2021-05-02 24:23

#53 21/5/2 赦しと恵みと愛

ピレモンへの手紙11-12節からの礼拝メッセージ。2021年5月2日録音。コロナ禍の先が見えない今こそ、もう一度神様の圧倒的な愛について知り、私たちの支えとしましょう。贖いの圧倒的な恵み、備えられている良い行い、「愛する子」とされた無条件の愛についてのお話しです。
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新約聖書、ピレモンへの手紙、11節、12節、新開約聖書2017年の版でお読みします。
彼は以前はあなたにとって役に立たないものでしたが、今はあなたにとっても私にとっても役に立つものとなっています。
そのおねしもをあなたのもとに送り返します。 彼は私の心そのものです。
以上です。 今日はこのところから、
赦しと恵みと愛と題して、御言葉を取り継ぎます。 皆さんおはようございます。
ゴールデンウィーク最初の日曜となりました。 人によっては12連休という方もいらっしゃいますし、
いわゆる旗火でも仕事をしている方もいらっしゃいます。 しかし新型コロナウイルスの影響でなかなか外出ももならない方も多いかと思います。
そういうコロナ禍がいつ終わりを遂げるかわからない中で、 今日もですね、また今こそ神様の恵みと愛というものをじっくり味わいたいと思います。
準備していて、私も改めて神様の愛の深さというものを覚え、感動しました。
このピレモンへの手紙は新約聖書で一番短い手紙ですね。 そして今日朗読した短い2節の中にも、ぎっしりと福音の恵みが凝縮されています。
そんなことの前に背景をですね、少しおさらいしましょう。 この地図も出しましたけれども、おそらくこの時パウロは
今のトルコですね、これ英語界ですけど、アジアのエペソあるいはローマに
投獄されていたのではないか。 私はとりあえずエペソに投獄されていた前提で話を進めてますけれども、そこからコロサイビトへの手紙を書き、
またそれと一緒にですね、ピリピビトへの手紙を託して届けた。
そしてこのピレモンはコロサイ地域の指導者の一人であって、裕福な家の人で、奴隷をいっぱい雇っていましたけど、そのうちの一人がこのオネシモという人です。
そしてこのオネシモ、彼はですね、 オネシモという名前はですね、元々の言葉ではですね
役に立つものという意味があるんです。 オネシモという役に立つという言葉から発生した名前で、当時一般的にですね、奴隷につけられていた名前で
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そういうふうに役立つものになってほしいという願いが込められたり、実際役に立つ下辺として名前を与えられた人もいたようです。
しかし彼はですね、ここの手紙の背景にある通り、
ピレモンのものを盗んで逃げていってしまった。 そしてその逃げた先、あるいは捕らえられた先の獄中でパウロと会ったわけです。
そういういわゆる犯罪歴があったからですね、 今日の御言葉にあるように、
以前は名前に反してピレモンさん、あなたにとっては彼は役に立たないものでしたと、 そのようにパウロは今日のところで書いているわけです。
そしてその中、彼は盗獄先でパウロの手によって戒心へと導かれたわけです。
先週見た10節でパウロは彼のことをですね、 獄中で産んだオネシモと言ってですね、
パウロを通して獄中でオネシモが戒心したことを告げているわけです。
今日はこのパウロとオネシモの関係をもとに、 神様の愛について3つの点から学んでみましょう。
オネシモをですね、パウロがピレモンのもとに送り返すこの取り出しの手紙から、
パウロとオネシモの関係から神の愛について3つの点から学びます。 まず最初の点、
罪が贖われて許されている 圧倒的な恵みということを注目しましょう。
実はパウロがローマの犯罪者である逃亡奴隷、盗みを図ったオネシモをかばうというのは、
一つの重大事件だったんです、ローマの法の中で。 そういうセンセーショナルなこともあるんですけども、
そんな中でパウロは、 彼の犯罪の償いを彼に代わって主人のピレモンに払うとさえ言っています。
前に掲示しましたが、 この先の18節で彼はこう言っています。
オネシモの罪に対して主人のピレモンにパウロはこう書いています。 ちょっと読めるか、ちっちゃい声で読んでみましょう。
もし彼があなたに何か損害を与えたか、不才を負っているなら、 その請求は私にしてください。
私につけといてという気まいの良い上司が怒ったじゃなくて、 犯罪の償いを私がすると言っているわけです。
実は先週見た通り、このパウロの愛というのは、 神様の私たちの愛を表しているとさえ言えるんですね。
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まさにこのオネシモはイエス様にあって、 戒心した私たちと見ることができます。
このパウロの申し出、 オネシモの不才を償うというパウロの申し出は、
私たちのために十字架で罪を償うために死んでくださった イエス様の代償行為そのものですね。
私たちは神様に対しても人に対しても罪を犯してしまいます。
そして私たちは当然、人には償えるかもしれませんが、 神様に対して自分の罪を償いきえないわけですよね。
さらに盗みが働いたオネシモと違って、 私たちの罪の問題の方が深刻かもしれません。
まあ、もしかしたら悪いとしてオネシモは盗んだかもしれませんし、 盗んだ後も後悔したかもしれませんが、
私たちは悪いと思ってもやめられなかったり、 正しいと思ってもできないという、
そういうところが私たちの肉の性質、罪の問題、 複雑な深刻な問題と言えるかもしれません。
このような罪の現実が私たちの前に横たわっています。
しかし、そんな私たちを神様はイエス様にあって 許してくださったわけですね。
このイエス様にある神様の恵みの行為について、 パウロはロボビートの手紙の中でこう記しています。
前に抜きましたが、5章の15節から16節。 ちょっと読める方は長いですけど、小さい声でいいので読んでみましょう。
もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、 神の恵みと一人の人、イエスキリストの恵みによる賜物は、
なお一層多くの人に満ち溢れるのです。 裁きの場合は一つの違反から不義に定められましたが、
恵みの場合は多くの違反が義と認められるからです。
ローマ語の15から16。 イエス様の十字架の恵みというのは、私たちの多くの違反が、
神の前で義と認められるということなんですね。 お値下の場合は一つの
この窃盗という犯罪が償われただけかもしれませんが、 私たちにとっては神様に対する多くの罪、
すべての罪が イエス様によって
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贖われて 義と認められたという、それが大きいんですね。
実は ある学者がですね、この大きな神様の愛について
こう言ってるんですね。 この神様の恵みを知った時に
私たちは 存在が脅かされさえもして打ちのめされるって言うんです。
神の恵みを知ると私たちは自分が何もできないことを知って 脅かされ打ちのめされるって言うんですね。
そのことをですね、 彼はこういう文章で表現しています。
ちょっと難しいかもしれませんが、読んでみましょうか。黒い部分。
神の恵みの中にいるために、始めにも終わりにも、 あなたがしなければならないことは何もない。
あなたがしなければならないことは何もない。 あなたがしなければならないことは本当に何もない。
これはですね、 新学者なんだけど作家なんですね。だからこういう強調しています。
神の恵みの中にいるために、始めにも終わりにもしなければならないことは何もない。
あなたがしなければならないことは何もない。 あなたがしなければならないことは本当に何もない。
しつこく3回目です。 私たちもし罪がやめられなかったとしても、
神の恵みに留まるために私たちができることは 本当に何もないんです。
唯一できることは、 ありがとうと言って、それを受け入れることです。
生き物ばかりのありがとうって歌ありますけどね。 ありがとうって受け入れること。
ある学者はですね、このように 神に受け入られていることを受け入れるって言うんです。
無条件で神に受け入られているっていうことを受け入れる。 ただほど高いものはないって言うけども、
本当なんです。 そしてしかも何もできることないと言われるとプライドがくすぐられてですね、
そんなことあるか?って反駁したくなるんですけども、 いや何もない。
何もない。受け入れるだけ。 それがですねまず第一、罪があがりながら許されている
圧倒的な恵みということですね。
2番目、そんな私たちは 役立つものとされ、良い行いが備えられているという希望があるということなんです。
今日読んだ歌詞をもう一回おさらいで読みますが、11節。 前にありますので読める方は小さい声でいいですから読んでみましょう。
3、はい。 彼は以前はあなたにとって役に立たないものでしたが、
12:00
今はあなたにとっても私にとっても役に立つものとなっています。 このパウロはですね、役に立つという言葉を使って
言葉遊びをしているんです。オネシモという名前は役に立つという言葉が元になっているんですけど、別のギリシャ語を使って役に立つというギリシャ語を使って言葉遊びをしています。
そしてですね、この同じ言葉のようなものを使いながら、会心したオネシモの転身を強調しているんですね。
ちょっと難しいかもしれませんが、役に立たないという言葉はギリシャ語でアクレーストンと言うんです。 役立つというのはエウカレーストンと言うんです。
ストンストンストンと語尾が続いているように、言葉遊びをして
このオネシモの会心と転身をですね
強調しています。 ちなみにこのエウというのはですね
ユアンゲリオン、福音のエウで良いという意味とか非常にという意味があるんです。 だから役立たずの犯罪人のオネシモは今は
非常に役に立つ良いものになったって言ってるんですね。 考えてみるとですね、盗みを働いた犯罪者にパウロは
太古版推薦書を出している、その被害者に対して。 これですね、さらっと読むとどうでもないように思いますけど自分のことを考えてください。
もし皆さんの雇い主になって、皆さんの雇い人が皆さんの家から何か盗んで逃げていったら
いくらその人が戒心したからといっても、その人をやすやすと家にもう一回迎え入れて雇うことができるでしょうか。
すごいですね、衝撃的なことを実はパウロは言っています。 しかも役立つものだと推薦しているんですね。
パウロはこの神様の許しと神が役立つものにしてくださるという良い技について、その一連の流れについてですね
エビアソビトの手紙でこのように表現しています。 ちょっと読んでみますね。前に掲示しました。
この恵みのゆえにあなた方は信仰によって救われたのです。 信じるだけで救われました。ありがとうと言って言うだけで救われました。
それはあなた方から出たことではなく、神の賜物です。
おこないのではありません。誰も誇ることのないためです。 ここから読んでみましょうか。
実に私たちは神の作品であって、良いおこないをするためにキリストイエスにあって作られたのです。
神は私たちが良いおこないに歩むように、その良いおこないをあらかじめ備えて下さいました。
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最後の部分ですね。 役立たずだったかもしれません。しかしイエスさんを信じた私たちは
良いおこないのために作り変えられた。 それだけじゃなくて良いおこないができるように神様は良いおこないも
もうすでに 私のためにあなたのために
準備してくださっているって言うのです。 これはですね希望の言葉ですね。
この希望の言葉。私これ大好きです。 皆さんもですねこう考えてはどうでしょうか。
これ信じてはどうでしょうか。 神様は私が成すべき良いおこないをもう用意してくださっているんだ。
そういうことを期待して楽しみに待つ。 そしてそれをやって楽しみに待てることが私はクリスチャンの希望の一つだと思うんですね。
まあ皆さんどうかわかりませんけど私失敗してですね落ち込んで 役立たずだなって落ち込むことはあります。でも
いや神は私のためにもう何をすべきか良いことを用意してくださっているから 期待していこうと
もう一個踏み出すことができるんですね。 そしてですねもう一つ
実際に何か良いことができる時があるんです。そうするとですねふっと気づくんです。
あこれこそ神が用意してくださった私のための良い技だ。
それはですね生活の中で神様を体験する喜びです。 それがクリスチャンの
醍醐味なんですね。 まあコロナ禍でいろんな閉塞感がある中かもしれませんけれどもこのように神様に期待して
共に歩んでまいりましょう。 2番目は神が良いおこないを備えてくださっているという
私たち役立つものとして期待してくださっているということです。 最後ですね
愛することされている無条件の愛とは何か。 愛することされている無条件の愛ということを最後見ていきましょう。
パウロは今日読んだ十二節でこう繰り返しています。 読める方一緒に読んでみましょう。
そのおねしもをあなたのもとに送り返します。 彼は私の心そのものです。
この言葉によってでもですねパウロは ピレモンに犯罪人の逃亡奴隷のおねしもを受け入れてくださいと。
それをですね パウロにとってどんなに彼が尊い存在かということを強調して
お願いしているんですね。 ここはですねある英語の訳ではですね
彼は
あなたに私の心そのものを送ります。
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I send my very heart. 私の心そのものをあなたに送ります。
そういう強い表現をしています。 このですね心という言葉は
スプランクナといって 内蔵という意味です。内蔵。
感情の最も深い部分を表す言葉。 これほど情熱的に彼を愛しているという意味があるんです。
先日ですね 教会でもやっているガン哲学外来の日野浩先生が出る
言葉の証拠戦という映画を見たんですね。DVDで。 いろんな方が登場します。
その中の一人で 息子さんが膵臓癌になった。突然。
涙ながらに分かっちゃってるお母さん。 しかもその息子さんにはまだ
幼稚園外の子供がいるって言うんですね。 できることなら変わってあげたい。
できることなら自分の臓器を提供したい。
涙ながらに語っておられました。 それができない
それは本当に大きな痛みであるかと思いますが、でもそのような思いこそ 家族の深い愛の現れですよね。
愛する家族のために自分の内臓を提供したいと思うように パウロは自分の内臓そのものである
おねしもを繰り返して言っているんですね。 それ以上にですね、父なる神様は自分の懐にいた一人息子のイエス様をこの地に
使わせてくださいました。 そしてその愛する一人子を私たちの罪をあがなうために
十字架にかけて犠牲にしてくださったんですね。
なぜかそれは 私たちを神様ご自身の愛する子供とするため
だったわけです。この無条件の神様の愛について
ある別の学者牧師はこう表現しているんですね。 ちょっと長いんですけど
キリストにおいて 私たちの行く道にすでに愛が与えられています
その愛は私たちが悪に身を染めている時にも立ち去ることはなく 私たちへの扉を閉ざすこともない愛
私たちを脅さず貧しい時にも醜い時にも 私たちを見捨てることのない変わらぬ愛です
最後だけ一緒に読んでみましょう。 その愛は私たちが作られる前から私たちに注がれていた愛
今この時にも注がれている愛 永遠に私たちを愛するというただ一つのことのために私たちに注がれ続ける愛です
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まあじっくり家に帰ってもですねこの文章を熟読してほしいんですけども これほど深い愛が神の無条件の愛だということです
パウルは自分の心そのものというようにピレモンを愛したより 神様ご自身は私たちを
ご自身の愛することを引き換えにするほどですね 愛してくださっているわけです
そしてこの神の愛を受け取ることは 私たちは素直にありがとうと受け入れることです
またある信学者が言う通り イエスということイエスこそがクリスチャン性格の全てなのです
イエスというのですねはいはいその通りです 私は神の愛の対象です
肯定すること それがクリスチャン生活の全てだというですね
パウルはこの同じ内蔵という言葉を用いて 兄弟姉妹への愛をビリビリとの手紙の中で表しています
そしてその愛は神に対する私たちの愛でもある いやそれに勝る
愛だということですねその見方を読んで終わりにしたいと思います ピリピッショ発説
一緒に読んでみましょう3私がキリストイエスの愛の心を持って どんなにあなた方すべてを慕っているかその証をしてくださるのは神です
お祈りしましょう 天の神様
皆を賛美いたします あなたの無条件の愛の広さ深さ長さ大きさ
それは本当に測り知ることができないものです しかし精霊が与えられるときに測り知ることができない
人知を超えたあなたの愛を 私たちも知ることができますからありがとうございます
新型コロナウイルスの影響で閉塞感 から逃れられない私たちであります
そんな中で自己肯定感を低くすることもあるかと思いますけれど どうぞ私たちが
あなたのこの 無条件の愛あなたの大きな愛を
知ることができますように御言葉を通して祈りを通して日々の生活を通してあなたの 愛を深く知ることができるようにどうか導いてください
その中でどうぞ あなたから与えられた良いを行いに
私たちがあなたの導きによって歩むことができますように そのことをあなたに期待することができますからあなたに感謝いたします
24:10
この願いまたこの感謝を私たちの救い主 主イエス様のお名前によってお祈りします
アーメン
24:23

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