2020-05-24 32:17

#7 20/5/24 信頼と忍耐

今回から第2テサロニケに入ります。1:1-4からのメッセージ。2020年5月24日録音。「愛は勝つ」と「負けないで」の違いが11-13分頃に。コロナ禍における神様への信頼と忍耐についてお話ししました。
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テサロニケ人への手紙、第2・1章1節から4節。 パウロ・シルワの手もてから、私たちの父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ、
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなた方にありますように。 兄弟たち、
あなた方について、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。 それは当然のことです。
あなた方の信仰が大いに成長し、あなた方すべての間で一人一人の互いに対する愛が増し加わっているからです。
ですから、私たち自身、神の諸教会の間であなた方を誇りに思っています。 あなた方はあらゆる迫害と苦難に耐えながら、信仰と忍耐を保っています。
以上です。 今日はこのところから、
信頼と忍耐と題して御言葉を取り継ぎます。 おはようございます。
本日は5月24日日曜日、朝10時であります。
先週1週間、今日は晴れやかな朝で、先週の後半は少し寒い日となりましたが、今日は
晴れやかで暖かい朝となりました。 5月21日ですが、
大阪と兵庫、京都の緊急事態宣言が解除されました。 そして残るこの協会のある埼玉県と東京と神奈川だけが、今3つ解除されずにいますが、そこも
今月末をもたずに、明日解除されるかどうか判断を待っているところです。 そんな中ですが、先週でテサロニケビットへの手紙第一の学びが終わりました。
そして今日からその続きの第二の手紙をしばらく学びます。 少し長くなると言いますか、
そうですね。 新しいところを学びますので、背景を少しばかり詳しく説明しましょう。
ご存知のように、テサロニケの教会は信仰の博大のもとにありました。
この教会の誕生の物語は、新約聖書「人の働き」の17章の1節から記されています。
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この手紙を書いたパウロとシルワノとそしてテモテ。 シルワノはここではラテン名ですが、使徒の働きではギリシャ名のシラスとなっています。
この3人がフィリピの後、同じマケドニア州のテサロニケを訪れて、当時のユダヤ人の街道に入って教えていました。
旧約聖書からイエス様がどうして旧約が約束した救い主であるかということを解き明かしたわけです。
そこで多くのユダヤ人をはじめ、このユダヤ人から見たら、日本人の、ギリシャ人の人々も
イエス様を救い主として信じて、いわゆるクリスチャン、キリスト社となったわけです。
そしてそのことに、妬みをかられたユダヤ人の一部の人々が暴動を起こしました。
ちなみにそれによって、ユダヤ人の方々の差別の根拠としてはいけません。
繊細な問題ですが、それだけはぜひ忘れないでください。今日は詳しく取り上げませんが、このことをもってユダヤ人の方々を差別する根拠としてはならないわけです。
何やともあれ、当時間違った先民思想を持っていたユダヤ人の人々が、テサノニケの人々を消しかけたわけです。
聖書によれば、街の七つものをかき集めて、そしてパウロやシラスが泊まっていた、
ヤソンというそのテサノニケ人のクリスチャンの家を襲撃させたわけです。
暴徒を消しかけて襲撃させたという、まあ今で言えばとても恐ろしいことが当時起こったわけです。
そしてテサノニケの人々の配慮の中で、パウロとシラス、あるいはテモテも夜のうちでしょうか、その場所から逃げてベレヤというところへ行ったわけです。
しかし、宿を提供していたヤソンは捕らえられて、役人の下に引き渡されてしまったわけです。
そしてそこからテサノニケの人々、クリスチャンへの信仰の反対が始まった。
その身を案じてパウロは第一の手紙を書いて、そしてテモテに託してテサノニケの人々に読ませたわけです。
そしてその手紙を携えていったテモテがその様子を知って、またパウロとシラスの元に帰った。
そしてその様子を知って、この今から学んでいる第一の手紙が記されて、そしてまたテモテによってこのテサノニケ教会へと渡されたわけです。
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おそらく最初の手紙からあまり間を置かない、西暦50年頃、コリントの地から出されたように、そのような説が有力です。
そのような背景がありました。そしてこの手紙の第二の手紙を受け取った頃には、書いた頃には迫害がさらに激しくなっていた。
そういう背景の中で彼らの身の安全や信仰を気にかけてこの手紙を書いたわけです。
この彼らの体験している困難さは、いわゆる今のコロナ禍における私たちの困難さと共通していることがあるわけです。
今も言いましたが、コロナ禍という字ですね。これは災いという意味で、それは天災など自分と関係のない、どうしようもできない現況によってもたらされる不幸な出来事、それをこの禍という字で表すわけです。
戦禍とかいう言葉がありますね。戦争による災いとか。
そのように、私たちも彼らも自分の責任で会うことができない、自分の中から原因が起こっていない現況によって苦しめられていた。
そういうわけで、私たちもこのテサノニ家人への手紙の中から、神様のメッセージやパウロの励ましを通して語られる、キリストの励ましや慰めの言葉を聞くことができるわけです。
パウロは今日の冒頭の部分で、テサノニ家の人々を励まそうとしていました。
全体的にこの手紙を通してそれをしたかったんですが、冒頭にそのことが色濃くテーマとして現れています。
パウロがこの兄弟姉妹を高く評価していることを伝えることによって、苦しみの中にある兄弟姉妹を励まそうと思っていたわけです。
そしてその彼らへの良い評価と励ましは、同じ種類の災いの中にある私たちにももたらされるものなんですね。
今日はそのところを3つの点からお話しします。
それではまず第一の点、神様が働いておられるという証拠、その証拠としての神信頼という話です。
それが第一の点。
まずパウロはこのテサノニ家人の手紙第2の冒頭で、3人からの挨拶や神からの平安や恵みを祈る挨拶をした後に励ましの言葉を述べています。
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それは先ほども言いましたが、彼らの信仰のゆえに、彼らを根拠に神に感謝し、彼らを誇っていると手紙で伝えています。
そうやって激しい迫害の中にある兄弟姉妹を励ましています。
今日読んだ1章の3節4節から拾い上げて読んでみると、こうなるわけです。
あなた方について私たちは、いつも神に感謝しなければなりません。それは当然のことです。
あなた方の信仰が大いに成長しているからです。
ですから私たち自身、神の諸教会の間で、あなた方を誇りに思っています。
あなた方はあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っているからです。
おそらく彼が手紙を書いていたコリントの教会に、テソネキの教会の人々を誇っていると伝えたように思われます。
ここで注目すべき点は、パウロが彼らの信仰のゆえに神様に感謝しているということです。
信仰という言葉について説明を加えます。
よく知っていますが、誤解をしないように説明しますが、
この信仰とは、例えば人間の努力としての信心とか、信じる力、念力のようなものではないのです。
ここで言っているパウロの信仰という定義は、聖書が教える健全な信仰で、それは純粋に神様に信頼する態度を指しているわけです。
あえて言えば、幼い子供が純粋に親を頼りにするその信頼と似ているわけです。
そしてここでパウロが高く評価しているのは、迫害が止まないどころか、
時間が経つにつれてより増し加わっている迫害の厳しさや困難の厳しさの中でも、
テサノリ家の教会のクリスチャンが神様への信頼をやめたり、そして信仰を捨てることがない。
それこそ彼らの中に全知全能の神様が働いておられる証拠だとパウロは信じているわけです。
そのようなパウロの信仰から、その彼らの信仰を守って成長させてくださっている神様に私は感謝しているのですと伝えているわけです。
つまり大事なことは、神様がテサノリ家の兄弟姉妹の中に働いているから、
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彼らがそうして信仰を捨てない。神の働きと彼らの信仰を捨てないという、その点が大事なわけです。
話が問いますけれども、今でも年齢を問わず多くの人に愛されているJ-POPの名曲があります。
1990年代の名曲が2曲、それは1990年発表の「愛は勝つ!」という間の歌ですね。
そして93年発表の「負けないで!」です。
この出た順番、90年の愛は勝つと93年の負けないでなんですけど、勝つの後に負けないでができたのが象徴的だと私は感じるんですね。
なぜか、勝つというとハードルが高いので、負けないの方が受け入れやすいのかなと私は思うわけです。
皆さんはどう思うでしょうか。
今のこのコロナ禍において、ワクチンや治療薬の開発が進んで、そうやってコロナに勝とうということが言われています。
そのような医療の専門家に対して、彼ら彼女らがそのスローガンとして挙げることは納得がいくかもしれません。
しかし、私たちにとっては、コロナに勝つという言葉はハードルが高すぎて、少なくとも私は気遅れしてしまうんですね。
しかし、コロナに負けないと考えた方が、私は自然に腑に落ちるわけです。
なぜなら、この負けないという言葉の中には、降参しないでやめずに続けるということが含まれています。
後で取り上げる忍耐にも、降参せずに続けるという、そういう意味があるからです。
このように考えるならば、私たちが、そしてあなたが、現在のコロナの災いにおいてクリスチャン信仰を捨てていないのであれば、
それは、テサノミケのクリスチャンと同じく、あなたのうちに全知全能の神様が働いているという、紛れもない証拠になるわけです。
先ほどの、負けないということと関連して言えば、クリスチャンとして負けないということは、
困難の中でも、神様を信頼し続けること、そのことを意味するわけです。
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ですから、現在の苦しみの中において、クリスチャン信仰を捨てていないのであれば、
それは、このテサノミケの兄弟姉妹と同じく、私のうちに、あなたのうちに全知全能の神様が働いているという、紛れもない証拠なわけです。
たとえですね、自分の信仰が揺るがない強い信仰だと自信を持って言えないとしても、
もしあなたが、この苦しみの中で、助けや解決を求めてイエス様の皆で祈っているならば、
またあるいは、聖書を読んで助けや救いを求め続けているのならば、
それはあなたが意識していようがいまいが、救い主イエス様とその父なる神様により頼んでいる、信頼しているその証拠となるわけです。
さらに加えて言えば、祈りが生まれたり、聖書を読みたいと願うこと自体は、あなたのうちに、聖霊なる神様が働いておられるという証拠となるわけです。
ですから、あなたは、こう確信してください。
自分の中に確かに神様が働いてくださっている。
だから私はこのように神様に寄りすがることができるんだ、そう確信してください。
パウロも、迫害の中で苦しんでいる自分自身について、このような言葉を残しています。
第1コリントビトへの手紙、12章の9節から10節です。
しかし主は、私の恵みはあなたに十分である、というのは、私の力は弱さのうちに完全に現れるからである、と言われたのです。
ですから私は、このキリストのために弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。
なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです。
この御言葉の一つの鍵は、私の力が、神様がですね、こう言っているという部分です。
私の力が弱さのうちに完全に現れる、それはですね、直訳するとこのような意味になります。
この神様の力が完成するために、その場所が必要である。
その場所とは、あなたの弱さ、そのあなたの弱さという場所があってこそ、神様の力が完成する。
そういう意味なんですね。
ですからパウロも、そして私たちも、このキリストの上に、キリストの力が、自分を追うために喜んで自分の弱さを誇るし、苦痛や困難に甘んじることができる。
弱い時にこそ、私が強いということができると、パウロと共に告白できるわけです。
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以上が第一の点です。
困難の中で神様を信頼し続けることができているならば、それは紛れもなく神様が私たちのうちに、あなたのうちに働いておられる。
そういう確信を持つことができるわけです。
二番目、次は誇りに値する忍耐ということを見ましょう。
パウロは今日の一章四節でこう述べています。
ですから私たち自身、神の諸教会の間で、あなた方を誇りに思っています。
あなた方はあらゆる迫害と苦難に耐えながら忍耐と信仰を保っています。
保っているからです。
このようにパウロは迫害という困難に耐えている彼らの忍耐について言及しています。
先ほども言いましたが、この忍耐している彼らを他の教会の兄弟姉妹、おそらく活々だったコリントンの教会の兄弟姉妹に誇っていると考えられるわけです。
この忍耐をしているテサノリ家の教会や私たちをパウロが誇っていると言っているわけですが、
この誇るという言葉は時に日本語では否定的なイメージが伴います。
しかしここでは肯定的な響き、励ましの意図さえあるわけですね。
英語がわかりやすいので例にとっていますが、
私がこのキリスト教信仰を持ったのは、今から30年以上前です。大学生の頃、アメリカ人の宣教師を通してだったわけですね。
そして彼らがよく使う褒め言葉で、I am proud of youという言葉がありました。
文字通り訳すと、私はあなたのことを誇りに思っています。あなたが誇らしいという意味です。
何かを成し遂げた人への肯定的な評価や正当な褒め言葉として使われているんですね。
そして私がそのクリスチャン信仰を持ち始め、洗礼を教会で受けた後、その学生時代に、
信仰を持って間もなくのこと、こんなことがあったんですね。
何かの集まりやミーティングのような場所で、人前で発表しました。
当然不安があるわけです。
その中で祈りながら、何か自分のこの信仰について皆さんに発表したような時があったわけです。
そしてそのやっと発表を終えた後に親しくしていた専教師の方が、笑顔とともに私に対して
I am proud of you. あなたのことを誇りに思うよ。と伝えてねぎらってくれたわけです。
そういった考え方や言葉に慣れていなかった私には多少の違和感を覚えましたが、
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同時に自分が肯定的に評価されているそういう感覚が初めて芽生えたのを忘れることができませんでした。
おそらくこの言葉は日本語の感覚からすると、よくやったね、すごいねといったところでしょう。
しかし英語にははっきりと、私はあなたを誇らしく思うと述べている点が
メッセージ性のあるまた強い励ましを与える要因になっているのではないかと思います。
このパウロがテサノニケ教会の兄弟姉妹に述べている三次褒め言葉はまさにこの言葉なんですね。
信仰者としての迫害、自分の責任ではなくむしろキリストイエスイエスに受けている
外からの困難、災いに耐えている彼らをパウロは誇りに思っていた。
そしてそのことを明確に伝えていたわけです。
そしてこれはまさにパウロから私たちに贈られている三次の言葉なのです。
しかもここで使われている忍耐という言葉にはこういう意味があるんですね。
している作業や起こっている物事にさらなる負担や厄介事が増している、その状況に耐えている、その忍耐を指す言葉なんです。
文字通りよくすぐ思い浮かんだと思いますけれども、今の私たちは買い物や仕事など
今回の感染騒動の前にしていたこと、同じことをするのにも消毒や感染の予防や恐れのために
手数が増えて厄介事が増えているわけですよね。
そしてまた楽しみにも制限がかかっている。
この不自由なことのために手数が増えて厄介事がこのように増えています。
文字通り忍耐の日々が続いているわけです。
その状況に耐えている、そんな中パウロは私たちにこう言って励ましているわけです。
このコロナ禍において忍耐しているあなたを私は誇りに思う。
あるいはその中でクリスチャン信仰を捨てず忍耐しているあなた方を誇らしく思う。
そのようにパウロが私たちに送っている、その励ましの言葉を受け取りましょう。
2番目が忍耐についてそれを誇らしく思っているというパウロの言葉について話しました。
最後3番目。誇りと感謝に値する誠実さという言葉です。
この信仰という言葉、一番最初に取り上げた信仰という言葉をもう少し別の面から見てみましょう。
24:00
それは私たちの真実さという意味があるからです。
そのような意味もあるからです。
神を信頼するということのほかに、誠実さという意味があるんですね。
信仰は英語でFaithfulnessとも言います。
それは日本語で言うと誠実さです。
パウロはこの真実な歩みをしているテサルニケの教会の兄弟姉妹を神様に感謝して誇りに思っているわけです。
この信仰がFaithfulnessという言葉だといったことは、実はこの学者がこの信仰という言葉、元のギリシャ語のPistisという言葉です。
その言葉を英語に訳すとFaith、いわゆる信仰という言葉と同時にFaithfulness、真実さ、誠実さということも意味する。
だからパウロはここで彼らの神への信頼と同時に、神にある彼らの誠実な歩み、Faithfulnessについて感謝し、それを誇っている。
そのように私たちは理解できると述べているからですね。
現在のこのコロナ感染が広がる中で、ある価値観が見逃されています。
その一つは、結果を出せと迫る成果主義の弊害ですね。
見直されているというか、その点が注目されているわけです。
働きたくても働けないということがあるし、そして今まで以上に簡単に成果が上がらない、同じことを続けるだけでも大変だということもあるでしょう。
このような状況の中では、ただ忠実になすべきことをしていること自体が感謝に値するし、誇るべきことである。
そういうことなんですね。
ですから、私たちもあなたも感謝されるべきであり、また誇るべき存在なのです。
つまり、神様が今のこの場所に自分を置いてくださっている。
そのように信じること、それをパウロの三次の言葉に言い換えるならばですね、こう言い換えることができるかもしれません。
この困難な状況の中では、ただ忠実になすべきことをしていること自体が感謝に値するし、誇るべきことなのです。
このように言い換えることができるでしょう。
さらに、このクリスチャンとしての神信仰による誠実な意味において、賞賛に値する態度とは次のようなものです。
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神様が今この場所に自分を置いてくださったと信じること、あるいは今は本来あるべき姿ではないかもしれないけれども、
この中にさえ、計り知れない神様の御心や御計画がある、そのように神様を信頼してなすべきことをしている。
このように今を過ごしている私たちを、そしてあなたは感謝されるべきであり、また誇るべき存在なのです。
家で仕事や勉強しなければならない中でそれをしているあなたは、パウロによれば忠実で誇らしく、神への感謝に値する存在です。
普段しない家事の手伝いや、ごみ出し、料理や皿洗いをしているあなたは、パウロによれば忠実で誇らしく、神への感謝に値する存在です。
家でゲームや、まあ昔の言い方ですが、ネットサーフィンをし続ける中でその手を辞めてなすべきことをするあなたは、パウロによれば忠実で誇らしく、神への感謝に値する存在です。
家での仕事をしなければいけないという人が多い中で、家の外での仕事、出勤をしなければならない方もいるでしょう。
その場合は、コロナ対策で普段よりも多くの手順や気遣いが生じたり、仕事量も増えるでしょう。
しかし、そんな中でも仕事を続けているあなたは、パウロによれば忠実で誇らしく、神への感謝に値する存在です。
また、仮に外出できず家の中で子供の相手をしているあなたは、パウロによれば忠実で誇らしく、神への感謝に値する存在です。
学校での授業が受けられず、リモートやオンラインで授業を受けて、その時間にそこに座って、このオンライン授業を受けているあなたは、パウロによれば忠実で誇らしく、神への感謝に値する存在です。
また、スポーツ観戦やライブ、そのほか外でのレジャーができずに忍耐しているあなたは、パウロによれば忠実で誇らしく、神への感謝に値する存在です。
あえて分かりやすく具体例を挙げてみました。あなたはそこに当てはまらないかもしれませんけれども、そのように自分の境遇と自分が忠実に歩んでいる歩みを当てはめてですね、これはパウロによれば神への感謝と三次に値する信仰の歩みだと自分で受け止めてほしいわけです。
30:13
さあこのようにパウロは文字通り遠く離れたコリントの地からテザロニケ教会の人々に、そして時代を隔てた私たちに、こう励ましの言葉を送ってくれているわけですね。
あなたはすごいよ、感謝と称賛に値するよ、と励ましてくれているわけです。ぜひこのことを改めて深く胸の内で思い巡らしてください。
そうしてこの神様ご自身と偉大な人であるパウロからお思いの言葉と感謝の言葉をもらったあなたは、今度はあなたの目の前にいる人にも感謝と称賛の言葉を伝えることができる人になっていることでしょう。お祈りします。
天の神様、皆を賛美いたします。5月最後の日曜日、あなたの御言葉に聞いています。
パウロを通してあなたが私たちの歩みを帰り見てくださっていることを知ることができてありがとうございます。
制限が多く、また負担が増えた今のコロナ禍での私たちの進行の歩み、その中における私たちの歩みがまた神様が私たちのうちに働いておられる確かな証拠であり、
あなたに感謝を捧げるべきことであり、またパウロによって誇るべきことだとあなたが認めてくださっていることを感謝いたします。
どうぞ、そのあなたからの感謝、また賞賛の言葉を受け取りながら、この日々、今日から始める新しい一週間を置かれた場所において、
あなたに信頼しながら忠実に歩んでいくことができるようにどうぞ導いてください。
この願いと感謝を私たちの主イエス様の名前によってお祈りします。
アーメン
32:17

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