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1章3節から8節
私は、あなた方のことを思うたびに、私の神に感謝しています。
あなた方すべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、
あなた方が最初の日から今日まで福音を伝えることに、共に携わってきたことを感謝しています。
あなた方の間で良い働きを始められた方は、キリストイエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。
あなた方すべてについて、私がこのように考えるのは正しいことです。
あなた方は皆、私が当国されている時も、福音を弁明し立証している時も、私と共に恵みに預かった人たちであり、そのようなあなた方を私は心に留めているからです。
私がキリストイエスの愛の心を持って、どんなにあなた方すべてを慕っているか、その証をしてくださるのは神です。
今日はこのところから、告げられた感謝と愛着に対して見事は取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
ちょっと今冒頭ですね、オンラインの方は聖書朗読が途切れてしまいまして失礼しました。
フィリピンの1章の3節から8節です。
その成功を言いながら前半も読んでいきますので、そこでまたキャッチアップしてください。
さて、私平日普通な仕事をしていて、毎週決まったお客さんのところに行くわけですね。
ある日ですね、こういう良いことがあって、引っ越す方がいてですね、留守で会ったことがなかったんですね。
そして引っ越した後ですね、配達したものを回収するんですけども、
その中にですね、手紙が入ってましてね、これまでありがとうございました、
重いものも運んでくださってありがとうございましたって書いてあったんです。
電話で1,2回話して会ったのもこの3,4年で1回ぐらいしかなかったんですけど、
そこまで丁寧にしてくださってですね、本当にこうやったことが報われたなと、嬉しくなったわけです。
また毎週ですね、行くとお子さんがいてですね、本当に私を好いてくれたり、そういうお家庭もあるわけですが、
皆さんも似たようなこと、仕事で関わる方とか、家族の中でですね、思いがけず感謝の言葉をもらったり、
小さなお子さんから愛着を示してもらう、その時にですね、嬉しくなったり励まされることがないでしょうか。
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特につらい時なんかにですね、そういうふとした感謝や愛着が示されると、私たちの心にこう、元気が回復することがあるわけですね。
で、パウルはですね、今日の冒頭の見言葉、特に3節から5節で、
彼の感謝と愛着のフィリピンの人たちへのこの気持ちを率直にまっすぐ語っているんですね。
何しているかというと、最初のたった少しの言葉で、
この手紙全部の中で伝えたいことをきちんと、しかも相手の心に触れるような方法で、まっすぐ語ってズバリと言っているんですね。
ここでパウルは、このフィリピンの人々への感謝と彼らへの喜びを表現して、
この冒頭の3節から8節を通して、3つの点を学んでいきましょう。
まず最初は、福音と苦しみによる交わりということです。
3節から5節、読んでみますね。
読める方はちょっと長いですが、読んでみましょう。
私はあなた方のことを思うたびに、私の神に感謝しています。
あなた方すべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、
あなた方が最初の日から今日、福音を伝えることに、ともに携わってきたことを感謝しています。
まず大切な1つ目の点。
これは交わりということなんですが、
それはフィリピンの人たちの献身や苦しみと関係している交わりということを学んでいきましょう。
2つのことが言えるんですね。
1つ目は、この5節で言われていますように、
この最初の日から今日まで福音を伝えることに、
ともに携わってきたという言葉に表されていますが、
パウロの福音選挙にフィリピンの人たちが開拓当初から、
パウロが投獄されている間に至るまでずっと関わってくれてきた献金をはじめ、
贈り物をしてですね、先週話しましたが、
紫少年長人の女狼のリディアさんとかですね、
ローマの漢手の、いったら皇冠のですね、
人が戒心してもてなしをしたり、おそらく捧げ物をして献金をして、
パウロの働きを支えてきた。
もう1つはですね、
フィリピンの人たち自身が経験している、まさに苦しみを言うんですね。
この2つの福音などに関わる、ともに携わることと苦しみは、
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教会でよく言う、交わりという言葉と関係しています。
パウロによればですね、交わりとは、
宣教などの働きにともに関わること、そして、
同じ苦しみを味わうことを言うんです。
5節と7節の言葉を詳しく見るとわかります。
日本語で交わりと翻訳されるギリシャ語は、
コイノニアって言うんですね、コイノニア。
それはですね、
福音を伝えることにともに携わってきた、
その5節の言葉。
そのともに携わるって言葉がコイノニアって言葉になっています。
また、このパワーポイントに出てませんけど、7節のですね、
私とともに恵みに預かった人たちという、
福音を弁明し立証している時も、
私とともに恵みに預かったという、このともにっていう言葉、
ともに預かる、これはシュンコイノニアっていう言葉で、
シュンという一緒と交わりって言葉が合わさった言葉です。
でですね、教会生活長い方特になんですが、
交わりって教会で聞くと、
食事や会話を伴う交流会を理解と捉えることが多いんですね。
一言で言うとそういうこともあるんですけど、
パウロはここで言っているのはそうではなくて、
同じ経験をするということを言っているんです。
詳しく言えば、同じ苦しみや老苦をともに経験する、
その老苦に福音が関わっているということが、
パウロが言うところの交わりという意味なんですね。
で、このパウロとピリピの人の体験をなぞって見てみると、
それが分かりますね。
先週も言いましたが、パウロはここでローマで投獄されていた。
そして一方のピリピ教会の人たち、先週も言いましたね。
女性が活躍する裕福な女性も多かった。
ローマの皇官もいた。
でも実はイエス様を神主と拝んでいたゆえにですね、
当時のローマの皇帝おそらくネロです。
ローマの皇帝を救い主神という社会の中で、
イエス様をその世に拝んでいると、
柔らかな迫害や強い迫害に遭っていた。
イエスの福音ゆえの老苦を担っていたわけなんです。
このようにパウロもピリピの教会の人たちも、
イエス様の福音ゆえに同じ老苦を身に帯びていた。
それはですね、福音とキリストの恵みに共に預かっている
場所は離れているけれども、立場は違うけれども、
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同じ経験をしているということなんですね。
それが交わりだ。
そしてそのことはまさにイエス様の十字架受難と同じ経験なんだ。
同じ老苦を担っているんだという、
イエス様との連帯にまでつながっていくんです。
もうお分かりいただけたと思いますが、
私たちがイエス様ゆえに、福音ゆえに何かの苦しみに預かっているならば、
それはイエス様の受難と共に預かっていることになります。
精神的、身体的、社会的苦しみに遭うならば、
それはイエス様と同じ苦しみに預かり、
イエス様と交わりの中にいるということです。
そして例えですね、それが福音に直接関わることでなかったとしても、
私たちが自分が体験する苦しみをですね、
イエス様のゆえに耐えしのんでいるならば、
それはイエス様とパウロと同じ経験をして、
イエス様とパウロの仲間である、
イエス様と交わりの中に生きているということになるんです。
その苦しみの交わりの連帯は、私たちはピリピの教会ともつながりますし、
ピリピだけでなくて、この歴史上、そして世界中の至る所に存在した
教会やクリスチャンたちとの連帯の中にある、
交わりの中にあるということなんですね。
そのことも実はピリピとの手紙のベースにあるテーマでどんどん出てきますが、
今日はここまでにしておきましょう。
パウロはこの言葉をもってそのことを表しています。
前に表示しました1章29節、読める方は前の文を読んでみましょう。
あなた方がキリストのために受けた恵みは、
キリストを信じることだけでなく、
キリストのために苦しむことでもあるのです。
レジビに書いてありませんけども、このようにパウロは述べているわけです。
あなた方がキリストのために受けた恵みは、
キリストを信じることだけではなく、
キリストのために苦しむことでもあるのです。
恵みの交わりにイエスの受難に預かるとコトマールとパウロは言っているんです。
交わりとは、福音と苦しみに預かる共にある交わりだ。
2番目、それは祈りにおける交わりに通じていくんだということなんです。
どういうことでしょうか。読んでみましょうか。
3節、4節。
私はあなた方のことを思うたびに、私の神に感謝しています。
あなた方すべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り。
こうやりますね。
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パウロはですね、その苦しみにあるピリピのクリスチャンのことを、
神の前で感謝し、喜びをもって祈っていると言っているんです。
パウロは、ピリピの人々の苦しみを知って、
そしてその苦しみにある、自分も牢屋の中にいて、
鎖につながれている、苦しんでいる、その苦しむ者同士を共感していく。
その中で祈りの交わりが生まれていくと言うんですね。
私たちクリスチャンの教会の交わりというのは、
互いに祈り合う中で深まって成長していくということを、
パウロから学ぶことができます。
それが祈りの中で、そして神様の前で起こる出来事なんですね。
皆さん、コロナ以降、教会では食事の交わりがなくなってしまいましたね。
しかし、毎週礼拝の中でともに時間を、場所も違いますが、共有しています。
そしてその中でですね、お互いの名前を聞き合っていますよね。
誰々さんがどこにいますって私言っていますけど。
その中でですね、祈りの課題を共有もしますけれども、
私たちもパウロとフィリピンの人たちのように、
老苦や戦いを経験しながら日常生活を送っています。
コロナ以降まさにですね、日常生活の中で私たちは老苦を担い、
あるいは戦いを体験しているように感じるかもしれませんね。
クリシャンじゃない職場の同僚にですね、
ポロッと何のことで言ったか覚えてないですけど、
戦いだからね、戦ってるからねって言ったら、
え、それどういうこと?って言われたんですけども、
まあ、戦いの中、私たちは今生きているという知覚があるかもしれません。
あるいは、いろんな葛藤の中で戦いを覚えているかもしれません。
もちどおりですね、戦争のニュースが毎日入ってくる。
日本の中でもゴタゴタしている。
で、そういう戦い、あるいは老苦っていうのは、
私たちの教会に属する誰にでも当てはまる共通の出来事ですね。
内容が違ったという。
ですから、同じ戦いや老苦の中にある誰かのことを思って、
神様に私たちは祈るわけです。
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その中で私たちの教会の交わりは、
ポロッとフィリピンの人たちのように深まって成長していくと、
私は考えているわけですね。
家族のことを考えてみてもそうだなと思ったことがあるんですね。
家族、今年はコロナの制限がない初めての夏休みだと言って、
人の移動がありましたが、
それがあろうがなかろうが、なかなか家族で一緒に旅行できない人とかがいたりするわけですよね。
で、そういう家族で楽しい体験をできるに越したことないんですけれども、
そのような楽しい経験がそんなになかったとしても、
例えば、子どもは親の背中を見て育つと言われたり、
また、夫婦はお互い苦労している姿を見て、
お互いに対する思いを馳せていく。
そんな中で家族の絆が深まるということがありますね。
それはまた家族にのみならず、
仕事とか病気の同路者、同胞にもそのような思いを抱くことがあるかもしれません。
そういう同胞意識、共感というのは、祈りにおいて身を結んでいくんですね。
でもそこにとどまらず、私たちにとって慰めになることがあるんです。
それは、パウロは当時からしたら計り知れない距離にあったピリピの人たちのこと、
何年も会っていなかった彼ら、彼女らのことを、
片時も忘れないというが如く手紙で伝えているんです。
そのように、実は私たち、そして私たちの老区というのは、
神様の前で忘れられていない、
神に私たちの老区や前向は覚えられている。
それが私たちの希望になるんですね。
しばらく前に見ましたこの、
使徒の働きの違法人選挙、
違法人の最初の会心のうちの一つ、
ローマの百人大長の絵が出ていますが、
コルネリウスという人の会心の出来事。
彼はローマ人であった、百人大長であったけれども、
ユダヤ教の神様を信じて礼拝を捧げ、また良い施しをしていたんですね。
その時に彼は神の声を聞きました。
使徒十章三十一節、読める方読んでみましょう。
コルネリウス、あなたの祈りは聞き得られ、
あなたの施しは神の前に覚えられています。
この違法人としてぼんやりユダヤ教の神様、
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マゴトの神様を信じて不安だったかもしれません。
そんな時にこの声が彼に届き、
そして彼はペテロと出会って、
ペテロからイエスの福音を聞いて、
バクデスマの恵みに預かったわけです。
あなたの祈りは聞き入れられ、
あなたの施しは神の前に覚えられていますと、
語りかけてもらったわけです。
同じように神様は私たちのことを忘れておられません。
そしてたとえ他の誰かが忘れたとしても、
神様は私たちがする良い行いや、
また私たちが体験する労苦を
私たちと共に覚えていってくださるわけですね。
そしてそれはまさにイエス様ご自身が
私たちのことを忘れていないということでもあるんです。
パウロは1章8節でこう締めていますね。
前にも掲示しましたが、読んでみましょうか。
3、私がキリストイエスの愛の心を持って、
どんなにあなた方すべてを慕っているか、
その証をしてくださるのは神です。
これは非常に彼の愛着が強く表された言葉です。
キリストイエスの愛の心は何か。
それはスプランクロマイといって内臓を表すんですね。
つまり心の奥深くにある愛着とか同情心を言うんです。
この苦しみにあっているピリピの皆さんのことを
私はイエス様と同じ憐れみの心を持って
愛しているんですよ、想っているんですよという言葉です。
ある学者に言えばそれは
パウロを通して示されたイエス様の憐れみだという。
イエス様ご自身がパウロを通してピリピの人たちを憐れんだ。
まさにイエス様がピリピの人々を憐れんだ。
ですから私たちは苦しみにあう時にこう思うことができるんです。
この私の辛さや痛みをイエス様ご自身が
共になってまた憐れみを施してくださる。
かわいそうに思って憐れみの思いを私に寄せてくださっているんだと
私たちは苦しみの中でそうイエス様を思い浮かべることができるんですね。
実はこの一章八節の言葉これはですね
パウロの信仰の中心を表しています。
何かそれは神様ご自身がパウロの信仰のよりどころであった
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確信となっているということがこの言葉に現れています。
他でもない神ご自身が私の証人です。
何の証人?それはあなたを本当に愛しているという証人は
神様ご自身なんです。
彼の神中心の信仰と確信がこの愛着の言葉に現れているんです。
実はこのパウロの神信仰が確信である
神信仰がよりどころであるということ
実はその言葉をもってパウロはピリピの皆さんを励ましているんですね。
それが最後の点です。
ちょっと前後しますがこの八節の愛着の言葉
先ほど最初に見た三節では
パウロのピリピ人への感謝は神様の前に捧げられているんだ。
私は神に感謝していますという言葉が最初にあって
神にという言葉になっています。
他でもない神にあなた方のことを感謝しています。
感謝もパウロにとってよりどころは神だ。
この神中心の確信が最後にほとばしるパウロの言葉になっているということを見てみましょう。
3番目のポイント。
それが六節の言葉です。
読める方は読んでみましょうか。
前の言葉。
あなた方の間で良い働きを始められた方は
キリストイエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると私は確信しています。
これは神というお方をこういう形で書いています。
どんなお方ですか?
それはあなた方の中で救いという良い働きを始められたお方です。
その神様が。
これはですね。
苦難の中にあるピリピ人のことをパウロは聞いていたんですね。
おそらくエバフロデートから。
そしてこの手紙を書き始めて
感極まってこの言葉をパウロは発しているようなんですね。
ロークしている福井のお供に預かってきて
しかし今ロークしているピリピの人たちを思って感極まって
パウロはこの言葉を発しているんです。
そして彼らは彼女らを励ましています。
たとえ今苦しくても諦めたくなってしまっても
必ず神様があなたの救いの業を完成してくださる。
そういう確信です。
以前ガラテアビトの手紙でですね。
もうとまだということを学びました。
こういうことですよね。
イエス様信じてもう私たちの中で救いの業を始まりました。
もう救われています。
しかしまだ完成していないので
様々なロークが伴いますよ。
自分の罪の葛藤。
あるいは先ほども言いましたが
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この世で生きる上の様々なロークが
葛藤として体験しなければいけない。
だからそれがまだですよ。
でもパウロは言うんですね。
神様ご自身が救いの業を
あなた方の中に
私たちの中に始めてくださった。
まさに神ご自身だと強く言ってるんです。
その神ご自身が
私たちを通して
福音の業を始められました。
そしてそのあなた方の中に
またあなた方を通して始められた
神の救いの業
その働きを神こそが
完成させてくださる。
私はそう確信しているんだ。
だから苦しみにあるピリピの人たち
大丈夫ですよ。
私はこう確信しているんですよ。
パウロは迫っているようです。
このパウロ自身が
神様を拠り所としているように
私たち自身も
神様をこの拠り所として生きる。
その真髄の言葉がですね
1章6節に表されています。
そしてそれがですね
パウロが後で言う
どんな境遇にあっても満ち足りる
喜びを失わないということの秘訣なんだ。
その秘訣をこれから学んでいきましょう。
最後にもう一度
前の1章6節を読んで終わりにします。
あなた方の間で
良い働きを始められた方は
キリストイエスの日が来るまでに
それを完成させてくださると
私は確信しています。
お祈りしましょう。
天の神様皆を賛美いたします。
フィリピ教会のクリスチャンは
聖書の中では模範的な信者でした。
しかしその彼ら彼女らも
苦しみを多く体験しました。
しかしそれは
パウロのイエス様の
そして我々の苦しみの交わりの中にある出来事です。
どうぞ私たちもその
神様とイエス様と
またパウロやこれらの
兄弟姉妹との連帯の中に
生かされているものとして
日々の歩みの中で
あなたにある確信を持って
歩んでいくことができるように
良化導いてください。
この願いと感謝を
私たちの救い主
主イエス様のお名前によって
祈ります。
アーメン
それでは1分ほど
御言葉に応えてお祈りしていきましょう。