1. 名谷教会
  2. 2014/12/14:聖日礼拝(旧音源)
2014-12-14 48:09

2014/12/14:聖日礼拝(旧音源)

2014/12/14 聖日礼拝(旧音源)




00:01
アーメン、ありがとうございました。
皆さん、おはようございます。
メリークリスマスの方がいいでしょうかね。
それでは、神様に入る前に、隣の方と挨拶したいと思います。
メリークリスマス。
はい、いざお祈りいたします。
私たちを救うために、この地に主になったイエス様、
私たちを主の身元に招いてくださり、救ってくださって、
あなたの子供にしてくださって、
天の諸々の祝福、主の諸々の祝福を与えてくださる神様、本当に感謝いたします。
主を愛し、主の御前に集まり、礼拝を捧げる、我ら一人一人の上に、
今から神様御自身が、精霊様御自身が、一人一人に、
今日聞くべきあなたのメッセージを、御声を聞かせてくださいますように。
見る目、また、そそる知恵を、どうかしてかお与えください。
秘伝いざねます、イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
今日は、アドベントメッセージ3回目です。
イエス様の生涯を、頂点からさがのぼって見ていますが、
今日は、イエス様の生涯について、御言葉から教えていただきたいと思います。
ところが、イエス様の生涯で、イエス様がなされたこと、
教えられた御言葉は、たくさんありますので、
その中で、最も重要なところを、
今日、二つの聖書箇所を読んでいただきました。
ルカの福音帳19章10節、それからマタイの福音帳21章28節、
この二つの箇所はですね、
イエス様が、なぜ、何のためにこの地上においでになったのか、
その目的が何なのかを、私たちに明確に教えている箇所なんです。
03:06
さあ、その二つのことを、今からですね、深くともに御言葉から教えていただきたいんですけれども、
その前に、イエス様の御言葉がですね、四つの福音書にたくさん書かれています。
また、イエス様がなされた出来事もたくさんありますが、
さあ、皆さん、イエス様の生涯の中で、
これが私の人生に、私の信仰に本当に印象深く残っているというものは、皆さん、何でしょうか。
それとも、イエス様の御言葉の中で、皆さんの人生と信仰の中に一番大きな影響を及ぼしたものは、何でしょうか。
あると思うんですね。ちょっと考えていただけますか。
イエス様のどんな御言葉が、私の信仰に、私の今までの生涯に、これからの生涯に一番大きなインパクトがあって、影響を及ぼした。
それによって自分が、ひっくり返されたように変えられたのは、何でしょうか。
それがあるということ、その御言葉がある、イエス様のその出来事があるということは、イエス様が私の内に生きておられるという証拠なんです。
生きておられる人が、絶えず私の人生と関わってくださる、影響を及ぼしてくださる、
時には人生の軌道を修正してくださり、時には飴を与え、時には虫を与え、こうして私たちとあらゆる関係を持っていてください。
私たちもイエス様と三味一体の神様と深い関係、交わりを持っていくこと、これが信仰生活であり、これがひっくり返すの人生なんです。
皆さん、私たちもこのキリスト教信仰は関係の信仰なんです。関係の信仰。
三味一体の神様が、神様、イエス様、精霊様が、深い一体の関係の内におられるんですよね。
そして私たちもその三味一体の神様とイエス様、精霊様とずっとずっと関係を持ちながら進行の歩みを歩んでいるわけなんです。
06:13
まるでそれをキャッチボールをすることと似ているかなと思うんですね。神様と私たちがキャッチボールをするんです。
神様が私たちに御言葉のボールを投げる。そして私たちはそれをもらって、そして神様にまたそれを投げる。
こうして神様とやりとりしながら、キャッチボールをしながら、その中で、関係の中で、私たちの信仰が、人格が成長していくこと。
これが進行なんですね。皆さんいかがでしょうか。この頃、神様とのキャッチボールがうまくできていますか。
イエス様との進行のやりとりがうまくいきていますか。2014年もあと2週間残っている。このところで、立ち止まってじっくりすくすくと考えていただきたいと願います。
自分は、皆さんは今年、神様と本当に美しい関係を結んできたのか。自分は神様とトラブルなく、進行のやりとりをうまくやってきたのだろうか。考えていただきたい。
今日のメッセージを聞きながら、また今年が終わる前に、沈まって、本当に自分は今年1年間、神様とどれだけ美しい素晴らしい関係を結んできたのか。その時を、そのひとときを、ぜひ持っていただきたい。
あるなら、私たちは神様との関係が一番大事。先週も申し上げたように、私たちの進行があるいは教会生活が、まるで何かをイベントをしているかのように、発表会をしているかのように、押されて押されて歩んでいってはいけないと思うんですね。
09:11
いつか東京に行って電車に乗ったことがあります。朝でしたけれども、人がものすごく多くて、自分が降りる駅じゃなかったんですけど、押されて降ろされたことがあります。
皆さん、私たちの進行が、背を押されて押されているかのように進ませられていく進行にならないでほしい。神様とうるわき美しい関係を結びながら、その深い関係を持っていきたい。
言い換えますと、自分は行きたくないんだけれども、背を押されてからやむを得ず行く、そういう進行じゃなくて、能動的な進行、また積極的な主導の関係を、関わりを持ちながら、
このうちに神様に対する情熱が、炎が燃え盛るような、その情熱的なイエス様との三味一体の神様との関わりを持つクリスタルになる。
精霊様が絶えず毎日のように、私の内側で語ってくださる。自分がその御言葉に耳を傾けてよく聞き従う。そして聞いた御言葉通りに行う美しいクリスタルになりたい。
イエス様が私の内側に生きておられ、私に語りかけておられる。私がその御言葉を聞いて行う進行、それがイエス様が望まれる進行。
ところが皆さん、イエス様がこの地上におられて、なされたことが数多くありますけれども、イエス様が抱かれたこと、イエス様がなぜそのことをされたのか、なぜこの地上においでになったのか、それを要約したその御言葉が今日の二つ、その会話です。
12:00
もう一つ一緒に読みたいと思いますけれども、まずはルカノス一章、十九章の十節を一緒に開いて読みたいと思います。よろしいですか。
一緒に読みましょう。前にもありますので、3、人の子は失われた人を探して救うために来たのです。
主に人の子はイエス様なんですね。自分が自分自身のことを人の子と言いました。イエス様が自分をさせて、私が来たのはこのためなんですよ、と御語った御言葉がたった二つありますよ。その中の一つがこのルカノス十九の十節。
なぜ、何のために、何に来たのでしょうか。失われた人を探して救うために来られました。そしたらイエス様がこの地上に来られた目的はもう明確でクリアなんです。
そしたら、私がこの十節を読んだら、それは当たり前じゃないですか、と思われるかもしれません。しかし皆さん、当たり前のことを当たり前のように行うことが実は一番重要なんです。
当たり前でちょっと考える信仰じゃなくて、当たり前のことを行う信仰に私たちは成長しなければいけません。先ほどイエス様との美しい関係を申しましょうと申し上げましたけれども、
イエス様が私たちに人の子が来たのは、失われた人を探して救うために来たんですよと、私たちにボールを投げてくださいました。私たちはこのボールを受けてそれを行うのがクリスチャンの信仰なんです。
何を行うのでしょうか。何をやるのでしょうか。失われた人を探す。探して救うことです。イエス様はこのために来られました。そして私たちがそのために救われました。
もう一つですよ、皆さん。私はこの明太人教会の主幹部として、僕会のためにこの教会に使わされました。それが私がこの明太人教会に来た目的なんですよね。
ところが私は、自分は掃除が好きだから、もう一日中ずっと街道掃除ばかりして、他のことは何もしていない。誰かが言われても、私は掃除が好きだから、させてくれよと言って、トイレの掃除、2階の掃除、この近所の掃除、裏の公園の掃除ばかりをしていたとしましょう。失格なんですよね。同じなんです。
15:25
イエス様がこの地上に来られたのは、イベントをするためではない。発表会をするためではない。自分がやりたいことをするために来たのではなく、神様の身もねが失われた人を探して救うために来られた。
そのためにイエス様がこのクリスマスに生まれて、そのために私たちを救ってくださったんですね。そしたら、神様の目的とイエス様の目的と私たちの人生の目的、この3つが一致することが、一番美しい人生になるわけです。
今日本当に立ち止まってじっくりつくづくと、イエス様がおいでになったその目的を共に考えてみていきたいと思います。
私たちの周りには失われた魂が本当に大勢生まれた赤ちゃんから子供たち、中高生、青年、若い夫婦とか少年、夫人、お年寄りの方々、大勢失われた人と言いますね。
失われた。それは、もともとイエス様の人だったというものなんですよね。イエス様の人でしたけれども、失われたんです。もともとイエス様の人々でしたけれども、それが失われている。
皆さんが祈って、本当にそのために、一生懸命にですね、本当に奉仕していらっしゃるその目的、皆さんがご承知のように、夫人のクリスマス、子供のクリスマス、それを行う目的は、失われた人を探して救うためなんです。
他の目的はありません。いや、いりません。イエス様が失われた人を探すように、私たちは探して救うために、イエス様が働かれたように、私たちも探して救いに導いて働く。それが信仰なんです。
18:06
そういうことを開けたいと思います。同じ、ルカノフクイン教十五章です。このルカノフクイン教十五章には、三つの失ったものを探す人のたとえ話が書かれています。読みますので、清書を開いてください。十五章。
まずは、四節、百四十六ページですよ。一緒に読みたいと思います。ルカノフクイン教十五章、四節。
ルカノフクイン教十五章、三節。
皆さん、これがイエス様の御心、神様の御心であって、私たちキュリちゃんのこの信仰の態度でなければなりません。その一匹は、もともとその持ち主のものでした。
失われました。失くしました。そしたらですね、探し見つけるまでですね、探し歩くでしょう。それがイエス様の御心であって、私たちの心とならなければならない。その次に、八節に行きます。八節。一緒に読みますね。八節、三節。
また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚を失くしたら、明かりをつけ家をはいて、見つけるまで念入りに探さないでしょうか。はい。女の人はですね、銀貨をですね、十枚持っていました。
一枚を失くしたら、それをですね、明かりをつけて家をはいてですね、見つけるまでそれを探すでしょう。イエス様は、失われた羊を探す羊飼いのように、銀貨を探す女の人のように、失われた息子を探すお父さんのように、
今も、あたしの周りにいる、失われた魂を探し求めて歩いて、時には悲しみながら、失われた魂を探し求めておられる。時には、気が狂った人のように、失われた魂を救うために、そこにぼっと落ちて、ひたすらこのために歩まれました。
21:02
イエス様のこの地上での境外三年は、ひたすら失われた魂を探して救うためでした。魂を救うために、この大和境外の三年を、イエス様は過ごされたわけなんです。
最近、土曜日とか日曜日の教会学校に子供たちが来ています。前から来ている子供じゃなくて、新しく来ている子供たち。7、8歳くらいなんですけれども、誰が見てもイエス様のことは全く知らない。
ただ、勤務君たちが好きで遊びに来ている。ありがたいことなんですけれども、あの子供たちを見るたびに、アゲ様のあの心がどれほど悲しんでおられるんだろうか。
失われた魂であって、救われるべき魂であることを、イエス様は泣いておられる。今朝、秘密のメッセージをさせていただきながら、本当にその心が染み込むように思われました。皆さんはどうでしょうか。
救われて今まで、あるいは今年、あるいは今月、失われた魂を探して救うために、私たちは鳥取イエス様のハートを抱いて、祈りをし、涙をし、あるいはもがき、あるいは死の未満に呼ばわり避けているでしょうか。
失われた魂を救うために、一人でも多くの人々が救われるために、その魂をイエス・キリストに導く人が、そのために働く人が、本当のクリチャンであって、その人はイエス様の本当の友であって、神様の本当の子供なんです。
聖書1ヶ所を開きたいと思います。第2コリント5章13節です。新約聖書351ページです。5章13節、一応読みたいと思います。
24:31
もし私が気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなた方のためです。アーメン。
皆さん、これはですね、パウロ先生が本気で言っているんです。もし私が気が狂っているのなら、それは何のためですか。神のためです。
パウロ先生はですね、自分が気が狂っている。何のために。神のために。福音のために。イエス・キリストの十字架のために。失われた魂を救うために、私は気が狂っている。それほどいいですか。
私は世に使わされて、もう少し7年になりますけれども、この日本のこの0.56%ぐらいの福音でしょうか。この彼ら打ち破られるためには、私たちがイエス様のために、福音のために、救いのために、パウロ先生のように気が狂わなければならないと私は思います。
日本の福音家が難しい、難しいという理由は、私はこう思います。この人パウロのように、神のために気が狂っているかのような人が少ない。あまりにも大人しくない。
気が狂った人のように福音を述べ伝え、気が狂った人のように祈り、気が狂った人のように神のために働く人が少ない。私はそう思います。
あくまささんは、私たちをみなさん騙しているんです。そんなに気が狂うほどやる必要はあるんだろうか。ほどほどしていいじゃないか。そんなに気が狂ったかのように言っても何も起きないよ。ほどほどして十分だよ。私たちは騙されているのではないでしょうか。
27:02
イエス様は悲しまれて、あくまささんは笑っているんです。日本にも韓国にも。神のためにこのパウロ先生のように気が狂った人のように伝道し、気が狂った人のように礼拝し、集まって祈る教会は続いて続いて成長していきますよ。
しかしそうでない。だいたいの教会は衰退して、錆びがついて、人数も減って、後々は教会の扉を閉じてしまう。ヨーロッパの教会はその道を歩んでいるんですよ。伝道もほどほどしましょう。祈りもほどほどしましょう。そんなに集まって立って何が起こるんでしょうか。
あんなに気が狂ったかというようにするのは、教養のないようなものではないですか。その結果はどうなっているんでしょうか。皆さん、ヨーロッパに帰った方々いらっしゃるでしょう。
あのイギリスに、あのオランダに、あのドイツにある教会は、多くの教会が博物館になっていて、ビールを売っている居酒屋になっていて、カフェになっていて、ダンスクラブになっていて。
もちろん、そんな中でも、本当にでも、そういうふうにもがいて、パオロ先生のように、気が狂っている人のように伝道し続ける教会は、そんな中でも、教会は守られて、そのところに栄光が輝いて、恵まれて、成長しているんです。
皆さん、よく考えていただきたいんですけれども、世の中でも、その分野で本当に目立つ、成功した人々は、ほとんど適当にいって、そのトップのクラスに上った人は一人もいないと思います。
この前ですね、YouTubeで動画を見たんですけれども、例えばですよ、スポーツ選手の中で、アサダーマオとか、韓国のキム・ヨナとか、ああいう世界のトップじゃないですか。
彼らたちは、この背骨がこう曲がっているんですね。何回も何回も、片足でジャンプして、片足で卓球をする。それを一日何百回もする。それを十年か二十年、二十年から言ったらないですよね。
十年以上それを毎日のようにそれをするんですよね。足も曲がって、背骨も曲がっているんです。それほど気が狂うほど、ぼっとしてやる人がトップになれるか、ならないか、それほどなんですね。
30:04
逆球選手はどうでしょうか。一日何回もバッティング練習をするでしょう。数千回、数万回バッティング練習をするんですね。ピッチャーもそうなんです。
ひとつで言うならば、彼は自分の仕事のあの分野でも気が狂った人のようにぼっとしているんですね。それを持ちないと世の中で成功できない。
まして失われた魂を救うために私たちはどうしたらいいんでしょうか。答えは明らかなんです。イエス様がなされたように、パウロ選手がなされたように、もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためである。
このような人がこの明太に教会から、日本の教会から出てこなければならない。第2第3のひとパウロがこの明太に教会から、日本の教会から出てくるときにそこに希望があり、皆さんが第2第3第4第5のひとパウロになっていただきたい。
イエス様のために神の復位のために気が狂った人のようにぼっとして励み続けるクリスタンになっていただきたい。
神のために、復位のために気が狂う人。そしたら施設が起こりまして、悪魔サタンのあの声に騙されてはいけません。騙されているクリスタンが大勢いる。本当にこれが一番大事なんです。
日本の大地震災のときに、韓国から電話やメールがもうまいるようにしました。危ないから解説のほうがいいとか。電子力の勤めている私の友人がいるんですね。彼から真剣な電話をしました。
33:01
日本の政府は事実を、セックスを言っていないから、自分は分かっている。あなたがそこにいたらやばいと言われました。彼に私は答えました。私はこの日本に骨を詰めるために来たんだから帰らない。
国でもここで死ぬ。そういった病気にもしも病気になっても、選挙していてそんなに死んだら準拠になるだろう。それほどの影響はなかろうと、彼に丁寧に言いました。
彼は本当に泣き声のような声で私に言っていました。私だけではなく、私の知り合いの先生はあのときから毎月のように東北に行って、コンサートを開いたり、集会を開いている知り合いの僕しかいません。毎月行っています。
皆さん、イエス様は失われた魂を救うためにこの死所に来られました。誰から見ても、あのイエス様は、そして人行伝の以降のあの弟子たちは、本当に周りの人々から見られたら、気が狂った人々でした。イエス様のために、神のために。だから、あの人の働きのようなリバイバルが起きたんです。
第二番目に行きましょう。イエス様がおいでになった目的は、それは、マタイの福音書二十四章二十八節です。そこをもう一度一緒に読みたいと思います。マタイの福音書二十四章二十八節。一緒に読みたいと思います。二十八節。
一の子が来たのが、使えられるためではなく、かえって使えるためであり、また多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるためであるのと同じです。アメン。
皆さん、イエス様が来られたのは、このマタイの福音書には、使えるために来たのだ、と。イエス様が馬小屋でお生まれになったのは、ですから目的は二つなんですね。一つは、失われた人を探して救うため。もう一つは、使えるため。命を与えるまで。
36:08
ですから皆さん、私たちがクリスタンとして生きるということ、神の民として生きるということ、イエス・キリストを信じるということ、それはお互いに使えるためなんです。お互いに使い合う生き方。イエス様のようにです。
皆さん、この使えるという言葉は、この当時の人々はすぐ奴隷を思いを変えられます。だからこれはですね、身分の低い人が身分の高い人に使えるという意味ではありません。
この当時の自由人、ローマ人民たちが奴隷に使える、その意味の使える。日本語に言うならば、この様が自分の女奴隷とか女中に使えることです。足を洗って差し上げることです。その使えるが、この使えるという意味。そのためにイエス様がおいてになりました。
ですから、イエス様がこの三位の福音書で使えられるためではなく、変えて使えるためであるとおっしゃったならば、そのイエス様が私たちにもう一つのボールを投げられました。私が使えたように、あなたたちも使えなさいとボールを投げました。
そしたらそのボールをもらって、私たちもイエス様が使えられたように、私たちはしもべのように奴隷のようにお互いに使い合っているでしょうか。教会の中で兄弟姉妹たちの間に奴隷のように使い合っているでしょうか。
皆さん、本当に幸せな教会、恵みに満ちた教会はお互いに、私はあなたの奴隷です。私はあなたのしもべですと言いながらお互いに使い合う関係の教会です。
どうでしょうか。隣の方々にこう言い合いましょうか。私はあなたの奴隷です。お互いに話し合いましょうか。私はあなたの奴隷です。私はあなたのしもべです。私はあなたのしもべです。
皆さん、これが本当に大事なんです。お互いに、私はあなたのしもべです。私はあなたの奴隷です。自由にお使いください。そのような教会に恵みが満ちあうれますよ。平和が満ちあうれ、恵みが満ちあうれ、喜びが満ちあうれます。
39:15
私が日本人ならば、私は殿様だと言って、私がお礼本殿様だと。言い張る教会にはトラブルが絶えない、問題が絶えない、恵みがなくなるでしょう。
皆さん、教会の中で、また皆さんのお家の中で、イエス様が使えるために来られたんだから、そのイエス様を信じる私たちも、生き様が変えられなければならないんですよね。
家庭でも同じなんですよ、皆さん。皆さんのお家でもですね。男性の方にちょっと悪いんですけれども。韓国はですね、昔から儒教文化があって、男尊女子という思想がとても強いんですね。
今の三十代ぐらい、二十代ぐらいは、逆に女尊男尊になっているかもしれませんけれども。でも日本に来たら、日本も、いや日本がもっと強いかなと思いました。
皆さんの夫婦の間でいかがでしょうか。五十代、六十代、七十代の皆さんはどうでしょうか。お互いにイエス様が使えるように、ご主人の皆さんも皆さんの奥様に、私はあなたの奴隷ですと、使えていらっしゃるでしょうか。
あるいは、俺ら、俺は殿様だと振る舞っているでしょう。たまにですよ。旦那様の中で奥様のことをお前とか呼ぶ人がいるらしいんですけれども。イエスキリストを信じる人は、この言葉遣いから変わらなければなりません。
イエス様が私たちを尊く見ておられ、大切にしておられるから、夫婦の間でも丁寧な言葉を使えなければなりません。
私の夫は結婚する前は、私が一歳上だから、私は丁寧な言葉を使っていなかった。結婚したしばらくの間も、私は丁寧な言葉を使っていなかったんですね。
いつの間にかというかわかりませんけれども、御言葉から示されました。そして、今は丁寧な言葉を使っています。家で二人に丁寧語、尊敬語を使っています。
42:09
ハンナも私、私もハンナに尊敬語を使っています。私たちはお互いに奴隷なんです。お互いに仕えるために夫婦になったんです。
しけしはどこを見ても、夫は子の様で、妻は女中と書いてないです。イエス様を信じる信者は、家庭でも、夫に妻にお互いが、私はあなたの奴隷です、しきもべです、そのように仕掛け、愛さなければなりません。
イエス様を信じて信仰生活を何十年、七十年したとしても、お家で自分の奥さんを見下げる言葉遣いや振る舞いがそうであるならば、その人は大きな大きな罪を犯しているんです。そこから触らなければなりません。
イエス様は使えるためにおいてになります。そうして生き生きに家庭天国になるわけなんです。教会の中でも同じでしょう。お互いにですね、俺が主人だ、俺がこの様だ、そういうふうに振る舞っているならば、その教会には何もできなくなってしまうでしょう。
しかし、お互いが奴隷のように、イエス様に使えるように、そうして心から喜んで使えているならば、すべての事柄が順調に移行し、平和に満ち、喜びに満ちあふれるでしょう。
ですから皆さん、このような考えをたくさんしていただきたいんですけれども、こんなことです。
私がどうしたら兄弟姉妹たちに使えることができるんだろうか。私がどうしたら役員たちに使えることができるんだろうか。私がどうしたら僕会社に使えることができるんだろうか。私がどうしたら夫に使えることができるんだろうか。
私がどうしたら妻に使えることができるんだろうか。こんな考えをたくさん持って、そしてそれを実践する教会、実践する家庭が幸せな家庭、幸せな教会、恵みに満ちる教会、家庭になるでしょう。
皆さんいかがでしょうか。今年1年間、皆さんは皆さんの家族に、奥様に、ご主人様に、子供に、あるいは教会の兄弟姉妹たちに、家様が使えられたように、奴隷のように、下辺のように、使えてこられたんでしょうか。
45:14
夫婦の間に、あるいは兄弟姉妹の間に、家様のように、奴隷のように、使えましたか。あるいは子供様のように、振る舞ったんでしょうか。
もう一度申しますが、家様を信じる私たちは、この生き様も、言葉も、振る舞いも変わらなければ。それが信仰なんです。それが信仰なんです。
変わりきっていない方がいらっしゃいますか。そうしたらば、全く変わるようにお祈りします。
よだに教会が、そのような一人一人が集まっている教会になっていただきたい。家庭でも教会でも、家様が使えてくれたように、お互いに支え合う教会になっていただきたい。
それからもう一歩進んでいきますと、さっきの18節の後半のところを見ますと、また、多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるためであると書いてあります。
多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えました。
家様が使えられたのは、どれほど、どこまでの水準でしょうか。それはですね、単純な使えることではなく、命を与えるまでの使えることです。命を与えるまでの使えること。
これが家様の生涯です。私たちもこの家様を見習いたいのです。家様を見習って、うちにキリストが生きて終わられるならば、これは不可能なことではありません。可能なことです。
家様が生きておられ、生命十万であって、そしてならば、家様に使えることも、家様のように命を与えることもできると、皆さん信じていただきたい。
メッセージを送ればいいと思います。家様の生涯は二つの文教でまとめることができます。
一つ、失われた人を探し、救うために来られました。二つ目、使えるため、命を与えるために来られました。お祈り致します。
48:09

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