2021-01-10 27:41

#37/21/1/10 隠されている命

コロサイ3:3-4 からの礼拝メッセージ。2021年1月10日録音。いのちや人生について考えさせられるコロナ禍の昨今ですが、キリスト者のいのちや人生観について聖書から学びます。
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朗読は、3章の1節から4節、新約聖書フォロサエビドの手紙、
新海約聖書2017年度版でお見せします。 こういうわけで、あなた方は、キリストと共に
よみがえなされたのなら、上にあるものを求めなさい。 そこでは、キリストが神の右の座についておられます。
上にあるものを求めなさい。 地にあるものを持ってはなりません。
あなた方は既に死んでいて、あなた方の命は、キリストと共に、神のうちに隠されているのです。
あなた方の命であるキリストが現れると、その時あなた方も、
キリストと共に、栄光のうちに現れます。 今日はこのところから、
隠されている命と題して、御言葉を取り継ぎます。 皆さん、改めておはようございます。
12月昨年の21日に、冬季を迎えましたね。 だいたいですね、日本の気候では、冬季からどんどん気温が下がっていく。
そしてそのピークが2月です。 やっぱり今、とても寒くなってきて、寒いですね、というのが挨拶代わりになっていますが、
この寒くなるとですね、お医者さんが言っているように、 体の機能が低下して、病気になりやすいそうです。
そんなのもあって、礼拝にちょっと、 体が痛いとか言って来れない方も割と増えているわけですね。
クリスマスの後から、体調が悪くて礼拝に来れない方、 コロナではないんですけども、そういう方が割といらっしゃいます。
そして、もう皆さんご存知のように、 東京都の新型コロナウイルスの感染者数が2000人を超えたりですね、
その中で先週木曜日、埼玉県にも2度目の 緊急事態宣言がなされました。
ただですね、その効果があるのかどうかと、 発令される前から、出るよ出るよと言っている前からですね、
謳われていたんですが、なぜ緊急事態宣言に効果がないかということを、 とある心理学者がですね、
これはラジオで言っていたんですね。 3つの心理学的な理由があると。
それがですね、第1はですね、傍観者効果って言うんです。
ちょっと最初にだけ今日は、余談になって おふざけがありますので、許してください。
傍観者効果っていうのはですね、 お笑いタレントで言うとですね、
この小島よしおって言うんですけど、 そんなの関係ねえっていう。
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私には関係ない。私が守らなくても、他の人が守ってくれるから、 出歩いたり、遊びに行ってもいいよ。
そういう効果で、 緊急事態宣言の効き目がないという。
それが1つ。2つ目の理由はですね、 正常性バイアス。
それは不都合な情報を無視して、過小評価する。 すごい良い情報だけを取得するという。
問題ないよ、お笑いタレントで言えばですね、 サンドイッチマンガですね。
何を食べてもゼロカロリーっていうのが 入ってますけど、自分にとって不都合な状況は、
過小評価したり無視する。いやいや、 コロナなんて風邪と変わらないからって、
王国の大統領が言いましたね。そういうような、 正常性バイアス問題を正常化してしまう。
そういう心理状態です。そして3つ目がですね、 ちょっと今日の説教の内容と関わるんですけども、
心理的リアクタンス。 反発って言うんですね、リアクタンスです。
これはですね、どういうことかっていうと、 これですね、押すなよ押すなよって言う。
禁止されるとやりたくなる。 外出しちゃいけません。そう言われるとやりたくない。
マスクをしなさいと言うとしたくない。 イギリスでも2度目のロックダウンになって、
イギリス在住のジャーナリストがですね、 なぜイギリスがこんなひどいのかというと、
みんなマスクしないんです。 日本がこんなひどくても、イギリスの新聞なんかでですね、
日本はすごいって言ってるんですね。なぜか。 みんなちゃんとマスクをしているじゃないか。
そのようにですね、やるなと言われたらやるし、 やってと言ったらやらない。
そういう心理的リアクター散発というのがあって、 この緊急事態宣言にも効果がないという、
心理学者がいました。 そこで実はこのことは、
クリスチャンにも当てはまる心の葛藤と似ています。 それは、
私たちがたとえイエス様を救い主として信じた後も経験する、 良心の葛藤とかですね、
あるいは罪の誘惑との戦いです。
パオロはこの葛藤を覚える理由を、 ガラディア人の手紙の中でこう解説しています。
ちょっと切れちゃいました。5章17節です。 なぜなら肉の願うことは身霊に逆らい、
身霊は肉に逆らうからです。 この2つは互いに対立していて、そのためあなた方は、
自分のしたいと思うことをすることができないのです。 と言っているんですね。
肉というのは人間、イエス様を信じても残る罪の性質を肉と言います。 だから、
肉があるから身霊に逆らう。
反対にもし、 身霊に聞きしたがっているならば、肉の願いに逆らう。
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そういう、 心の中の葛藤がクリスチャーになってもあるわけです。
このようなことから、
今日取り上げたい 殺される人の手紙の2節から、
私たちは隠された命ということを3つの点から学んでいこうと思います。
1つ目は、 命が隠されているとはどういうことかという点です。
残りの2つのポイントは、 隠されている命の約束や素晴らしさというものを1つずつ取り上げて、
3つの点から学んでいきましょう。 まず最初は、
隠されている命ということです。 今日取り上げる3章3節でパウロが、失礼しました。
こう言っています。前に掲示しました。 あなた方はすでに死んでいて、
あなた方の命は、 キリストと共に神のうちに隠されているのです。
これは2節から続いています。
先週見た1節2節の約束、主なる命令はですね、
上にあるものを求めなさい。 上にあるもの、天におられるイエス様のことを考えていなさいという命令でした。
その2節の最後はですね、ゲリシャ語で見ると、 禁止命令になっていて、
地上のことを思うなと言っています。 それで、地上のことを思うな、天のことを思えといった理由として、なぜなら、
あなた方はすでに死んでいて、あなた方の命は、 キリストと共に神のうちに隠されているのです。
そういう先週の内容をもう少し後押しして具体化するのが、 今日3節4節のパウロの言葉です。
ではですね、 この、
命が隠されているというのはどういうことか。 サイサンサイシ言ってますように、パウロはコロサイトの中で、
とても大切な真理を語っています。 それは、イエス様を信じた人は、イエス様と一つになる。
イエス様を信じて洗礼を受ける。 水の中に入ると、イエス様と一つになる。
そして、イエス様と一つになった、
ものの状態として、イエス様と一つになった、 あなた方は、私たちは、その命がイエス様と共に、
神様のうちに隠されている。 それはどういうことか。
命が隠されているというのは、こういうことです。 実はですね、イエス様を信じたら、新しい命をもらいます。
復活の命です。しかし、 史上の生涯を送っている間、その
新しい命は、私たちに、 完全に身についていない。
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私たちにとって、その新しい命が、 完全に明らかになっていないし、それを完璧に体験することができない。
だから、罪の葛藤を覚えますよ。
ですから、私たちは、健全なクリスチャン生活を送る上で、 そのことをまず覚えてください。
イエス様を信じても、 生涯、罪の葛藤を覚え続けるんだ。
そういう坂にあるんだ、とも言えるでしょう。 実は、そのことを理解していないと、不必要に自分を責めてしまいますね。
私も経験していますが、イエス様を信じても、 悪いことを考えてしまったり、
身近な人に感情的に当たってしまったりとかですね。 そういう神様の律項に背くことを考えたり、
行ってしまいます。 でも、もう一つ大事な、
前にもお伝えした真理を思い出してください。 それは、クリスチャン生活の中で、
成果という真理があります。 清くされる、清く化けるという成果。
それはですね、例えば私たちの 地上の生涯を
旅に例えてください。 ゴートゥートラベルが問題だとか言われてますけども、
私たちの旅は、地上の旅路は、 天国を目指す旅路です。
その旅路というのは何かというとですね、 成果の旅路。
ゴールはエイカ、イエス様と同じようにされていく、 その途上にあって、
イエス様の身姿に変えられ続けていくのが、 私たちのこの地上の旅路です。
その地上の旅路の中で私たちは、やはり先ほども言いましたが、 罪の葛藤を覚えたり、罪を犯してしまいます。
でもそこで諦めてはいけません。その時に私たちは、 イエス様の十字架を見上げますね。
この私の罪も、イエス様の十字架によって暴られているんだ。 だから罪をやめられないけど、神の前では、
清くされているんだという約束に立つわけですね。 そのように罪にくじけても十字架を見上げていく。
それからですね、自分がまだ、 完成途上である。
そのことを認めてください。 そして新しいイエス様の命を、その希望として見上げて、
完成を目指す旅路を続けていくこと。 これがクリスチャン生活です。
パールはですね、 先ほど見たガラテア人の手紙の別の箇所で、
素晴らしい約束、あるいはですね、 この地上の旅路を歩く上での大事な
価値観とか人生観を紹介しています。 ちょっと前に掲示しました。皆さんのレジュメにもありますが、
大事な言葉、 ガラテア2章19-20節
私は、 パウルも私もですね、私たちは
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キリストと共に十字架につけられました。 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
今私が肉において、 罪ある肉体を持って生きているのを生きている。
今私が肉において生きている命は、私を愛し、 私のためにご自分を与えてくださった
神の御子に対する信仰によるのです。 こうパウルは伝えています。
罪ある私が今生き続けることができるのは、 イエス様を信じているからだ。
どんなイエス様を信じているんですか?それは、 罪ある私のために自分の命を十字架で投げ出してくださった。
その救いの死を信じている。 そのように私は生きている。
私たちもこのパウルの価値観に倣って、 こう考えます。
罪から逃れられない私は、 イエス様と共に十字架で死んだと信じる。
実はですね、 罪ある自分がイエス様と共に十字架で死んだ。
それもですね、命がイエス様と共に、 神のうちに隠されているということにも繋がるわけです。
実はですね、今日の話はとても深いんですね。 コンデンスミルクのように深くて濃いんです。
だからたくさんお話することがあってですね、 盛り沢山になってしまいますけれども、
隠された命については、 ちょっとここまでにしておきましょう。
今は死ぬというネガティブなイメージですけれども、 今度パウルは
積極的な新しい命について語るんですね。
2番目のポイント、私たちの命であるキリスト、 つまり罪から自由になった栄光輝く命ということを見ています。
パウルは4節でこう伝えています。
前に書きました。
あなた方の命であるキリストが現れると、 その時あなた方も
キリストと共に 栄光のうちに現れます。
ここでですね、パウルはこの隠された新しい命を 私たちが
完全に体験する日のことを述べているんですね。 それはいつか、
それはイエス様の再臨の時です。 再臨とは復活したイエス様が今、神の身に挫していますが、
やがて見える姿でもう一度帰ってこられる。 それを再臨と言いますね。
この再臨について前回まで学んでいた、 テサロニキの手紙第1、
詳しく書いてありますので、 短い聖書ですから読んでみたりですね、
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過去の説教を例示に見たり、音声を聞いたりして、 ちょっと復習してください。詳しく語りません。
この再臨の時に私たちもイエス様の栄光の姿の 命を体験するというんですね。
4節のこのパウルの表現、注目すべきは、
イエス様が現れる時に、私たちの隠された命が 完全に現れる、それはどんな命か。
それは栄光輝く命で、 罪から完全に自由になった命だというんですね。
今何度も言いますが、地上に生きている限り、 いろんな方法で私たちは罪の葛藤を覚えたり、影響を受けますが、
その時には、罪の影響から完全に自由になった、 栄光輝く命を、
イエス様と共に授かるというんですね。
完全に新しく生まれ変わるというんですね。 このイエス様と一つになるという素晴らしい約束、
2つ今まで言いましたよね。イエス様と結び合わされた時に、 まずイエス様の死と結び合わされたと言いましたよね。
そして、バクテスマの時、水の中に入って死と結び合わされた。 出てくる時に、復活と結び合わされたというんですね。
今日の3章4節には3つ目の結びつきが 示されています。それは、
イエス様のサイリンと私たちは結びつくというんですね。
サイリンのイエス様と私たちは一つとなるという、 その3つ目の結びつきです。
そのことを覚えておいてください。 隠された命、それはサイリンの時に体験し、
それは、栄光輝く罪と関わりがない、 イエス様と同じ命だということです。
3つ目のポイント、 命なるキリストの2つ目のポイントです。
この命というのは、私たちクリスチャンの命の源であり、 その中心であり、ゴールである。
すべてのすべてであるということなんですね。 実はですね、
私、説教を準備して、考えて、 目想したり、いろいろ調べた時に、
こう思ったんです。 この、あなた方の命であるキリスト、
あなた方の命、私の命であるキリストという言葉が、 非常に深くてですね、
まとえた言葉なんですね。 これはそして、
クリスチャンの、 私たちのアイデンティティに関わる言葉である。
と同時に私たちの人生の、 この本質をついた言葉である。
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で、本当にこれ言葉で説明することが難しいんですけど、 わかる人にはそうだってわかると思うんですけども、
この、私の命であるイエス様、 その信仰はですね、
私たちが生涯かけて体験する、 命の醍醐味と言えるんですね。
で、この、あなた方の命であるキリスト、 という言葉について、
ある学者が、こう解説しているんですね。
こちらにも書きました。 さっきも言いましたが、
キリストはクリスチャンにとって、また、 教会にとって、命の源であり、中心であり、ゴールである。
それがこの言葉の意味だったんですね。 わかったようでわからない。
でもとても大事。 実はですね、さっき冒頭に話しましたが、
もう2度目の研究時代宣言が出されて、 新型コロナウイルスに関わる私たちの先行きが、
まさに不透明であるということがだんだんわかっている。 そういう時に今私たちは生活しているわけです。
考えたんですね。 その時こそ私たちは、
自分の人生の生活ややりどころとして、 イエス様を生きるということ。
今こそ私たちはイエス様を生きるということを、 新しい価値観として、
クリスチャンが与えられた価値観として、 見直しながら日々を過ごしていく。
過ごす必要があるんではないか。 そう思ったんですね。
ですからこの説教締め句にあたりまして、 この私たちの命の源であり、
中心であり、ゴールであるイエス様に関する、 聖書の約束や御言葉をいくつか紹介して終わりたいと思います。
なぜならですね、 これらの御言葉を皆さん自身がじっくり心の中で捉えて、
あるいは目想して、 皆さんそれぞれが、私たちそれぞれがこの、
私たちの命であるキリストについて捉えてほしいから。 そんな意味も込めて最後に御言葉を紹介します。いくつか。
まず一つ目。 イエス様は私たちにとって命の源でありゴールです。
それに関わる御言葉です。 コリントミトヨの手紙第1章6節。
私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、 この神からすべてのものは発し、
この神に私たちは至るからです。 また、
唯一の主なるイエスキリストがおられるだけで、 この主によってすべてのものは存在し、
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この主によって私たちも存在するからです。 まさにイエス様こそ私たちの命の源である。
そういう御言葉を宣言しています。 また、
同じ意味合いを込めて、コロサイフィトの手紙第1章16節の御言葉を紹介します。
なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、
王座であれ、主権であれ、支配であれ、権威であれ、 巫女によって作られたからです。
万物は巫女によって作られ、 巫女のために作られました。
まさにこの世のすべてのもの、 私たちの命も含めてすべてのものは、
イエス様によって作られている。 イエス様は私たちの命の源である。
そして、私たちはまさに巫女のために作られました。
イエス様のために作られた。 私は大学生の時に、
大学に出入りしていた宣教師を通して、 クリスチャン信仰を持ちました。
非常に地味な男性だったんです。
でも、とても頭が良くて忠実な、 ラドニー・ギブンという宣教師でした。
彼はいつも言うんですね。 人生、何をやっていてもいいんだ。
それでは、人生の目的に生きていれば、 正しく生きていれば、何をやっていてもいい。
人生の目的は何か。それは、 神を知り、神の栄光をあらわすことだ、という感じです。
実はですね、人生の目的は、人間の生きる目的は、 神の栄光をあらわすことだ、というのを後で気づいたんですが、
宗教改革者のカルバンの元だったんです。
宗教改革者というかルターが有名ですけど、 もう一人、フランスのカルバンという人もとても有名です。
私たちの教会の信仰の元にもなった人です。
その人が、私たち人生の目的は、 神を知り、神の栄光をあらわすことだ、と言うんですね。
このコロナ禍の中で、私たちがどうやったらイエス様の 栄光をあらわして生きるのか、そう考えることも一つの価値観ではないでしょう。
もう一つ、イエス様は私たちの命の中心です。 人生の中心です。これに係る御言葉。
私にとって生きることはキリスト、 死ぬことはエキデス。
フィリピン一章21節。 これもとても有名な御言葉です。
この時、パウロはローマの獄中にいて、 自分の死を覚悟していました。
これは命を狭間にすることではなくて、 死を覚悟したパウロが告白した御言葉です。
私は生き延びることによって新たな方に 使えることができる、でも、たとえ死んでも私は悔いがない、と言うんです。
その後、パウロは、なぜなら私にとって生きることはキリスト、 死ぬことはエキデス、と述べているんですね。
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この御言葉の真理はですね、 私たちの命の中心、人生の中心は、フォーカスはイエス様である。
パウロが死を覚悟して告白したんですけども、それは、 イエス様は私たちの死をも乗り越える、
そのような御方である。 冒頭に述べたですね、
キリストと共に神のうちに命が隠されている、 という言葉がありましたね。
神のうちに私たちの命が隠されているということの中にはですね、 私たちの命が神によって守られている、
そういう約束もあるんだ、という学者もいます。 まさに新型コロナウイルスが蔓延する中、命の危機を覚えている方がいるかもしれません。
そんな中でですね、 本当は会ってはいけませんけども、万が一私たちが命を奪われることがあったとしても、
やがてイエス様と一つになってよみがえる。 そして栄光を輝く体によみがえる。だから、たとえ死んでも、それは
益だとパブロは言っているわけです。
最後、 イエス様は私たちの命そのものです。
この御言葉ですね、ガラテア2章19-20。 私は
キリストと共に十字架につけられました。 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
今私が肉に置いて生きているのは、 私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった
神の御子に対する信仰によるのです。 共にお祈りしましょう。
天の父なる神様、皆を賛美いたします。
私たちは今、文字通り不安定な時代に生かされています。 命の危険や生活の危機を感じる時もあるかもしれません。
しかし、そのような時こそ、私たちの命の源であり、 中心であり、また
命の目指すべきところであるイエス様を、 さらに深く身近に知ることができるようにどうか導いてください。
私たちにそれを悟る力はありません。 うちに与えてくださった
ご生命の取りなしにより、どうか私たちが置かれている環境の中で、 イエス様ご自身、
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復活のイエス様の救いを、現実の救いとして、命として、 味わうことができるように、知ることができるように、
この新しい信念を導いてください。 言い尽くせない思いがありますけれども、
これらの思いを、私たちの救い主、 主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。 それではしばらく一分ほどお祈りください。
御言葉に応え、それぞれその思いをイエス様にお捧げし、 また御言葉に思いを馳せてください。
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