2023-07-30 26:56

#ひとりでに育つ 23/7/30

マルコ-29からの礼拝説教。2023年7月30日録音。この短い箇所には私たちの成長に関わるとても大切なことが語られています。先週見た聖書の箇所が「聖書やイエス様の言葉に関わる謎解き」であるとするならば、今日の箇所は「私たちの人生の謎とこの世界の謎を解く教え」と言えるかもしれません。それは私たちの生活やこの世界に関わる「なぜ」「どうして」という問いと関りがあります。その答えを見るにあたり、最初の「1.このたとえの大事な点」で、今日のたとえばなしに込められた大切なメッセージを読み解きます。その上で、私たちとこの世界に関わる2つのこととして、2.私たちの心や成長に関わること、3.世界における正義と平和の実現について、を取り上げて、合計3点から学びましょう。


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それでお読みします。マルコの福音書4章26節から29節。
またイエスは言われた、神の国はこのようなものです。人が地に種をまくと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに、
種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。
地は、ひとりでに実をならせ、はじめに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。
実が熟すと、すぐに窯を入れます。 収穫の時が来たからです。以上です。
今日はこのところから、ひとりでに育つ、ひとりでに育つ、と題して意味言葉を取り継ぎます。
みなさんおはようございます。 今日は7月最後の礼拝、明日が7月最後の日ですけれども、
先週も今日もですけれども、本当に暑い日が続いていますね。 35度以上に最高気温が上がる猛暑日というのが、
このニーザーはじめ関東でも、またほぼですね、皆さん毎日天気予報を見ると、私NHK見てますけど、
日本地図の色が出ますよね。そうすると、最高気温が35度以上だと紫色になるんですけど、ほぼ日本全国、紫色になっている。
そういう暑い日が日本でも続いています。 ヨーロッパなど、世界各地でそういう状況が続いていますね。
そんな中、草花も弱ってしまうかもしれません。
除草剤をまいて、話題になっている会社もありますけれども、今日そんな中ですけれども、今日の箇所はですね、こちらの画面にもありますが、
4章にある3つの種の例えの中の2番目の種の例えです。 赤い字で書いておきました。
その種の例えの2つ目、その1個目と2個目の間、先週見ましたが、
明かりの例え、それはイエス様の御言葉や神の国の謎を解く鍵ということが語られていました。
そのことを先週学びましたね。 その先週のこと、イエス様の御言葉、
神の国の謎解きをまとめればですね、
神の国の教え、イエス様の御言葉の謎解きと言えるかもしれません。 先週見たところがですね、
明かりの例えが御言葉に関わる謎解きだとすれば、今日の箇所はですね、私たちの人生の謎、この世界の謎を解く教え、
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私たちの人生、もっと言うと成長とかですね、この世界の理不尽的なものの謎を解く、謎解きになるような教え。
これらの答え、質問ですね、なぜどうしてという問いとの関わりがあると考えられます。
例えば、なぜ私は成長しないのかとかですね、なぜこの世界には平和が訪れないのか、
そんな問いに関わる謎解きになるかもしれません。 その中で一番最初の点がですね、
例えそのものの意味を理解していただきたいということで、非常に大事な、あえて言うと真理が書かれています。
そのことをまず、この例えそのものの意味と大事なことを最初に皆様に説明します。
そしてその後ですね、私たち、特に私たちの成長、そしてこの世界に関わること、2つ取り上げ、3つの点から今日も学んでいきます。
まず最初、 この例えの大事な点というところですね、4章26から28、もう一回読んでみます。
またイエスは言われた、神の国はこのようなものです。 人が地に種をまくと、
夜昼、寝たり起きたりしているうちに、種は芽を出して育ちますが、 ここから行きましょうか、3、はい、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。
地は一人でに実をならせ、はじめに苗、次に穂、 次に多くの実が穂にできます、ということです。
この実言葉、 あえて大事な点2つとしましたが、まず最初はですね、
種まく人はどうしてその種が育って多くの実を結ぶのか、その仕組みがわからないということです。
勉強で生物学とか植物について勉強したりですね、今、 牧野富太郎さんの電気が話題になっているNHKの朝ドラなんかありますけれども、
このまかれた種が成長して実を結ぶ仕組みがわからない、
ということをまず大事な一つの点として覚えておいてください。 その仕組みがわからない
ということについてですね、この実言葉ではですね、青い部分でありますけれども書いてあります。 どのようにしてそうなるのか、その人は知りません、という言葉です。
これが大事です。もう一つ2つ目に大事な点、それは 種まく人は種の成長と
その収穫の多くの実については何もできないということなんです。 何もできないということが2つ目の大事な点です。
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まあもちろんこれはですね、 前の種まき良市の例よりも話しましたけど、種まいた人が手入れをするとかですね、
そういうことは大前提で置かれています。
その上ででも、まいた人は 成長や実りについて何もできないということがここで強調されています。
究極的には、ここで言うと土って言い方してですね、土そのもの、
まあそうしてあげて言えば、種そのものが多く実りをもたらすのであって、 種まく人は無関係である。
それがですね、この 赤い字でありますが、地は独りでに身を流せという、この独りでにという言葉に現れています。
で、興味深いのはこの独りでにという言葉が、 新約聖書が元に書かれた元のギリシャ語では
オートマトスって言うんです。 英語のそれはオートマティック。
いつオートマティックなって歌がありましたけど、 このオートマティックはそこから生まれたオートマトスという言葉が独りでにという言葉に
当てられているんです。 で、それはどういう意味かというとオートマティックという英語が表しているように、その意味は
行動や決断のために外からの働きかけを一切必要としないという意味なんです。 オートマティック、オートマトス、行動や決断のために外部の働きかけを一切必要としない
自発的なものだという。 だからそれは神の国の成長と実りには外からの働きかけが一切必要ない
それがこの例えで教えていることなんです。 この大事な真理をぜひ私たちは心に留めておきたいんですね。
余談ですけど非常に短い例えです。 たった6、7、8、9、4節しかない。
でも私ここが非常に好きな箇所であり、大事なもとなのであえて短い区分ですけれども取り上げています。
もう一つ言えば、これ知っておくとちょっと言い方変ですけど自慢できます。 この例え、種まきの例えの中で
いろいろありますけど、丸子にしかないんです。 ルカとか
マタエに4つの地の例えはありますけど、このあとカラシナネのコンドミールの例えはありますけど、この人知れずの例えは丸子にしかありません。
覚えておいてください。 その大切なこの
原則
オートマティック、オートマトス、 一人でに
そして私たちは知らない、わからないということを覚えておきましょう。 実はこの旧約聖書には
一人でに地が実を実らすという信仰が詩編に歌われています。 67編6節、ちょっと読んでみますかね。
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この頭から読んでみましょう。地はからですね。 地はその実りを生み出しました。
神が私たちを祝福してくださいますように。
地はその実りを生み出しました。 生み出したはですね、
与えるという言葉なんです。 地が実りを与えましたという、そういう単刀直入な言葉です。 そしてその背景には他でもない神様が実りを与える
という信仰が
込められているわけです。 他でもない神様。
で、この種まきと収穫のたとえ、今日見た短い歌詞が教える この歌詞の大切な真理それは
神の国の実りをもたらすのは私たちではなく神ご自身ですよということなんです。 言い換えると人知れず多くの実りをもたらす神の国という信仰の大原則をまず覚えておいてください。
人知れず多くの実りをもたらす神の国という信仰の大原則をまずしっかり捉えておいてください。 これが最初の点です。その上で私たちに関わることを見ていきます。
2番目、私たちの心や成長に関わること。 ある学者はですね、この歌詞はこういう私たちの人格的な信仰的な問題にも関わるし、もっと幅広い世界にも関わることだということで述べていますが、まず私たちに関わること。
2週間前の種まきの例えで話したように、 神の国は
神様によって私たちにもたらされる祝福を意味しています。 神の国は何ですか?それは一つには、神様によって私たちにもたらされる祝福、そして言い換えればイエス様によって私たちにもたらされた、もたらされる救いということが神の国という言葉に込められていましたよね。
大事な言葉にはその文化特有の深みがあって、馬というね、モンゴル語もたくさん意味があったって覚えてるでしょ。
それに神の国という言葉にも広く深い願蓄が、この神の救いと祝福という願蓄があって、その中から見ていきましょう。
で、それをあえて私たちに当てはめながら、先ほどのですね、人知れず多くの実りをもたらす神の国ということを考えていきましょう。
それは私たち自身の成長のプロセス、 クリスチャンとしての成長、言い換えればよく礼拝の後祈り方を出していますが、イエス様と同じに姿に変えられていく、そういうプロセスと関わりが出てきます。
それを考える上でですね、
理想的な自分になれない様子が伝わってくる、
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単価をですね、2つあげます。突然ですけど。 まずですね、奈良県の人が読んだ単価。
叱られた記憶が不意によみがえり、サボテンとして母に接する。
叱られた記憶が不意によみがえり、サボテンとして母に接する。
なんとなく伝わってくるかもしれません。私がここから読んだのはですね、
感じたのは、過去の苦々しさから自由になりたい。
そしてできればそういうことを忘れて相手に親切にしたいでしょうかね、普通に接したい。でもそれができない現実とか、そういうジレンマが伝わってきた。
傷つけられた間に無意識にトゲトゲしくなって、自分に後で気が付いた、という事のように思いました。
2番目はですね、神奈川県の人が読んだ歌ですが、
その人の悲しみ全部飲み込んで口から虹を出すべきだった。
その人の悲しみ全部飲み込んで口から虹を出すべきだった。
イエスさんは口から虹出てましたけど。これはですね、皆さんいろんな捉えができると思いますが、私が捉えたのはですね、
なんか相手の人が自分の悩みや悲しみを分け合って勝ち合ってくれたんでしょうね。
まあ先週あの岩鉄が外来カフェのコーディネート寄せ講座ありましたけど、苦しみ分かち合ってくれる。
で、それを聞いてもしかしたらこの人は
アドバイスしてしまったりとかですね、あるいはなんかこう、もっと明るく生きなよって言ってしまって、いわゆる
寄り添ってあげたりとかですね、虹だったらば希望ですか、希望の言葉をかけてあげられなかった。
そんなこの自分を後悔しているようなことが私にはこう、
感じて、感じたわけなんですが皆さんどうでしょうかね。
まあどちらも私が読んだ、私が見た感想は理想の自分になりきれない、
そういう自分を悔やんでいるように歌われていると思ったわけです。
で、そこで私たちをイエス様を信じて救われました。
しかしその私たちの信仰の完成、私たちのこの信仰の完成はですね、
イエス様が再び来られる時、まあ皆さんクリスチャンの方もいろいろ分かると思いますけど、いわゆる終わりの完成の時を待たねばならないわけですよね。
言い換えればその時まで自分の弱さや至らなさを知ってがっかりしたりですね、落ち込むことがあるかもしれません。
こういう成長と完成には長いプロセスが必要で、その中で落ち込んだりがっかりしたり、まあ諦めたくなる人がいるかもしれませんね。
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で、そういう誰かに対して良いことをしよう、したいと思ってもできない。
あるいはしたり、何か良いことをしても、誰かに対して良いことをしても、それが身を結ばなくて一体何なんだろうな、とがっかりすることがあるかもしれませんね。
まあそういう、あえて言えば救いが完成しない、救いのプロセスにあるジレンマみたいなのをちょっと言いたかったわけなんですけども、
そういう時こそですね、私たちはこの人知れず多くの実りをもたらす神の国という信仰を、その希望を思い出す必要があると思うんですね。
人知れず多くの実りをもたらす神の国の希望を抱き続ける必要がある。
この、朝起きて、夜寝て、朝起きて、朝が来て夜が来る、まあ元々のマルコの副書籍を書いてあるんですね。
寝て、起きて、夜、朝、みたいな書き方をしたんですけども、まあ、夜寝て、朝起きて、朝が来て、また夜が来る、こうして、
いわゆる日常生活を送っているうちに何が起こってくるかというと、私たちは人知れずイエス様の身姿へと変えられているということなんです。
私たちがする良い行いも同じです。朝起きて、夜寝て、朝が来て、夜が来て、そういう日常を繰り返していく中で、私たちが良いことをする。
それがいつか身を結んでいく。人知れず身を結んでいく。そういう希望ですね。結果がすぐ見えなくて。
がっかりさせられても、そういう人知れず身を結んでいく。そのように、人知れず多くの実りをもたらす神の国の希望を、
先ほどの、命を持つ種と地面の例えから抱き続ける必要があるのではないかと思うわけです。
人知れず日々の平凡な生活を送っていく中で、私たちが気づかないうちに実りがもたらされる。
実はある学者はですね、この箇所の最後は、次最後話しますけど、何があるかというと、喜びで驚きだって言うんです。
皆さんね、夏休みのアサガオとかヘチマとかを植えたりしてですね、この実りの大きさに驚くことがないでしょう。
よく私もいろんな仕事先でね、ゴーヤをもらうんです。
なりすぎて困るって言うんですね。もらえすぎて困るんですけど、いっぱい実るように。
それ以上にですね、私たちが神にあって良い業をし、また成長のジレンマを悩む中で日々送っていく中で、
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ついにはですね、喜び驚く。 実りを見て喜び驚く時が来る。
それを胸に希望に抱いていきたいと思います。
そんな、まさにクローリン・パウロのですね、信仰の見言葉をちょっとこのまとめとして読みましょう。
第1コリント15章の58節ですね。
ですからから読んでみましょうか。
ですから私の愛する兄弟たち、固く立って動かされることなく、いつも主の技に励みなさい。
あなた方は自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
そういう、このたとえに関わるような希望の言葉もあるということです。
そして最後、簡単に見ていきますが、この世界における正義と平和の実現について、
ちょっとレジュメに誤字がありますけど、
世界における正義と平和の実現についてというのが3番目のポイントです。
世界におけるですね。
見言葉4章29節読める方、前にある見言葉を読んでみましょう。
身が熟すとすぐに窯を入れます。
収穫の時が来たからです。
この収穫の喜びがここにあると同時にですね、
実はですね、世界の現状と比べた時にですね、
皆様の中には、この世界に悪人が栄え貧しい人が飢え苦しむ、
あるいは戦争が絶えないことに心を痛めるということがあるのではないでしょうか。
その時にやはりですね、人知れず多くの実りをもたらす神の国の希望ということを胸に抱いていく。
とができるわけです。
2週間前にお話ししましたように、
この神の国という言葉は、神様の祝福や救いと同時にですね、
神の国には、神様の支配や統治を意味するのを覚えてますよね。
そこにはですね、神様の正しい裁きと平和の実現の約束が込められているんです。
まあ、あえて言いませんけど、残念ながらこの世のですね、
独裁者、統治者の例を見るときに、あんまり良い例は見れないですよね。
この独裁的なことで、
軍事的ないろんなものを飛ばしたりしてるけど、国民が飢えてしまう。
もうその独裁者の言いなりですよね。
でも、誠の神様は、聖なる慈愛深い独裁者として世界を統治するならば、
誠の平和と正しい裁きが訪れて、運や加訳がなくなると考えることができるかもしれない。
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で、その時にですね、実は今日のこの4章29節の最後の言葉は、
旧約聖書ヨエル書のですね、まさに世の終わりの神の審判の御言葉が反映されているんです。
ヨエル書の3章13節。 ちょっと難しいかもしれませんが、読める方は読んでみましょう。
釜を入れよからですね。
釜を入れよ、刈り入れの木は熟した。
来て踏め、踏み場は満ちた。
石亀は溢れている。彼らの悪がひどいから。
これはもしかしたら、ブドウの刈り入れのイメージがあるんじゃないかと思いますね。
この刈り入れたブドウをですね、 亀に入れて、桶に入れて踏んでブドウ種を作る。
それはですね、神が終わりの日に悪しきものをですね、収穫のように刈り集めて、
潰して滅ぼすという、そういうイメージが反映されているように思われます。
何を伴われですね、今、悪が横行して私たちがどうしようもできないと思うかもしれません。
しかしですね、もう一つ聖書が、神様が御言葉を通して教えていることそれは、
人間の裁きは過ちを犯す場合があるというんですね。
独身の例えがイエス様に語られています。独身がまかれたらどうしましょうか。
刈り取りましょうか。イエス様、ほっとけと。
あなたたちが刈り取ったら良いものも買っちゃうよと。
終わりの日の裁きに任せなさいということを、ある福音書に書いてあります。
ですから私たちが、あるいは人間が人間の力で正義を断行したり悪を裁こうとすると、
殺戮になったりですね、
過ちを犯すことがある。ですから神様は、聖書の中で裁きは神に委ねなさいと教えているわけです。
しかしその中でもですね、
私たちは完全な正義がなされない中で心を痛めるということがあると思いますね。
そういう中で、世界を変えようという気持ちも必要かと思いますが、
それ以上に私たちは、完全なる神様の支配が訪れる。
その日をですね、
完全なる神様の支配が訪れる。
その日が成就する日を待ち望みながら、
やはり、夜寝て、朝起きて、昼過ごし、夜過ごす。
そういう日々の日常の生活を淡々と繰り返していく。
そしてその中で、正義の実現にもしかしたら貢献できないかもしれませんが、
何かできることをする。
テレビを見ているとですね、
世界的な慈善団体が寄付を募集していたりもします。
まあそういうこともあるかもしれませんが、
何か、もちろん無理がない範囲で、
自分が心からしたいという中でですね、
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そういう自然活動に力を貸すということも、
一つの手かもしれません。
まあそういうことで具体的なことを最後に述べましたけれども、
いわゆる神の正義が実現する、
終わりの時、まさに神の国、神の支配が実現する、
その時に私たちは正しい裁きがなされて、驚く日が来るわけです。
その時にですね、待ち望みながら、
この地で私たちはできることを淡々と良きことをしていくということがあるのではないかと思います。
最後にですね、旧約聖書の中にある、この神様の植物をイメージした、
成長とかですね、豊かさの原則を読んで終わりたいと思います。
エゼキエル書の17章24節ですね。
主であるから読んでいきましょう。
主である私が高い木を低くし、低い木を高くし、
怠きを枯らし、枯れ木に枝を出させることを知る。
主である私が語り、私が行う。
高い木というのは、高ぶる悪ですね。それを低くする。
低い木というのは、散りたげられた貧しいもの。
その人を高くし、ということでしょうね。
そのような正しいことを見言葉通り神が行おうと約束してくださっています。
そのことを希望に、胸に抱きながら歩んでいくお互いでありたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様皆を賛美いたします。
私たちは自分の愛みの中で、なぜ、どうしてもっとと思う時があるかもしれません。
また、この世界の様々な惨状を見る時に、なぜ、どうして、と思うこともあります。
それらの中で、あなたが私たちを日々の中で養い育って、
また、正しい正義をあなたが実現させてくださるお方である、
そのことを覚えて、あなたにお委ねいたします。
どうぞ、まさに一人でに成長し身を結ぶ、
あなたの御国、あなたの命、それが私たちに与えられていること、
また、それがこの世界に送りつつあることを覚えながら、
日々の歩みを続けていくことができるように、
そして、あなたに会って身を結び、身を見て喜ぶことができるよう、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは御言葉に応えて、皆さん1分ほどお祈りしてください。
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