2021-10-24 24:15

#78 2021/10/24日 たまもの

エペソ4:7-10からの礼拝メッセージ。2021年10月24日録音。神様と人に仕える上で欠かせない「賜物:たまもの」が私たち一人一人には与えられていると、パウロは教えています。そのことを1,理解が難しい箇所の解説、2,賜物とは、3,賜物は誰にでも与えられている、という3点から学びましょう。
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レソビトへの手紙、4章、7節から10節を朗読します。
しかし、私たちは一人一人、キリストのたまものの計りに従って、恵みを与えられました。
そのため、こう言われています。
彼は、糸高きところに登った時、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。
登ったということは、彼が低いところ、つまり地上に下られたということでなくて何でしょうか。
この下られた方ご自身は、全てのものを満たすために、諸々の点よりも高く挙げられた方でもあります。
以上です。 今日はこのところから、
たまものと題して御言葉を取り継ぎます。 皆さん、おはようございます。
今日は、まさに秋晴れのすがすがしい天気になりました。
先週大雨になったり、寒い日があったりしましたけれども、
秋晴れの過ごしやすい朝、共に礼拝できることを感謝しています。
また、明日からですね、いわゆるなんて言うんでしょうか、
飲み歩く人いないと思いますけど、この中に、緊急事態宣言が解除されて、
様々な規制が解かれて、飲食店、認証店などが中心ですけれども、
普通にお酒の提供できるというか、ある程度の日常が戻り始める。
ちょっと言い方変なんですけれども、皆さんよく分かると思いますが、
テレビでも日本の中でいろいろ言われているように、明日から何て言うんでしょうか、
そういうものが回復していく日となっていきますね、なっていくようですね。
それはそれとしまして、今日はキリストの体である教会、そこに属するお互いについて学びます。
先週、礼拝の説教でもまたねじめでもありますが、先週は一つの体としての教会ということを学びました。
クリスチャン様々違いますが、熱心に一致を保つ、一つの体として熱心に一致を保つということを学びました。
それはですね、全員が同じ人になるのではないとも学びました。
実はですね、エペソビトの手紙は、教会の奥義が語られているとよく言われています。
その中で今日は、一つの体の教会に属するお互いが、
共に成長し神の栄光を表すために、それぞれ違った強みを持つ人々が、私たちが互いに使い合い、働き合うキリストの体だということ。
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今日は違い、それぞれということについて、特に賜物という大事な言葉を中心に学んでいきます。
今日、3つの点から学びますが、最初はですね、この箇所少し、新約聖書でも難しい解釈のところだそうですので、
解説、どんなことを言っているかということを、難しい箇所を簡単に解説します。一つ目。
2番目は賜物という言葉について学びます。最後は、この私たち一人一人、皆さん一人一人に賜物が与えられているという3点から学びます。
まず最初はですね、7節8節の概要。 難しい解釈のところを、私たちと関わりある大事なこと、
聖霊賜物と関係していることなので、見ていきましょう。 7節8節の概要。
ちょっとですね、前に、失礼しました。 8節9節ですね。ここちょっと読んでみましょうか。
そのため、こう言われています。 彼は糸高きところに登った時、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。
登ったということは、彼が低いところ、つまり地上に下られたということではなくて、何でしょうか。
これなんか、サンドイッチマンという漫才師いますけど、何のことだかわからないというツッコミがありますけども、
どういうことかというとですね、まずここはですね、 8節は詩編の68編の18節からの引用なんです。
この鍵括弧の中、彼は糸高きところに登った時、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。
パールは少し変えて書いているんです。いろんな諸説があるんですけども、 ここの元々の詩編の意味するところは、
このですね、 勝利のパレードです。
これわかります? ちょっと小さいけどわかんないかな。 勝利のパレード、ハニュー・ユズル君ですね。
3連覇来年するのか。 仙台での勝利のパレードをしましたけれども、
もともとイスラエルの軍が、
敵に勝利して帰ってくるパレードのイメージです。 王様あるいは軍の長がですね、
敵に勝利して帰ってきた時に、捕虜と戦利品を持って帰ってきたと。
そしてそれを当時は残酷かもしれませんが、捕虜も一緒にですね、 その戦利品と一緒にパレードに、
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軍隊と一緒に帰ってきたわけです。 その戦利品を兵隊たちとか、もしかしたらこの国民たちに分け与えた。
そういうイメージが元々のイメージです。 他にも猛勢がっていう説もありますけども、とりあえずそういう覚えておいてください。
ここでパウロが本来言いたかった意味、 それはですねこういう意味です。
その勝利した王をパウロはイエス様に置き換えています。 彼というのはイエス様です。
このイエス様が、
この見事を見ながら説明しますけど、 低いところに下ったというのはですね、
神が人となってこの地に住まわれたということですね。 そして、この神が人となったイエス様がこの地に住んで、十字架で死んで罪に賄って復活してくださった。
そして神によって天の御座に着座した。 エピソードの手紙の前半に書いてありましたが、そのことがですね、
登った。 糸高きところに登ったというのは、そのイエス様の天の御座への着座を意味します。
使徒の一生でイエス様は天に登ってきますよね。 その天の御座に着座した状況を登った。
糸高きところに登ったというふうにパウロは 解説しているわけなんです。
そして天に登ったイエス様はどんな約束を下さいましたか。 ヨハネの14章とか16章にありますが、
聖霊を下すって言いましたよね。 だから
戦利品を王が授けたように 天の御座にいるイエス様は私たちに聖霊を授けてくださった。
天の高いところから聖霊を授けてくださった。 その最初がペンテコステ。そして今信じる私たちの中に聖霊が賜物として与えられている。
それをパウロはここで言っているわけなんですね。 なんとなくわかっていただけたでしょうか。
それではその賜物ということを見ていきましょう。
賜物について4章7節でパウロはこう言っていますね。 読める方は前のを読んでみましょうか。
しかし私たちは一人一人 キリストの賜物の計りに従って恵みを与えられました。
ぜひですね、長年教会に来る方はわかっていると思いますが、賜物ということを覚えてください。
賜物、ギフト。 ドレアン、ギリシャ語ですけどね。賜物。
2番目のポイントは賜物です。 ここで言っているのはですね
神様は教会に属する一人一人に違った 精霊の賜物を与えてくださったというのです。
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賜物って何ですかというと、ここに前に示してありますけれども 他のクリスチャンの益になるためになる言葉や行動
またそれを行う能力です。 私たちがクリスチャンとして、同じ教会でも他の教会の人でもいいです。
他のクリスチャンのために良い言葉、徳を高める言葉を言うとか、何か良いことをする。
それ自体もそうですし、それを行うための能力というか、それを賜物と言います。
私たち一人一人に 神様は例外なく与えてくださっている。
実はそれ、ちょっと難しいかもしれませんが、実は精霊が与えられているというのは、そういう意味もあるんです。
精霊が与えられているということは、私たちにその賜物が与えられているということなんです。 他の
クリスチャンのために使える、神のために使える賜物。 もうちょっと別の言い方をすると、前にも示してありますが
精霊が私たちを通して他の人にとって良い言葉を語らせ、 他の人にとって良いことを行っておられる。
それが精霊の賜物の働き、そういうことなんですね。 もう一つ大事なことは、賜物です。恵みですから、それは自分の手柄で獲得したものでないんですね。
だからある学者が言うんですね。それは神に一方的に与えられたものですから、 それを理由に誇ったり、また他の人を見下したりしてはいけない。
この賜物は違いや個性としても現れていますね。 私たち教会に属する一人一人は違いがあります。
その違いが良い効果を生むと言われているんですね。 でも違っても私たちはイエス様に対する忠誠心、それは同じです。
そのイエス様に対する忠誠心をみんな持っている時に、この違いが効果をもたらすんです。
私は昭和世代ですから、違いが分かるゴールドブレンドなんてね。 コマーシュルを思い出しましたけど、違いが分かってもあってもですね、それが分裂ではなくて、イエス様の忠誠心を持っているお互いが集うと、それが協力体制へと変わっていくって言うんですね。
良いチームワークとなっている。 しばらく前に、
ある実験用のマウスを使って実験がなされました。こういう実験です。 そのマウスの
大事な遺伝子を狙い撃ちして消すんです。 そうすると、
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普通は大事な遺伝子を消したら異常が生まれますよね。 それでもそのマウスの中に全く異常が現れないマウスがたくさん出てきたって言うんです。
なぜか、それはですね、
生き物の体の中では、一つの機能がダメになっても、それを補うための機能が準備されているって言うんです。
だから体の機能は単なる部品の集まりではなくて、 遺伝子や細胞や臓器、それぞれ違ったものがですね、互いに支え合って助け合って、
その一人の生命体を生かすために見事に働き合っているって言うんですね。 私たちクリスチャンがお互い違っているというのは、そのようなことに似ているんです。
互いに補い合って、一つのキリストの体を構成していく。 皆さんこの方知っていますか?
宗教改革者のカルバンという人です。 マルチン・ルターは有名ですね。ドイツの人。カルバンはフランスで宗教改革を行った。
組織進学の大化と言われていますが、このようなことを言っているんですね。 ちょっと難しいかもしれませんが、前の部分読めるかと読んでみましょうか。
3、キリストの体は誰一人として他者の助けなしに自分の必要を満たすことができるという完全さを与えられてはいない。
言い換えると、クリスチャンというのは自分一人で完成していないと言うんです。 必ず誰か他の人が必要だ。もっと極端な言い方をすると、
賭けがある。それはあっていいんだ。なぜか。それはお互いを必要としているから不完全な存在なんだ。
そういうことをカルバンが言っているわけなんですね。 このようにクリスチャンは誰一人として
完成できる。 自分を完全な人間として立つことができない。
他の人の助けを必要とする存在だということなんですね。 ですから、
賭物を持って互いに使い合うのがキリストの体、教会であるということです。 最後の点です。
それは誰にでも与えられている賭物ということですね。 七瀬さん、さっきも言いましたが、
キリストの賭物の計りに従って恵みを神が与えた。 計りに従ってという計りというのは、
メトロンというメーターの語源になる言葉のようです。 これはどういうことかというと、
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神様は知恵によって異なった個性、異なった恵み、賭物を様々なメンバーに分け与えてくださっているということなんです。
押し測ってこの人にはこれ、この人にはこれ、 体全体を見たときにこの人にはこれ、そういうように上手に測って、
賭物をそれぞれ違った賭物として必要に応じて神は与えてくださっているということです。
ある学者はそのことをこう言っているんですね。 言えてみようなんですが、前にも示してありますが、
全ての賭物を持っている人はいない。 一方で霊的な働きやその働きを行うための賭物を全く持っていない人もいない。
ちょっと極端な例ですけど、今メジャーリーグで話題になっている大谷翔平選手ですよね。
ピッチャーでもバッターでも一流です。 詳しくわからない方いるかもしれないですけど、
ピッチャーで10勝目指していたけどできなかったって言うじゃないですか。 知っている方、ダルビッシュというね、やっぱりいるんですけども、
ダルビッシュでさえ8勝ぐらいしかしてないんです。 でも大谷翔平は9勝しているんですね。
彼みたいに何でも打っても走っても、 そして投げても何でもできるという人は稀です。
野球に例えましたけども、 全部の持っている人はいない。クリスチャンも全部の賜物を持っているような人はいないけれども、
一方で、 霊的な働き、神や人に仕えるために
賜物を全く持っていない人はいないんだよ。 何かが授かっているんだよ。
学者も言うわけなんですね。 パールはですね、ここでイエス様の勝利のイメージを語っていますけど、
私たちの敵、 パールは明確に語りませんが、もしなんとなくパールは霊的な敵がいる、霊の敵がいる、
悪しき存在がいるって言い方をしています。 はっきり言わないんですけど、もしそれが私たちにとって敵の攻撃があるとすれば、その一つの方法は
否定的な考えを植え付けることがあるんですね。 例えば、自分には人をアピールする才能なんてない、
思わせたり。 自分は誰のためにも、
人のために何の役にも立つことができない、 役立たずみたいな、
否定的な思い。 あるいは失敗の恐れ、失敗したらどうしようか、
拒絶の恐れですね。こうやっても人に受け入れなかったらどうしようか。 そういう様々な否定的な思いを植え付けるのが、もしかしたら、
おそらく私たちの敵の戦略でしょう。 しかし、先ほど7節8節でイエス様が勝利の王となった、天の御座についた、
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何よりも高い御座に座ったということは、 これで私たちの敵に完全な勝利を
成したということなんですね。 イエス様は十字架で死んで、私たちの罪の攻めを暴なってくださいましたから、私たちの罪を
攻め立てる者はいません。 そして復活して天に昇ってくださいました。
完全な勝利を 成し遂げてくださったので、
私たちを攻め続ける 悪しき勢力にもイエス様は完全に勝利をしてくださいました。
私たちの思いを惑わす悪しき力よりも、はるかにイエス様は勝るお方なんですね。
そして、 私たちが良い行いに歩むようにと、
勝利したイエス様は自分の勝利だけではなくて、 賜物として、戦利品としての精霊を私たちに授けてくださっているんです。
そのことをぜひ思い出しましょう。
まあ ギリシャ聖教か何かのイコンですね。天に昇っておられるイエス様、天の御座に着座しておられるイエス様の
イメージがいろいろありますけれども、こういうイメージも、 絵もあるわけですね、イコン。
で、実はここで大事な言葉、今日の最後の御言葉、4章10節に注目しましょう。
読める方、前に示した御言葉を読んでみましょうか。
この下られた方ご自身は、全てのものを満たすために、 もろもろの天よりも高く昇られた方でもあります。
全ての天より高く上がった方っていうのは、さっき言った、 あらゆる圏よりも高いところに座して、完全なる勝利を得ておられる、そういう意味ですね。
このイエス様が天の御座に着座された目的、それは、 全てのものを満たすためだ。
その全てのものを満たすため、どういうことか。
指来たすって言葉聞いたことあります?指来たす。
指に師匠を来たすって言わないですよ。指来たすっていうのは、どこにいてもパソコンやスマホでいろいろ操作できるっていう。
偏在っていう言葉は元々神学用語で、どこにでもおられる神様という、 そういう概念のラテン語から来た言葉です。偏在。
全てのものを満たすイエス様というのは、 いつもどこでも私たちとともにいてくださるお方なんです。
そして私たちが良い働きが、 神のために人のためにできるように、全てを備えてくださった。
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賜物を与えてくださったイエス様です。 時間があれば、ぜひエペソーション1章から読んでほしいんですけど、
神様とイエス様の満ち満ちた様がエペソーションには現れていて、
教会はその全てのものを、全てのものによって満たすイエス様が、 満ち満ちたところが教会であり、キリストの体だって言ってるんですね。教会だ。
何をともあれ、どこにでもともにおられるイエス様は、 私たちに必要な良い技さえも備えてくださっているわけです。
ですから私たちお互いに、神様と人に使えるものとして、 互いに支え合い、助け合い、祈り合い、
良い技に励んでいきたいと思います。 これらの約束の御言葉を最後に2つ読んで、御言葉の時を終わりにしましょう。
旧約聖書エレミーア23章24節ですね。 指キタスの御言葉、読める方は前の言葉を読んでみましょうか。
3、人が隠れたところに身を隠したら、 私は彼を見ることができないのか。主の御告げ。
天にも地にも私は満ちているではないか。主の御告げ。 この宣言ですね。天にも地にも私は満ちているではないか。
素晴らしい御言葉です。 またエヴェソン2章10節
読んでみましょうか。 ちょっと長いですけど読んでみましょう。
私たちは神の作品であって、良い行いをするために キリストイエスにやって作られたのです。
神は私たちが良い行いに歩むように、 その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
エヴェソン2章10節 この神様に信頼しながら、共に
死の宮座に励んでいく、それぞれでありたいと思います。 お祈りしましょう。天の神様、皆を賛美いたします。
あなたはイエス様を地に使わし、そして天に
登らせ、溝に浸かせ、私たちに勝利とまた 生命の賜物を与えてくださったことを感謝いたします。
どうかそのものを受けて私たちがそれぞれ使い合い、 神と人に使い、またあなたの栄光を表すお互いであり、
教会でありますように。 この願いと感謝を私たちの救い主、
主イエス様のお名前によって祈ります。 アーメン。
どうぞ1分ほど御言葉に応答してそれぞれお祈りください。
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