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テサロニキビトへの手紙、第2・3章、6節から10節
兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。
平らな歩みをして、私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟は、皆、避けなさい。
どのように私たちを見習うべきか、あなた方自身が知っているのです。
あなた方の間で私たちは、平らに暮らすことはなく、人から、ただでもらったパンを食べることもしませんでした。
むしろ、あなた方の誰にも負担をかけないように、夜昼、労使苦しみながら働きました。
私たちに権利がなかったからではなく、あなた方が私たちを見習うように身をもって模範を示すためでした。
あなた方のところにいたとき、働きたくないものは食べるな、と私たちは命じました。
今日はこのところから、前向きに働くと題して、御言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
今日からですね、8月の礼拝となりました。
先週はですね、徐々に頭の方から、南の方からですね、露が明けて、
昨日、予約関東でも露が明けました。
セミの声がよく響いておりますね。
そんな暑い中ですけれども、皆さんと礼拝が守れることを感謝しています。
そしてその梅雨明けとともに、新型コロナウイルスの感染者数がのきなみ最高を記録しています。
東京では7月31日から2日連続400人を超えました。
検査数がいくつかっていう、そういうこともあるんですけれども、やはり驚く数字です。
その中ですね、今日読んだ聖書の箇所から、前向きに仕事に取り組むということを学びましょう。
仕事が取り巻く環境が私たちにも厳しくなっています。
仕事が与えられていること自体ももちろん感謝なんですが、
そんな中で良い志を持って働くということを学びます。
別の言い方をすれば、パウロや聖書が教えるところの新しい視点で今までの仕事に取り組むということです。
2つの点から話しますけれども、その前に最初の第1点目として、
6節の言葉を正しく捉えるということを学んでいきましょう。
世界地図がありますけれども、少しおさらいしますが、
パウロが手紙を書いたテサノニケというのは、今の英語界の中のギリシャの一つの都市です。
エルサレムがここにあってですね、今のギリシャ、当時のアカヤ地方、ここがアテネですけれども、
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テサノニケはこの場所にあたります。
ここでパウロは西暦、そうですね、40年、46年くらいにこのコリントからこの手紙を書いた、第1第2の手紙を書いたと言われています。
その前に彼はここでシラスとテモテと共に伝道していました。
そしてその中で、いつも通りの席に皆さん座ってくださいという名札があります。
そんな中で今日の御言葉は少し正しく理解する必要があります。
もう一回読んでいますが、
兄弟たち、私たちの主イエス・キリストにの名によって命じます。
怠惰な歩みをして私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟は皆避けなさいという、
この避けるべき関係ということを正しく捉えましょう。
このテサンリケの教会ではですね、パウロが最初に選挙を開始した時からある問題がありました。
ここの教会はですね、最初から迫害に遭っていて、
パウロが手紙を書くたびに迫害が増していって信仰が守られている、
ある意味すごく模範的な信者さんの多い教会でした。
でもその中で少しだけくすぶっていた問題があったんですね。
それが今日読んだ聖書の箇所で触れられている問題です。
それはこのテサンリケの教会の中で仕事をしていない人がいたんです。
それはいろんな事情があればいいんですけども、
このなぜ仕事でしていなかったかという理由は今はわからないそうです。
しかしでも明らかに不健全な理由でした。
そして彼ら、彼女らのもう一つの問題はですね、
実は働こうと思えば、いろんな意味で働けたわけです。
しかしまた自分の生活費を必要とするならば、
家族に養ってもらえたわけです。
でもそこでの問題は、そのような兄弟姉妹はですね、
教会の他の人々の善意を、いわば悪意をして、
今風で悪く言うとですね、たかっていたわけですね。
それが問題だったというんです。
何回も言いますが、これは仕事がいろんな意味でできないという人を批判する意味ではなくて、
そういうまず不健全な背景があったということを覚えておいてください。
そんな中でパウロが、
怠惰な歩みをして受け継いだ教えに従わない兄弟を避けなさいと言っているんですけど、
この怠惰な教えに従わない兄弟というのは、
怠け者で神の言葉に従わない人という、そういう意味に捉えられます。
そういう人たちを避けなさいといった理由が二つあったんです。
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一つ目はですね、
悪用されていた健全なクリスチャンを守るためでした。
その人たちが善意を悪用されて、食いつくされないように、
貪りつくされないように、この善意にあるクリスチャンの兄弟姉妹を守るために
付き合いをやめるようにとここで言っているわけです。
そしてもう一つはですね、その一部の怠惰な人のために言っています。
なぜなら、それはそういう人たちの関係が切られてですね、きちんと働くようにと。
そのようにパウロが命じていた。
そのためにですね、避けなさいという言葉が使われているわけです。
そしてパウロは10節で厳しく言いましめています。
皆さんの聖書にありますが、こう言っています。
私の聖書でこう書いてあります。
あなた方のところにいたとき、働きたいくないものは食べるなと私たちは命じました。
これは非常に強い言い方です。
このような中からですね、この6節の意図はこういうふうに言い換えることができます。
不健全な依存関係を断ち切って、そして怠惰で不従順な人々は働きなさい。
そういう意味です。
何度も言うようにその後でも見ますけれども、
そういう人たちがパウロの模範に倣って働くことをパウロは願っていて、こういう書き方をしているわけです。
この聖書の御言葉の理解はですね、広く言うとこういう原則が挟まります。
私たちは聖書の言葉を前後の文脈とか書かれた人の意図に従って理解しなきゃいけないということです。
前から言っているカルトとかそういう問題のある宗教は、
聖書の言葉の都合の良いところだけ引き抜いて、
自分たちの教えを人々に当てはめて人々をマインドコントロールするということなんですね。
ですから何度も言いますが、パウロが本当に言いたかったこと、
この御言葉の背景にあった状況を正しく捉えて、
私たちは聖書の言葉に耳を傾けていくという、そういう訓練にもこの御言葉になるわけです。
それでは2つ目のポイント。
私たちが前向きに働きをしていくために、パウロの言葉に耳を傾けていきましょう。
2番目のポイント。
働くことに関しての最初のポイントそれは、
働くことや仕事をするということは、キリスト教の伝統に習っていることなんです。
この今読んだ御言葉、前に掲げてある御言葉をもう一度見てください。
ここでパウロが特別な言葉を使っているんです。
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受け継いだ教えというこの教え。
これはですね、元の書かれたギリシャ語では…失礼しました。
皆さんのレジュメにあるんですけれども、ギリシャ語ではパラドシスという元々の意味。
パラというのはよく言うパラリンピックとかという傍に、ドシスというのは与える。
傍にいて与えるというような意味があるんですけれども、これは伝統という意味です。
前から何度も皆さんに言っていますが、キリスト教の旧約聖書の神の旅の伝統に沿った教えです。
実はその伝統ということにはいくつかパターンがあって、
一つ目はですね、教えという意味ですね。今まで皆さんと一緒に学んできた教え。
それはちょっと今日の聖書の本題とは違うんですけれども、よく分かるために取り上げますが、
教えという意味の伝統。
正当的なキリスト教の教えとか、信じている内容、そういう伝統です。
教理とか信仰告白という言い方をしますよね。
皆さんが礼拝の中でやっている主の祈りとか、使徒信条も、
いわゆる一世紀からずっと教会の中で受け継がれてきた教えであり伝統です。
正しい信仰は何か、そういうことがそこに言われています。
そしてちょっと復習になりますが、このテサンレキビトルの手紙第2の2章の中で問題となったのは、
主の祈りの教えや祭りについての異端的な教えについて取り上げましたよね。
騙す人たちがいたと。
そこでパウロはやはり2章の15節でもですね、
学んだ教えと言っているんですけれども、そこでも同じ言葉が使われていますから、
この教えというのは、正しい教理、正しい信仰告白、そういうものを示します。
さっき写真に出したこの人ですね。
誰かご存知ですか、この人。
マルチン・ルターです。
宗教改革を起こした人。
マルチン・ルターの宗教改革が私たちに関わっているのは、
信仰義人です。
免財布というのがありましたよね。
免財布というものを売りつけて、たくさんお金を払って良いことをしないと救われないという教義に疑問を抱いて聖書を読んだらですね、
信じるだけで救われるということに改めて気づいて、
難しく言うと信仰義人と言うんです。
私たちが、私がよく礼拝で言うでしょ。
イエス様信じれば罪許されて救われるんですよ。
私たちはどんなに悪いことがやめられなくても、イエス様信じていれば、
罪が許されて、清くされて、神に会って救われているんですよというのが信仰義人。
それはパウロの時代からあったんですが、ルターが1517年に再発見して、今に至っている伝統です。
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ちょっと長くなりましたが、最初のその伝統や教えというのは、教理と関わる伝統で、
その辺に関して皆さんしっくり聞きますよね。
そして今日取り上げていることは、意外な伝統です。
その3章6節の教えというのは、どういうことかというと、
立ち位振る舞いのことを言います。
クリスチャンとして実際、あるいは神様の民として、
実際社会の中でどう振る舞うかという意味での伝統です。
そしてそれをもっと突き詰めて、今日の文脈から言うと、
一般社会の中で真面目に働くということ。
常識的に一般社会の中で仕事を持って真面目に働くということが、
神様の民のキリスト教の伝統だと聖書は言っているんです。
皆さんね、この経験なクリスチャンというとね、いろんなイメージがあるじゃないですか。
経験なクリスチャン。これはマザーテレサですね。
経験なクリスチャンというと、例えば修道院に入っていると。
私はですね、名古屋に4年行ったことがあります。
長男が生まれた病院はですね、20年ほど前に行った病院、30年ほど前に行ったところはですね、
精霊病院と言ってカトリックの病院。
近くに精霊修道会というカトリックの修道院があったんです。
だから街を歩いていても病院にもですね、いわゆるシスターがですね、普通に歩いているわけです。
そういう姿を見ると、あ、経験なクリスチャンの方々で、
修道院で祈りと黙祷の生活、法師の生活しているんだなという、
そういうイメージがぴったり来ると思います。
しかしですね、この宗教改革者のマルチン・ルターが信仰義理に気が付いたときに、
あることに目が開かれたんです。
実は彼はその頃は、当時の不健全なカトリック教会の中にいたんです。
その時はですね、いわゆる性俗二元論。
性俗二元論。性と俗をはっきり分けて、
清い人や経験な人は、世を捨てて修道院に入るということになっていました。
この世に関わっている人は俗な人。
それで彼もですね、修道院に入って修行したんですが、
全然実感がわからなかったんです。
その時に聖書を読んで、信じるだけで救われるんだということに目が開かれました。
そして彼はですね、部屋にいたら、おそらくクリスチャンの高校生ぐらいでしょうか、
女の子が掃除に来たんです。
これは俗なる仕事です、修道院から。
しかし目が開かれて、あ、神様の目から見たら、
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この部屋で掃除をしている女の子も等しく経験な人なんだ。
私と変わらない、修道院の人と変わらない人なんだと言って、
掃除をしている女の子からですね、日常の経験ということを悟ったそうなんですね。
この子は立派に神様に仕えているんだということに目が開かれたと思います。
もし私たちが、あるいはあなたがですね、この神様を信じて、神様に仕えているんだと意識して、
日々の生活の中で仕事や学業に取り組むならば、
それは神様の御心に生きていることに他ならないんですね。
まさにこの偉大なマルチン・ルターや素晴らしいマザー・テレサ、
そのような人々から、そして先ほど言ったパウロの伝統にまでつながる
クリスチャンとしての経験な生き方を知っているわけなんです。
もし私たちが、あなたが、たとえですね、こういう経験な衣装を身に着けて、
修道院に入って、夜昼祈りを捧げていなくても、
私たちがどこかの部屋の中で、あるいは外でですね、
作業着を着て、あるいはジャージで、格調高いこのような正義をまとっていなくても、
真面目に仕事をしているならば、これは神様の目から見たら、経験な営みなんです。
ある英国の著名なディエム・ロイド・ジョーンズという説教師はさらに加えて言うんですね、
もし学生が真面目に学業に取り組んでいるならば、
それも神に使える経験な生き様だと言うんですね。
どうでしょうか。私もそうですが、皆さん、
明日から仕事や学業に取り組む時に、この意識を持ってみませんか。
新しい前向きな動機、それはですね、
この私の仕事は神様の民とイエス様の教会につながる伝統的な営みを私はしているんだと、
その職場で改めて思ってですね、
している仕事が尊い、勉強が尊いということを心に留めて取り組んでいきましょう。
3番目、働くことの2番目の意味です。
そして働くことは、このパウロの模範にならっているということです。
今取り上げてきたテザノネケ人の3章の御言葉。
そこでパウロはですね、テザノネケの兄弟姉妹と一緒にいた伝道の当初の頃を振り返っています。
その時にもパウロは既にテザノネケで働いていたというんですね。
それがですね、3章9節でこう書いています。
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私たちに権利がなかったからではなく、
あなた方が私たちを見習うように身をもって模範を示すために働いたとパウロは言っているんです。
まず理屈から言えばですね、ここの権利がなかったからではないというのはどういう意味かというと、
パウロは他の第一コリント、第二コリントでも言っていますけれども、
教会に使えるものは教会から簡単に言うと、今風に言うと給料をもらうのが当然だということを言っているんです。
働きのみから自分が養われるのは当然だと言っている。
だからこれはそういう意味での権利があったけれども、
私はあなた方から何ももらわないで働いたと言っているんですね。
そのさらに目的がありました。
そのあえてしなかった理由は、私たちを見習うように身をもって模範を示すために私は働いたと言うんです。
この通りですね、身をもって模範を示して私を見習ってほしいから働いていたんだとパウロはかっこを振り返って言っています。
そして遠回しにですね、この手紙を受けている教会にまだくすぶっていて、むしろ大きくなっていた問題に触れています。
この当時働いていなかった不従順で怠惰な兄弟姉妹に私の模範に見習って働いてほしいんだと諭しているわけです。
それはそれとしまして、既にしっかり仕事をしているクリスチャンにとって、
私のこの御言葉を聞いている兄弟姉妹は皆さんそういう立場ですが、
既にしっかり仕事をしたり学業に取り組んでいる兄弟姉妹、そしてこのテサヌキの人々にとっては確信がパウロの手紙によって与えられました。
それは苦難の中で迫害に耐えて、今しっかり仕事をしている私たちはパウロの模範に習っている、パウロの足跡に従っている、そういう確信になったんですね。
先ほどだけじゃなくてずっと言っていますが、迫害が増しくある中で働き続けることは、この当時のテサヌキの兄弟姉妹にとっては少なからず苦労が伴ったと思います。
クリスチャンということだけで後ろ指さされたり、あるいは不利益をこむることがあったかもしれません。
そしていつも言っていますが、彼らと私たちが重なる状況といえばいくつかある中の一つ、それは今のコロナ禍の中で働いている。
普段これまでしなくてよかった余計な労苦が伴ったり、いろいろな気遣いが伴っていく。
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そういう中で仕事を大変なものとして今しようとしなければいけない私たちにとっても、この御言葉が励ましになります。
もし私たちが、あなたがそういうコロナの影響あるなしに関わらず厳しい状況下でも歯を食いしばって働いているならば、それはパウロの模範に習っている、パウロの足跡に習っている、そのように確信していいわけです。
それは誇るべきことであって、自信を持って良いことなんですね。
そしてそれはいつも述べていますが、私たちがどうしてそのように良い行動ができるか、それは私たちの中に、あなたの中にイエス様が生きて働いておられるから、その確たる証拠だという、そのように確信していいわけです。
パウロは続けてこう述べていますね。前後でこう述べています。3章7節8節。前に掲示してありますが、
あなた方の間で私たちは、平らに暮らすことはなく、人から、人から、ただでもらったパンを食べることもしませんでした。
むしろ、あなた方の誰にも負担をかけないように、夜昼、労使苦しみながら働きました。
この意味を少し解説します。この労使苦しみながら働くというのはですね、英語で言うとトイルと言います。
トイルというのは、激しい辛苦、辛くて苦しい、激しい労働を指します。
そしてこれは学者に寄せればですね、いわゆる今で言う、パウロは肉体労働をしている。
パウロは天幕職人と言って、今で言えば家を作る大工のような、大工さんのような仕事でイエス様もそうしていました。
大工さんですから、大工さんとして働いていましたからパウロはまさに、暑い日照りの中でも外で働いたでしょうし、
寒い冬を手をかじかむ中で働いたわけです。
そういう肉体労働を始めとする仕事の労苦をパウロは知っていると言っているわけです。
また、昼夜じゃなくて、夜昼働くと言っているんですね。
なぜ昼夜じゃないかというと、ユダヤの暦は夜から始まるからです、一日が。
それはそれとしまして、夜昼働いたというのは、今で言えば夜勤も日勤もしたということです。
夜勤で働き、日勤で働いたという。連続したということじゃなくて、夜でも働いたことあるし、昼でも働いたよという意味です。
当時はですね、当然スマホもないですし、電気もない、パソコンもないわけです。
今みたいにリモートワークもできないわけですから、いわゆる働き方改革が必要とかですね、
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専門家が介入して果樹ロードから救うという、そういう必要は彼はなかったと思います。
けれども、私たちがここから理解できるのは、パウロはいわゆる汗水垂らして、一日一生懸命働いていたということです。
まあ、誤解ないように言いますけどね、今あまりに過酷な労働条件の中にいる人は、
当然専門家に相談する必要があると思います。数々のハラスメントなど。
それはそれとして置いておきまして、常識的な仕事で考えていきましょう。
私たちが常識的な仕事の中で疲れとか辛さを覚えるとき、動機がいまいち前に向かないとき、
そういうときはこのパウロの姿を思い出してください。
私のこの生き様は、あの大使徒、偉大な使徒パウロの模範に習っているんだと、
そのように仕事、学業において思い起こしましょう。
で、クリスチャンとしてパウロの模範に従うというと、いくつかのステレオタイプがあります。
私のように信仰生活が長いとなおかと思いますが、
パウロの模範に従うというと、宣教の模範に従う、
明かししなきゃいけないというふうに思うかもしれません。それは大事です。
しかしもう一つ大事なこと、今日見直していただきたいことはですね、
私たちはですね、普通に仕事をしているとですね、
職場で自分が大胆に福音を語るどころか、学校で明かしするどころか、
自分がクリスチャンであるということを明言できないということがしばしあると思います。
しかしもし、そんな中でも私たちがこの与えられている仕事に、
あるいは学業に真面目に取り組んでいるのであれば、
宣教や明かしをしていなかったとしてもそれは、
パウロの模範に習っているということなんですね。
ですからそういう意味でも、神様にあって自分を誇りに思ってください。
そしていつも言って、今まで言ったように、
働く動機ややる気がそがれるときには、
このように自分はパウロの足跡に習っていると思い起こすことも、
前向きに働く良き動機になるのではないでしょうか。
さらに、もし私たちが、あなたが、
しっかり仕事をして収入を得ているのであれば、
それは神様の民の伝統、キリスト教の伝統に来ていることになると、
旧約聖書の神言にもこう教えられているわけです。
最後にその御言葉を読んで終わりにしましょう。
神言の12章の12節と14節、ちょっと切れてしまいましたが、
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前に掲示しましたが、
神様の視点に立って、
今日から明日からその仕事や学業に取り組んでいくお互いでありたいと思います。
お祈りしましょう。
しばらく黙祷の時間を持ちましょう。
合わせて宗に向けましょう。
私たちは日々の生活の中で仕事に携わっています。
学業に臨んでいます。
コロナウイルスの感染の予防など、
様々な対策の中で老苦が伴うこともあり、
またこれから暑い季節になります。
そのような中で働きに困難を覚える中、
学びに困難を覚える中どうか、
あなたの御言葉を思い出しながら、
あなたとまたキリスト教の伝統につながるそのようなことを思い出しながら、
日々をあなたの御心を行うことに
勤しんでいくことができるようにどうか導いてください。
そのようにしてどうか私たちを通して、
あなたの栄光が現されますよう導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、
主イエス様の名前によってお祈りします。
アーメン。