2021-03-21 28:12

#47/3/21 確かな拠り所

コロサイ-14からの礼拝メッセージ。2021年3月21日録音。コロサイ人への手紙の締めくくりで、福音書を書いたルカとマルコ、そしてコロサイ教会の生みの親エパフラスからの挨拶をパウロは送りっています。この3人をもとに確かな拠り所について学びましょう。
00:07
コロサエビトの手紙4章10節から、こちらでは11節になっていますが、14節まで続けてお読みします。
私と共に囚人となっているアリスタルコとバルナバのいとこであるマルコが、あなた方によろしくと言っています。
このマルコについては、もし彼があなた方のところに行ったら迎え入れるようにという指示をあなた方はすでに受けています。
ユストと呼ばれるイエスも、よろしくと言っています。
かつれいのある人では、この3人だけが神の国のために働く私の同僚者です。
彼らは私にとって慰めになりました。
あなた方の仲間の一人、キリストイエスのしもべエパフラスがあなた方によろしくと言っています。
彼はいつもあなた方が神の御心のすべてを確信し、成熟した者として固く立つことができるように、あなた方のために祈りに励んでいます。
私はエパフラスのために証言します。
彼はあなた方のため、またラオデキアとヒエラポリスにいる人々のため、大変苦労しています。
愛する医者のルカ、それにデマスがあなた方によろしくと言っています。
以上です。
今日はこのところから、確かなよりどころ、確かなよりどころとして御言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
1都3県、2度目の緊急事態宣言が延長された後、いよいよ今日、夜の12時をもって解除される予定です。
Zoomでの礼拝も、今日が最後、来週からリアルの礼拝に戻りますが、一応外出が控えられている中、この1年間エンターテイメントもなかなかありませんでしたが、そのような中、皆さんは何をされてきたでしょうか。
私はこれからも先が見えない、自粛的なことが続く中で、ぜひお勧めしたいのは、聖書の御言葉にじっくり取り組んでみる、そのことであります。
私ももちろんそのことをして、大変恵まれました。
実はその御言葉にこそ、私たちの確かなよりどころがあるからなんですね。
私はよく、どこから読んだらいいですかと聞かれたら、新約聖書のマルコの福音書から読み進めてくださいとお勧めします。
03:03
マルコの福音書はイエス様の四福音書の中でも短くて、とても分かりやすいというのがあるわけですね。
実は今日、このパウロの手紙の挨拶、締めくりの部分で、新約聖書の著者、マルコを含め2人出てくるんです。
ルカ、そしてマルコ、また合計6人から挨拶がコロサイ教会に送られています。
簡単に言うとですね、11節の3人はおそらくユダヤ人、そしてその12節から14節の中にいる3人はイホウ人、そういう括りで3人ずつここに名前が出ていますが、
今日はその中からでも、この聖書の著者2人、ルカとそしてマルコ、そして最後にコロサイ教会にとって生みの親のエパフラス、この3人から、この3つの点からですね、確かな拠り所について学んでいきます。
ではまず最初、愛する医者ルカ、すみません、カという字が抜けてしまいましたが、愛する医者ルカですね。
みなさんその場で読めましたら、この御言葉をともに読んでみましょう。
三拝、愛する医者のルカ、それにデマスがあなた方によろしくと言っています。
先ほど申し上げましたが、このルカは新約聖書のルカの福音書と使徒の働きの著者だと言われています。
この使徒の働きとルカの福音書は、新約聖書の3分の1を占める、とても大きなボリュームを占める大事な御言葉です。
ぜひみなさん読むならば、ルカの福音書と使徒の働きを続けて読むことをお勧めします。
ひとつの物語のようになっていますから。
そのような中で、実はこの使徒の働きの中で、こういう御言葉があって、パウロとルカがしばらく一緒に宣教に従事したことが見て取れるわけです。
読める方一緒に読んでみましょうか。
パウロがこの幻を見たとき、私たちは直ちにマケドニアに出かけることにした。
神が私たちを招いて彼らに福音を述べさせるのだと確信したからである。
この私たちというのが、パウロを含めた、著者ルカも含めた一項です。
ここはアジアからヨーロッパに初めて宣教に行くピリピリに行くきっかけとなったパウロが幻を見た、夢を見たという場面です。
このルカというのは医者と言われていますが、ここに聖ルカ国際病院のホームページを抜粋したんですけれども、
06:01
聖ルカ国際病院のホームページの創設について関わっている箇所にこう書いてあるんですね。
本院は1901年明治34年、米国聖皇会の宣教師であるルドルフ・トイスラー博士によって創設されました。
またホームページを読んでみると、このルカとの関わりも医者であるということも書かれています。
このようにですね、聖皇会というキリスト教の主な一派の宣教師によって設立された病院ということで、聖ルカ国際病院と言われているわけです。
このですね、ルカはパウロとこのおそらくパウロがいたエペソの獄中で一緒というか、パウロにつき添っていたようです。
実はですね、パウロはこのルカが共にいるということを通して神様の大きな配慮や愛を体験したんですね。
実はパウロはある病気にかかっていた、もしくは病気からの後遺症があったと言われています。
目の病気だったとか、転換だとか言われている、マラリアだったんじゃないか、その後遺症だったんじゃないか、いろいろ説がありますが、そのように悩まされていたようです。
そして3度もそれを願ったが主はそれを取り去らなかったということも書かれていて、後遺症などによってしばらく、しばらくというかですね、生涯ある面苦しめられていたようです。
そんな中でおそらくルカは医者としてパウロをケアしたようなんですね。
実はパウロの絶筆、最後の手紙となる手持の手紙第2の中でパウロはこのルカについてこう述べています。
読める方は一緒に読んでみましょう。第2手持、4章11節です。
3.ルカだけは私と共におります。マルコを伴って一緒に来てください。彼は私の務めのために役立つからです。
実はこの時ですね、皇帝ネロによってイエス様の一番弟子ペテロが殉教していました。
絵にもありますけれどもおそらく逆さ十字架にかかってペテロは殉教したと言われています。
おそらくパウロもそれを知ってローマの最後の獄中、ローマの獄中にいて自分の命も長くないと指していたようです。
その手紙の中でパウロと最後に共にいた人それはルカだけだったとここに記されているわけですね。
ここで先ほどの殺さエビトの手紙で愛する医者ルカとも言われていますが、
09:10
彼はですねこの獄中の中で医者であるルカが自分をケアしまた主にある兄弟として彼が自分と共にいてくれたこと、それをですね大変心強く思っていたようです。
これはですねあくまでも私の想像ですがある学者によるとパウロの最後の死の時ルカが最後に共にいたと言われているようです。
実際パウロは最後は家族との関わりがなく家族の中では一人で命を落としたようです。しかも殉教という形でおそらく首をはねられたのではないかと言われています。
しかしそのような状況の中で主の兄弟であり医者であるルカがですね最後までパウロを見取った。
パウロに寄り添って見取った。それはパウロにとって大きな励ましや慰めだったのではないかと私は推察するわけです。
このように神の家族で愛する医者ルカがパウロと共にあった。それはパウロにとって大きな神様の慰めの印だったに違いないわけです。
ルカは神様からパウロのギフトのような存在だったとも言えるかもしれません。
私たちの中にはですねパウロのようにある病や体の痛みを患ってそこから抜けられない兄弟姉妹がいらっしゃるかもしれません。
病気でなくてもなかなか解決しない困難を抱えている方もいらっしゃるでしょう。
しかしそんな私たちにも神様はパウロのように恵みを慰めを施してくださるわけですね。
イエス様にあって必要な慰めや励ましを神様は与えてくださる方なんです。
もしかしたらルカとパウロのような共に困難を乗り越える信仰の友を兄弟姉妹を与えてくださるかもしれません。
このような点において神様ご自身が私たちの確かな拠り所になると言えるわけです。
第2の点。バルナマのいとこマルコについて共に考えていきましょう。
ルカとは別にもう一人の福音著者マルコからの挨拶が送られていますね。
読める方は一緒に読んでみましょう。このコロサイギの手紙の4章の前半です。
12:03
私と共に囚人となっているアリスタルコとバルナマのいとこであるマルコがあなた方によろしくと言っています。
実はですね、このマルコというのは脱落者から回復した代表格でもあります。
ここにありますように彼はバルナマのいとこで、使徒の働きではバルナマを含むパウロ、マルコ、バルナマ3人で戦況旅行に携わった記録があります。
これは世界地図ですけれども、日本から見てこの辺りがパウロの活躍のエリアでしたね。
第一次電動旅行にこの3人でアンテオケから旅立ちました。
そしてアンテオケからキプロス島に渡った時にですね、ここから3人はベルガというところに渡っていったんです。
ここからパウロはいわゆる昔のアジアにずっと行こうと思ったんですけれども、
バルナマはパウロと一緒に行きましたが、このマルコはここでですね、自分の家のあるエルサレムに帰ってしまったとルカの使徒の働きでは書いてあります。
13章を読むと書いてあります。
実はパウロはこの第一次電動旅行を終えた後にですね、第二次電動旅行に立とうとしたんですが、
ここでですね、バルナマとパウロが激しく対立するんです。
なぜかというと、バルナマはいとこであるマルコを連れてきたかったんですが、
パウロはですね、第一次電動旅行である意味脱落していったマルコなんか連れてきたくないと言って、
聖書にもあります。使徒の15章にあるように、マルコが原因でバルナマとパウロが激しい反目がその間に起こったとあるわけです。
バルナマはマルコを伴って、慰めの子でありますからバルナマは、マルコを伴って自分たちの選挙旅行を開始し、
パウロは一人で、他の新しい弟子を伴って第二次電動旅行に携わっていったわけです。
そういう背景がこの使徒の働きに向けて取れるわけであって、実はこのことも今日の手紙の内容と関係しているわけです。
実はですね、このように不的確とパウロが自ら判断を下したマルコですけれども、
しばらくの時を経て、第三次電動旅行の時だと思いますけれども、
このエペソのパウロの盗獄中にパウロとマルコは時間を共に過ごしていたわけですね。
そしてこのマルコはおそらく、後々ですね、殺害協会に訪ねることがあるということで、パウロはこういうことを書いています。
15:05
読めるか一緒に読んでみましょう。
このマルコについては、もし彼があなた方のところに行ったら迎え入れるようにという指示をあなた方はすでに受けています。
おそらくこれはパウロの推薦状のようなものです。
マルコについてのある面、ネガティブな評判がもしかしたら殺害協会に届いているかもしれない、落語者だというようなレッテルが張られているかもしれない、
そういう中でパウロはマルコを受け入れるように、その指示通りにするようにと殺害協会に推薦しているわけです。
さらにですね、先ほどルカが登場したパウロの最後の手元への手紙第2で、マルコについてパウロはこう述べています。
高い評価をしています。読めるか一緒に読んでみましょう。
ルカだけは私と共におります。マルコを伴って一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。と言っています。
落語者としてパウロが判断したものをパウロは死の間際にですね、役立つと評価して、しかも自分のそばに来させてくださいと懇願しているんですね。
このようにマルコの立場が回復しているわけです。
おそらくマルコはペテロの通訳者だったのではないかと言われていますが、ペテロから伝え聞いてマルコの副印書を書きます。
実はこのマルコの副印書はですね、学術的に言うと、マルコの副印書が元になってルカの副印書とマタイの副印書が詳しく書き足されたと言われているわけです。
マルコの副印書があってこそのこの他の2つの副印書があった、そういう大切な副印書となっているわけですし、
そして当然2000年の時を経て全くこのエルサレムや聖書の世界と違う場所にいる私たちにもこの3つの副印書が届いているわけです。
このようにマルコはパウロに役立つ者と言われて、また私たちの信仰にもですね、ある面、世界中にも役立つ働きをした人となったわけです。
副印の落語者がですね、このように神様に用いられたわけです。
これは私たちにとって神様の居所になりますね。
18:11
実は私たちも、私がそうですがイエス様に一生懸命使いようとする中で、この自分の不甲斐なさに失望することがあるかもしれません。
しかしマルコのように神様は私たちを忍耐深く、マルコには慰めの子であるバルナマが伴っていましたね。
そのように忍耐深く神様は私たちを養い育てて、思わぬ方法でイエス様の証人として用いてくださるわけです。
このように信じていきましょう。
これが私たちが神様のために働く、その上でも神様ご自身がよりどころだと言える流言なのです。
最後の点ですね。
神の御心の内にある確信です。
パウロはエパフラスについて伝えています。
エパフラスはですね、コロサイ教会の御の矢と言いましたが、実は
ちょっと見にくいかもしれませんが、パウロはエペソで登獄していました。
そしてエペソで宣教した時にコロサイ出身のこのエパフラスがパウロを通して信仰を持った。
そしてこのコロサイでエパフラスが宣教した結果、コロサイ教会が生まれました。
そしてエパフラスはコロサイ教会やヘイラポリス、このラオデキやこの地域の教会のために働き、
また日夜熱心に祈っていたとパウロが伝えているわけです。
このようにある通りです。
読める方、コロサイ4-12の部分を読んでみましょう。
彼はいつも、あなた方が神の御心のすべてを確信し、成熟した者として固く立つことができるように、あなた方のために祈りに励んでいます。
祈りにおいてレスリングをしているというような言語なんですね。
ここは祈りについて今日は触れませんけれども、やはり祈りの生活の大事さということがわかります。
今日はそれよりも、祈りの背景にある彼の信仰の姿勢、確信について見たいのですが、
彼の祈りはこのような確信に基づいているのです。
クリスチャンは神様の御心を知って確信を得ることができる。
そうして成熟し、信仰に固く立つことができる。
そういう御心を知って確信するということが、成熟と信仰に切っても切れない縁があるという確信に基づいた祈りなんですね。
21:04
先日NHKのニュースを見ていましたら、コロナ禍において、このコロナ禍の中で流行っていることがいくつかある。
そのうちの一つがですね、盆栽です。
埼玉市が世界でも名だたる盆栽市、盆栽の町ですけれども、このような見事な盆栽。
実はこのような見事な盆栽はですね、しっかりした鉢の中に豊かな土壌があって、そこにしっかりと根差してこそ、このようにおいしげりまたきれいな花を咲かせることができるわけですよね。
私たちをこの盆栽の木に例えるならば、私たちも神様の御心を知って、神様の御心を確信すること。
その御心を知って確信を得ることが、あたかもどっしりした鉢に入った良い土壌に深く根を張るということにあたるわけです。
そしてですね、聖書の御言葉が養分や水でありますし、また祈りはこの高剛性で得られる呼吸のようなもの。
そしてまあ神様の恵みや太陽とでも言えるかもしれませんね。
私たちは自分を拠り所とするのではなくて、神様御自身、その御心を拠り所とする、それが大事だということが言いたいわけです。
このようにですね、盆栽が自分の力だけでは成長できないように、私たちも自分の確かさに頼るのではなくて、神様の御心の確かさを拠り所とするわけです。
つまり、私たちがイエス様を信じ、罪許され、救われて神様の民となったのは他でもない、それが神様の御心であったからです。
つまり神様がそれを願われたからに他ならないということなんですね。
この実は御心とよく言われる言葉ですね。
その御心に関して、この最初の双子の手紙であるエヴィソビトの手紙でこういう言葉があります。
ちょっと読める方長いですが読んでみましょう。
3、はい。
神はただ御心のままに私たちをイエスキリストによって御自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者となったのです。
私たちは御心により御計画のままを皆実現される方の目的に従ってこのようにあらかじめ定められていたのです。
24:10
後でも見ていただきたいのですが、ここに神の御心によって私たちが定められていたからこそ、神の御国を受け継ぐ違法人が神の民となった。
他を見てみると、イエスによって罪許されたとあるわけですね。
この御心という言葉をよく耳にしますが、神様の御心とはですね、神様の意思を言うんです。
私たちの意思は弱いのですが、この神様の意思、御心は不動です。
この神様の意思、御心の確かさこと私たちの拠り所なんですね。
そしてこの神様の御心、その確かさを私たちは聖書の言葉を通して知り続けることができるのです。
子は親を選べないと言いますが、親も子を選べません。
しかしあえて言うならば、子なる、失礼しました。
父なる神様は、神様を親として考えるならば、神様は私たちを、あなたを選んでくださって、御自分の子にしようと定めておられた。
そのような神様の御心、意思の確かさが私たちの信仰の拠り所なんですね。
このような神様の御心の確かさを私たちが地道ではありますけれども、聖書を通して知り続けること。
それが私たちを確かな信仰者とし、困難の中にあっても固く立つ者としてあわせする道なのであります。
この神の御心を知ることについて、実はパウロはこの最初の書き出しの方でこう祈っているんですね。
この祈りを見て、説教を締めくりたいと思います。
1章9節をともに読んでみましょう。
こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から絶えずあなた方のために祈り求めています。
どうかあなた方があらゆる霊的な知恵と理解力によって、神の御心についての知識に満たされますように。
お祈りしましょう。
天の地なる神様、皆を賛美いたします。
あなたは私たちを選んで、あなたの御国を受け継ぐ者、あなたのことをして下さいました。
27:05
様々な困難の中にあっても、必要なものを備え、また神の家族を備えて下さっていることを感謝いたします。
コロナ禍の状況がなかなか先が見えません。
いろんな制約や不自由なこともありますし、あるいは困難があるかもしれませんが、
どうぞ私たちが自分自身ではなく、あなた御自身の確かさを拠り所として歩むことができますように。
祈りのうちにどうか聖書の言葉を通して、あなたの確かさを御心を私たちが知り続けることができるように。
そうして、思わぬところで、あなたの証人として私たちが用いられますように。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。
それでは一分ほど祈りましょう。
御言葉に応答して黙祷して下さい。
28:12

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