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新約聖書丸子4章30節から34節をお読みします。
またイエスは言われた、 神の国はどのように例えたら良いでしょうか。
どんな例えで説明できるでしょうか。 それはからし種のようなものです。
地にまかれる時は、地の上のどんな種よりも小さいのですが、 まかれると成長してどんな野菜よりも大きくなり、
大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。 イエスはこのような多くの例えを持って、彼らの聞く力に応じて
御言葉を話された。 例えを使わずに話されることはなかった。
ただ、ご自分の弟子たちには、彼らだけがいる時に全てのことを解き明かされた。
以上です。今日はこのところから、 からし種の友、からし種の友と題して御言葉を取り継ぎます。
皆様おはようございます。 今日は牧師の休暇の都合でオンラインだけで礼拝を守っておりますけれども、このように皆さんと
礼拝でオンラインですがつながれていることを感謝しております。 今日8月6日は広島に原爆が投下された日。
78回目の原爆の日ですね。 今いろいろ
世界の情勢、特にヨーロッパの付近で問題が起こっている中で、考えさせられ祈りされることだと思います。
また暑い日が続いておりますけれども、 このように共に神様を礼拝して、また新しい月も始めてまいりましょう。
実はこのからし種のたとえは、イエス様のたとえの中でもやはり有名なたとえ話です。
またこのたとえは、マルコの4章1節から始まった種のたとえの3番目、それで最後のたとえ話であるわけです。
そしてこのたとえの意味は、小さく始まりながら驚くほど大きく広がる神の国をたとえているわけです。
珍しいことに、このたとえ話の始めにイエス様が教えたいこと、何をどうたとえるかということを明言している点があるわけですね。
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30節ですけれども、神の国はどのようにたとえたら良いでしょうか? どんなたとえで説明できるでしょうか?という具合です。
実はここは、今日の箇所は2つに分かれておりまして、その次の33節から34節は4章全体のまとめです。
そこでイエス様がたとえを使って、どんなことを教えたか、イエス様がたとえで教えてますよという、英語でいうサマリー、要訳ですね。
そしてそこで特にイエス様が弟子たちを特別扱いした、そのことが伝えられています。
そのようなわけで、前半のからしなれのところから2つの点を、そしてこのイエス様と弟子との関係から1つの点、合計3つの点を共に学んでいきましょう。
まず最初、からしなれのたとえの背景、最小のものが最大になるという教えです。
ちょっと読める方ですね、31、32節を読んでみましょうか。
それはからしなれのようなものです。地にまかれるときは、地の上のどんな種よりも小さいのですが、まかれると成長して、どんな野菜よりも大きくなります。
大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。 31、32節がこうありますね。
このイエス様の時代ですが、このからしなれというのは、最も小さい種として知られていました。
実は日本でケシツブという言葉がありますが、これもからしなれのことを言うんです。
その日本でいうケシツブのからしなれは、このからしなという名の種、この図にあるような本当に小さな種です。
実はイエス様の例え、この当時のイスラエルのからしは黒がらしではないかと言われていて、ほぼ変わらないんですね、この日本のいわゆるケシツブと。
どちらもナノハナのアブラナカの植物なんです。
イエス様の例えの黒がらしも、いわゆる日本でいうケシツブのからしもですね。
このからしなれのからしは、アクタという字ですね。アクタ川隆之助のアクタのツブでケシツブ。
アクタという字でカラシと読みます。
このからしな、ナノハナみたいな、ナッパから
わかりますけれどもね、こういうものです。実はいわゆるケシというとですね、いわゆるアヘンを念想するかもしれません。
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同じ漢字です。アクタという字に子供の子でケシ。でもそれはですね、同じケシでも漢字も同じでも
ケシカという部類に属します。からしなれはアブラナカに属するものです。漢字も同じで読み方も同じですけれども日本語では。
全く別の植物だということを覚えてください。いわゆる雑学です。
このからしなれはですね、からしなの葉っぱからこの緑の葉っぱからわかりますように、からしなれは成長しても実は大木になるのではないんですね。
一連そうなんです。日本語の聖書でもどんな野菜よりも大きくなっていますとわざわざ訳しています。
英語でハーブとも言うんですね。シュラーブとかハーブ。
けれども育つとですね、あんなちっちゃいいわゆるケシ粒が2、3メートルにも大きくなる。
そういうところからですね、このたとえ話は最も小さい種が驚くほど大きくなるということを表しているわけなんです。
実はですね、先週見た最後に引用した旧約聖書のエゼケール書17章の22節から24節の言葉が、このたとえ話の背景、種の背景、このからしなれの背景にもあって、
ここではですね、このエゼケール書では神様がからしではなくて杉の木ですね。イスラエルの神の民の繁栄になぞらえているんですね。
おそらく保守で滅んだけれども、杉の木のように大きくなるよということを予兆して、このエゼケール書が書かれました。
そこで23節だけ引用すると、こう書いてありますね。読める方はここを読んでみましょうか。私がから3回。
私がそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、見事な杉の木となる。
その下にはあらゆる種類の鳥が宿り、その枝の陰に棲む。エゼケール17の23。
お気づきのように、この植えられた木、神様が植えた木が大きくなるという点、そして
あらゆる種類の鳥が宿って陰に棲むという言葉も、このからし種の例えと関連性があるのがわかりますよね。
しかし繰り返しますが、このからし種の例えでイエス様も教えていることは、最も小さな種であるイスラエルではなくて、
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神様の御国が驚くほど拡大するんだと教えているんです。ここがこの例えの肝である、ポイントであることを覚えていてください。
最も小さいと見える、つまらないと見える神の国。 神の国はいろんな意味があるってこれまで説明しましたから、皆さんそれから理解してください。
その神の国が驚くほど拡大する、
その点を私たちに当てはめて
学んでいきましょう。 2つの点を見ていきますけれども、
まず2番目に2つの点と言います。 からし種としてのイエス様と私たちという2つの点です。
からし種としてのイエス様と私たち。 弱くとろに足りないものとしてという意味のからし種。
当時の弟子たちも、そして私たちにも共通の悩みがあります。 それはですね、
誠の神様、救い主イエス様を
信じて従っていても、なぜ苦しまねばならないのか。 それに反してイエス様の道に従わない悪人がなぜ栄えるのか。
これをイエス様の当時の弟子たちも、
あるいは私たちにも悩みとなるわけです。 そのような悩みを持つ人にこのからし種の例えは、イエス様の時代もその後、福音書を読む人々も
励ましを、これらの例えから受けてきたわけですね。
で、ある学者がですね、
ここで大事なことを述べています。
それは私たちが知るべきことであって、実はイエス様こそこのような問いかけをしてもおかしくない、そういう経験をたくさんされたんですね。
この地上の生涯で。で、ある学者はこの例え話をイエス様自身になぞらえて、こう解説しています。
これですね、最もです。 最も小さなからし種はイエスの見姿によって明かされた神の国に関わる。
イエスの存在は謎めき多くの人には、真の姿、誠の姿が理解されない。
ゆえに当時の人々の目にイエスは弱く無意味なものとして映ったことであろう。
この当時の人にとってイエスが謎めきでいるがゆえに、メシアの秘密とも言われていますが、多くの人にとってイエス様は弱く無意味なものとして映ったということですね。
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しかしですね、マルコの福音書の書き出しを見れば、そこに本来のイエス様の姿がわかるわけですよね。
神の子イエスキリストの福音と一章一節冒頭に掲げられています。つまりそれでこう宣言されているんですね。
イエス様はこの地に神の御子としてキリスト、つまり救い主として来られた。
そしてその救いの良い知らせを述べ伝えた、そう冒頭宣言しているに等しいわけです。
けれども、そんなイエス様が弱さをまとい無意味な存在とされたというんですね。
まさにカラシ種と反対に最も偉大な方が、この地に撒かれた当初は最も小さなカラシ種であったということなんですね。
その証拠にこれまで見てきましたように、当時の神の民の双本山ともいえるエルサレムから来た
パリ裁備と立法学者からはイエス様は異端のレッテルを張られ、悪霊につかれている、悪霊の頭であるとさえも言われたわけです。
そしてこの後出てきますが、最後にはそれらの圧力によって十字架、神に呪われた者としての印の十字架につけられてしまうわけです。
しかしどうでしょうね、今やイエス様の教えは世界に広まっています。
キリスト教会はもちろん、教会以外にイエス様を元にした病院や学校が世界中に建てられています。
よく引用するこの病院ですね、聖ルカ国際病院。
築地にありますが、ここに病院の中のチャペルの十字架が見えるわけです。
病院の中にもチャペルがありますが、この病院の併設の建物に十字架がちゃんと掲げられています。
そしてこれはですね、立教大学のニーザキャンパスの中にある聖パウロ礼拝堂です。
ニーザシにもこの立教の鐘が鳴り響きますよね。
ここに十字架がありますけど、繰り返しますが、この礼拝堂はすごく大きいんですね。
中にいつでも入れますから見に行ってください、機会があれば。
その大きさはノアの箱舟と同じ大きさを再現していると言われています。
何が言いたいか、このように最も小さい枯らし種としてまかれて、当時取るに足りないとされたイエス様。
それが今や世界中に、教会はもちろん福祉、医療、そして教育など多岐にわたって良い影響を与えている。
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まさに枯らし種の木の下に鳥ガスを作って安らぎを得て命をつなぐように、イエス様の皆のもとですね、イエス様のご支配のもと、
多くの人々が命をつないだり安らぎを得たり、学びを得ている。
そしてこれから先、神様により全てが完成する時が訪れると、人々は救い主イエス様の素晴らしさを100%の明るさで、素晴らしさで見て、イエス様の偉大さに驚くわけです。
一方ですね、このイエス様のこと、今最も小さな枯らし種に例えたイエス様ですけれども、私たちについて一方ですね、私たちの善行が実を結んでいるように見えない時があります。
あるいは教会の働きもなかなか拡大しない。まさに自分の善行も教会の働きも小さな種のように思えるでしょう。
しかしやがて必ず大きくなる日が来る。 それは私たちが期待するよりもずっと先かもしれません。
成長した枯らし種が多くの鳥を宿すように、私たちの従い働きによって多くの人が祈る時が来るわけです。
私たちの教会を通してなされた働きによって多くの人々が安らぐ時がやがて訪れる、そのことを信じていきましょう。
最後、イエス様とプライベートな環境を結ぶという点ですね。
この例え話のまとめの点から見ていきます。
三子束を読みます。四章33から34。イエスはこのように多くの例えを持って彼らの聞く力に応じて三子束を話された。
ただから読んでみましょうか。ただ、ご自分の弟子たちには彼らだけがいる時にすべてのことを解き明かされた。
実はここはあえて言えば、例えのマイナスの効果、つまり、教えたいことが例えによって隠れてしまうという効果が背景にあります。
実は例え話は、日常の誰でも知っている話を使うことによって人々の関心を引きつけたり、古い教えを新鮮に蘇らせるという効果があるんです。
しかし一方、例え話を聞いて興味が湧いても、さらにその意味を深く尋ねたり探求しなければ、表面的な関心に終わってしまって身を結ばない。
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そのような、私あえてわかりやすいようにマイナス効果というか、いわゆる謎めいた部分があるわけなんです。
例えの、絵の関心だけで終わってしまうと、表面的になって、本当の深い意味が理解できなくて、終わってしまうということですよね。
これが、神の国が謎めいているということなんですね。
しかし、イエス様がよく言うように、聞く耳のある弟子たちに対して、イエス様が真摯な態度で接している、そのことがこの34節の御言葉でわかるわけです。
イエス様はいつも多くの群衆が集まってきて、例えで話して、それで終わっちゃうけれども、種まきの例えの後にあるように、弟子たちだけがイエス様に、先生、あの意味はどういう意味があるんですかと、尋ねることが許されたわけです。
そしてイエス様は、群衆から離れて弟子たちといるときだけ、この全てを解き明かしてくださったわけです。
ここで考えられることは、私たちも、この聞く耳のある弟子たちに対してイエス様の態度、ここで大事なことは、私たちもイエス様の弟子として、時々この謎に直面して、
例えば、一つ目、聖書の言葉そのものに関する疑問を持ちます。どういうことか、聖書の御言葉の意味そのものがわからないということを経験しますね。
ですから、こうやって礼拝でいろんな解説をしたりするわけです。
で、もう一つはですね、人生、イエス様を信じる人生に関わる疑問を抱くときがあるわけです。
一つ目は、聖書の言葉の理解そのものに対する疑問や謎。
二番目はですね、イエス様を信じる人生に関わる疑問や謎。
それはですね、弟子としてイエス様の見足を従って生きる上で、足跡を歩む上で生きる上の謎です。
例えば、神の国の御言葉が今の自分の生活とどういう関係があるかわからないということがあるかもしれません。
あるいは、今私が置かれた状況においてイエス様に従うとはどういうことだろうかと迷うことがあるかもしれません。
あるいは、試練の中でイエス様や神の国の御言葉を信じて生きることはどういうことなんだろうか。
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そういう中でどう祈ったらいいんだろうかという悩み、これらがイエス様を信じる人生に関わる疑問や謎と言えると思うんですね。
その時に、この弟子たちに密かに教えたイエス様の姿を思い出しましょう。
実は興味深いことに、ある英語の訳の聖書で34節の「彼らがいるときに」というのを公訳しているのです。
プライベートに、プライベートって意味わかりますよね。
これは弟子たちだけの特権、そしてその特権を今の私の弟子である私たちも体験することができるということなんです。
私たちが聖書やイエス様の御言葉、あるいは人生に関わる疑問や質問、謎をイエス様に尋ねるとき、
イエス様とのプライベートな関係を築くことができるということなんですね。
私たちのためにイエス様は御側で解き明かして下さい。
そのような意識を持って聖書を読み、祈る、生活の中でイエス様の御言葉を思い巡らしてはどうでしょうか。
そうした中で謎が解き明かされ、イエス様とのプライベートな関係の中で私たちは養われていくわけです。
これが3番目の点ですね。
イエス様と弟子の特権であるプライベートな関係を、聖書に関わる疑問、人生に関わる謎や問い、それらをイエス様に打ち明けることに。
祈りや、あるいはよく言う、私も言いますけど、学者さんもいいんですね、
聖書の言葉や自分の状況を合わせて黙想する、頭の中で、心の中で思い巡らす、そういう作業。
もしかしたらそれが、よいち地を耕して、石を抜けたり、水をやる、そういう作業にあたるかもしれません。
そのようなイエス様とのプライベートな関係を築くということですね。
最後にイエス様の弟子へのその励ましの御言葉、親密な関係に関わるイエス様の御言葉を読んで終わりにしましょう。
私はというイエス様の言葉、私はもうから、読める方一緒に読んでみましょう。
私はもうあなた方をしもべとは呼びません。 しもべなら主人が何をするのか知らないからです。
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私はあなた方を友と呼びました。 父から聞いたことをすべてあなた方には知らせたからです。
ヨハネノ福音書15章15節 それでは共に祈りましょう。祈ります。
天の神様、イエス様をあなたの御子救い主として使わせてくださったことをありがとうございます。
私たち神の御国、また私たちの働きはこの地においてそれに足りないものに見えるかもしれません。
しかし、あなたの時にあなたがそれを養い豊かな実りを与えてくださることを信じて感謝いたします。
あなたの御支配が実現する、それを見て私たちが喜びを驚く日が訪れること、そのことを信じます。
また、どうぞ私たちが様々な中で悩み疑問を持つ時に、あなたに直接お尋ねすることができますように、
尋ねる術を与え、その尋ねる道を導いてくださるように、
そしてどうか私たちがあなたの友として、あなたと親密な関係を結び、あなたの弟子として養われ育っていくことができるように導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
それでは皆さん1分ほどその場で黙祷し、祈りましょう。