2023-08-13 26:19

#シン・嵐を制すイエス様 23/8/13

マルコ-41.からの礼拝説教。2023年8月13日録音。今日の聖書箇所は教会に長らく通う人にはお馴染みの出来事です。7年前に映画「シン・ゴジラ」が公開されて以降、昭和に誕生したお馴染みのものにカタカナの「シン」を付けたシリーズがちょっとしたブームとなりました。そこで今回は「シン・嵐を制すイエス様」としました。この奇跡物語も詳しく調べると、表面をなぞっただけでは見えない興味深い背景に触れると、イエス様の権威について新たな見方が出来るからです。すると信仰生活に新たな視点を得ることができるでしょう。1.これまでの奇跡との関り、2.天地創造との関り、3.試され育てられる信仰、の3つの点からみていきます。

注:メッセージ内で 「マッコウクジラ」と言っている所は、本来「ナガスクジラ」と言うべきでしたので訂正します。

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マルコの福音書4章35節から41節をお読みします。
さて、その日、夕方になってイエスは弟子たちに向こう岸へ渡ろうと言われた。
そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを船に乗せたままお連れした。
他の船も一緒に行った。すると、激しい突風が起こって、波が船の中にまで入り、船は水でいっぱいになった。
ところがイエスは、鮮美で枕をして眠っておられた。 弟子たちはイエスを起こして、「先生、私たちが死んでも構わないのですか?」と言った。
イエスは起き上がって嵐を光りつけ、湖に黙れ、沈まれと言われた。
すると、風は止み、すっかり薙ぎになった。 イエスは彼らに言われた。
「どうして怖がるのですか?まだ信仰がないのですか?」 彼らは非常に恐れて互いに行った。
風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。 以上です。
今日はこのところから、震・嵐を制すイエス様と題して、みこたが取り付きます。 皆さんおはようございます。
台風が7号が近づいていて、今日の礼拝もどうなるかということで、いろいろ心配してましたが、とりあえず今日は大丈夫そうですね。
そして今週、月曜日、火曜日ですか、少し上陸するということで心配かと思います。
そんな嵐の前触れもあるような中ですけれども、今日の見言葉はですね、イエス様がこの嵐を制した、そういう出来事です。
ガリダヤ港ですね。 弟子たちがイエス様とともにですね、船で向こう岸に渡ろうとした時に、このような
出来事が起こった。これはですね、教会学校とか長く教会に通っている人にはおなじみの話ですね。
教訓としてですね、よく言われるのは、このような嵐を沈めたイエス様があなたとともにいるのですから、試練の中でも
そのイエス様がともにいることを覚えてですね、信頼していきましょうとか、心の平安を保ちましょう、そんな教訓がよく語られるかと思います。
7年前にですね、シン・ゴジラというのが公開されてから、この昭和に流行ったものがですね、シンという頭をつけてですね、いろいろ出てきましたね。
シン・ウルトラマンとかですね、シン・仮面ライダーとか、ちょっと偏った導入になりましたけどね、シン・焼きそばとかいろいろ出ましたけれども、そこで今回ですね、
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このよく馴染んだ嵐を沈めたイエス様にですね、シン・嵐を制すイエス様と題しました。
実はこのよく知られた奇跡物語もですね、詳しく調べると、この表面をいつも言いますけど、表面をなぞっただけでは見えない、
興味深い背景がわかってくるんですね。
私たちもそれを知ることによって、この私たちの、特にイエス様を信じる方であれば、信仰生活にこの新たな視点を与えることができるのではないか、私は少なくともそうだったんですね。
よくマタイの福音書にある、この嵐の時に、倒れない家の例えの中で、そこには岩の上に建てた家とありましたけど、
この深い土台をですね、掘り下げて深く、そして広いしっかりした土台を持った家は嵐に耐えます。
同じようにですね、私たちの信仰も神様の民、何千年度単位の神の民の長く深い、そして世界中に広がる、広い歴史や伝統の中に根差す、
そういう信仰をですね、私たちが養うと、私たちもこの嵐の中を耐え抜くことができると考えられるわけです。
それではいつも通り3つの点からお話ししていきますけれども、一番まず、これまでのマルコの奇跡との関わりということを見ていきましょう。
44の39節ですね、こう書いてあります。嵐の中イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に黙れ、沈まれと言われた。
ここを読んでみましょうか。3、すると風は止み、すっかり薙ぎになった。
この実はですね、イエス様が語った黙れ、沈まれという言葉、この特に黙れという言葉ですね、
私は中学、高校時代ですね、ある高校を流行ってたんですけども、生物の先生がですね、男子校だったのでおとなしい先生だと授業がね、ちょっとざわつくんですね。
で、まあ、すごく
髪の毛が長くてですね、細い年配の生物の先生ですけど、授業がうるさくなるとですね、
黙れって言うんですね。それを思い出しましたけど、イエス様はもっと意見を持って黙れ、沈まれと言いました。
実はこの黙れという言葉、これはですね、この間まで見ました、
最初の奇跡、1章に載っているカペナウムの街道で、アクレに疲れた人を癒した最初の奇跡、その時にイエス様がアクレに命じた言葉と同じ言葉がこの黙れという言葉なんです。
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見ますと1章27節、ちょっと消してしまいましたけども、イエス様はそこでですね、黙れ、そして出て行けと、この街道でアクレに疲れた人のアクレに命じたわけです。
すると、そこでその人は癒された。で、その奇跡を見て人々はこういう反応したんですね。
人々は皆、驚いて互いに呑んじゃった。街道で見ていた人々。読んでみましょうか。3、これは何だ。
権威ある新しい教えだ。この方が穢れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ。
この言葉はマルコの福音書で一番最初にイエス様の権威が認められた。人々が驚いた、そういう言葉なんです。
でも、この同じ驚き、イエス様の権威を認めた言葉が嵐を沈めた奇跡の後でも、弟子たちの言葉の中に重ねられているんですね。
ちょっと読んでみましょうか。この風谷からですね。3、風谷、湖までが言うことを聞くとは、一体この方はどなたなのだろうか。
今日の箇所の一番最後に、このような驚きの弟子たちの言葉が語られているわけです。
覚えていただきたいのは、実はこの嵐の奇跡と、悪霊追い出しの奇跡に関連が作られて語られているということを覚えてください。
しかももう一つは、これまでの奇跡というのは、この病気が治ったり、あるいはある病が癒されたり、それはですね、一人の人の癒しの奇跡でしたよね。
でもここでは、自然界というもっと大きなところでイエス様の奇跡が行われたという点が注目するところなんです。
このように、それまでは孤人に起こった奇跡、この嵐を制した奇跡からは、
孤人を超えたさらに偉大な力がイエス様に備わっている、そのようなことが、
から見て、この後の奇跡でわかってくるわけです。イエス様の偉大さ、それがどんどん広がっていくのが、ここの話から始まっていく、そのことを覚えてください。
その世の上で2番目。 実はここには天地創造との関わりがあるんです。
4章39-41 イエスは起き上がって風を光りつけ湖に黙れ沈まれと言われた。
すると風は止み、すっかり薙ぎになった。 彼らは非常に恐れて互いに行った。
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風や湖までが言うことを聞くとは、一体この方はどなたなのだろう。
繰り返しますが、実はこの奇跡は、イエス様が天地創造の神様と等しいお方だということを表しています。
実はそのことを旧約聖書の詩編の中で、天地創造と水を制する神様ということが見て取れるわけです。
詩編の中にその顕著な例が2つあるんですが、そのうちの1つを見ていきますね。
詩編の74編の12節から17節。非常に面白いところです。
ちょっとですね、長いんですけど部分だけ皆さん読んでもらいましょうか。
こういう告白の詩編です。74編、12節から17節の罰水。
神は昔から私の王、この地において救いの御業を行う方。
このあなたは未知から王から読んでみましょうか。難しいかもわかりませんが。
3、あなたは未知からをもって海を打ち破り、その水の上の竜の頭を砕かれました。
あなたはレビアタンの頭を踏みにじり、砂漠に住む者たちの餌食とされました。
あなたは地のすべての境を定め、夏と冬を作られました。
ちょっと長いんですけど、ここで言っていることは実は、天地創造の神様をその宮座を覚えて賛美しているというかですね、
深刻告白している歌舎なんですが、その中でもですね、天地創造の時に神様が水を制したということをここで強調されています。
創世紀1章の1節を見ると、地は新しい訳では暴爆としていたとかですね、混沌としていたってありましたよね。
光を得ていて光が出てきたとかですね、水が分けられた。ここでは特に水の創造における神様の宮座が語られています。
その中でとても興味深いのは、その様子がですね、ここ、
竜の頭を砕かれたという言葉とレビアタンの頭を踏みにじったという言葉で表現されています。
実はですね、これはどういうことか。荒れ狂う海の中にですね、竜とかレビアタンがいる。
それを神様が制したと表現しているんです。昔の神話の絵とかで見たことありますよね。
こういうですね、まあちょっとグロテストな絵ですけど、こんな様子がレビアタンみたいなのがいて、
この海を制した神様の宮座がこんな絵で表されてあるんです。
で、実はこのレビアタンというのは何か。
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ゴジラとかですね、そのウルトラマンの怪獣ではないんですけれども、
レビアタンというのはですね、海の中に潜んでいて、
荒れ狂う海のその原因を作っていたものと、当時考えられていた、巨大な生き物がいたというふうに考えられていたんですね。
で、まあ科学者がですね、いろいろ検証しておそらくそれは、
エジプトとの関連で語られているのでナイルワニというナイル川にいるワニとか、
地中海を考えられていたので、地中海に存在するマッコウクジラではないかと言われていたんです。
で、まあ皆さんもご存知なのに、当時今、2000年、3000年前ですから、科学的な知見がないわけですからね、
この海のそこに怪物がいて大嵐が起こるというふうに考えていたかもわかりません。
ただ、そのような知見がない当時の人々にとって、こういう考えがあったり、あるいは今であれば私たちはテレビやネットの動画でいろんなものを見ることができますが、
当時の人はですね、このリュウやレビアタンという、まあ想像上の生き物をこうやって描写する、書くことによって、私たちよりもずっとですね、
読んだり聞くことを、イマジネーションがですね、広がって、この天地想像の時に水を制した神様という、その神様の偉大さがリュウやレビアタンを制するという言葉で強調されている、
生き生きとその当時の人々に伝わった、そういう背景があるわけなんですね。
で、まあそれはそういうとしましてですね、まあこの嵐を制するイエス様のことを聞いた当時の人々、実はこのマルコの福音書は当時の教会で生まれていたんです。
そこの当時のクリスチャンの方々や、このユダヤ教神の民の伝統に根差した人たちは、このイエス様の嵐を制する物語を聞いた時に、このレビアタンを制した、水を制した、想像の神様ということがぴったりきたんですね。
で、そしておそらくその時にですね、私たちが思う以上にイエス様という方が天地想像、この水を制する偉大な神様であるということが、当時この御言葉に出会った人々に生き生きと伝わったということを覚えておいていただきたいんですね。
で、実はその時に彼ら彼女らはですね、そういう天地想像の龍やレビアタンを制した想像の神様ということとイエス様を結びつけただけではなくて、実はさっきのレビアタンのナイルワにはですね、エジプトのことも象徴していたと言われているんです。
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そうすると、エジプトと水からの救いというのは何を皆さん想像しますか?
出エジプト紀ですね。神の民がエジプトから逃れてきたときに、目の前にですね、航海の海がですね、立ちはだかって逃げることができなかった神の民を神様が申せによってこの海を開いて、そしてイスラエルの人たちを脱出させてくださった。
そういう海の奇跡ということも実はこのイエス様の嵐を制するという出来事から結びつけることができたわけなんですね。
また何回も繰り返しますけれども、地中海などで荒れ狂う海の中で神に叫んだ人たち、あるいは旧約聖書のヨナショですね。ヨナショにあるように嵐の中でですね、この船が翻弄される中で神様に助けを求めたヨナショに出てくる人たちの祈り。
そういうものをこのイエス様の嵐を制する物語に触れた神の旅である人たちは連想して、このイエス様の偉大さを知ったということがあるわけです。
私たちもですね、このレビアタンやリュウというのは架空の生き物ですけれども、創造をたくましくしてですね、荒れ狂うガリアヤコの弟子たちの舌をレビアタンやリュウが暴れ回っている。
その中をですね、イエス様が立ち上がって、それらを黙れ沈まれと制して静かにした、そういうことを思い巡らしてみるのも面白いかと思います。
まあそのような神様の不思議な水の中の御業を同じ四編の七十七編十九二十節がこのように読み上げているんですね。
ちょっと長いかもしれません。読んでみましょうか。あなたのから三文。
あなたの道は海の中 その通り道は大水の中
あなたの足跡を見た者はいませんでした
あなたはモーセとアロンの手によってご自分の民を羊の群れのように導かれました
そのように今、嵐の奇跡から水を制する創造主なるイエス様、神の民をエジプトから救い出した神様、その描写を結びつけて心安らかにしたいものです。
その中で試され育てられる信仰ですね。
イエス様は嵐を制した後に弟子たちにこう言われました。
イエスは彼らに言われた。どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。
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彼らは非常に恐れて互いに行った。風や湖までが言うことを聞くとは、一体この方はどなたなのだろうか。
ここでですね、弟子たちが問われている信仰。
まだ信仰がないんですか。まだ信仰を持っていないんですかという信仰。
これはですね、ちょっと難しい言葉で言うと、継続的なイエス様に対する信頼です。
私たちで言えば、イエス様を信じて人生の旅路を歩んでいきます。
その中で様々な試練に遭いますけれども、様々な試練やピンチの時にですね、そこでもイエス様を信頼し続ける。
人生の旅の中でイエス様を信頼し続けるという意味での信仰と考えていいわけです。
今まで皆様にお話ししたように、弟子たちはこのマルコのここの四章に至るまで、イエス様の奇跡を様々目の当たりにしてきましたね。
病を癒やすとか、悪霊を制するとか。
それだけではなくて、しばらく前もお話ししましたけれども、一般の人たちはですね、たとえ話を聞いてもその意味を分からない。
教えてもらえなかった。でも弟子たちはイエス様とプライベートな関係を持って、直接ですね、あれはどういう意味ですかと聞いたら、
イエス様は弟子たちといる中で、このプライベートにですね、この御言葉の意味を解き明かしてくださった。
そういう親密な関係をこれまで持ってきた。
しかしその中でもまだ彼らはイエス様を信頼できなかった。そのことがイエス様によって問われているわけなんです。
でもですね、そういう、なぜ信じられないんですか、信頼できないんですかと問いつつも、イエス様は彼らの助けてください、私たちが滅んでも構わないんですかという叫びに応えて立ち上がって、
この嵐を制して弟子たちを救ってくださいました。
この弟子たちのようにですね、私たちも人生の旅路の中で、その都度違った種類の試練に遭うかもしれません。
この弟子たちのようにですね、今までと桁違いのですね、出来事に直面するかもしれません。
できればその度にですね、イエス様に信頼して心安らかにいたいものです。
でも皆さんはどうか分かりません。私はすぐですね、怖がったり慌てふためいてしまう気の小さい人間なんですけれども、
たとえですね、試練の中で心が揺さぶられたとしても、この弟子たちのようにイエス様に必死にですね、助けてください。
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救いを求める中で、イエス様によって救われるという体験を積み重ねていくことができるわけです。
実はそのような新たにイエス様の救いを体験するたびにですね、私たちはこのお方は一体どのようなお方なのだろうかと弟子たちが驚いたようにですね、
私たちは新たに、ああイエス様って本当に私の救い主なんだな、こんなことまでイエス様は願いを聞いたり助けてくださるお方なんだなと知ることができるわけなんですね。
このようにですね、私たちの人生、イエス様信じたら大船に乗ったつもりでいればいいんでしょうけれども、
私たちの人生は小舟のようにですね、ゆらゆら揺れてしまうかもしれません。
しかしその人生の小舟の中にイエス様が共にいてくださる。
イエス様を共にいるというのは、クリスチャンであれば当然そう信じていると思います。
でもですね、もう一度今日心新たにして、そのイエス様、私の心の中にイエス様というのは天地創造の神様なんだ。
この荒れ狂う海、その中にいる竜やレビアタンを生死して沈める創造主だ。
そのお方が私の人生の小舟、私の心の中にいてくださる。
それがですね、一体どういうことなんだろうか。
私たちが普段信じて、私たちの中に住んでおられると思うイエス様というのは、この天地創造の嵐を制する創造主なる神なんだ。
それが一体どういうことなんだろうか。
そういうことをですね、思い巡らしながら日々を過ごしたり、今週過ごしていく。
その一つのことだけですね、今週考えて生活する十分価値があることだと私は思うんですけれども、
そういうことを考えながら、思い巡らしながら日々過ごしていってはいかがでしょうか。
そのような今日は新たなイエス様の奇跡という見方ということでお話ししましたけれども、
最後にこの天地創造の神様とイエス様を結びつけるような、やはり九百世書の見言葉を紹介して終わりにしたいと思います。
伊沢賞四十二章の五節から七節ですね。
天を創造し、これを延べ広げ、地とその産物を押し広げ、その上にいる民に息を与え、そこを愛の者たちに礼を授けた神なる主は、こう言われる。
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ちょっと難しいかもしれませんが、この渡しから読んでみましょう。
渡し主は義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたも神の契約として国々の光とする。
こうして見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを極夜から連れ出す。
私たちを導いて救ってくださるイエス様のことを覚え、今週歩んでまいりましょう。お祈りします。
天の神様、皆を賛美いたします。
荒れ狂うガリダ役を制したイエス様、そのあなたは天地創造の神であり、
海の中で荒れ狂う竜やレビアタンを制した偉大な創造主であることを覚えて賛美いたします。
どうぞ私たちが日々の生活の中で出会う様々な出来事、その中で創造主なるイエス様を覚えることができますように。
また、私たちの内にこの天地万物を作り、水を制した創造主なるイエス様が共に住んでおられるということ、
そのことがどういう意味があるのか、そのことを思い巡らしながら、これからの日々を歩むことができますように。
私たちの心深くに救い主イエス様のその祝福を宿すことができるように、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
それではしばらく1分ほど黙祷して、神様にお答えする時間を持ちましょう。
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