2021-09-19 26:43

#73 21/9/19 差し込む光り

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エペソ3:8-13の礼拝説教。2021年9月19日録音。コロナ禍で閉塞感・無力感を覚える中での救いについて考えましょう。まさに暗闇の中に差し込む光のような、励ましの言葉を3つ取り上げます。1.パウロとエペソの教会と私たちの「小さな者」という共通点2.「計り知れない富」と「色彩鮮やかな知恵」3.恐れず何でも打ち明けることができる神様の3つの点から学びます。
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それでは、エペソー3章8節から13節をお読みします。
全ての生徒たちのうちで、最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの計り知れない富を福音として違法人に述べ伝えるためであり、
また、万物を創造した神のうちに、よよ隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、全ての人に明らかにするためです。
これは今、天上にある支配と権威に、教会を通して神の極めて豊かな知恵が知らされるためであり、
私たちの宗キリストイエスにおいて成し遂げられた永遠の御計画によるものです。
私たちは、このキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信を持って大胆に神に近づくことができます。
ですから、私があなた方のために苦難に遭っていることで、落胆することのないようにお願いします。
私が受けている苦難は、あなた方の栄光なのです。
以上です。今日はこのところから、差し込む光、差し込む光と題して御答えを取り付けます。
皆さん、おはようございます。
台風が近づいて、昨日は雨もひどかったりしましたけれども、まさに今日は台風一下の晴れで光が差し込んだような状況ですね。
しかし、その中、まだコロナ禍がなかなか収まりそうにない、本当に閉塞感を覚えている中で、光が差し込む日を待ち望んでいるかもしれません。
実は、今日そのような中で、差し込む光のような救いについて、
3つの励ましの言葉を中心に共に学んでいきたいと思います。
まず最初は、パウロとエペソの教会と私たちの連帯ということですね。
この御答えの背景にあるものと、私たちとには共通点があるわけです。
3章8節、もう一度読める方は一緒に読んでみましょうか。
3、すべての生徒たちのうちで、最も小さな私にこの恵みが与えられたのは、キリストの計り知れない富を福音として違法人に述べ伝えるためであり。
皆さんはパウロをどう思っているでしょうか。
信仰の偉人ですね。信仰の巨人とも言えます。
後でもお知らせしますけれども、いつも礼拝で時々引用する私の恩師の伊豆田明先生がですね、この間の木曜日明け方召されました。
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アメリカのある私の知り合いから、お悔やみの言葉が届いた時にですね、アメリカのスティーブウィラーという先生はですね、このように書き出していました。
まさに信仰の巨人が天に帰っていった。 神様にあって大きな働きをした人をそのように私たち表現しますが、
パウロはおそらく彼の働きがなければ世界に福音が届かなかった、私のもとには届かなかったという意味で信仰の巨人でしょう。
しかし、そんな信仰の偉人であるパウロと今の私たちクリスチャンの間には共通点が実はあります。
また、エペソのクリスチャン、エペソの教会はこの聖書に名が記されているほど、歴史的な教会と言えるかもしれません。
しかしそのエペソの教会はクリスチャンと私にも共通点があります。 それはですね、少数派という共通点です。
クリスチャンである私たちは社会の中ではいわゆる少数派、特に日本ではそう感じるかもしれません。 文字通り少数派です。
社会に対して、ましてや私たち日本人であれば、日本に対してクリスチャンとして何のインパクトも与えることができない小さな存在だと感じることがあるでしょう。
まして今はコロナ禍ですから、多くの制約を受けているので、なおさらかもしれません。 自分自身を考えてもまさに閉じ込められている。
そう思うかもしれません。 実はこの手紙を書いているパウロ、
前に地図を出しましたけれども、このパウロはおそらくこの当時、
ローマかもしくはエペソの国中にいたとされています。
いわゆるショーアジアのエペソの教会に手紙をあげていたのですが、
ローマかエペソに盗獄されていたのではないかと言われています。 そして彼はそういう制限のある中で、この
エペソや、この地図にありますけど、ショーアジア地域、今のトルコ地域の
コロサイの教会、この地域の教会の侵攻の試練、試みを励ますために手紙を書きました。でも彼は牢屋にいて、
牢屋盗獄されていて何もできない、無力だ、
そのように感じていたかもしれないですね。
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パウロは 実はですね、今日の手紙で
今日の歌詞で冒頭言っていますけれども、 自分のことをですね、あの信仰の偉人パウロが前にも掲示しましたが、自分のことを全ての生徒のうちで
最も小さな私って言ってるんです。 他のですね、第一手持ての手紙、一書15節では自らを
罪人の頭と呼んでいます。 侵攻の巨人が自らそういうふうに呼んでいたわけです。
私たちとそういう点は 共通するかもしれませんね。
まあ想像を豊かにすると
まあ 牢屋というよりは
一軒家に牢まであれば遊兵されていたようですけども、そんな身動きがなかなか取れない中で
閉塞感を覚えていた、あるいは無力感に恐れていたかもしれない。 それがパウロでした。
それはこの中にある私たちと似たような心境を味わっていたのかもしれませんね。 そして
エペソのクリスチャンも私たちも、エペソの教会クリスチャンはやはり当時も少数派でした。
ローマ帝国の中ではもちろんそうでした。 そして彼らが住んでいたエペソという町でも
前も言いましたが、アルテミスという女神が信仰されていた。 他の神々が信仰されていて、特にアルテミスを中心に宗教はもちろん
政治や経済も回っていたので、それらの偶像を我慢ないとしていた エペソのクリスチャンの人たちは様々な制約を受けたり
自分の無力さを思い知ったかもしれないんですね。
クリスチャンとしての影響力が無に等しいと、彼らが思っても仕方がない状況だったのです。
ということでひるがえて、私たちとの連帯を考えてみましょう。 もし今私たちがクリスチャンとして
コロナ禍の中であればなおさら行き詰まりを感じたり、 自分はあるいは教会はどんな影響を与えているのだろうか、無力だという無力感を覚えているならば
パウロやこのエペソの兄弟姉妹と同じような誘惑にあっている。 そのように心に留めてください。
偉大な巨人のパウロも、歴史に名を連ねたエペソ教会の人々も 私たちと同じ
誘惑にあっていた。そういう連帯があったということを思い出してください。 それを励みにしましょう。
そして彼らと同じ気持ちで、この手紙から力をいただいていきましょう。 それで2番目に続きます。
はかり知れない富と色鮮やかな知恵という点です。 獄中の中に、
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偶像の闇の中に、無力感の中に差し込んだ光として、 はかり知れない富と色鮮やかな知恵。
パウロは神様から与えられた使命を恵みと捉えていたんですね。 その使命の内容を語って、
こう述べています。 3章8節から9節を抜粋して、前にも掲示しました。
先ほども読みましたが、もう一回読んでみましょうか。 全ての生徒たちのうちで、最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、
キリストのはかり知れない富を福音として、 違法人におべ伝えるためです。
パウロが自分の使命として福音選挙を挙げていますが、 その福音の内容をここで語っています。
それは私たちに与えられている祝福の内容とも考えることができます。
このまず2つ、この中で見るんですが、最初はこの はかり知れない富ということを見ていきましょう。
この はかり知れない富ですね。
実はですね、前にも絵を用意しました。 ある人が旅先でこの
湖を見つけて、湖畔をですね散歩したんですね。 朝早くこの散歩を始めた。
一周しようと思ったんですが、行けども行けども一周できない。 そして気がついたらなんとそれ、湖畔だと思ったらですね、
海辺にいたんです。 これ浜辺だった。
湖じゃなくて海だったんですね。
で、 湖と違って、海はいけども行けども
尽きることがありません。もちろん反対に大陸からと言われて申し上げます。 実はこの
はかり知れない富のはかり知れないというのは、そのような 広い海のようなイメージ、あるいはですね
音が底、底辺ですね。音が 湖、音がそこまで届かない
そこ知れぬ貯水池という意味が、この はかり知れないという意味があるそうです。
まあもう一つレジュメ書いてないですけども 別の言葉、別の意味はですね足跡という意味もあるそうです。
あのはかり知る、理解するということにつまり足跡をたどっていって理解するって意味が あるんですけども、その足跡がたどれないほど広く深いとかですね
この私たちでは理解し尽くせない 豊かさということがこのはかり知れないという言葉にあるニュアンスです。
つまりイエス様、このキリストのはかり知れない豊かさというのはですね
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イエス様ご自身の豊かさを示しています。 私たちはすぐに行き詰まりを感じてしまうかもしれませんが
私たちが知り尽くせないほどの豊かさがイエス様にはあるわけです。 そうです。
ですから私たちはそのまさにはかり知れないイエス様を どこまでも広範を歩き続けるがごとく
足跡をずっとたどるがごとく生涯かけて 人生や生活のあらゆる経験を通して見事ばや祈りを通してこの豊かなイエス様の救いを知る
それが 私たちの人生の醍醐味なんですね
次はこの豊かな知恵という言葉です それは十節にあるんですね
前にある見言葉を読めるかと読んでみましょう。 これは今天上にある支配と権威に教会を通して
神の極めて豊かな知恵が知らされるためです この豊かな知恵の豊かさ
神様の豊かな知恵の豊かという言葉にはこういう意味があります この絵ですね
これは西陣織 これはお花畑
これはですね彩りが豊かであるということなんです このギリシャ語ではですね
刺繍ですね 彩り豊かな精密な綺麗な刺繍を表す言葉である
あるいは様々な色豊かな色彩豊かな花を表す言葉がこの豊かという言葉なんです 花の限りなく多様な色
一色に染めることは簡単ですね もし一色に染めること簡単かもしれませんしかし
布でもお花畑でもあるいは花玉でも 色合い豊かに鮮やかにするためには知恵が必要ですよね
実はですね3章10節にはこういう意味があるんです 今まで言ったように教会はもともとの神のためのユダヤ人そして違法人が加わって
まさに彩り豊かな民の集まりが教会です でこの御言葉にですね
その豊かな知恵を 天女支配と権威に教会を通して知らすってあるんですけども
この支配と権威は何か この世の支配や権威という説もあるし霊的な支配や権威という説もあります
ただある学者が言うにはですねいわゆるこの世の支配者は 一つの色に染めようとするんです全体主義右へなら
誤った宗教もカルトも一つのタイプに人を落とし込めるわけですよね まあパウロが
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批判するところの間違ったユダヤ教もですね かつ例を受けなければ本当の神痛みになれないこういう
単一化ということがこの この世の権威や悪しき霊的な
ものの生み出す ものだったわけですそれに対して神の福音神様の知恵は彩りが豊かだ
ということなんですね それで骨にはどういう意味があるか
つまりエピソのクリスチャンも私たちの教会も 小さな存在かもしれません
何の影響力も与えてないと思うかもしれませんしかし 彩り豊かな一人一人が教会に集まってあるいは今教会に集まってませんけども共に
礼拝している姿 それこそが私たちの理解を超えたところでこの世の権威に対して
この世の霊的な権威に対して 紛れもない神の知恵の証だって言うんです
単一の色に染めようとする権威や冷得霊的な勢力に対して 私たちが共に礼拝している姿というのは色とりどりの美しい布や
このお花畑のような存在として 神の知恵の結集として実は力強く明かしされている存在だってこと
さっ何回も繰り返しますけれども パウルはこの時極中にいました
厳しい現実の中にいたわけですそしてエピソのクリスチャンも少数派として 何の影響力や勢力にもならない小さな存在として
ある面厳しい現実の中でいたかもしれません しかし彼らは
この厳しい現実の中でもこのような豊かな神様の約束を真実としてよりどころとしていたわけです パウルはですねこの神の豊かな知恵について
ローマ人の手紙11章33節でこのように なんでしょうかね喜びと感動の声を上げているんです
読める方 前の
ローマ章を読んでみましょう11-33さんはい ああ神の知恵と知識との富は何とそこ知れず深いことでしょう
その裁きは何と知り尽くしがたくその道は何と明かり知りがたいことでしょう まさにこの彩り豊かな神様の知恵その証である私たち
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あるいはこの知り尽くすことができないイエス様の富というのはまさに暗闇に差し込む 光のように私たちにとってお励ましとなるわけですね
最後の点 恐れずに何でも打ち明けることができる神様その神様との関係がまさに
暗闇に差し込む暗闇に差し込む光のような 救いの約束だってことです
今日の3章12節読める方一緒に読んでみましょう3はい 私たちはこのキリストにあってキリストに対する信仰により
確信を持って大胆に神に近づくことができます この確信をもって大胆に神に近づくという言葉が大事な
鍵です この言葉の背景
意味の背景2つあるんですね一つ目は 異教の神々とは違って恐れることなく神様を信頼して近づくことができるという背景が一つ
実はエペソあるいはローマギリシャ世界には様々な神々と言われるものがありましたね でそれらの特徴は気まぐれです
気まぐれ 気まぐれんというねグループありません気まぐれん
つまり起源が損ねちゃいけない ねあの親子関係でも人間関係でも起源を起源を探んなきゃいけない人疲れますよねその人の
そばにいるのね そういう神々
に支配されていたのが当時のエペソの人々だったんですね 不安やを新不安恐怖を持って信者たちは神々に近づいていた
しかしそれとは違って誠の聖書の神様はイエス様の上がらいのゆえにその慈悲深さの ゆえにいつも
慈愛深く私たちをイエス様ゆえに受け入れてくださるお方なんですね だから恐れることなく
愛で私たちを受けてくださる神様を信頼して近づくことができます 2つ目の背景は言論の自由を持っている
言論の自由 あのローマ社会は民主主義の社会でもあったと言われていますね
まあギリシャもそうです そこを一つの保証されていることは言論の自由です
市民であればその議会とか様々な場で 恐れることなく自分の意見を言うことができ
大胆に言うことができたんだここの 大胆に神に近づくという大胆はですね他の選手の言葉にもありますけれども
自分の言いたいことをですね
遠慮なく なんでも神に打ち明けることができる
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そういう意味があるわけなんです ですから私たちは
このような神様の前でありまありのままの自分の 感謝喜びはもちろんですけども苦しみや時には疑いさえも時に正直に打ち上げる
ことができるわけです 紙幣を何か呼ぶとですね本当にはっきりした祈りありますよねすごく
まあ現代風に言えば私の適用命を奪ってくださいとか その敵の敵が子孫
し子孫孫まで栄えることがありませんようにとかですねその子が資産で生まれません とかってそんなことまで言っているんです
ですから私たちはもう自分の心の中にある苦しみや時には憎しみでしょうか 心配でしょうか
何でも はっきりと大胆に祈りの中で神様に告げることができるんですね
パウロもエペソのクリッシャーも目の前にある現実は厳しいものでした そしてその中で自分たちの小ささを知り落胆しそうになったかもしれません
しかしその ことをですね
目の前の出来事今の自分の分かれている環境ではなくて 神様の永遠の計画と祝福の中で
捉えていたわけです その証拠にパウロは今日読んだ御言葉の最後の部分でこう
告白していますよね前にも掲示しましたエピソード3章13節 読めるかでよって読んでみましょうかさんはい
ですから私があなた方のために苦難にあっていることで落胆することのないよう お願いします
私は受けている苦難はあなた方の栄光なのです 今日触れませんでしたが3章の書き出しではですね
違法人のために私パウロはキリストの囚人となっていますって書いてるわけですね パウロは
イエスターのこと述べ伝えたが故に神のためであるユダヤ人に訴えられて そして当時の世界を支配していたローマの中で同国されていた
そういう苦境の中にあってもパウロは しかもですねエピソの人たちを含め違法人に選挙したがために苦難にあっている
けどもそのことの上に 落胆しないでくださいって言ってるわけですね
これがパウロの何でしょうかね 現実の捉え方なんです
ですから私たちもこのパウロとエピソのクリスチャンたちとまさに時間と空間を超えて 同じロークをしている仲間なんですね
先週前も言いましたが精霊によって一つの神の群れ 神の建物とされているんです同じ福音の恵みに預かっている
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同じ仲間なんですねですからどうぞ私たちはこの 進行の先人たちの恵みにそしてあるいはイエス様と同じ恵みに共に預かっていき
ましょう 最後にレベル4-15-16を読みますね
私たちの大祭司であるイエス様は私たちの弱さに同情できない方ではありません 罪は犯されませんでしたが全ての点で私たちと同じように
心身に憐れたのです 最後じゃあ読めるかで一緒に読みましょうですからからさんはい
ですから私たちは憐れみを受け また恵みをいただいて織りにかなった助けを受けるために大胆に恵みの御座に近づこう
ではありませんか 神様の前に共に近づき
神様から救いを体験し続けるそのような疑いでありたいと思いますお祈りしましょう 私たちの父なる神様皆を賛美いたします
2000年の歴史を超えて私たちは パウロやエペソのクリスチャンと共にあなたの民として連なる一つの体です
私たち今この中において日々の生活において閉塞感を覚えたり 玄関を覚えたりすることもあるかもしれません
しかしどうぞ 見事を通してあなたが約束してくださった
あなたの豊かさ あなたの深い知恵その
それを知りながらどうかこの地の旅路を歩んでいくことができますよ このような小さな私たちですけども私たちのこの
共に礼拝している こと自体がこの家歩んでること自体が
はかり知れない大いなる 神の豊かな知恵の証として意味を持っていることそのことも感謝いたします
これらの言い尽くせない思いまさに 知り尽くすことができないあなたの富と知恵をあなたに感謝して
イエス様のお名前によってお祈りします アーメン
それでは皆さんそれぞれ1分ほど神様の御言葉に応答して祈る時間を持ってください
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