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読くします。エペソビトへの手紙、3章、20節、21節。
どうか私たちの内に働く道からによって、私たちが願うところ、思うところのすべてを遥かに超えて行うことのできる方に、
教会において、またキリストイエスにあって、栄光がよよ限りなく常しえまでもありますように、アーメン。
以上です。今日はこのところから、神の栄光を表す人と題して見言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。10月も第2週に入りました。今朝もNHKの天気予報を見てましたら、
記録的な暑さが続いていて、夏日ですか、観測史上最高の日数がこれまで、
西の方ですけれども、観測されていると。なかなか、おそらく来週の土曜まで、今週の土曜まで気温が下がらないのではないかと言われていますけれども、
そんな中ですね、体調を守られまして、このように先週から街道で礼拝を再開していますけれども、神様を称えることができる幸いを感謝しています。
神を称えると言いましたが、今日のテーマは神様の栄光です。
栄光の架け橋というゆずの歌がオリンピックごとにもてはやされますけれども、
今年の2月の調査では、高校生が卒業式で歌いたい歌ランキング第3位だそうです。
1位が旅立ちの歌とか言うのですね。2番目がデミオロメンの3月9日らしいんですけれども、3位にとにかくとても古い、2001年だったでしょうかね、古い歌ですけれども、
栄光の架け橋という歌ですが、神の栄光がテーマです。そんな中ですがどうか皆さんですね、ご自分が神様の栄光を表す存在だということをご存知でしょうか。
今日朗読した歌手はパウロの祈りの締めくくりの部分です。
この間から細かく学んでいますが、その3回目。もっと言いますと、一章の一節からパウロはずっと祈っているという人もいたんです。
その祈りの締めくくりが、神に栄光がありますようにという、そういうクライマックスの部分です。
正確にはパウロは、ここでは教会において、またキリストイエスにおいて、そこで栄光が神に表されますようにというのですが、言い換えると、
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私たち一人一人は教会を通して、そしてキリストを通して神に栄光が表されますようにという、そういう祈りです。
このようにパウロが、私たちを通して神に栄光がありますようにと祈っているのですが、
今日はその3つの点から、まず最初は、私たちとは誰か。2番目は、神に栄光帰すとはどういうことか。
3番目は、それは私たちの願いを遥かに超えている。この3点から学んでいきます。まず最初、
私たちとは誰かですね。読める方、3章20節、21節の罰水をちょっと読んでみましょう。前に掲示してあります。
どうか私たちの家に働く道からによって、教会において、またキリストイエスにあって、
栄光が世々限りなく常しえまでもありますように、アーメン。
今日は触れませんが、世々限りなく常しえまでもありますようにというのは、とにかく
いつまでも、永遠までもという願いです。今日は触れません。
先ほども言いましたが、ここでパウロは、私たちが
神の栄光をあらすことができますようにと言っているんですね。私たちの家に働く道からによって、
正確には教会において、教会によってということです。
私たちという場合、私たちクリスチャンは2つのことを心に留めなければいけません。
1つは私たち一人一人です。
もう一つは、神の民の集合体としての私たちです。それは例えば教会という、
共同体という意味での私たち。英語だと分かりやすいですよね。
IとWe、MeとUsと分かれていますが、とにかく個人と全体という両方という概念を皆さん覚えておいてください。
ここで言われている教会というのは、エピソード教会、ニーザバブテスト教会という、いわゆる地域教会という目に見える教会。
そして、諸説ありますが、普遍的教会といって、全世界、歴史上存在した全ての神の民の集まりとして一つの大きな教会という、そういう意味があるわけです。
とにかく大事なことは、私たちクリスチャン一人一人と、私たちのこの教会を含め、神の民の共同体、
キリストの体である教会という、そういう個人と共同体の両方の意味で、私たちということを捉えてください。
私がちょっとあんまり区別しないで語った時に、両方と思っていてください。自分、教会、神の体。それがまず第一の前提です。私たちにはそういうことが含まれています。
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2番目、ではその神に栄光がありますようにとはどういう意味でしょうか。
これはですね、皆さんも知っているかと思いますが、旧約聖書から受け継がれてきた、この神の民の伝統において大切な言葉だということなんです。
それは祈りの言葉の中で特に締めくくりに、神に栄光がありますようにという言葉です。
先ほど皆さん祈ったのを覚えてます?
主の祈り、一番最後に、
国と力と栄とは、栄がこの栄光、ギリシャ語では独差です。一番最後に、栄、栄光が神にありますようにと祈ったじゃないですか。
そういう言葉です。 それは神に栄光起すと言い換えることもできます。
一番皆さんに知ってほしいのは、この神に栄光起す、神に栄光がありますようにという言葉があるということをまず覚えておいてほしいんですね。
ちょっと難しいかもしれませんが、宗教開学者のカルバンという人もですね、
人間の目的は神様の栄光を表すことである、と言っているんですね。
私たちクリスチャンも神の旅の一員です。その伝統に生きるものですから、
この神に栄光がありますように、神に栄光を起すというその言葉の意味をしっかり知って、
そしてそれを自分のものにする、そういう必要があるんです。
そういう信仰的な態度や言葉というものがある。
それを覚えておいてください。こういう言葉遣い。
クリスチャンの特別な言葉です。
その上で、身近な例で栄光を捧げるとか、栄光起すということを見ていきましょう。
この間、8月行われたオリンピック、パラリンピック、金メダルを取った後、何をしますか。
メダル授与式、表彰式ですね。そこで何をしているか。そこはですね、勝利者、勝利者をたたえています。
その努力、それまでの努力を含めた勝利者をたたえている。
そしてその選手が出身の国をたたえるから、国家が流され、国旗が掲揚されるわけですね。
そこで何がなされているかというと、誰がそこで栄光を受けるべきか。
その栄光を受けるべき存在がはっきりして、その栄光を受けるべき存在をたたえているのが表彰式です。
このようにですね、誰が栄光を受けるべきかをはっきりとして、
そしてその栄光を受けるべき存在をたたえることが、栄光を思ってたたえるという行為です。
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で、クリスチャンは、栄光を神様にお返しする存在です。
で、これね、皆さん実は見てるんですよ。 野球を見てる方ね、こういうの見たことないんですか?
ホームランを打った外国人選手が天に手を挙げるんですね。 こうする人もいます。
いろんなところを見ればわかりますけど、 私がホームランを打てたのは神様のおかげです。
私が素晴らしいのではなく、私以上に神様が素晴らしいのです。 あるいは感謝しますという、
神に栄光を帰す信仰告白でもあります。 サッカー選手でもこういう人います。
ライオンズ、ロサンゼルス・エンジェルソン。
まあとにかくそういう中です。 その中で特に皆さんおそらく知っている選手の一人に、
この人知ってます? ラミちゃんペンの人ですね。 アレックス・ラミリス。
彼はですね、横浜ベイスターズというところの 弱小球団の監督になって、ベイスターズを
2019年ぶりにですね、2018年ベイスターズを19年ぶりに セリーグ優勝にして日本シリーズに導いた人です。
ゲームスニードクライマックスリーグが勝ち上がって、 19年ぶりにチームを日本シリーズに導いた名監督。
彼は現役時代はヤクルト・スワローズと 巨人とベイスターズに在籍して、外人選手として初めて2000本アンダーを達成した人です。
このようにですね、名スラッガー。
ヤクルトと巨人に在籍して3回の日本一に貢献した素晴らしい選手です。
今打線が不審なジャイアンツが喉から手が入れるほど欲しい選手かもしれませんね。
そのような素晴らしい選手なんですけど、実は彼は経験なクリスチャン。
1998年にイエス様を信じて、うちの教会と違うんですけど、東京バブレス教会という教会のホームページにこういう申告書をしているんですね。
私はいろいろなことを経験し、アメリカにいた頃ですね、 ようやく私は野球の能力、才能が
神様からの賜物であることに気づかされました。 そして
1998年私は今までの人生を繰り改めイエス様を私の主、救い主として受け入れました。
この時神様は私の目を開いてくださり、物事の見方を今までとは違った方向から見えるように助けてくださいました。
神様が創造主であり、私のためにその御子を十字架の上で死んでくださったことをはっきりと理解できるようになりました。
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そしてクリスチャンになって、まもなく私はメジャーリーグに昇格いたしました。
神様を称えましょうと言っているんです。 これは彼の信仰告発であって、今までお話ししたように自分の野球の才能は神様からのプレゼントだと気づいた。
そしてイエス様を信じた。そして私がメジャーリーグのメジャーリーガーとして昇格できたのは、私も努力したけれどもそれ以上に
神様の素晴らしさゆえだったんだ。だから神を称えましょう。 神に栄光を期しますとこのように告白しているわけなんですね。
メジャーリーグに昇格できたことゆえに神様に彼は 栄光を期しているということなんです。
これらの例からわかるように
神に栄光を期す。 神の栄光を称える生き方。
神の栄光を表す生き方は、自分の存在を通して神様の素晴らしさが人々に知らされるということです。
これはスポーツですね。 学業、仕事、ゲームでさえも。とにかく私たちの日常的な出来事を通して
何か私たちが良いことができた場合、人々に褒められるかもしれません。
その時に別に他の人に言えなくてもいいんですね。 心の中で神に感謝する。
私をこうしてくださったのは神様です。 だから本当に素晴らしいのは神様なのです。ありがとうございます。
心の中で神に栄光を期す。 そしてもし自然に言えるのであれば
いやいや、私がこういう事ができたのはイエス様のおかげなんですよ。 さりげなく神様のおかげなんですよ。と言えばいいわけなんですね。
まあ何やともあれ、ちょっと偉大な例を挙げすぎてしまったかもしれませんが、
たとえ私たち、何も才能がない。
そう思ったとしても、実は私たちの気づかないところで、私たちは神様の栄光を表す存在になっています。
気がついている人はそれを気がついているんですね。 その根拠となるような言葉を最後に見ていきましょう。
私たちの願いと思いを遥かに超えてという言葉です。 私たちそしてパウロが信じ、
祈りを捧げている神様の偉大さをパウロはこのように表現しているんですね。 ちょっと読める方、2行3-20を読んでみましょう。
私たちが願うところ、思うところのすべてを遥かに超えて行うことのできる方に。
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これはですね、さらっと読んでしまいますけど、 この言葉をある学者が解説してこんなことを言っているんですね。
この祈りは最も大胆な祈りである。
またパウロは旧約聖書をすごく勉強した人です。 パウロの崇高で偉大な創造力を持ってしても、
遥かに及ばないほど偉大な働きをする神の力をパウロは祈り求めているというんです。 しかもパウロはそれを気遅れせずに大胆に祈っているというんですね。
このような言葉はちょっと難しいかもしれませんが、 ギリシャ語に触れるとわかるかもしれません。
このすべてを遥かに超えてっていう言葉はギリシャ語ではですね、 ヒュペルエクペリッスー。
新約聖書でたった3回しか使われていない非常に珍しい誇張表現なんです。 ギリシャ語で書くとこう書くんですけど、
後半のペリッスーというのは豊かな激しいという言葉です。 その前に
強調の接頭語が2つ付いているんですね。 ヒュペル、オーバー、超えて。
エクというのはですね、もともとの意味はfrom out of何々からって言葉なんですけど、 頭につくと強調の意味があるんです。
超えて、すごいっていう2つの強調の言葉がこの前に付いた、
最上級、想像もできないほどの最上級の言葉だって学者が言ってるんですね。
日本語で無理やり言うと、超絶超越の豊かさとかですね。
超絶超越の豊かさ。 それほどすごい豊かな
超絶さを持って、 私たちの願いや思いを超えて
行うことができる神なんだ。 言葉にならない凄さなんですね。
言葉にならないし、説明できないからパウルは祈るんですね。 私たちも同じかと思います。
このようにですね、
私たちは、自分や私たちの存在が神様の栄光を表すものだと、
にわかに信じがたいかもしれません。 それこそ想像できないかもしれません。
でも、私たちが信じる神様は、
私たちの内に働く力によって、 私たちの願いや思いを
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遥かに全て超えて行うことができる神様なんですね。 その力の根拠は、前もお話ししましたが、
内に住まれる精霊と、心に宿るイエス様です。 私たちの中に、教会の中におられる精霊とイエス様によって、
私たちは力づけられて、神様の栄光を表すものとされるんですね。
そして私たちも、 神に全ての栄光をお捧げします。
神に栄光がありますようにと、 自分を通して行われた身の回りに残った出来事を通して、
神様を褒めたたえることもできます。 そして私たちの存在を通して、神の栄光を人々に知らしめることができるわけなんですね。
まさにこのような、私たちの想像を超えた偉大な神様、 その神様の栄光が表されるように、そしてその偉大な神様を知り尽くせない、
イエス様の愛を知ることができるように、自らのために祈って、また教会に集う、 あるいは大きな教会に集う兄弟姉妹お互いのために、祈り合っていきたいと思います。
パールはですね、そもそもイエスの十字架によって人が救われるという福音自体が、
人間の知恵では愚かであって、それを理解すること自体が私たちの想像を超えていると言っているんですね。
その関連した言葉を最後に取り上げて、 終わりにしたいと思います。
コリントビトの手紙第1の2章の9節、 読める方一緒に読んでみましょう。
しかしこのことは、目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、
神は神を愛する者たちに備えてくださった。 と書いてある通りでした。
お祈りしましょう。 私たちの目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、
人の心に思い浮かんだことのないもの、 あなたを愛する者にあなたは備えてくださった。
それが十字架の福音であり、またあなたが私たちになしてくださる 力強い御業であることを知ることができました。
捉えがたいものです。どうぞあなたの助けにより、 それを捉えながらまた、あなたの栄光をあらわす私たちでありますように、
教会でありますように、 そうして栄光が常しえまでもあなたに捧げられますように、
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。 アーメン。
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どうぞ皆さん一人一人、心にある思いを神に委ねて祈りましょう。 1分ほど時間をとります。