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マルコの福音書14章12節から21節をお読みします。
種なしパンの祭りの最初の日、すなわち過越の子羊をほふる日、弟子たちはイエスに言った。
過越の食事ができるように、私たちはどこへ行って用意をしましょうか。
イエスはこう言って弟子のうち二人を使わされた。
都に入りなさい。すると水亀を運んでいる人に出会います。 その人について行きなさい。
そして彼が入っていく家の主人に、弟子たちと一緒に過越の食事をする、私の客間はどこかと先生が言っておられますと言いなさい。
するとその主人三つから席が整えられて用意のできた2階の大広間を見せてくれます。
そこで私たちのために用意をしなさい。 弟子たちが出かけて行って都に入るとイエスが彼らに言われた通りであった。
それで彼らは過越の用意をした。 夕方になってイエスは12人と一緒にそこに来られた。
そして彼らが席について食事をしている時、イエスは言われた。
まことにあなた方に言います。あなた方のうちの一人で私と一緒に食事をしている者が私を裏切ります。
弟子たちは悲しくなり、次々にイエスに言い始めた。 まさか私ではないでしょう。
イエスは言われた。 12人の一人で私と一緒に手を鉢に浸している者です。
人の子は自分について書かれている通り去っていきます。 しかし人の子を裏切るその人は災いです。
そういう人は生まれてこなければよかったのです。 以上です。
今日はこのところから 裏切り者ユダと私と題して見言葉を取りに行きましょう。
おはようございます。 今日は6月最後の日ですね。
先週もですね、特に金曜日大雨になりまして、またこの週末もですね、 西日本から北日本まで大雨になるということをまた
明日でですね、大地震から半年になるということでニュースもやっておりました。 その中ですけれども、また今日も見言葉からともに
学んでいきましょう。さて
中学生の時に受けた洗礼が次元爆弾のように動き始めた。 エジメをですね。
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中学生の時に受けた洗礼が時限爆弾のように動き始めたと、40代の牧師がですね、ある本で告白しているんですね。
彼は自分がやがて人を傷つけるようになるという気がして、 中学生の時に洗礼を受けたと言うんですね。
彼のことは今日最後の手の時にまたお話ししますが、 過越の食事と今日は裏切りのこの場面、裏切りの予告の場面から
3つのこと、過越の食事とその意味。 中学生賞や歴史的な背景をちょっとだけですね、教養として取り上げ、その後2つ
裏切りは神の計画か人の責任かということ。 そして3番目まさか私ではという弟子たちの問いから3つの点からですね、これらを学んで
取り上げていきたいと思います。 まず最初、過越の食事とその意味ということで
また繰り返しになりますが、今日の 最初のところ読んでいますね、12節16節
種なしパンの祭りの最初の日、すなわち過越の子羊をほふる日、弟子たちはイエスに行った。 過越の食事ができるように私たちはどこへ行って用意をしましょうか。
弟子たちが出かけて行って都に入るとイエスが彼らに言われた通りであった。 それで彼らは過越の用意をした。
まあ読んで字のごとくですね、おそらく諸説ありますけれども ユダヤ教の伝統のですね、この過越の祭り、過越の食事をするためにイエス様と弟子たちはその場所
食事を用意しなければいけなかった。 おそらくですね、木曜日の夜
新しい日が始まるのはユダヤ教のコレミでは夕方なんですけども、日本で言うと木曜の夕食の時間が過越の食事に当たりました。
そしてマルコの通りですとその翌日イエス様は朝
明け方捉えられて、その金曜日の午後ですね、十字架の上で息を引き取る、そういう時間帯になっているんですけれども、まさにイエス様が
死なれる直前最後の弟子たちと一緒に集まる機会がこの過越の食事でした。 これは繰り返しますが、ユダヤ教の出エジプトの出来事
救出劇を記念して行われた、毎年行われたこの伝統的な食事なんですね。
ここに三子束がちょっと長いですけど掲げておきましたけども、家族を中心として主に家族ですね、この木曜の夜集まった。
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日本ではお盆やお正月のこの食事のような集まりのようなところでした。 そして最も親しく最も神聖な食事場所でもあったわけです。
そこでですね 裏切りということが
告げられた衝撃があったわけです。 前後しますが大体その
多くは父親だったんですけども家長がこの過越の食事をセレモニー的に取り行ったんですね。 なぜこの食事を準備するんですかするんですかとこの子供が問う。
それについて父親がその意味を教える。そういうことが伝統的なユダヤの家庭で今も繰り返されているそうです。
まあちょっと長いんですけどもそれの関連する旧約聖書新明記の26章の5節から9節をちょっと朗読してみますね。
孟生を通して告げられた言葉。あなたはあなたの神主の前で次のように告白しなさい。
私の父は殺害のアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。
しかしそこで強くて数の多い大いなる国民になりました。 しかしエジプト人は私たちを虐待し苦しめ私たちに激しい労働を課しました。
私たちが私たちの先祖の神、主に叫ぶと主は私たちの声を聞き、私たちの苦しみと労苦と知りたげられているありさまをご覧になりました。
そこで主は力強い身でと伸ばされた身腕によって恐ろしい力と印と不思議を持って私たちをエジプトから導き出し、この場所に導き入れ、
父と三つの流れる血、この血を私たちに与えてくださいました。 これを語り継いで来た、行くのがこの過越の食事だったわけです。
エジプトのこの救出劇を実はイエス様が今度は贖いの子羊として、多くの人の贖いの代価として死ぬということを、この食事をもって表したということもあるわけです。
2番目、さあこの最も親しく神聖な食事の時に裏切り、親しい者の裏切りということが予告される衝撃が起こりました。
2番目、しかしこの裏切りは神の計画か人の責任かという問いがあるんです。 イエス様は今日の最後の言葉でこのように言っているんですね。14章21節。
人の子は自分について書かれている通り去っていきます。 しかし人の子を裏切るその人は災いです。
そういう人は生まれてこなければよかったのです。 人の子というのは繰り返し言いますが、受難のメッシャーを意味するイエス様はご自分を言う時の言葉ですね。
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この裏切り者を、ある意味呪いの言葉をもってイエス様は非難しているわけです。
皆さんご存知のようにイエス様はこれまで繰り返し最低3回はマルコの福音書の中でご自分の受難を予告してきたわけです。
繰り返しますがその受難、イエス様の十字架の死は多くの人の贖いのため、神のご計画の中にあるそのこともわかるわけですね。
神の必然だった。 そしてそれはユダの裏切りという行為によってもたらされることになるわけです。
繰り返しますがこの神様の贖いの計画の実現のためにユダの裏切りの行為は必然だったわけです。
しかしイエス様はここでユダ自身を非難していますね。
このことをですね ある学者がこう指摘しているんですね
このような歴史的な問いがあるって言うんですね。なぜ神様の計画を実行したユダが非難されるのか。
なぜ神の計画を実行したユダが非難されるのかとの問いが、歴史上多くの学者たちを悩ませてきた。
神の計画が人のユダの責任かという 相矛盾するのではないかという問いですね
実はこのことを もう少し見る前にパウロが
神様の計画が人間の知恵を超えているということをですね ローマ書の中で告白しているんですね
そのことをまず前提として押さえておきたいのです。 ローマの11章の33節
読める方から読んでみましょうか 神の知恵と知識の富は何と深いことでしょう
神の裁きは何と知り尽くしがたく 神の道は何と極めがたいことでしょう
誰が神に命じることができますかとこの後続いているんですね 機会がある方はローマ書11章の33節以下をまたゆっくり読んでみてください
このように 人間に知り尽くすことができない神の知恵の奥深さや崇高さということを
大神学者大使とのパウロも認めて 簡単しているわけですね
そのことを前提に 批判する人は思考停止じゃないかというかもしれません
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キリスト社クリスチャンの前提としてこの御言葉などからこういう 信仰の姿勢があるんですねそれは
私たちが神様の主権を認めて神様の見心を受け入れるということにはこのような 神の計画と人間の責任の両面があるということを認めるということも含まれているん
ですね 神の責任もあり神の計画もありそこに人間の責任もあるという両面
ある人は神100%人間100%というその両面を認めていくということが神の主権を認め身 心を受け入れるということに含まれていると知る必要があるんですね
実はこの点についてより積極的な肯定的な実例が実は今日の箇所に出てくるんですね それがこの
最後の晩餐過越しの食事の用意の場面です
弟子たちがどこで食事を用意しましょうかといったらイエス様が叱るべき場所に行けば まあ
ここには出てきませんけどもルカの副秘書では水亀を担いだ人に会うからその人について いけばその人が行く家の中の主人がその場所を教えてくれますよということが出てくる
わけです で
おそらくですねこれはあの イエス様の無名の弟子がですねやはりエルサレムシキンペイに向いて
まあそういうすでに食事の場所を用意してたっていうこともあるらしいんですね ただ後でもう少し詳しく見ますが簡単に言いますと
ここにですねこういう あの
クリスチャンの生き様というか信仰の姿勢があるわけですね ある学者がこう言ってるんですね
すべてのことは神の定めによって起こるそしてそれはそれに預かるものの 注意深く良い周到な準備と結びついている
その原則は今もなお真理であると言ってですね でこの場面でイエス様は先ほども言いましたけれども
あらかじめ無名の弟子たちに弟子の一人にこの食事の場 吸い越しの場を用意するように言っておいた
ですしかしそこに行くまで 弟子たちがイエス様のお告げ通りに通りに行かなければいけなかった
そしてこの 偶然とも言えるような都合を担いだ人との出会いも不思議な神様の導きだったわけ
ですね そしてそのたどり着いた後今度は
ここに詳しくは至りませんけれども弟子たちが具体的に食べ物を用意するなり 配膳するないというやはりすぎ腰の食事の準備を弟子たちが手をかけて行ったということです
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がまあ皆さんもご存知のようにいわゆる まあ
で人たちはですね まあイエス様が
あるいは神様がまあそう考えたとかわかりませんけれども仮に神様が全部備えて くださるからといって
棚からぼた持ちとしてですね何もしなかった そういうわけではなく弟子たちもこのようにやれることをイエス様の言葉に従って
やったっていうことがわかるわけです まあ皆さんよくわかるかと思いますけれども
これは私たちにも当てはまることで神様の身業を担う私たちにとって 私たちもですね
神様により頼んで何かに取り組みます それは仕事かもしれませんプライベートのことかもしれません
でもその時に まず私たちは
責任人間責任の主体として かかてるべき計画を立てたりなすべきことをしっかりやったりこうしていくわけですよね
その上で神様が必ず必要なものを備えてくださるんだ そういう神様へ信頼して
それらに手を かけていくその人間100%神様100%という部分があるということを私たちは覚えて
おかなければならないわけです しかし
そういう今は積極的な面を取り上げました でもこのユダの教訓から
警告として聞くべきものがあるわけですねそれは 私たちは自分の罪についてはやはり
蒔いた種は刈り取らなければならないということなんです このユダの裏切りに関してこの学者はですね
このようなことを 解説しているんですね
神が出来事を定めるということとそれぞれの個人がイエスに対する自分の配信に 責任があるということその両方を
まあこの箇所は断言しているって言うんですね まあ
この通りです で
そのような中で パウロもですね
ガラディアビルの手紙の中で 私たちが撒いたものを刈り取るということをこのように
述べているわけですね 思い違いをしてはいけません
神は 侮られるような方ではありません
ここから読んでみましょうかさんはい人は種を撒けば刈り取りもすることになります 自分の肉に撒くものは肉から滅びを刈り取り
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見たまに撒くものは見たまから永遠の命を刈り取るのです まあこのような神様の
不思議な見ての中で神の計画の中で生かされていますけども私たちはまあよく言うのは 自由意思を与えられた倫理的な主体としてやはり責任を持って神様の見心に意思を持って従って
いくということもあるとも知っておきましょう 最後
ますしかしそれでもですね大事な福音を聞く必要があるんです 3番目まさか私ではというて人たちの問いから考えていきましょう
イエス様がですね この中から私をまあ裏切るという言葉は実は来週見ますけど引き渡すという意味
なんです 引き渡すものがいる
弟子たちは悲しくなり次々にイエスに言い始めた まさか私ではないでしょう
イエスは言われた 12人の一人で私と一緒に手を鉢に浸しているものです
中4章19に術 あの子一緒に手に貼ってを鉢にしたしているものというのはですねちょっとこの絵見にくいかも
わかりませんが その最後の晩餐
過越の食事でですね 苦しみを表す苦いワインと葡萄酒とか
あるいは 苦しいかどうかわかりませんけども
いわゆるフルーツジュースみたいなものが出たんですそこにこのパンをしたして食べ 食べたんですね
でその例で まあイエス様と一緒にそのしたその飲み物の入った鉢にファンをしたというものが私を
引き渡すものだってイエス様は言っているんです しかし皆さん気がつきましたここで不思議なことがあるんです不思議と言いますかね
ここで 裏切る者がユダであると言ってないんですルーカーの副委員長
アマルコの副委員長イエス様の口で 読んでる人はわかるんですイエス様言って
で反対にっていうか 12人という言葉がここの
言葉 17節と20節に出てくるんですね12人で食事をした
12人の中の一人だ だからここの注目はいわゆる学弟子の12人ということなんです
で そういう焦点の中で弟子たちが代わりバンコにまさか私ではないでしょうって言う
聞いている切迫感が伝わってくるんですね おそらく
12人が全員訪ねたんではないかと思います変わるがある これがそういう場面ですね最後の晩餐でもそうです
あのダビンチの最後の晩餐でもまあそういう場面が出てきます 変わるがある一人一人私ではないでしょうねーと
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といっ でこれは何を意味しているのか
住人って書いてあって一人一人が訪ねたこういう描写は私たちにどんな教訓を 与えているのかということを最後みたいですね
まあそれはですね まあある学者の言葉にはですねこういう言葉がですねここで
受難 また裏切りと
この出来事を結び合わせて このように解説しているんですね
私たちすべてのものがイエスを苦しみに追いやっていること そして我々すべてのものが異なった時に様々な仕方で
イエスを裏切っていることを認めるだ弟子たちをもう一つにするだろう と言っているんですね
つまり ゆだでなくても
他の弟子たちも様々な形でイエス様を苦しめ受難に関わっていく 文字通りこの後そういう場面がマルコの文書でできます
ユダのようなもしかしたらこの金欲しさとかですね そういうのじゃなくてもある人に言わせればそれは例えば
臆病とか 恐れとか
そのようなことが原因だったかもしれません 弱さ人間的な弱さだったかもしれない
そのような ユダと違った豆同期でありながらも弟子たちは例外なくすべて
イエス様を見捨てて離れ去ってしまうわけですね しかしここで
学者が改正しているようにその さまざまな仕方でイエスを裏切っていることを認める弟子たちをも上がないのもとにいいんでしょうかね
一つにするだろう ここでやはり大事なことはですね
自分がイエス様を裏切っていることを裏切るであろうことを認めるときに実はこのイエス 様の十字架
上がないの十字架の意味が自分のこととして分かってまた救いがわかる 深まるということがあるわけですね
冒頭 40代の牧師の独白をちょっと紹介しました彼は
中学生の時に受けた洗礼が次元爆弾のように動き始めたと証言してるんですね まあ
最初は月さん名前だと思いますけれども とてもいうまあ日本でよく
ショーもとった ノンフィクションライターの方が明かしという本だしたんですね聖書ぐらい厚い方
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その中にいろんな人のいろんな強派の人明かしが出てるんですけども その中でこの40代の牧師の人が独白しているんですね
ちょっと引用して読んでいますね インタビューを本にしてるんですけど
彼がですね 洗礼を受けたのは中学2年生の時です
本当の動機は自分がいつか道を踏み外すだろうなという感覚があったからです うちは父方の姫おばあちゃんの代からクリスチャンなので
イエス様が自分の罪のために死んでくれてそのために自分は救われたということは 小さい頃から聞かされてわかってはいました
でも本音はそうじゃなかった洗礼を受けた本 何となく自分はこのまま守られて進んではいかないだろうな
人を傷つけちゃうだろうなという気がしていたんです だからその時に戻れるところを作っておこう
保険をかけるようなつもりで中学の時に洗礼を受けたんですって言ってるんです 実際彼はですね大学を中退してまあ演劇にのめり込んでフリーターになってですね
20代で障害事件を起こしてしまうんです で
まあ彼はですねやったことの重大さを知ってすぐ救急車呼んだということもあって 起訴はされなかったけれども懲役1年6ヶ月
執行猶予3年という子判決が食らってしまったんですね そんな中である縁からもう一度ある境界に導かれてまあ
牧師がですねそのホームレスの人にしているメッセージの中で いつの間にそのまあホームレスの人に対して牧師がまあこの彼は手伝いたんですけど
いつまで人のことを気にしてるんですかいい加減神さんを見なさいという言葉がいわゆる 今風で言うと心に刺さったって言うんですね
でその時に彼はこう言っているんですね その言葉にああそうだと気づいた
僕が気がついていないだけで全部神様の家にあったんだと悟ったというか これまで知識として教わってきたことが全部自分のこととして意味を持ち始めた
40代の20代時でしたけどもこの経験はそしてこう言ってですね 中学生の時に受けた洗礼が次元装置のように動き始めたんです
と まあ彼は自分のその財政ということ人を傷つける恐れがあってもう洗礼を受けといた保証と
保証としてその通りになってしまったけれども彼はまあそういう中で 誠のイエス様の贖えないに出会ったっていうことでしょうね
で彼はですね後にいわゆる献身をして牧師になります 親からも反対されたんですけども簡単に言うとこれは人間の思いを超えた
神様の召しだということで受け入れて新学校に行ったそうです でこう言ってんですね
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またインタビュアーが聞いたんでしょうね事件を起こした自分が牧師になっていいのかと思わ なかったですか
で ですね事件を起こした自分がお前が牧師になっていいのかと思わなかったのかと問われた
ちょっと彼超えていいんですねいや全く逆ですねこれ彼が言ってるんですよ そのために罪を犯したんだ
ぐらいに思いました こんな自分でも許されているんだから大体の人は救われるでしょう
みたいな感覚です
詳しくコピーなどありますけども読んでいただければと思いますがまあ 言いたいことは本当に私たちと同じくこの彼もですね
自分の財政に気が あの
不安定さ恐ろしさに気づきながら洗礼を受けて実際そうしてしまったけれどもその最中で またイエス様の十字架を深く知ったという物語ですね
もちろん私たちはこのような過ちが起こしたかしたくはありませんけれども しかしこの私たちの弱さをあるいは罪をに譲られる弱さを
こういったところです働く神様の救いを覚えながらまたその時に気がついた時にですね 帰れる十字架の上がないがるということですね
覚えながらですね これからも神様に愛と共に歩んでいくお互いでありたいと思います
最後に今日の言葉箇所にも通じるイエス様の有名な言葉を読んで終わりにしたいと思います マルコの10章の45節読める方は読んでみましょう
人の子も仕えられるためではなく使えるために また多くの人のための贖いの代価として自分の命を与えるために来たのです
お祈りしましょう イエス様あなたのお名前を賛美いたします
あなたの計画は崇高で私たちの思いが至らないところにございます と同時に私たちもあなたに自由な意思を持って従うものとして責任があります
私たちは決意がありまた弱い自分も知っています どうぞ私たちを過ちから守り導いてください
しかし過ちを犯した時にもその帰るべき十字架を思い出して そのイエス様の贖いを受け入れながらまた次へと進んでいくことができますように
どうかそのようにあなたと人々に使えていく お互いであり教会でありますよう導いてください
この願いと感謝を私たちの救い主主イエス様のお名前によってお祈りします アーメン
それでは1分ほど見言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう