2024-03-03 29:20

#偉大な家政婦のように 24/3/3

マルコ-45からの礼拝説教。2024年3月3日録音。イエス様は、偉大になりたいものは「仕える者」に、一番になりたければ全ての人に対して「しもべ」となるようにと教えました。これは世間一般の常識に相反する価値観かもしれません。さらに続けて弟子たちに対して、イエス様自らがその模範であることを教えました。そのイエス様の生き様は後の弟子たちを劇的に変えることになるのです。これらのことを1.苦難の杯とバプテスマ、2.偉大な家政婦、先頭に立つべき奴隷、3.愛の証しとしての代価、の3つの点を通して学びましょう。


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マルコ10章35節から45節 ゼベタイの息子たちヤコブとヨハネが
イエスのところに来て言った。 「先生、私たちが願うことを叶えていただきたいのです。」
イエスは彼らに言われた。 「何をしてほしいのですか?」
彼らは言った。 「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」
しかし、イエスは彼らに言われた。 「あなた方は、自分が何を求めているのかわかっていません。
私が飲む酒漬を飲み、私が受けるバプテスマを受けることができますか?」 彼らは、「できます。」と言った。
そこでイエスは言われた。 「確かにあなた方は、私が飲む酒漬を飲み、私が受けるバプテスマを受けることになります。
しかし、私の右と左に座ることは、私が許すことではありません。 それは、備えられた人たちに与えられるのです。」
他の十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。 そこでイエスは彼らを呼び寄せて言われた。
あなた方も知っている通り、違法人の支配者と認められている者たちは、人々に対して王兵に振る舞い、偉い人たちは人々の上に権力を振るっています。
しかし、あなた方の間では、そうであってはなりません。 あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
あなた方の間で戦闘に立ちたいと思う者は、皆の下辺になりなさい。
人の子も、使えられるためではなく、使えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるために来たのです。
以上です。 今日はこのところから、
偉大な家政婦のようにと題して、御言葉を取り継ぎます。
皆様おはようございます。早いもので今年度最後の月となりました。3月ですね。そして今年はイスターが3月になりまして、31日になっております。
キリスト教の小読みでは、私の教会では取り入れていませんが、40日前をレントと言って、イエス様の受難、エルサレムに向かう道を覚えるときとなっています。
ちょうどそれにふさわしいような箇所が、今日の御言葉です。
イエス様が、しばらく前からエルサレムに向かう土壌の出来事になってまいりました。
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今日の物語の発端は、ペテロとヤコブとヨハネという3人の一番弟子とも言えるような3人がいまして、これまで弟子の筆頭と言えるようなペテロが、いろんな言動で失態を繰り返してきたわけです。
今日は、その3人のうちの2人、兄弟であるヤコブとヨハネの2人が、ペテロと劣らず未熟である、無知であるということが露呈する、そんな物語なんです。
何をしたかというと、イエス様がこれからイスラエル、エルサレムに首都で、文字通り王に君臨すると思っていたんです。
その時に、私はあなたの右と左の座においてください、つまり第2、第3、あなたに次ぐそのような位置においてくださいと抜けがけをしたんですね、2人が。
彼らもそのようなずずしさが去ることながら、それを聞いた他の弟子たちも、10人もと書いてあります。怒ったというわけです。
つまり、他の10人もヤコブとヨハネと同じく、権力や名誉に対する欲でいっぱいだった、そのことが似たり寄ったりであるということが、今日の出来事でわかります。
この2人を含めた12人は、いまだにイエス様がエルサレムに行く本当の意味、イエス様が救い主だということの意味を理解もせず、受け入れもしない無知と固くなさが、今日の話でもよくわかるわけです。
そんな中で、イエス様は弟子たちに対して身元に呼び寄せて、大事なことを大事な人に教えるという身元に呼び寄せて、自らの大きな愛の模範を示されたというか語られた、それが今日の話です。
今日、いつも通り3つの点、クナンとサガツキのバプテスマ、偉大な家政婦、先頭に立つべき奴隷、そしてイエス様の犠牲の姿ということを見ていきたいと思います。
まず最初に、クナンのサガツキとバプテスマですね。
2人のヤコブとヨハネに対して、イエス様はこのように言われたんですね。
イエスは彼らに言われた。あなた方は自分が何を求めているかわかっていません。 私が飲むサガツキを飲み、私が受けるべきバプテスマを受けることができますか?
彼らはできますと言った。ここから、そこでから読める方、読んでみましょう。
そこでイエスは言われた。確かにあなた方は私が飲むサガツキを飲み、私が受けるバプテスマを受けることになります。
ここで言うサガツキとバプテスマというのは、いわゆる信仰のゆえの試練、イエス様にとってはこれからの受難と十字架の死を意味する象徴的な言葉なんですね。
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イエス様はいよいよ逮捕される直前その明け方に、皆さんがよく知っている月世真似で、
父なる神に祈りを捧げました。 マルコでは14章36節にこうあります。
アバ、父よ、あなたは何でもお出来になります。 どうかこのサガツキを私から取り去ってください。
しかし私の望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますよ。
ここでまさにイエス様はこのサガツキをと言って、逮捕からこの鞭打ち、受難ですね、そして十字架に至る苦しみをサガツキと言い表しているわけです。
このヤコブとペテロは、おそらく反射的にですね、できますって言ってるわけです。
そのシーンがわからないんですけれども、この地位と名誉保守さに行ったかもしれません。
でも、意図せず行ったとしてもですね、この二人はイエス様が言う通り、イエス様の受けるサガツキ、バブテスマをその身に負うことになるわけです。
ご存知の方もいると思いますが、二人はイエス様への信仰のゆえにですね、後々苦難に遭います。
このヤコブについてはこう書いてあります。使徒の12章1節から2節。
その頃ヘロデ王は教会の中である人たちを苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
一番最初のですね、まあ純教者、12弟子の中の最初の純教者にまさにこのヤコブはなってしまったわけです。
そしてこの兄弟のヨハネですね、目視力を書いている段階で、もうだいぶ、おそらく聖書の中で一番最後に書かれたと言われているのかな。
そこでこのように告白しています。 目視力1章9節。私ヨハネはあなた方の兄弟で、あなた方とともに
イエスにある苦難と見苦にと忍耐に預かっているものであり、 神の言葉とイエスの証の家にパトモスという島にいた。
つまり彼は島流しに信仰のようになりました。浪年であったと言われています。
このようにわかる皆さんがここで見ましたように、二人はですね、計らずもイエス様の杯とバブティスマに預かるわけです。
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第2第3の地位に私たちおいで下さいと図々しくも 願い求めたこの豪欲のヤコブとヨハネ。
しかしこの二人は大きくこの世に変えられました。
イエス様と教会の兄弟姉妹のためにまさに命を懸けた 自らを犠牲にしたんですね。それはですね
イエス様の愛を知ったからです。義務感からそうせねばならないと思ったからです。 あるいは歯を食いしばってですね無理やりそのような道を歩んだのでもありません。
繰り返しになりますがイエス様の愛献身を知って自らイエス様のように生きたい 神と人のために自らを捧げたいと喜んで
捧げる人へと文字通り劇的に変えられたんですね。 そしてまあ次のポイントに移っていきます。今日の大事なポイントですが
この強欲な二人や弟子たちを変えることになる イエス様の愛の犠牲についてイエス様は語っているんですね
それがこの言葉です。 2番目偉大な家政婦、先頭に立つべき奴隷というタイトルにしました。
この10章45節のイエス様の言葉を読める方は読んでみましょうか。 人の子も使えられるためではなく
使えるために、また多くの人のための贖いの代価として 自分の命を与えるために来たのです。
人の子というのは以前も説明しましたがイエス様が 王なるメシアということを勘違いされずに受難のメシアということを表す非常に便利な
言葉として自分のことを指して使った言葉です。 それは立っておきましてこの45節の言葉はですね
最も有名な見言葉の一つです。なぜ有名かというと多くの学者が言っているんですが イエス様がこの地上で何を成したかというイエス様の本質を表す
短い簡潔な言葉ということでとても有名です。 この言葉によって
この言葉に裏付けされているイエス様のありようによって この豪欲な弟子たちをイエス様は自ら
愛のためにイエス様のために捧げる弟子たちへと書いたわけなんですね。 イエス様はこの
前の箇所でですね弟子たちに 偉大になりたいのならば使えるものになりなさいと言ったわけです。
一番になりたければすべての人にとって下人になりなさいと 諭したわけですね。これはまさにこの世の中と違った
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あべこべの価値観です。 今日の箇所でイエス様は
ここに出てきませんけども 10章の中でこう言ってますよね
なんとも言えて妙な指摘ですけどもこの世の権力者はですね 権力を人々の上に
振るうと書いたり、理法人の支配者たちはですね 王兵に振る舞う
偉い人たちは人々の上に権力を振るっていると まさに的確にイエス様は言ってるんですが
それとは違うあべこべの価値観をイエス様は言っているわけです。 これはですね元のギリシャ語を追ってみると大変強い口調で言っています。
ギリシャ語というのはですね言葉の順番を入れ替えられるんですが 一番最初のところにですね
これなぜならそしてなぜならがあるって言うんですけどね そしては解ですけど
なぜならという単語を一番最初のところに入れています。 それはですねこの理由を強調するためになぜならってあえて言ってるんですね
使えるものになりなさい 依頼になりたければ下部になりなさい
なぜならと強調しています。それはイエス様ご自身が 使えられるために来たのではなく、いやむしろ
自分自身の命を与えるためにこの世に来たからだって言ってます。 でその
があるなぜならって言葉がこの日にあるということはですね 神なる救い主である私がそうやって自らを捧げるために人のために捧げ命を
捧げるために来たのであるならばなお一層 あなたたちはそのようにしなさい
使えられるためではなく使えるために行きなさい 私がそうしたのであるからなお一層あなたたちはそうしなさいと言っているわけなんですね
まあびっくりマークエクスクラーメーションがつくようなことです 弟子たちには使える人
すべての人にとってしもべとなりなさいという強い意味を込めて言ってたんですね あのよく私あんまり見ないんですけどテレビで取り上げるこの方は知っています
伝説の家政府の島さんですねあのレシピ本なんかもいうすごい売れているわけです けどこの使えるものになりなさいの使えるものって言うんですね
ディアコノスという切れ車5で 羊羊というね黒服の羊とかね
いろいろとできますけどそれはもともとはですね 食卓の横に立つ人を指して
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主人やこの使える人のために食卓で給受する でまぁ
家政婦さんのような存在とも言えるかもしれん で
イエス様が言うのをおっしゃるのはですね あなたたちあなたがまあもともとのギリシャ語ではですね
グレート 以来になりなければですね
羊 家政婦さんのようになりなさい
そして 一番になりたければ人々の先頭にトップに立ちたければ下部になりなさいという下部
それは文字通りルーロスという奴隷です 俺なりなさいとおっしゃったんですね
まあこの下部奴隷はどういう人かというのはですね前9章35節の時に触れましたから 今日は詳しく触れませんが
イエス様にとって人々の先頭に立つべき偉大な人 リーダーの姿は羊や家政婦であり
奴隷のような巣がありようだって言うんですねまあ 使える姿だった
決して世の権力者がその神の国のリーダーではありえないと言っているんですね さあ今今日大事な45節見ましたがその45節はさらにですね
週目となるべく弟子たちに劇的な変化を生み出す 素晴らしい原動力が語られているんですね
イエス様この地上に来られた使命や意味がさらに 語られているんですねもう1回見てみましょう
3番愛の証としての代価ということです 繰り返しになりますがもう一回読んでみましょうか
はい人の子も変えられるためではなく 使えるためにまた多くの人のためのあがないの代価として自分の命を与えるために来たの
です この45節の中で特別な大切な言葉それはあがないの代価という言葉なんですね
これは 神様によって
人の罪が許されるために捧げる 犠牲の生贄を表しているんです旧約聖書によく出てくることがあるんですね
で 以前も選手でしたが取り上げた
伊沢屋書のメシア予言の中にこういう言葉があるんです 伊沢屋書の
5章の 10節から11節の抜粋です
53章ですね53章の10節から11節 彼がメシアとなるべき人が自分の命を代償の捧げものとするなら
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末永く子孫を見ることができ 彼は自分の魂の激しい苦しみの後を見て満足する
私の正しい下部はその知識によって 多くの人を偽とし彼らのと顔
この言葉が 指すように
激しい苦しみの後を見て満足する
とかを自らを打って言葉 そこに現れていますようにこの救い主は
いやいやなからではなくて人々の罪を贖うために自ら進んで 自らを捧げていく
命を捧げるそれがですね この水から進んで
いやいやながらでないっていうことがですね苦しみ激しい苦しみの後を見て満足する という言葉に込められているんですね
自らの苦しみそれをですね まあ喜ぶ人とか
自分の苦しんだ後を見て満足する人ってそんなにいないと思うんですよね まあして言えば
アスリートですかしばらく前あの卓球女子がね中国に53年ぶりに勝つんじゃないかって 流行った日なっていうのはよく言われてるのは誰よりも練習してやめろと言われても練習
まあではねこの間の結婚報道で話題になった大谷翔平選手も重たいボールをね 投げるところよく出てきますけど体の負荷をかけている
で日時には傷がありますけどまあアスリートであれば自分の苦しいトレーニングを見返して 喜んだり満足するかもしれませんでも
アスリートはそれはまあ言ってしまえば結果が自分にこう 跳ね返ってくるからことあるかもしれませんね
で私なんかいろんなあの ドキュメンタリーでお医者さんのですねドキュメンタリーの好きなんですけれどもしばらく前に
脳神 昨日神経外科医というですねある神奈川な病院で勤めておられるかと思うんですが山本
一徹さんという方が取り上げられたんですね彼はですね世界的に著名な 脳神経外科医
パーキンソン病とかジストニアとかですね 体が震える患者さんを外科手術によって直す世界的なエキスパートですね
それでいろんな人もそんなことを危ないからやめろって反対もあるんですけども 彼はまあ年間60回
60例以上手術をするその手術の合間を縫って彼はですね 多くの人々にその治療方法を施せるように
世界中に文字通り飛び回ってその指導をしたり まあ sns で自分の手術の様子を公開したりしているそうです
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で彼は自分のもっと氏名はですねこうだって言ってですね 困っている人たちを片っ端から治療するこれが自分の氏名
そのような氏名感があってまたそれによってまあ多くの人を助けるという そこに喜びがあるからかもしれませんけど
それゆえに彼はですね犠牲をも厭わないという まあちょっと
人ではありますけれどもイエス様のこの自分の苦しみを喜ぶ満足するって時にですね こういう
おっさんのことも考えたから紹介しました まあそういう
イエス様ですね この人を救う
愛そしてそれは神の身心だということに目覚めて自ら喜んで進んで苦しみの中 に進んでいって命を捧げたわけです
で実はこの 45節のですね
あがないの代価という言葉は一般的な言葉ではですね 身の白金と言われています奴隷を解放する時に払うお金
あるいは当時戦争の捕虜なんかですね いたそれも奴隷になったその人たちを救い出すために払ったお金もこの
身の白金ということが使われました でこの身の白金
によってあがなあれる救い出される人と
イエス様の代価によって救われる罪人の共通点 なんだと思いますか
いくつかあると思いますけど身の白金によって救われる 捕虜
と 身の子イエス様の代価によって救われる罪人の共通点
それはですね 自分で自分を救えないことなんです
誰かにあがなって支払ってもらえないと救われないということですね まさにこの
イエス様の十字架の代価それは 自分で自分を救うことができない
私たちの罪の代価だったんです で
私たちは自分で自分の罪を神に償えないこともそうなんですけどよく考えたら たとえ上がられたとしても
罪を犯してしまった過ちを犯したという事実は消えないですよね でも
イエス様があがないの代価を神様に支払ってくださったことによって 罪がないがごとくに私たちは神の前で罪なき者として
あがなわれるということなんですね そのその完全な身の白金であるイエス様
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完全な罪の代価であるのがイエス様です そしてその
あがないの代価水が命を捧げるという中に込められた最も大きな証それはですね 愛ということなんです
最も大事な人に高価なプレゼントをあげるようにイエス様は 罪人である私たちのために最も大事なプレゼント
代価として自分の命を捧げてくださった これがですねまあどこにもない大きな愛
そしてそのあがないの愛ということが イエス様にですね誰に第三の地位を与えてくださいと願った強力な役部やヨハネ
を大きく変えたんですね 義務官からではなく自らを神様と人のために捧げる人へと変えた
なぜなら役部とヨハネはこのイエス様の大きな 犠牲の愛ということを自ら知ったからなんですね
それはですね人間の意思を超えています 私40年近く
立つのかなバブてるだけもう自分で自分が変えられないし自分でいい人間になれ ないんですね
理屈じゃなくて本当にイエス様の愛を知ったりイエス様が変えてくださるという 劇的と言いますかね自分の意思を超えたところで
私たちはこう変えられていくわけです まあ繰り返しになりますけどなぜこういうことを言うかというと無理してですね歯を食い
縛って いうことも必要かもわかんないんですけども
そうやってですねこうこれは私の試験になるかもしれませんが歯を食い縛って 自ら犠牲にしていくっていうことはどうなのかなという
イエス様の愛を知って 心からですねそう変えられていくということが
まさに精霊の技なんだないかなということであえていいわけですね でこの人間の意思を超えた愛を知ったヨハネ
彼は晩年ですね愛の手紙というヨハネの手紙を書いて こういうことを述べています
べきだということは疲れていますけどその前提として彼がイエス様の犠牲の愛を知った からなってことでこれらの見事を
見てください 第1ヨハネの手紙3章16節でこのようにヨハネは
私たち人々に進めています 読んでみましょうか3はいキリストは私たちのためにご自分の命を捨ててください
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ましたそれによって私たちに愛がわかったのです ですから私たちも兄弟のために命を捨てるべきです
このべきですの前に ですからって入ってますなぜかそれは
イエス様の 犠牲の愛それを私たちがわかったからっていうことですね
わかったらってことです 第1ヨハネ4章10節でさらにこのように述べていますねちょっと難しいですから頑張って
読んでみましょうか3はい私たちが神を愛したのではなく 神が私たちを愛し私たちの罪のために
なだめの捧げ者としての巫女を使わされました ここに愛があるのです
この イエス様の犠牲の愛をですね知っていくお互いでありまた
イースターに向かっていく日々でありたいと思いますお祈りしましょう 天の神様皆を賛美いたします
まさに権力と名誉に対する欲にまみれた 役部とヨハネが
イエス様のあがないの尊さその 愛を知って自らが上がられ上がられたことを知って大きく変えられました
どうぞ私たちも あなたの導きにあって
下部のように羊のようにか政府さんのように 使えていく
そのようなものとなれますよどうか導いてください 私たちの力でそれを作ることはできませんどうぞ神様
イエス様この十字架の愛を私たちが深く知ることができるように私たちをこの イースターに向かう日々
導いてください この願いと感謝を私たちの救い主
主イエス様のお名前によってお祈りします アーメン
それではいつものように1分ほど見言葉に応えて祈る時間を持ちましょう
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