2023-07-16 25:59

#種まきのたとえ 23/7/16

マルコ-20からの礼拝説教。2023年7月19日録音。今日取り上げる箇所はイエス様のたとえ話しの中でも最も有名な「種まきのたとえ」です。種とはイエス様のみことばで、今の私たちにとってはイエス様の教えをはじめとする聖書の言葉を指します。まず、4章のたとえばなしを理解する上で大切な神の国について取り上げ最初の点を1.「神の国」とは神の救いの祝福と神の支配である、とします。その後種まきのたとえについての解説、2.良く考え耐えることが必要、3.実りの約束、の合計3点から学びましょう。


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それではお読みします。
さて、イエスだけになった時、イエスの周りにいた人たちが、12人とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
そこでイエスは言われた。
あなた方は、神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。
それは、こうあるからです。
彼らは見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない。
彼らが立ち返って許されることのないように。
そして彼らにこう言われた。
このたとえがわからないのですか?
そんなことで、どうしてすべてのたとえが理解できるでしょうか?
種まく人は、御言葉をまくのです。
道端にまかれた者とは、こういう人たちのことです。
御言葉がまかれて、彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らにまかれた御言葉を取り去ります。
いわちにまかれた者とは、こういう人たちのことです。
御言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。
あとで御言葉のために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
もう一つの、茨の中にまかれた者とは、こういう人たちのことです。
御言葉を聞いたのに、この世の思い患いや富の惑わし、
そのほか、いろいろな欲望が入り込んで御言葉を塞ぐので、身を結ぶことができません。
与一にまかれた者とは、御言葉を聞いて受け入れ、30倍、60倍、100倍の身を結ぶ人たちのことです。
以上です。
今日はこのところから、種まきのたとえと題して御言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
今日、本当に猛暑になるとのことで、皆さんお気を付けください。
先週から関東地方で暑い日が続いて、また昨日まで東北地方では豪雨になりまして、
甚大な被害が今度は東北地方でも雨によっても垂らされている、そのニュースでもやっておりました。
本当に被害に遭った方々の無事を祈るばかりです。
そんな中ではありますけれども、今日はイエス様が語られたたとえの中で最も有名な種まきのたとえを見ていきます。
朗読箇所、本当は一節から読もうと思ったのですが、時間の都合もあったので、たとえが語られた部分は割愛しました。
この4章には、種に関わる3つのたとえが出てきます。
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それはどれも神の国の奥義、つまり神の国と関わりのあるたとえであるということです。
これ有名な種まく人ですけれども、これ未礼ではなくてゴッホがコピーして書いたと言われています。
そして今日見たところは、種のたとえの中でも最も有名な4つの地が出てくるところです。
種とはイエス様の御言葉と今日のところで解説しています。
私たちにとっては、それはイエス様の御言葉をはじめとする聖書の言葉と考えて良いかと思います。
そして実はこの箇所も含めて、種のたとえには神の国という大事な教え、神の国の奥義、つまり神の国とはどんなものかということが語られています。
ですから今日まず最初に神の国という言葉について取り上げます。
そして後の2つは今日のたとえ、この地に関わることを解説し、3つの点から見ていきます。
一番最初、神の国とは神の救いの祝福と神の支配であるということなんですね。
11節読める方、前の御言葉を読んでみましょう。
そこでイエスは言われた、あなた方には神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには全てがたとえで語られるのです。
この奥義とも奥義とも読める言葉は、聖書の言葉ではミステリオンという言葉です。
隠された大事な秘密、大事な教えというふうに考えてもらえれば良いと思います。
まさにこの言葉に捉えられる必要はないんですけれども。
この後に12節に、皆さん見れれば見てくださっても結構なんですが、イエス様はこういうことを言っていますね。
神の国の真理もイエス様の言葉も悟らないで立ち返ることがない人たちがいると書いてあります。
なぜたとえで語られて謎で語られるかというと、立ち返って救われることがないためですということが書かれています。
それは何かというと、先週まで見たイエス様をおかしな人と見なす人たちとか、イエス様を悪霊呼ばわりした人たち、そういう意図的にイエス様を排除しようとする人のことを述べています。
私たちのことではありません。
それはそういったしまして、弟子たちには神の国の奥義が知らされますよということで、それを悟りなさい。
なぜ悟れないんですかということで、今日の歌詞が入ってくるわけです。
突然ですけれども、モンゴルの言葉、モンゴル語には馬を表す言葉が10種類あるんですね。
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タネウマというオスのタネウマを表す単語もあるし、オスメスを表すそれぞれの言葉もあります。
それから日本語で言うと、ハマチ、イサキ、イナダ、ハマチというように、スズキもスズキと生語ってあるように、
似たように馬もオスメス関係なく、1歳から5歳までそれぞれ呼び名が違うそうです。
そんなので馬という言葉にモンゴル語は10種類もあるんです。
それには意味があって、なぜか、それはその文化、生活の中で大切な存在、意味のあることだからそれだけ豊かな言葉になっているという背景があるんです。
実は聖書の神の国、ミクニという言葉、これも全くモンゴル語のような全部違う種類の言葉があるのではないんですけれども、
ミクニ、バシレイヤという言葉は一つの言葉で広くて豊かな意味を持つ言葉なんです。
そのことをまず皆さんに知っていただきたいんですね。
ミクニ、国、神の国の国、バシレイヤ。
まずこの神の国、国という言葉には、神様によって私たちにもたらされる祝福を意味するというんですね。
その中にはイエス様によってもたらされる救いも含まれているわけです。
これまで見てきたように、マルコの福の書には、幕礼の追い出しから始まって、病の癒し、たくさんイエス様の奇跡があります。
それはまさに神の救いがイエス様によって実現した、神の国が来た、神の祝福がもたらされたという意味で、広い意味で神の国とみなすことができるわけです。
なんとなくわかりますよね、言っていること。
イエス様が神の国は近づいたと言ったときに、それはイエス様が私が来たということです。
なぜか、イエス様によって神様の救いが実際にこの地上で実現するから。
どうやって、それは人々が癒されることによって、そうやって人々がイエス様によって神の祝福を体験する、そういう広い意味があります。
ですから、ざっと覚えておいていただきたいのは、神の国には神の救いの祝福という意味がまずあると覚えておいてください。
そして、前から言っていますように、私たちが日常生活の中で、仕事とか家庭生活、人間関係の中で助けを求めて祈ったり、また聖書の言葉から何らかの救いの言葉をいただいたときに、
それは神の祝福を体験することであり、それは神の国が私の中に、あなたの中に実現した、そういう意味だと聖書から捉えていただけたらと思っているわけです。
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そしてもう一つ、神の国にはですね、神の支配、アシレイヤには支配という意味があるんです。
これはよく考えていただければわかるんですけれども、一つの国には一人の王様がいますね。
そしてその国というのは、その王様が支配する場所を国と言います。
あえて言いませんけど、今でも独裁者が支配する国は、独裁者の影響があって、そういう力が及んだりするわけですよね。
その国の後、トップがいい人であれば、国も潤うということが起こるわけです。
とにかく、神の国には神の支配という言葉が願蓄があるということです。
ですから、この神の国と言われたとき、そこには神様が支配しているということを意味していると覚えておきましょう。
ここで大事なことはですね、神様の完全な支配がなされ、完全な平和が実現する。
そのためには、この世の終わり、完成の時を待たねばならないということです。
だから神の国はイエス様によって来たんだけれども、まだそういう意味では神の国は完全に来ていない。
神様の完全な支配がなされていないということです。
だから皆さん今日お祈りしたでしょう。
主の祈りの中で、御国が来ますように。それはそういう意味です。
今の私に神の祝福がありますように。
と同時に、また御心が天で行われますように、地でも行われますようにと祈っていますけれども、
今の救いとともに、将来のこの神の支配の平和の実現を祈るということもあって、御国が来ますようにと私たちは祈っているわけです。
このようにまず神の国ということを御理解ください。
それの上で2番目。
この今日の例について話していきましょう。
まず大事なことは、よく考え、耐えることが必要だということです。
岩地に曲がれた者とは、こういう人たちのことです。
御言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。
ここから読んでみましょうか、3回。
後で御言葉のために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
これは信仰ゆえの困難や迫害に直面するということですね。
ちょっと覚えておいていただきたいのは、ここで4つの地が登場しますね。
そのうちの3つは身を結ばないわけです。
でも最初に申し上げておきます、私たちが覚えておく大事なことがあるんです。
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それはこのたとえ話は、悪い人を責めるのではなくて、希望の約束が満ちているということなんです。
それを前提に聞いてください。
まず前置きしておきます。
その上で最初の3つの否定的な部分を簡単に言いますが、
サタンが来て持ち去ってしまう人というのは信じない人たちです。
福音を信じない人たち。
それはある意味外の人たちですね、イエス様が言うと。
次の岩地と茨に落ちた人。
岩地と茨に落ちた人。
それは信仰の試練や迫害によって信仰生活をやめてしまう人とか、
あるいはこの世の思い患いや富の惑わしによって、
そしていろんな欲望によって身を結ばない人を指しているとイエス様が言っています。
私自身そうですけれども、思い当たる不死があって、自分もそうじゃないかなというふうに不安になってしまう。
それは私の正直な気持ちです。
じゃあその上でこの例えをどう考えたらいいんだろうか。
次の大切なことを知ってください。
それはこれらの誘惑、あえてですね、この二つの地のことを一つの言葉で、
誘惑と便宜上言います、時間がないので。
この誘惑はクリスチャン生活を送る上で誰でも直面する問題ですよね。
信仰の家の困難とか、様々な世の患い。
誰でも体験する誘惑、試練。
その中で大事なことは、そういういわゆる誘惑や試練の中で、
よく考えること、忍耐することだって言うんですね。
それはこのイエス様の時代、誰でも知っていた種まきの状況を理解すると、ある程度わかるかと思います。
当時はですね、種が岩地に巻かれても、あるいは茨の中に巻かれても大丈夫だったそうです。
なぜか、それは種を蒔いた人が後で耕すんですね。
岩地というのは、私も昔勘違いしたんですけど、
岩の上に薄い土があるんじゃなくて、ゴロゴロした小さい大なり小なりの岩がある中に巻かれた種というんです。
それを耕す。耕して石を取り除けるから、その種も実を結ぶ。
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つまりとしては、茨の中に乗せたものは耕して、茨を取り去る。
だからその種も実を結ぶと学者は言うんですね。
当時の文化はそうだったと言うんです。
で、そういう中で私たちが学べることは、
私たちも自分の生活の様々な状況の中で耕していくという、
自分の心なり思いを耕すことが大事だと言うんですね。
それはどういうことか、先ほど繰り返しましたけれども、
様々な状況の中で自分の心を耕す。
茨を取り除ける。
そのために、さっきから言っているよく考えることが必要だ。
今自分が置かれている状況はどういうことなのだろうかな。
この試練はどういうことなのだろうかなと考える。
神の支配と言いましたけど、その中にも神の支配があるんだなと、
試練の中で受け入れる。
それと関連して忍耐する。
この神の救いを、今そういう状況の中で置かれている自分の試練や誘惑の中で、
神様の救いを信じ、神の支配があることを信頼して、
そして時に聖書の約束を信頼して、
生きるにはどうすればいいのかということを、
よく考えて忍耐するということなんです。
ちょっと余談なんですけれども、関連断線で言うと、
これは例えば謎だと言うんです。謎。
分かんない人には分かんない。
なぜかというと、それは考えさせるためにわざと、
例えで謎めいた言い方をしている。
どういう意味があるんだろうか。
なるほどと思いました。
その中でよく言うように、
聖書の言葉を祈りの中で黙想したり、
状況の中で黙想したりするということが生まれてくるわけですよね。
先日、NHKのある心の時間という宗教のことを扱う番組の中で、
カルドと現代社会の問題というのをシリーズでやっているんですね。
その中で、テレビにもいろいろ出てくる有名な宗教学者の人、
東大の教授とか北大の教授とかが議論していたんです。
議論というか論じゃなくて、その中に牧師もいたんですけれども、
あるクリスチャンの元大学教授で評論家の方が、こういうことを言っていたんですね。
ここにないんですけれども、
今の学問とか社会の問題はこういうふうになっているんですね。
それは、わからないということを受け入れることができないということです。
あるいは、全てを知ることができると考えてしまう。
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だから、現代人はカルドに騙されたり、健全な信仰心を持てない、
そういうキリスト教信仰を持った学者がいたんですね。
今の学術界とか人たちの問題は、わからないということを受け入れられないし、
あるいは全てを知ることができると考えるから問題。
そしてそこからカルドに騙されたり、健全な信仰を持てないということを言っています。
どういうことかというと、カルド宗教というのは簡単な答えを出します。
あえて言えば、お金を出せば救われる、先祖を供養するためにお金を払いなさい、
あなたの苦毒が足りませんという簡単な答えです。
それは実例で言ったわけなんですけれども、
言い換えれば、私たちがイワチやイバラの試練や誘惑の中ですぐに答えがわからなくても、
その中で悩んだり考えたり、自分の信仰を考えたり、
聖書の言葉とそういうものをすり合わせていく。
すぐに解決や答えが見出せない中で悩みを考えて、
自分なりに聖書や祈りの中で道を見出すことが必要だと言うんですね。
イワチはイバラのような試練や誘惑に遭う中で、すぐに解決や答えが見出せないのは当然で、
その中で悩み考え、自分なりに聖書の言葉や祈りの中で道を見出すことが必要だ。
そういう意味でクリスチャン生活には、すぐに答えが出ない中で忍耐が必要だと言うんですね。
実は同じ種巻の例えというのは、マルコにもマタイにもルカにも書いてあります。
ルカの福音書の中でヨイチで身を結ぶ人についてこう書いたんですね。ルカの8章15節。
ヨイチに落ちた人というのは、よく耐えて身を結ばせる。
それに関連して、聖書のヘブル書10章35-36の見言葉を、
この2番目のポイントの締めとして読みたいと思うんですね。
ちょっと長いですけど読んでみますね。
あなた方の核心を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
ここから読んでみましょう。
あなた方が神の御心を行って約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
これをぜひ心に刻んでいきましょう。
最後のポイント。
神の約束ということです。
これ素晴らしい約束を読んでみましょう。
4章20節。最初から読んでみましょうか。
21:00
ヨイチに巻かれた者とは、見言葉を聞いて受け入れ、
30倍、60倍、100倍の身を結ぶ人たちのことです。
今日のたとえの大切な言葉、もう一つあります。
それは聞くということです。
一緒に聞くという言葉がたくさん出てきます。
見言葉を聞いて受け入れる。
4-9でイエス様は聞く耳のある人は聞きなさい。よく聞いてください。
この何度も出てくる聞くという言葉、それは先ほど述べた試練や誘惑の中での忍耐とも関わることで
イエス様はたとえの最後に大切な希望を告げているんですね。
試練や誘惑の中でイエス様の見言葉を聞き続け、受け入れ忍耐する人には必ず実りがもたらされる。
試練や誘惑の中でイエス様の見言葉を聞き続け、受け入れ忍耐する人には必ず実りがもたらされる。
そういう願蓄が4章20節、今日のたとえの最後の部分でイエス様が言っていることなんですね。
そしてその上でここには2つの時間が関係しています。
1つは今生きている、今の生活の時間です。
それは今、子輪と人の手紙の約束にもありますけれど、私たちが直面する試練や誘惑、それには必ず救いや解決の時がやってくる。
そしてもう1つはずっとずっと未来の約束。
それは神様の完全な支配が完成して本当の平和が実現する。
完全な平安を体験する時、世界の完成の時を待たねばならないということなんですね。
実は今どうかわからないけれども、私たちが世の完成を迎える時に忍耐した中で30倍60倍100倍の身を見ることができる。
そう信じて生きるということなんですね。
そのような実りの約束、希望ということを信じてですね、お互いでやりたいと思います。
その上で旧約聖書の三子玉の約束を最後に読んで終わりにしたいと思います。
三子玉の真実さ、必ず実現するという約束です。
雨や雪は天から降って元に戻らず、
死を潤して物を生えさせ、目を出させて、種まく人に種を与え、食べる人にパンを与える。
24:09
ここから読んでみましょうか。
そのように私の口から出る私の言葉も、私のところに虚しく返ってくることはない。
それは私が望むことを成し遂げ、私が言い送ったことを成功させる。
神様の御言葉は必ず実現する、そのことを信じ、
また私たちの先には必ず豊かな実りがある、そのことを信じて歩んでいくお互いでやりたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
種まきのたとえから学びました。
私たちは今生きていく中で様々な試練や誘惑に直面します。
どうかその時に、あなたの御言葉にどう生きるべきか、あなたの支配をどう信じるべきか、
よく考え、また悟ることができるように、私たちに知恵と忍耐を与えてください。
あなたは必ず実りを与えてくださる、その約束を下さいました。
どうかそのあなたの実りの時を信じながら、日々の歩みを進めていくことができますように、どうか導いてください。
このあなたの御言葉を感謝して、イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは御言葉に応えて、皆様1分ほど黙祷してください。
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