2023-11-05 26:38

#救いの接点 23/11/5

マルコ-37からの礼拝説教。2023年11月5日録音。今回はイエス様が聞こえと言葉の不自由な人を癒した物語です。イエス様は現代であれば、大問題になりかねない不可解な行動をとります。「イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられた」。しかし、これにまつわることを詳しく見るとイエス様の救い主たる理由も知ることが出来るのです。1.広がる救いの奉仕、2.深まる救いの御業、3.私たちに触れる救い主、の3つの点を取り上げます


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2章の7章、最後の部分、31節から37節をお読みします。
イエスは再び、ツロの地方を出て、シドンを通り、デカポリス地方を通り抜けて、ガリラエコに来られた。
人々は耳が聞こえず、口の聞けない人を連れてきて、彼の上に手を置いてくださいと懇願した。
そこでイエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に握れ、それから唾をつけて、その舌に触られた。
そして天を見上げ、深く息をして、その人にエパタ、すなわち開けと言われた。
するとすぐに彼の耳が開き、舌のもつれが溶け、はっきりと話せるようになった。
イエスは、このことを誰にも言ってはならないと人々に命じられた。
しかし彼らは口止めされればされるほど、かえってますます言い広めた。
人々は非常に驚いていった。
この方のなさったことは、みな素晴らしい。
耳の聞こえない人たちを聞こえるようにし、口の聞けない人たちを話せるようにされた。
以上です。
今日はこのところから、救いの節点と題して見言葉を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
早いもので11月に入りました。
今年も残すとこの後2ヶ月を切ったということで、皆さん驚いていますけれども、
それでも記録的な暑さの名残ですか、
11月に入っても最高気温が25℃を超える夏日になったという、
本当に観測史上まれな初めてですか。
そんなことが起こっております。
ちょっと待ってください。
聞こえてる?
ありがとうございます。
聞こえているとのことでした。
はい、ありがとうございます。
よかったです。
それでですね、そんな中ですけれども、
実は今日の箇所は先週の続きの出来事です。
実はですね、ちょっと今日の箇所、皆さん冒頭の聖書を見ていただける、
新観薬聖書の冒頭を見ていただけると、
出だしの37節、31節、別薬ということですね。
ガリダヤ湖に来て、デカポリス地方に入られたということで、
この今皆さんの見ている図を見ると、
先週はギリシャ人の女性、ツローの首都がツローですけど、
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おそらくこのフェニキアですね、この地域の違法人選挙でしたね。
女性の女の人の癒し。
で、今日はデカポリスってここです。
ガリダヤ湖を挟んで東の下、南東のところで、
おそらくこれも、いわゆる違法人の地。
で、おそらくですね、先週の箇所と今日の箇所は、
2つとも一塊で本来語るべきところで、
その理由の一つは、違法人の地におけるイエス様の働きだ。
だからおそらくデカポリス地方でイエス様は、
この言葉と聞こえの不自由な男の人に出会ったのではないかという、
そういう前提で話します。
だから先週について、違法人選挙という中で、
私はその立場でお話ししていきたいと思います。
その中からですね、3つの点を今日学びます。
今日の箇所ですね、広がる救いの法師というのがまず第一ですね。
ちょっと抜粋になるんですけども、こんなことが起こりました。
人々は耳が聞こえず、口の聞けない人を連れてきて、
彼の上に手を置いてくださいと懇願した。
そしてその癒しが起こったという様子ですね。
35節から読める方、するとから読んでみましょう。
するとすぐに彼の耳が開き、下のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。
先ほども言いましたが、
今日の箇所と先週見た奇跡の物語はセットになっています。
簡単に言いますと、なぜかというと、そこにはですね、
神の恵み深い働きが全世界に及ぶというメッセージが込められています。
先週も話しましたが、
先週ヨシヤ氏も論じないと言いましたし、
今ガザチクで起こっていることの根幹にも関係ないとも言えないんですけども、
いわゆるイスラエル民族が神様の民として、
祝福と救いの順番が先だったという、そういう文脈がある中で、
イエス様もそういう意味で、
子どもたちのパンを子犬に投げてあげるのは良くないという話をしましたが、
そういう、先週の箇所はその違法人の女性、
そして今日の箇所はおそらく違法人地区、
どちらもイスラエルの外の違法人の地域で起こった癒しの奇跡という、
そういう共通点があります。
繰り返しますが、そこに含まれているメッセージは、
神の恵み深い働きが神の民イスラエルのみならず、
全世界に及ぶんだというメッセージが両方の奇跡物語に込められているわけです。
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そこでさらに注目すべきことがあります。
それは、この2人のうち、いずれもイエス様に従ったと述べられていないんです。
それにも関わらず、イエス様は何をしたか、
この左側は先週の女性のモチーフで、右側は今日のですけれども、
イエス様に従った、あるいはイエス様の救い主であるという告白がなかったんですけれども、
イエス様が彼ら2人の必要を満たして、
ご自身の栄光を表したという点が注目に値するということなんですね。
そこから何が分かるか、広がる救いの方針ということに関連して、何が分かるか。
それは、このイエス様の働きを元にある学者が言っていることにヒントがあるんですね。
それは、私たちのキリスト社としての方針について、こう述べているんですね。
この今日の出来事、そして先週の出来事は、
あらゆる時代のクリスチャンに、結果にとらわれず、
全ての場所で、全ての人に、誠実にイエス様にある神の救いを述べ伝え、
憐れみに富む奉仕をなすことを促しているのである。
こういうことを、今日の物語、先週の物語から学ぶことができる。
つまり何が言えるかというと、
私たちのする人々への良い働きによって、
たとえその人がイエス様に返信しなかったとしても、
その私たちの良い働きは、実は広くいろんな人たちが福音の恩恵に預かる奉仕になるんだということなんです。
言わずもがな、全員の方が牧師になるわけでもないし、
宣教師になったり伝道師になるわけではないです。
そして、やることなすこと全部にですね、
イエス様、あなたを愛してますというわけじゃないんですね。
そういう方もいないとも言えないんです。
そうでなくても、たとえば、よく言ってますが、
私たちの教会でなされている元哲学会のカフェなんかも、そのような働きに含まれます。
そして、よく言ってますが、私たちが家庭や職場、その他社会の生活の中でなす良き技、
それがこの福音の技とも言える、
イエス様のこの今日の働きに連なる尊い働きだということができるわけです。
私たちはですね、家庭、職場、学校、その他の先々で、
いろんな方と関わるわけです。
その時にどういう心構えでその人と接するか。
多分その中で、私が僕として教会の皆さんに願っていることは、
それが、たとえ言葉にできなくても、具体的に何か表されなくても、
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イエス様に対する奉仕であり、そのことを通してその人がイエス様の恩恵に預かっている、
そういう心構えで日々の働きをしていただければと。
そうすれば相手に言いますけども、つまらない仕事でも何か良い意味を見出すことができるかもしれない。
そういうことを一つ考えたいと思います。
それが最初のポイントです。
広がる救いの奉仕ということに、今日の働き、イエス様の御業が関わっている。
2番目、深まる救いの御業。
今日の出来事、7章の最後の出来事。
この人々が奇跡を見て、救いの技を見て、こう言いました。
人々は非常に驚いてこう言った。
じゃあ読める方、この方から読んでみましょうか。
この方のなさったことは、みな素晴らしい。
耳の聞こえない人たちを聞こえるようにし、口の聞けない人たちを話せるようにされた。
これ一人の人が癒されたのに、これ複数形になってですね。
耳の聞こえない人たちを、口の聞けない人たちを話せるようにされた。
ここから実はですね、聖書の深い読み方の実例を学ぶことができるんです。
私たちはですね、クリスチャン生活や教会生活が長くなるとですね、このようなおなじみの聖書の箇所に出くわしますよね。
教会学校の先生がやったことある人ならそうかもしれない。
そうすると、ここのおなじみの聖書の箇所の背景に深い意味があることを知ると、福音のマンネリ化を防ぐ。
そして私たちの信仰の土台を広く深くすることができるわけです。
ちなみにですね、この今日の奇跡はマルコの福音書にしかない不思議な奇跡です。
実はこの群衆が挙げた簡単の声、少なくとも3つの意味があると言われるんです。
1つ目は、これはこの奇跡とその前の鶴の女性の奇跡に対する娘の癒しに対する言葉だ。
実際に見た人、書いたのはマルコですから、マルコがそれにあててこの言葉を書いたというのが第一の意味です。
そしてそのイエス様の2つの癒しに対する救いの宮座を褒めていただいていますが、2つ目の意味はですね、もっと前から続く、
すべての、あるいは少なくとも嵐を沈めたところから新しいフェーズに奇跡が入りますけれども、
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このイエス様のこれまでの奇跡をまとめ上げたこの簡単の言葉、イエス様に神の救いの宮座が現れているんだという、そういう専門的に言うと編集と言いますかね、言葉としての意味があります。
そして3つ目の意味はですね、今日私たちが目に留めたい大事な意味があるんです。
旧約聖書の救い主の予言の言葉と関わっているということですね。
もっと言うと、イザヤ書の35章の言葉、それによってこのイエス様は旧約聖書が言うところの約束の救い主だということが、このマルコの福音書が言わんとすることだという深いことがわかっています。
これをもう少し専門的な言い方をするとですね、神様がこの世界を完成させる時、いわゆる良い意味での終わりの時に実現する救いの業をイザヤ書が予言しているんですけれども、それをイエス様が実際に行っているんだ。
神様の完成の時になさる救いの完成の身業を、まさにイエスが行っているということを、この簡単の言葉、耳の聞こえない人、口の聞けない人たちの救いの業の簡単を述べさせることによって、私たちに伝えようとしているんですね。
なぜそれがわかるかというと、実は耳の聞こえない、口の聞けないという言葉が、実はギリシャ語の旧約聖書とギリシャ語の新約聖書の中で、この2カ所しか出てきてないんです。
だから明らかにこのマルコの福音書を書いた人は、このイザヤの、あえて予言と言ってしまいますけど、救い主の約束の言葉に、このイエス様の奇跡をかぶせたわけなんですね。
そこで何て言ってるか、イザヤの54の4から6の抜粋で、世の完成の時に、神の救いが実現する時にこういうことが起こると言っているんです。
強くあれ、恐れるな、見よう、あなた方の神が、神の報いがやってくる。神は来て、あなた方を救われる。
ここから読んでみましょうか。その時から3、その時、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開かれる。
その時、口の聞けない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ死に川が流れるからだ。
この耳の聞こえない、口の聞けない、特にこの口の聞けないという言葉が、この箇所とマルコのこの箇所にしか出てこない。繰り返しになりますけども、このようにマルコはですね、イエスはこの時に約束された、
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まさに神が来て救いを行うという、まさに救いの師だということをここからマルコは伝えたかったわけですし、それを私たちは学者に寄せれば賢い読者は読み取るべきだって言うんですね。
そういうことを述べたんですけども、なぜこんなことを言うかと言いますとですね、繰り返しになりますけども、このイザエの35章は、終わりの時、神の救いの完成における、神の救いの目的の輝かしい成就を宣言しているんですね。
そしてこのマルコの福音書では、先ほども言いましたけども、イエス様の中に神の完全なる支配、ミクニと同じ言葉なんですけども、この癒しによって神の完全なる支配、救いの技が実現しているということを表しています。
そしてさっき一番目のポイントに言いましたが、そこに先ほど言ったツロフェニキアの女性とこのベカポリスの違法人が含まれるというところにですね、イスラエルの民族だけではなくて、全世界に救いが広まる完成の日が始まったんだ、それをイエス様が始めたんだということが示唆されているんです。
だから知っておくべきことはですね、先週の箇所と今日の箇所は、単なるイエス様の奇跡物語に留まらないと覚えておいてください。
言い換えますとですね、このような何千年も続く神様の救いの計画がイエス様にあって実現し始めているという、この深くて広い意味が先週と今日の奇跡に込められているんです。
私たちが救い主として信じているイエス様には、それほど長くて広くて深い神様の救いの計画があると知っていただけたらと思うんですよね。
そのイエス様がどれだけのお方かということを、これらの御言葉との照らし合わせによって私たちが知る、これを知ることによって私たちの信仰の土台が広がって深まえられていくという、そうあればと願うわけです。
それで関連して、エペソビートの手紙、パウロの御言葉を抜粋しました。3章の16節から18節の抜粋ですね。こういう御言葉です。
どうか、愛に根差し、愛に基礎を置いているあなた方が、すべての生徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
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人知を遥かに超えたキリストの愛を知ることができますように、このような大いなる神様イエス様の愛を、今日の物語を通しても知っていくお互いになりたいと思います。
最後、私たちに触れる救い主ということで、最初は広がる救いの方針、2番目は深まる救いの見合わせ、3番目は私たちに触れる救い主ですね。
7章、今日の歌詞の33、34節を読んでいますね。
この耳が聞こえず、言葉が不自由な男性を群衆がイエス様のもとに連れてきました。そこでイエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、
ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾をつけて、その舌に触られた。 そしてから読んでみましょうか。
そして天を見上げ、深く息をして、その人にエパター、すなわち開けと言われた。
実はですね、今日のこの奇跡物語と先週の奇跡物語は今までとちょっと色合いが違います。
先週の物語はですね、解説しましたが少し誤解を招くようなイエス様の不思議な言葉が出てきましたね。
今日の奇跡物語はですね、このイエス様が両耳に指を入れて、おそらく指に唾をつけて、それを相手のですね、この人の舌に触れたという出来事です。
コロナが入っているね。今なら大事件になってしまいますけども。
でも当時からですね、このギリシャ文化の中には、唾をつけると癒しが起こるというのがあったみたいでね。
皆さんどうでしょう?私も子供の頃ですね、蚊に刺されると唾つけてこうやってやったりとかね、膝こそすりむいて唾つけてこうやったりね、しましたけどもね。
どうであるかわかりませんが、そういう話もありましたが、実はこのイエス様の不思議な動作には意味があったんですね。
それはですね、イエス様はこの男の人とこのことを通して人格的な関わりを持つことを願ったんですね。
皆さんも今わかるように目は見えるこの人、でも耳が聞こえない。
ですからこの人はイエス様の癒しの宣言、救いの宣言の言葉を聞けないわけですよね。
今だとNHKでもですね、ニュースなんか手話とか日曜の夜やってますけども、手話を使うこともできるかもしれませんが、イエス様は手話を使いならずに
両耳に指を入れ、下につばきをして触れるという動作で、この人と人格的な関わりをそこで触れることによって、
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それが最も大事な、癒しも大事だけども、この人と関わることが一番大事だと考えられたと言われているわけなんですね。
そのことでですね、ある学者はこう表現しているんですね。イエス様は相手に触れることで、イエスはその人の精神的な世界に入り込んだのである。
そして彼のうちに確信を与えたのであった。
触るということで、フィジカルな面だけじゃなくて、メンタルな面ですね。イエス様は彼に関わって、そして彼の中に自分は救われるという確信を与えたというんですね。
そしてイエス様が、天を見上げて深く息をしたったり、別の聖書の訳ではため息をついたっていうんですね。
それも不思議な技です。 ため息をついて、当時の現地の言葉でエパタと開けた。
なぜそんなことをしたか、いろんな説があります。一つには、この病に苦しんでいるこの人に対する深い憐れみですね。
悲しみや苦しみを一緒に共感したという説。もう一つはですね、その人は聞こえません。目は見えますから、イエス様は深く息をすることによって大きな声を出したとかですね。
この言葉を発するということが相手に伝わる。そういうことでイエス様は深く息を吸い込まれたのかもしれません。
で、いずれも何が言えるかと言いますと、このようなことを通してイエス様は、この人格的な関わりをその方にともと、それを最優先されたわけですね。
私たちそこから何を学べるか、私たちは今イエス様を見ることがもちろんできません。しかし、聖書に記されている救い主イエス様は、このように苦しんでいる人たち、あるいは私たちが苦しんでいればその痛みを知ってくださる救い主だということを知っていける、知ることができる。
そしてその上でこのイエス様というのは、私たちに深く関わろうとしてくださる救い主だということを読み取ることもできるわけです。
そして、この男の人に触れたように、私たちは見えませんが、あたかも触れるがごとく、私たちそれぞれが分かる方法で、私たちのためにイエスは救いの見業を行ってくださる、そのように私たちに関わってくださる救い主だ、そういうことを知ることができるわけです。
イエス様がそのような、人々と私たちと接点を持ってですね、人格的な関わりを持つ、痛みを共有する、そういう救い主である、私たちが分かる方法で救いの業を行ってくださる、そういう救い主であるということを知ってですね、私たちがもし試練に直面するならば、その中でそのような救い主であるイエス様を見上げて、
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救いを求めるお互いでありたいと思うわけです。 最後に、これもやはり、使徒パウロの
イエスに対する信仰告白から引用しました。 ちょっと長いんですけども、読めるかと読んでみましょう。ローマヴィトンの手紙8章の38節から39節ですね。
いきますよ。3、私はこう確信しています。 死も、命も、見つかりたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、その他のどんな非造物も、私たちの主、キリストイエスにある、神の愛から私たちを引き離すことはできない。
私たちを引き離すことはできません。 お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。 あなたが約束の救い主として、イエス様をこの地に送ってくださいました。
見えない人の目を開き、聞こえない人の耳を開き、しゃべれない人の口を開く。 そのようにして、
長年約束されていた救い主であるということを、私たちにお示しくださり、ありがとうございます。 私たちは今、イエスキリストを見ることはできませんが、信じておりという言葉にありますが、どうか目に見えないイエス様を、そのような救い主として、信じることができますように、どうか私たちを導いてください。
私たちそれぞれがどうかわかる方法で、イエス様の神様の救いを、私たちに明らかにしてくださるように。
そうして、あなたをあがめ、あなたを褒めたたえ、また、あなたの愛の奉仕に生きる、そのようなお互いとなさしめてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。 アーメン。
それでは1分ほどその場で主に答えて、 黙祷しましょう。
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