして実はイスラエル民族が救われて、今イエス様にまで繋がって、私たちに繋がっているわけです。
この神の説理について、多くの苦難を受けたパウロもローマ人の手紙の中でこう述べています。
その御言葉を共に読んで終わりにしたいと思います。
ローマ8章の28節、皆さんのレジュメの一番最後の2行に書いてありますので、読める方はレジュメから読んでみましょう。
24:03
神を愛する人たち、すなわち神のご計画に従って見された人たちのためには、
全てのことが共に働いて益となることを私たちは知っています。
ローマ8章28節、先ほどの信学者の言葉もこの御言葉を受けて述べた言説ですけれども、
このような辛い時にも神の説理を信じて、また説理の神様を信頼して、
祈りのうちにまた互いに励まし合って歩んでいくお互いでありましょう。お祈りします。
天の神様、皆を賛美いたします。
コロナの状況がなかなか抜け切れない、様々な不安、不条理が行き交うような今の時世です。
私たちのまた生活の中におきましても、私たちの力で抗うことができない試練が降りかかることがあります。
しかし、その背後にあなたの深い説理があることを信じ、あなたに求めてまいります。
どうぞ辛い時にあなたにある慰めを、また主にある兄弟姉妹からの励ましを私たちに主がもたらしてくださり、
私たちもそのようなあなたの慰め、励ましを分かち合うものとされますように。
言い尽くせない思いがありますけれども、これらの思いを私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それではしばらく一分ほど、御言葉に応答して主にお祈りしましょう。
25:52

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