2020-07-12 28:35

#14 20/7/12 慰められ強められる心

第2テサロニケ-17からの礼拝説教。2020年7月12日録音。心が慰められ、強められるために。
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テサノニケ人への手紙第2、2章、16節、17節を朗読します。
どうか、私たちの主イエスキリストと、私たちの父なる神、すなわち私たちを愛し、永遠の慰めと素晴らしい恵みを、失礼しました、素晴らしい望みを、恵みによって与えて下さった方御自身が、あなた方の心を慰め、強めて、あらゆる良い技と言葉に進ませて下さいますように。
今日はこのところから、慰められ強められる心と題して御言葉を取り付けます。
皆さんおはようございます。暑くなってきました。冬もまだ明けないかもしれませんが、本当に新しい生活なんとかでですね、いろいろコロナのことが気になります。
この間の7月の10日の金曜日からですね、JリーグのJ1とプロ野球の観戦、観戦って言ってもあっちの観戦じゃなくてですね、見る方の観戦が許されてですね、観客が盛り上がってきた。
なんとなく日常が帰ってくるのかなと思いきやご存知のように、その前の木曜日からですね、東京都では感染者が3日続けて200人超えてきた。
それが近隣の県どころか青森にまでですね、あちこちに飛び火するようなそういう状況で、これから先どうなっていくんだろうかっていろんな不安があるかと思います。
そんな私たちの不安と、このパウロが書いている手紙にある慰めが、またメッセージがリンクして何かの教訓になるのではないかと思ってずっと学んできているわけです。
今日はですね、たった2節の短い言葉です。これは2章の1節からずっと始まってきた一連のパウロの話の締めくくりです。
しかし学べば学ぶほどですね、ここの短い言葉に込められている有り余るほどの豊かさがあるんです。皆さんはそれに気づきましたか。
またそのここにある素晴らしい恵みに十分預かっているでしょうか。
その少しでもですね、それに皆さんが触れることができるように足らない言葉ですけれども、本当に自分の言葉が足りないということを素晴らしい御言葉を前に思い知らされるんですが、皆さんにお伝えしたいと思います。
そのパウロのこの宝を知るためにはですね、彼が終始一貫して持っている信仰姿勢が大事です。それを知ることが大事です。
それは私たちが初めてイエス様を信じ救われたその救いの始まりにおいても、信じた後クリスチャン生活を続けるにあたっても、
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徹頭徹尾神様の働きかけ、それに頼るしかない、そういうパウロの姿勢を私たちは知る必要があるんです。
徹頭徹尾神様によっているという、そのベースにある信仰姿勢です。
先週見た13節から15節は、救いの始まりにおける神様の選びということ、それは過去に関わることです。
その人の救いの過去に関わることです。そして今日のこの箇所は、そこから進んで未来へ向かう現在に関わる神様の働きかけ、
そういう言葉と関係しています。この箇所で注目すべき点は、パウロが祈っている内容を具体的に伝えている点です。
クリスチャンであろうとなかろうと、挨拶の中で祈っていますと言いますよね。
それはある意味、釈放事例的な言葉ですが、パウロのこの言葉は、学者が力説しているように釈放事例ではなくて、本気の言葉で祈っている。
それは彼がですね、神様が働いてくださわなければ、テサルネ家のクリスチャンは今困難の中で生きることができない、
そういう力強い確信に満ちているから、この本気の祈りの内容をパウロは彼ら彼女らに、そして私たちに伝えているわけです。
迫害、いつも言っていますが、テサルネ家の教会はここにありますけれども、迫害が冷めやらない。
ピリピからですね、パウロが渡ってきてテサルネ家に行った。
そしてそこで伝道している間にですね、ユダヤ人が、ユダヤ人の差別の理由にしてはいけませんが、当時のユダヤ人がパウロたちを避難した。
そしてテサルネ家のユダヤ人以外のテサルネ家の日本人も抱き込んで、パウロたちを殺そうとしたわけですね。
そして命からから彼らはベレーや逃げたんですけれども、とどまったテサルネ家の人々はどんどん迫害の手が熱くなってですね、彼らの危機が迫った。
だから第一の手紙に続いて第二の手紙も書いたという事情があります。
そういう困難が増し加わっていく中で、彼らの心を神様が慰め、強めてくださるように、そう祈っているよとパウロは伝えているわけです。
そしてさらに行いと言葉において良い意味を結ぶようにとパウロは彼らに伝えているわけです。
私たちもいつも言ってますが迫害こそ受けていませんけれども、心に慰めと力が必要ですね。
さらにこの祈りはですね、心にとどまらないで私たちの日常生活の原動にまで及ぶそのような祈りです。
それではですね、この中から私たちの心に関わる三つの点を学んでいきましょう。
慰め、心の力添え、そして心から言葉と行動に至る、その三点から学んでいきます。
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まず心を慰めてくださる神様というところです。
最初の祈りは17節にもありますが、心をですね、強めてではなくて心を慰めてくださいますように、
神様があなた方の心を慰めてくださいますようにというのが最初の祈りです。
実はこの慰めという言葉、皆さん自分の聖書を見ると気がつきましたか?
慰めという漢字が2回使われていますね。
16節、過去を慰めと、永遠の慰めによって素晴らしい慰めを与えてくださった神様。
そして17節の心を慰めて。
2回短い中で言われているということはどういうことですか?
2回も言われているというのは、大事だから強調していることですよね。
その大事だから強調している。
そんな中でですね、この間同じことを何回も言ったらある人から耳にタコができるところからイカになってしまっていたんですね。
8本足が10本になっちゃうってうまいこと言うなと思ったんですけども、
2回繰り返してどれほど慰めが大事かとパウロは伝えています。
その慰めに2種類あるんですね。
便宜上、現世の慰めと来世の慰めと言います。
現世の慰め、今の生活におけるこの慰めは後で言いますけども、
その前に来世の慰めについてちょっと触れます。
本題ではないんですけども、クリスチャン生活の基礎を支える大事なことなんで、
来世における慰めについてちょっとだけ触れます。
それは16節でですね、さっきも言いましたが、
永遠の慰め、そして素晴らしい望み、そういう風に言われています。
神が永遠の慰めと素晴らしい望みを与えてくださった、これが来世に関わる慰めです。
それはどういうことかというと、私たちのこの地上の生涯が終わったとしても、
その先に希望があるということです。
今のこのコロナ禍をですね、いろんなところが歴史的に検証していますが、
キリスト教の歴史の中でもたくさんの感染症との戦いがあって、検証されています。
ペストが一番有名ですけども、隠れた中に一つですね、
3世紀のローマ帝国で起こったキュプリアーヌス、キュプリアーヌスの疫病というのがあったそうです。
そこでですね、修道院のようなキリスト教施設は、
いわゆる差別されて死にゆく人々を手厚く看護し、また自ら命も落としてですね、
いわゆる医療と福祉の先端的なことを行って、当時の人々から評価されたと言うんです。
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でも、それ以上に大きい意味があったわけです。
私の新学校の恩師の先生に、吉川先生という女性の先生がいるんですが、
その先生が最近このコロナ禍について書いた文章の中で、こういうことを言っているんですね。
そのキュプリアーヌスの疫病の時のクリスチャンの証、ここにあります。
人々の心を捉えたのは、献身的な看護や兄弟愛のみならず、
その源にあるキリスト教の指正感でした。
神様は正しく生きた人々に永遠の命を与えてくださるという教えは、
死と隣り合わせの人生を意義のあるものとし、貧しい者にも生きる希望を与えたのです。
看護のため命を落とした者は、殉教者として栄誉を受け、福祉や医療は教会の働きとして発展していきます。
いわゆる今言われている死性感ですね。
私たちはこのコロナの中で死を意識させられますけれども、
このキリスト教の指正感、神様は正しく生きた人々に永遠の命を与えてくださるという教え、
それは死と隣り合わせの人生であっても意義のあるものとした。
そして貧しい人にも、貧しく死にゆく人にも生きる希望を与えたということです。
これが今パオリオが最初に言っている永遠の慰め。
たとえ命が死んだとしても、永遠に私たちは神様と共に安らぐことができるという、これが永遠の慰め。
素晴らしい希望と、16節でパオリオが言っているところです。
これは基礎としてお伝えしていきますが、今日のメインテーマは、現世的な今の生活に関わる心の慰めです。
それはですね、それを知るために、よく言ってますが、鉄山敵の人たちは信仰の迫害が増し配っていって苦しんだ。
それにより慰めがその時必要だった。
それでさっきも言いましたが、私たちも今回のコロナ禍や他の日々の生活の中でやはり心の慰めを必要としますね。
私もそれが必要です。
そして注目したいのはですね、慰めるという言葉の、この聖書が本来書かれたギリシャ語での意味です。
ギリシャ語ではですね、パラカレオーという意味があるんです。
このパラというのはですね、パラリンピックのパラと言われてますが、傍に、傍らにです。
カレオーというのはですね、呼ぶということなんです。コールとかね。
だから元々慰めという言葉の意味は、誰かの傍にいて、その人に呼びかけるという意味があるんです。
だから落ち込んでいる人の傍にいて、その人に呼びかけて、時にその人の名前を呼んで、慰める。
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そういうニュアンスがこの言葉にあるわけです。
イエス様はいつも共にいられる神だ。
それがここに今現れてますし、聖霊なる神様をパラクレートス、慰めの師というのにも傍らにいて私たちを慰める聖霊という、そういう概念が進行があるわけです。
さあ皆さん、これ知っていますね。
この映画の主題歌、スタンバイミー・ドラえもんの主題歌は、秦本博さんのヒマリの約束という歌ですよね。
冒頭で、なんで君が泣くんだって、泣いている友達に話しかけるところから歌が始まりますけれども、
いわゆるサビの部分では、傍にいたいよ、君のためにできることが僕にあるかなと。
駒橋でも流れています。
まさにこれがですね、先ほどの傍らにいて、慰めることを表している。
スタンドバイミーという、このドラえもんの、この時の映画のタイトルのスタンドバイミーとはどういう意味ですか。
私の傍に立っていてください。私の傍らにいてください。
そういう意味が、スタンドバイミー、そして私を慰めてくださいという意味ですよね。
ですからこのヒマリの約束という歌は、まさに聖書が言う、パラカレを慰めるという意味に合致した言葉です。
皆さんもご存知のように、パウロ自身も、宣教の働きの中で多くの試練に遭いました。
使徒の働きを読んでみてください。あるいは、孤輪と人の手紙第二を読んでみてください。
パウロはどれだけ命の危機に遭ったか、そういうことが分かります。
その孤輪との手紙第二の冒頭で、パウロはこう述べているんですね。
1章3節から4節。
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神が褒めたたえられますように、
神はどのような苦しみの時にも私たちを慰めてくださいます。
それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
このパウロが言うだけに重みのある、まさに慰めのある言葉ですね。
このようなパウロの御言葉、聖書の御言葉、イエス様の慰め、神の慰めを期待して、
私たちも神様が心を慰めてくださるように祈ることができるわけです。
次ですが、心を慰める次には、心を強めてくださる神様です。
パウロは先ほど見ましたが、この祈りの中でこう言っていますね。
どうか私たちの主イエス・キリストと私たちの父なる神、すなわち私たちを愛し、
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永遠の慰めと素晴らしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、
あなた方の心を強めてくださいますようにと祈っている。
神様が私伝の中にある、このテサノリ家の教会の人々、
そして私たちの心を強めてくださるように祈っているというんですね。
さあ皆さんクイズ、こちらをご覧ください。
この3人に共通しているものは何でしょう?
これ誰ですか?
え?誰?
これは?
3人に共通していることは何ですか?
レオナルドですよね。
レオナルドという名前は、ドイツ語に由来した名前です。
レオンという言葉が表しているようにそれは、ライオンに由来しています。
ナードというのはですね、硬い。
だからライオンのように硬く強いという意味が、レオナルドという名前の由来です。
で、ドイツ語の古い、個々のドイツ語でですね、そのレオナルドを発音すると、
ライオンハートって聞こえるそうなんですね。ライオンハート。
ですからですね、よくレオナルドという名前は、
ライオンのように強い心だという方が間違っているんです。
私の、かつて知り合ったアメリカ人も言っていました。
私の名前の由来は、ライオンのように強い心だと言っていました。
しかしですね、そういう誤った説もルフしたんですけれども、まさにこのライオン。
そのライオンのように強い心を持った人という誤った説ですけれども、
パウロが真摯に祈っているのは、神様が私たちの心を強めてくださるからこそ、
私たちもライオンのように強い心を持てる、そういう風に言えるんじゃないでしょうか。
ちなみに、このライオンはナルニア国物語の映画版の画像ですけれども、
ナルニア国の物語のアスランというライオンがイエス様を示唆していますよね。
イエス様だってこの十字架に向かっていった強い心があったわけですよね。
そのような強い心をパウロは、支連の中にある兄弟姉妹に、
そして私たちのために祈るということを伝えているわけです。
さあ、最後に大事な点です。
心が慰められ、強められて、良い身を結ぶということです。
神様によって心が慰められて、強められるように、そういう祈りを今言ってきました。
私たちにその祈りや神のお力添えが必要ですよね。
でも大事なことは、その祈りにはディレクション、方向性があるということです。
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そのどんな方向かというと、
それはテサルニケ教会の人々や私たちの日常生活に関わることです。
パウロが言っている祈りの締めくりは、ギリシャ語の原文で見ると、
最後に心が慰められ、心が神様に強められて、
あらたがたがあらゆる良い良さと言葉に進むことができますように、
そういう結論があるんです。
言い換えると、行動と言葉において私たちが、
良い身を結ぶように、そういう祈りなんですね。
どちらも言葉においても行動においても、
他の人に関わる、私たちの態度に関わる言葉です。
先ほど最初に述べましたように、
神様が徹頭徹尾必要だというのは、
救いの始まりに関わらず、私たちの日常生活、
クリスチャン生活にも欠かせないことです。
神様の働きかけがなければ、私たちは日常生活において、
神様にふさわしく生きることができないということです。
まず言葉について見ましょう。
聖書の中で、新約聖書の中で最も有名な、
言葉に関わる御言葉というと、これが挙げられますね。
イエス様の弟のヤコブが書いた、ヤコブの手紙の3章の2節、9節、10節。
私たちは皆、多くの点で失敗をするものです。
もし言葉で失敗をしない人がいたら、
その人は体全体も立派に制御できる完全な人です。
私たちは舌を持って主であり父である方を褒めたたえ、
同じ舌を持って神にかたどって作られた人を呪います。
賛美と呪いが同じ口から出てくるのです。
私の兄弟たち、このようなことはあってはなりません。
また、これは少し否定的な言いましめですけれども、
肯定的な教えをパウロが別の手紙の中で述べています。
黒歳人の手紙の4章6節。
あなた方の言葉が、いつも親切で塩味の効いたものであるようにしなさい。
そうすれば、一人一人に対する答え方がわかります。
甘味を増すために、私のよく恩師の牧師が言ったんですね。
甘味を増すためには塩を入れる。それで甘味がよく増す。
私たちの言葉もですね、少し成りかけた言葉によって
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良い味付けができる、そういうものでありたいですねといったのが印象的です。
パウロはこの祈りの中で、私たちのすべての言葉が
いつも良いものであるようにと祈っているんですね。
私たちは、自戒を込めて言いますけれども、
咄嗟の時に口をつく言葉に気を付けなければいけませんね。
また、辛い時や苦しい時こそ、言葉に気を付ければならないわけですね。
一方、良い行い、それを見ましょう。
それは、自分以外の人になす私たちの態度や行動に関わります。
例えばパウロは、先ほどの第二コリントの手紙の御言葉で言っていますけれども、
私たちは神様に慰めてもらうからこそ、他の人々を慰めることができると言うんですね。
このようにパウロは語っています。
私たちの主イエス・キリストの父なる神、
地雷の父、すべての慰めの神が褒めたたえられますように、
神はどのような苦しみの時にも私たちを慰めてくださいます。
その続きですね。
私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、
どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、
慰めもまたキリストによってあふれているからです。
第二コリントの手紙、1章3節から5節です。
この手紙を受け取ったテサニケ教会の人々は、
ますます激しくなる迫害の中、苦しみが増していきました。
そして私たちも、もう言わずもがな、
さめあらないコロナ禍の中で、日常生活の課題や労苦が伴います。
ちょっと忘れてしまいましたけど、この間も何かしようとしたらですね、
こんなに手間がかかるのかというくらいですね、
いろんな手間をかけないと普通のことができなくて、
少しイライラしたことを思い出します。
なぜか忘れてしまうところが労苦現象ですけどね。
まあ、そのような小さな、私と皆さんと小さいことかもしれませんが、
日々の課題や労苦が伴う生活の中の痛みを感じている方もいるかもしれません。
でも、自分のことで精一杯で他の人への言動など気にかけられない
ということができるかもしれません。
でも、もしそうならば、このテサニケのクリスチャンは、
迫害の中ですね、命の危険が迫っていました。
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そればかりでなく、前も言いましたが、
信仰ゆえにですね、差別にあって、いわゆる社会的な福祉も受けられないような、
そういう立場にあったわけです。
それは私たちの困難の日ではないわけですね。
まさに、神様によって心が慰められ、強められなければ、
行動にも言葉にも心を込めて良い意味を結ぶことができない。
それが私たちです。
心からって言いますよね。
本当にですね、心が動かないと私たち良いことができないんですよ。
学生時代に聞いたある本田浩二っていうですね、
知っている人はいるかもしれませんが、
昭和の大伝道者という本田先生がよく言っていたのは、
イエス様を信じれば、意思が変わりますって言うんです。
心が変えられて良いことをしたくなりますっていうことを今でも忘れません。
30年以上経っても。
そのように、神様は私たちの心を取り扱ってくださって、
良いことをしたい。
良い言葉を発したいという、
そういう、いわゆる今で言うモチベーションを与えてくださるわけなんですね。
良い言葉と良い行動は心から生まれる。
そのことをパオロが知っているからこそ、
人間の弱さを突き抜けた神様の慰めと力添えをパオロが祈ったわけです。
4月26日、皆さんが礼拝来の間に録音した説教にですね、
神に届く祈り、神様に届く祈りというのをお話ししました。
その中でどうやって具体的に祈るかの一つにですね、
聖書の言葉になぞらえて祈るというのがありましたけども、
まさに今日のこの御言葉はその適用ですね。
是非、このパオロの祈りに倣って、
まず自分のためにこの祈りを祈ってみてはどうでしょうか。
何度も言いますけど、どんなに美味しい料理も
食べなきゃ味がわからないように、
この御言葉もですね、皆さんが味わっていただかなければ
この豊かな神様の祝福を味わうことができないんですね。
だから本当に必死になってつらい時にですね、
神様私の心を慰めてくださいと祈ってみてください。
神様私の心を強めてくださいと祈ってみてください。
私、皆さんのためにですね、ほぼ毎朝ですね、
忘れる時もありますけど、ほぼ毎朝祈っています。
皆さん一人一人のために。
ご精霊が与えられるように、精霊が与えられないと
クリスチャンとして生きていけないし、
イエス様のことが悟れないので、
毎朝皆さんのために祈っていますが、
皆さんも是非このパオロの祈りを祈ってみてください。
そして、自分自身のためではなくてですね、
自分の身近な人や家族のために、
この祈りを祈ってみてはいかがでしょうか。
パオロもですね、神様が与えてくださなければ
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御言葉を語っても無意味だ、
そう信じて祈ったのですから、
私たちもその足跡に従って、
自分のためまた、兄弟姉妹のために祈り、
良い業に歩んでいくお互いでありたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
あなたがパオロを通して、
あなたの御心を教えてくださったことを感謝いたします。
世には神々と言われるものが数多ありますが、
私たちが信じている神様、
聖書が明らかにしている神様は、
弱った私たちの心を慰め、そして強め、
あなたにある良い業と、
良い言葉の実を結ぶようにと、
私たちを強めてくださる。
哀れに深く、また力に満ちた神であることを覚えて感謝いたします。
どうかこのあなたの有り余るほどの豊かな恵み、
そのあなたの豊かな精霊の導きを、
私たちが日々の歩みの中で味わうことができますように。
そしてまた、そのあなたにある恵みが、
兄弟姉妹のうちに広がり、
またこの世界の中に広がっていくことができるよう、
私たちをこの地において用いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、
主イエス様の名前によってお祈りします。
アーメン
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