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マルコ3章31節
さて、イエスの母と兄弟たちがやってきて、外に立ち、人を送ってイエスを呼んだ。
大勢の人がイエスを囲んで座っていた。
彼らは、「ご覧ください。あなたの母上と兄弟姉妹方が、あなたを探しに外に来ておられます。」と言った。
すると、イエスは彼らに答えて、「私の母、私の兄弟とは誰でしょうか。」と言われた。
そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。
ご覧なさい。私の母、私の兄弟です。
誰でも、神のみこころを行う人、その人が、私の兄弟、姉妹、母なのです。
以上です。
今日はこのところから、見心を行う人、見心を行う人と題して見言葉を取り継ぎます。
みなさん、おはようございます。
7月第2週ですが、本当に暑い日が続いていますね。
もう梅雨が明けるんじゃないかと言われているぐらいですけれども、
西日本の方では豪雨が降っていてですね、心配されますけれども、
暑い中ですけど、共に礼拝を守れていることを感謝しています。
突然ですけれども、例えばですね、スマップの世界に一つだけの花のようにですね、
この名曲と歌詞にですね、名曲にはですね、伝えたいメッセージがあるわけです。
そして、そこのメッセージを伝えるために、作詞作曲した人はですね、
きちんと歌詞とメロディーを合わせた展開をしているわけですね。
それをですね、一般的にAメロBメロサビって言い方をするんです。
例えば最も伝えたいところがサビなんですけれども、この曲で言うと、
一番最初にこの歌はですね、ナンバーワンにならなくてもいい、こんなことです。
サビを歌っているんですけど、繰り返されるサビは、世界に一つだけの花。
要は一人一人がとても大事だよっていう、そういうことを伝えたい歌ですよね。
ちなみになんでこれ選んだかというと、うちの教会の人に一番広い世代に分かるのはこれかなと思ってあげたんですけれども、
それはそれとしまして、実はですね、聖書も似ています。
パウロの手紙、この間もやっていましたし、今はルカの福音書を学んでいますが、どういうことかというとですね、
聖書っていうのは、例えばルカもそうですけれども、小さな段落の集まりなんですね。
そしてその段落の一つ一つが一曲みたいな感じになるんです。
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私、よくこの間のパウロの手紙をやっているときに、取り扱う段落で、
例えばパウロをですね、ロックミュージシャンに例えて、どうやってこの歌詞を歌っているのかなというふうに考えながら、
この聖書の歌詞を模倣して、こうやってパウロは話を作っているんだということもしました。
アルバムがありますけれども、一曲一曲があって、そしてそれが全体のアルバムのテーマになっているように、
聖書の例えばピリピリとの手紙であれ、マルコの福音書であれ、一つ一つの段落が一曲みたいなんです。
そしてそこにサブテーマがあって、それが実は全体の、例えばマルコだったらイエスキリストの神のこの福音というテーマに合致している。
皆さん、聖書を読むときにそうやってですね、読むとより聖書が立体的に読める。
この歌詞をどういうふうに歌っているのかなみたいですね。
まあそれはそれとしまして、今日の歌詞を実はですね、読んだのは31節から35節なんですけれども、
実はですね、先週見た20節から今日の35節までが一曲みたいな、そういう編成になっているんです。
今日見た3章20節からの塊の中でですね、いわゆるサビですね。
一番この20節からのところでパウロじゃなくて、マルコが伝えたかったこと、イエス様が伝えたかったことはこれなんですね。
誰でも神の見心を行う人、その人が私の兄弟姉妹母なのです。
これがサビでこの歌詞を通して一番伝えたかったことだと思われるわけなんです。
そういう中で、先週の歌詞を取り上げながら、3つの点をですね、歌になぞらえてAメロ、Bメロ、サビという形で見ていきます。
真面目にやってますからですね。遊びでやってませんので、見ていきましょう。
まずAメロ、第1番目のポイント。イエス様の家族が登場する。
そしてそこで言われているのは、神の見心に従う人は普通じゃないということだったんですね。
3章の20節の冒頭で、家の中でいっぱい人が押し寄せてイエス様がいるところに、イエス様の家族が押し寄せてきたというところから始まるんです。
なぜかそれは21節にこう書いてあるんですね。
これを聞いて、人々が家にいっぱい集まっているのを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。
ここだけ読んでみましょう。
人々がイエスはおかしくなったと言っていたからである。
まずね、今日ちょっと歌の説明に入りますけどね。
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Aメロっていうのはですね、その曲の印象が強く決まるんです。
例えばこの世界に一つだけの花だと、これがAメロです。最初の部分。
花が一個一個争ってないよっていうことを印象付けてますよね、この歌詞で。
これはアルバムですけどね。
今日の今のマルコの福音書の中の、この20節から35節の長い区分の中の最大のテーマ、それは家族なんです。
そこにですね、もっと言うとイエス様の家族は誰ですかっていうテーマなんです。
その中でイエス様の家族は誰ですかっていうことと、神様の見心を行うっていうことももう一つの大事なテーマ。
その二つが大事なテーマなんですね。
で、そこで今日の今のAメロの部分、3章の20節からの最初の部分、イエスの家族がやってきた。
家族っていうことがわかるわけです。
で、そこでなぜ来たかっていうと、イエス様がおかしくなったっていう評判が広まったっていうことですよね。
で、こっから何が言えるかっていうと、今日の取材のもう一個の、家族以外のもう一個のことがわかります。
それは神様の見心に従う人は周りからおかしくなった。
普通じゃないって言われることがありますよってことが見え隠れすっちゃいるんですね。
で、その旧戦法と言いますかね、代表的な模範がイエス様だったってことがほっと出てくるわけです。
神の見心、神に従って生きる人は周囲の人から蒸気を知っているとか普通じゃないと批判されるっていうことが出てくる。
さあ、そんな中で実はイエス様がそう言われた顕著な例が聖書に出てきます。
ヨハネの福音書です。
ヨハネの福音書の中でイエス様がですね、私は天から下ってきたパンだって言ったんです。
それを聞いたユダヤ人たちがこういう反応したんですね。
ユダヤ人たちは、イエスが私が天から下ってきたパンですと言われたので、イエスについてこことで文句をつぶやき始めた。
彼らは言った。あれはヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。
ここでも家族出てきますね。
なのにどうして今私は天から下ってきたと言ったりするのか。
分かりますよね。
あいつはヨセフとマリアの息子なのに、なんで天から下ってきたなんて神みたいなことを言うんだって疑問が出てます。おかしいだろう。
そしてその後イエス様は自分の体を例えて聖三式でも言うように、私の体を食べて血を飲む人は生きるって言ったんです。
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私の体はパンだからそれを食べたら生きるっていう話をした時に、
弟子たちでさえイエス様の教えにつつまずいたって書いたんですね。これ読んでみましょう。これを聞いてから。
これを聞いて弟子たちのうちの多くの者が言った。これはひどい話だ。誰が聞いてやれるだろうか。
6章67。
イエス様の弟子だった人たちの中にも、あれはおかしい。聞いてらんねえっていう人が出てきたってはっきり書いてあるわけです。
ここで私たちと実際関わってくる問題が出てくるわけなんですね。
それは神様に従う人は世間一般では理解されないことがありますよということです。
もし私たちがクリスチャンであってそういう誤解される場合がありますよということです。
で、なぜかというとね、よく考えればわかりますよね。
一般常識として曲がり通っている価値観や判断からすると、神様中心の考え方なんか受け入れられないわけです。
で、ましてやイエス様や聖書の言葉を自分の生活や価値判断の基準とするということ自体受け入れられません。
で、よくも悪くも日本人一般は宗教的な生活ということが理解できないですよね。
私、教会に関わる前に外国人の人が言ったんですね。
私クリスチャンです。お祈りしてます。
で、その間に私に対してあなたの宗教は何ですかと言われて、
え?本当におかしいな人だと思ったし、全くそういう価値観がなかったからどう答えていいかわからなかったんです。
で、それが日本人一般の常識ですので、
もし私たちが聖書を基準に生きている、神様の御心に従って生きていると言ったら、
理解されないことがありますよ、その旧戦法がイエス様でしたよということが、
今の英明の頭の部分からわかるわけです。
でも私よく言いますけども、大事なことはですね、非常意識に何でもやればいいということじゃないんですよね、クリスチャンだから。
あるいはクリスチャンだからって、間違った意味で自分を犠牲にしたり、自分を大切にしてはいけないということではないです。
で、クリスチャンの成熟ということを考えるときにですね、非常意識でもなく、
自分を大切にしながらも時には覚悟を持って神様に御心に従うと決意する。
まあ、こういうところに逸脱するかもしれませんし、あるいはしない中で神の御心に従うということを考えていくということがクリスチャンの生活の成熟なんです。
だから聖書を読んだり、それをよく考えたり、頭の中で生活の中でお控えで瞑想してくださいという中にはそういうことがあるわけなんですね。
12:07
ここが適応になりましたけれども、一番最初に言われていること、イエス様の家族がやってきた神の御心に従う人は、でも普通じゃないと誤解されるということが出てきたわけです。
それが最初の2番目。Bメロですね。
2番目のこのポイントではこういうことが言われています。
悪霊の貸し処とされたイエス様。取り戻された神の家族というテーマです。
こういうことが先週見ましたけど3章32節で書いてありました。
またエルサレムから下ってきた日本学者たちは、彼はベルゼブルに疲れている、悪霊に疲れているとか、悪霊どもの貸し処によって悪霊どもを追い出していると言っていた。
またちょっと音楽の話になっちゃいますけど、Bメロというのはですね、Aメロとサビの橋渡しをする部分でストーリーが大きく展開します。
さっきの歌で言うとですね、これですね。
それなのに、花は綺麗に咲いているのにって言って、それなのに僕ら人間はなんで比べたがって一番なりたがるのっていう展開するでしょ、歌詞が。
で、音楽も変わるじゃないですか。下手だから歌えませんけど。
で、こうやってその前はお花の話だったのに、ここでは人間の話になる。
しかも人間がみんな一番になりたがるよっていうことが、展開が変わるわけですよね。
そういう展開の変化が、この立法学者の悪霊疑惑、イエス様の悪霊疑惑のところで出てくるわけです。
最初に見たイエス様がおかしくなったどころか、ここではですね、悪霊の頭だ、仲間だ、もっとひどいと世に見なされてしまったんですね。
悪霊に疲れた人をイエスが癒したのは、イエスが悪霊と深い関わりがあって、悪霊の親分だからそれができるんだという疑惑がもっとひどくなった。
展開がちょっと変わってきたわけですよね。
でもそこにイエス様はですね、明確にそれは違うって否定するんです。
否定しながら、とても大事なメッセージをおそらく2つぐらいかな、伝えています。
イエス様はこう言うんですね。ちょっと難しいですけど読めるか。
まず強いものを縛り上げなければ、誰も強いものの家に入って火災を略奪することはできません。縛り上げればその家を略奪できます。
話がですね、家族の話から悪霊の話になって、強盗の話みたいなことに転換しちゃうわけですよね。
ここでイエス様は何言ってるかというと、悪霊疑惑を強く否定しています。
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違いますよ、悪霊じゃないですよ。
そしてもっと別のことを言って、私は悪霊どころかそれを制する力がある。
それよりも強い神だっていうことをここで宣言しています。
さらにここではですね、よく見ると家族と関係するテーマなんです。
火災道具を取り返すというのは、家のものを取り返すということはですね、
人質の家族を悪いものから取り返すというイメージもできるんですね。
皆さん刑事ドラマとか見ます?相棒とかね。
この間までやってたラストマンといって、福山正治さんが全毛の捜査官になったのがすごく話題になりましたけれども、
必ず出てきますよね。誘拐されて、その家族をあるいはその仲間を救出する場面。
このアジトに入っていってですね、縛られている人質をこの刑事がですね、
犯人とか頭をですね、やっつけて、そして縛り上げてですね。
そしてこの縛られている人を解き放って、この人質を例えば家族のもとに返してあげる。
そういうことがよくあるパターンです。
ここで実はアキクレにつかれた人っていうのは、悪魔に人質にされた人っていう、そういうイメージで語られています。
でもイエス様はこの勇敢な刑事のように、その敵と戦って、それを縛り上げて、縛られているこのアキレにつかれた人、実は神の家族の一員を救出して、
そして神の家族のもとに返す。そういうことが連想できる。
悪魔の捕虜となっている人をその支配から救い出す。
奪還して元の家族に返すことが分かるわけです。
皆さん、何となく察してきたかと思うんですけども、ここで分かること。
それはですね、私たちはイエス様を信じて神様のものとされた。
そうすると私たちは神様のものに、何か知りません。何か悪しき力から救い出されて、神様のものにされて、もう悪しき者の支配下に下ることはない。
それどころか、イエス様の家族に迎え入れたのが私たちですよ。
そして、その救われた私たち。
それはですね、人質がろくに食事も与えられなかった。でも救われて家族のもとに帰ったら美味しい食事が食べられるように、
救出された私たちは神様のもとで、神様と共に喜ぶ。
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御言葉なり神の御心を美味しい食事のように取ることができるわけですよね。
そして、悪い者の支配から救われた私たちは神様の家族とされて、神様との喜ばしい関係を味わっていく。
神の御心を喜んでいく、そういうことが見て取れるわけです。
さあ、そして最後、サビですね。もう飽きたかもしれません。
サビ、サビっていうのは段落のうちであり、最も大切な教えだ。歌で言えばですね、曲の山まで演奏盛り上がってメッセージも強く印象付けられる。
もう最後までやっちゃいますけれども、このサビはこうですよね。
そうだ、そうさ、僕らは世界に一つだけの花。
ここで、AメロBメロのですね、花と人間が混ざって、私たちは世界に一つだけの花ですよ。
その花を咲かせることだけに一生懸命なればいいというメッセージが伝わってくるわけです。
イエス様もこの最後の部分で、これを記したマルクも最後の部分で、
こういうサビ、大事なことを伝えています。
そしてイエス様は、この前に大事なことはですね、
一番最初に出てきた家族、おそらくマリアと兄弟や姉妹がイエス様の元に近づけないから、
使いをやって、ちょっとイエスを呼んで、頭おかしくなったって噂されてるから呼んで、
ということを使いにですね、使わして、イエス様の元に使わした。
そしてその使いの多分メッセージを聞いたイエス様は、
多くの人が座っている中で教えていたんですけども、
そのことを聞いて、あなたのお父さんお母さんが呼んでますよ、
あなたのお母さん、家族呼んでますよっていうことを聞いたときに、
イエス様は周りを見渡して、こう言ったんですね。
読んでみましょう。
ご覧なさい、私の母、私の兄弟です。
誰でも神の御心を行う人、その人が私の兄弟、姉妹、母なのです。
余談ですけど、イエス様は自分のお母さんを大事にしてましたよね。
それは後でまた出てきますけども、
お母さん、兄弟、姉妹呼んでますけども、
いや見てください、ここにいる人たちが私の兄弟、姉妹、母ですよ。
神の御心を行う人が誰でも私の家族ですよ。
これは学者が言うには群衆だけじゃなくて、
読んでいる私たちにも向けられた書き方をしている。
私たちにもイエス様に呼びかけられているということですね。
一番最初に言いましたけれども、神様に従う人は、
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おかしな人とか普通じゃない人ではなくて、
イエス様の兄弟、姉妹、母だ、
そういうメッセージが伝わっています。
今更こういうことを言うのもなんですけど、
有名人が自分の知り合いだと誇らしく思いますよね。
野球選手は私の何とかだとか、
あるいは今SNSの時代ですから、
自分のツイートを誰か有名人がリツイートしてくれたり、
投稿を誰か有名な人がいいねしてくれると、すごく誇らしく思います。
であれば尚のことですね、イエス様に、
あなたは私の家族ですよと言われる。
私の兄弟、姉妹、母ですよと紹介してもらえる。
どれほどそれは素晴らしいことでしょうかね。
名誉なことだと思うわけです。
繰り返しになりますが、イエス様はその中で、
敵である悪魔を縛り上げて、
悪魔に誘拐されていたかもしれない私たちをですね、
救い出して、神様の家族のもとに連れ返して、
そしてあなたは私の家族だと呼んでくれる。
そう救われた私たちはですね、喜んで神様の見心を行うものと変えられていく。
そんな中で最後に2つの見言葉を言いましょう。
イエス様が神様の見心を、父の見心を行うということについて語った見言葉です。
ヨハネの6章38、40ですね。
ちょっと長いですけど頑張って読んでみましょう。
私が天から下ってきたのは、自分の思いを行うためではなく、
私を使わされた方の見心を行うためです。
私の父の見心は、こう見て信じる者が皆、永遠の命を持ち、
私がその人を終わりの日に蘇らせることなのです。
ヨハネの6章38、40。
そしてもう一つ、使徒パウロですね。
パウロが、お前は上記を知ってるって言われた。
でもそれは、神への愛のゆえだって言ってるんですね。
それを伐推した歌詞を読んでみましょう。
第2コリント5章14、読んでみましょう。
私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、
正気であるとすれば、それはあなた方のためです。
というのは、キリストの愛が私たちを捉えているからです。
これからマルコの福音書を通して、神の見心ってことが語られていきますけども、
そういうものを学びながらですね、イエス様の愛のうち、神に応えていくお互いでありたいと思います。
お祈りしましょう。
24:02
天の神様、皆を賛美いたします。
あなたは救い主イエス様を使わせてくださり、
私たちをあなたのもの、イエス様の家族と選んでくださったことを感謝いたします。
どうか、その幸いを私たちがさらに深く豊かに知ることができるように導いてください。
またどうぞ、私たちがあなたの見心を行う、それがどんなことなのか、
聖書を通し、祈りのうちに、また日々の生活、人との関わりの中で知ることができるように、
どうか導いてください。
あなたが備えてくださった見心のうちは歩む喜び、
そのことを知ることができるように導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど、御言葉に応えて、それぞれお祈りしましょう。
黙祷で祈ってください。