2022-09-04 24:59

#121 栄光と誉れ 22/9/4

ピリピ1:9-12からの礼拝説教。2022年9月4日録音。先週取り上げた祈りに続き9節の冒頭でパウロは「その祈りの内容はこれです!」と伝え聞く者の注目を集めます。その中で意味が似た2つの言葉が並記され、全部で3組あります。それらはこの手紙の特徴の「信仰の奥義」に関わることです。その3つの組み合わせから1つずつ、1.知識とあらゆる識別力によって(1:9-10a)、2.純真で非難されるところのない者となりますように(1:10b)、3.神の栄光と誉れが現されますように(1:11)、の3つの点を学びましょう。
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フィリピ人への手紙、1章9節から11節をお読みします。
私は、こう祈っています。あなた方の愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなた方が大切なことを見分けることができますように。
こうしてあなた方が、キリストの火に備えて、純真で非難されるところのないものとなり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが表されますように。
以上です。
今日はこのところから、栄光と誉れと題して御言葉を取り継ぎます。
皆様、おはようございます。早いもので9月になりました。
しばらく涼しかったんですが、今日はちょっと残暑の日曜日となりました。
ちょっと、エアコン一番低くしてるんですけど、なかなかここまでしか落ちなくて、申し訳ないんですけども、何とか席で進んでいただければと思います。
さて、ピリピリとの手紙からずっと学び始めて、今日3回目ですが、先週の3節から8節のところでは、教会の人のためにパウロは神の前に感謝し、祈っていると言っていました。
今日の9節の冒頭では、私はこう祈っていますと言って、祈りの内容はこれですと語って、聞く人の注目が集まったわけですね。
何を祈っているんだろう。その中で意味が似通った2つの言葉が、今日の3節の中に3組出てくるんです。
その3組の2つの言葉を中心に、3つの点から学びましょう。
おそらく、後でも解説しますが、似たような言葉を3組並べて、その似たような言葉をラレットすることによって、大事なことを伝えたかった、そんな意図が伝わってきます。
まず、9節と10節の頭の部分、読める方は読んでみましょう。
私はこう祈っています。あなた方の愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなた方が大切なことを見分けることができますように。
最初の組は、知識とあらゆる識別力ということです。
実は、その理由は愛と関係しているんですね。
まず、愛の定義をきちんと捉えていただきたいのですが、パウロの祈りの内容は、この愛がますます豊かになるようにと伝えています。
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その前提として、愛はどういう愛か、それは先週見た8節の、どんなにかあなた方のことをキリストユースの愛をもって慕っているかといった言葉とはちょっとニュアンスが違うんです。
あれは愛着で、英語で言うとaffectionといって、感情面が強いんですね。
ちょっと違いますけど、日本人としてわかりやすいのは、恋愛感情とかですね、好きでたまらないとか、そういう言い方があれかもしれませんけど、もしかしたらウエットな感じかもしれません。
でも、ここで言う愛というのは、その感情よりもむしろ正しい行動を意味します。
アクション、エモーションではなく、アクションだと英語でよく言います。
それはですね、この知識と識別力と関係してくるんですけど、相手の状態やその場の状況を正しく判断して、相手のために最善のことを行うことだと言えるんです。
で、ある学者は愛をですね、互いに使い合う心遣いと言い換えています。
繰り返しますが、とにかく上所よりも行動を言うんですね。
ドライな愛。で、そういうことをまず前提として覚えておいてください。
その上でパウルは、愛がますます豊かになりますようにと祈っているわけです。
皆さん、じゃあちょっと考えてください。
じゃあ、愛が豊かになる。
ここでパウルはですね、ピリピリとの手紙、ピリピリとの愛というのは、
宣教の始めの時から、そして今に至るまでパウルは統獄され苦労している。
そしてピリピリの人たちも先週言ったように、ローマの中で信仰者として苦労している。
そういう苦労があるにも関わらず、ずっと仏心両面においてパウルを支援してきた。
まさに行動ですよね。
その愛を感謝していると先週言ってましたよね。
それが、もっともっと豊かになるようにと言っているんです。
皆さん、どうやったら豊かになると思いますか?
ピリピリの人たちの、そういう与える愛が。
あるいはそこに表された愛が、もっと豊かになる。
ますます豊かになるということ。
パウルは何を持ってそう言っているか。
愛が豊かになるために。
実は、答え合わせですけど、
ますます愛が豊かになるようにパウルはその答えとして、
知識とあらゆる識別力によって、愛が豊かになる。
ちょっとさっきも言いましたけど、感情的じゃないから、
知的な部分が豊かになって、愛が豊かになるというのは、なかなかわかりにくいかもしれません。
もうちょっとこれ、その前提で説明していきますけれども、
この2つの言葉は、簡単に言うと、正しい知識と倫理観を言うんですね。
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学校の道徳の時間みたいに難しくなってきましたけど、
正しい知識と倫理観を持って、この2つの言葉の意味があると。
それは、10説の大切なこと、重要なことを見分ける判断力に、
それが至ると言及しています。
ちょっと前に戻りますけど、私はこう祈っています。
愛が知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになって、
あなた方が大切なことを見分けることができますように、
別の聖書では重要なことが見分けることができるようにという、
知識と識別力から判断力が生まれるという、
そういう流れでパウロは、この祈りを祈っていると言っているんですね。
どういうことか、それはですね、正しい判断力と、
正しい判断力を持って愛を実行するということが、
豊かな愛の実践になると言うんです。
つまり、その時その時に愛を実行するためには、
正しい判断力が必要だ。
そしてその正しい判断力のためにはですね、
その根拠としての正しい知識や倫理観が必要だと言っているんです。
どんどん難しくなるかもしれない。
ちょっと例えを出しますね。
これ誰ですか。
日野浩夫先生ですか。
ブラックジャック。
名医というと、私の世代、これすぐ思い浮かぶんですけど、
名医というのは、まず病気や治療法に関する正しい知識が必要ですよね。
診断するために、治療法を見つけるために。
そして今度はそれを知った上で、
患者さんを人として見る倫理観が必要です。
最近よく言われていますね。
それは、重病で治療が大変な患者さんに、
機械的に情報を伝えるのではなくて、
寄り添うという言葉が好きな人も嫌いな人もいるかもしれませんけど、
患者さんとその家族の身になって、
人としてその、例えば重篤な病状とか、
治療の方針ということを伝えていく。
それが倫理観と関係している。
そういうイメージで捉えていただければと思います。
その上で、この知識や倫理観をもとに、
医者はどのような治療をするのかという、実際の愛の行動ですね。
そして、どうやって患者さんや家族に説明をするかという、
これも実践的な愛の行動をしていくわけです。
これを正常的に言い換えれば、
愛の実践として患者さんと家族に誠実に向き合っていく。
そのために、正しい知識と健全な倫理観が必要だ。
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正常的に言う愛の実践とは、治療行為とか、
患者さんの家族に対する接し方となるかもしれません。
ですから、パウロがこの豊かな愛に必要な知識と、
そして識別力、そしてそれをもとにした判断力、
そのことはこのような名医の治療行為に例えることができるわけです。
大事なことは、その上で私たちクリスチャンとして欠かせないことがあるんですね。
それは、この知識と倫理観というのは、
当然、元々のギリシャ語の言葉でいう識別力というのは、
さっき言った実は倫理観ということに、一般的な言葉と言われるんですけど、
知識という言葉はもっとクリスチャン的な意味があって、
社会一般の常識に外れていないということはもちろんなんですけど、
そこに神様の御心や聖書の知識、そして聖霊の導きが必要だということです。
ただ、この世間一般で正しいことじゃなくて、
その背後にはクリスチャンとして神様の御心や聖書の知識や
聖霊の導きが必要だとパウロはこの知識という言葉に込めているんですね。
実はそのような考え方をパウロは、
折に触れて自分の手紙の中でずっと紹介しています。
有名な言葉の一つがですね、ローマ書の十二章二節です。
ちょっと読める方長いんですけど、読んでみましょうか。
3、この世と調子を合わせてはいけません。
むしろ心を新たにすることで自分を変えていただきなさい。
そうすれば、神の御心は何か、すなわち何が良いことで
神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
これは有名な言葉で知っている方、覚えている方も多いと思いますが、
単なる社会一般の常識に外れていないということに留まらず、
もちろんそれもあるんですが、それの背後には、
あるいは私たちの根底にですね、
神に喜ばれる神の御心が何かということを
見極めていく知識が必要だということなんです。
で、実はこの神様の正しい御心とかですね、
知識を知るために私たちは聖書を読むということです。
神の御心や神に関する知識はどこから得るんですか、
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それは神の御言葉である聖書からです。
そしてまた、その時その時に必要な判断力が
瞬時に求められますよね。
例えばお子さんに接していれば、お子さんの言うことやることに関して、
その時その時に何が適切かということを
瞬時に判断しなきゃいけないかもしれません。
その瞬時に判断するためにですね、
私たちは聖書の知識を蓄えて、
判断の基準の知識を持っていることと同時に、
その時その時に聖霊の導きがある。
聖書から教えられたことを聖霊が明らかにしてくださったり、
一種の知恵がその時与えられるような
聖霊の導きということを経験していくんですね。
そういう聖書や聖霊にあって判断していく、
そういう経験をまた積み重ねていく中で、
私たちはその場その場の状況に合わせて、
相手にとって何が重要かということを
判断できるようになっていくわけです。
それはですね、一生涯かけて私たちが磨き続けていくもの、
それが成熟になるということですね。
それこそ愛が豊かになって成長していくということが
そこに含まれているわけです。
そのことを知ってパウロはフィリピンのクリスチャンのために
祈っていると言っているわけですね。
それが第一の点です。
最初の点がですね、ちょっと一番難しかったり、
理解し難かったりしてですね、長いんですけども、
またちょっと後で復習してみてください。
2番目。
純真で非難されるところのないものとなりますように、という。
2つ目は、純真さと非難されるところがないということの組み合わせですね。
御答は読んでみましょう。
1章の10節と11章の前半ですね。
読んでみましょう。3、はい。
こうしてあなた方がキリストの火に備えて
純真で非難されるところのないものとなり、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされますように、という。
そういう祈りです。
実は、愛が豊かになることによって何が生まれてくるか。
それはですね、クリスチャンが純真で非難されるものがないものとして成長していく。
それをパウロは知って祈っていると言うんですね。
ここでこれらの言葉、純真さ、非難されないということはですね、
実はですね、私たちの内面のことを言っているんです。
動機の純粋さ。
来週、眼鉄学会へ来カフェがありますけどですね、
日野先生はよくおっしゃるのは、動機が大事なんだよねっておっしゃるんですよね。
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で、また日野先生はですね、よく患者さんとかで再発率何%ですかとかっていうことを質問される。
患者さんによっては、A先生からこういうふうに言われて、
B先生からこう言われたってことで日野先生のところに持ってくるんですけど、
先生が言うには、A先生もB先生も間違ってないって言うんです。
それはつまりグレーゾーンだって言うんです。
まあちょっと厳しげ、例えば余命についてもそうだっておっしゃる。
で、その時に日野先生が言うのはですね、
グレーゾーンを語るために必要なのは、愛が動機でなければいけないって言うんです。
グレーゾーンの中で自信を持って相手に言葉をかけていくためには、
愛がなければできないとおっしゃるんですね。
このように動機としての愛、愛の純真さということをパウロも強く述べているわけです。
で、そこでさらにですね、パウロはキリストイエスの日に備えてと言っているんです。
キリストイエスの日に備えてとあるように、
実は私たちの救いの完成の日と関わりがあること、
純真で非難されることがないということは、
完成の日と関わりがあると見てとれるんですね。
どういうことでしょうか。
私たちが100%愛が綺麗になる、
私たちの動機が100%神の前にも人の前にも責められるところがない、
そういう状況になれるのはですね、
この完成の時だ、イエス様と再びまみえる時だとパウロは実は考えているんです。
先週そのことと関わる大事な言葉を見ましたね。
1章6節、この言葉とそれは関係しているんですね。
ちょっとこれまた読んでみましょうか。
あなた方の間で良い働きを始められた方は、
キリストイエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると私は確信しています。
完成の日というのはイエス様と直接お会いする日、
そしてその時私たちは完成する。
いつも申し上げていますように、
実はその時まで私たちの心の葛藤の旅が続くというんですね。
クリスチャンはもう救われていますし、もう救いが始まっています。
しかしまだ救いが完成していない。
そういうこの世の葛藤の中で旅をし続けるのが私たちの現実です。
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諦めるのではなくて、完成の時を知っているから、
その完成を目指して、実はその時その時今の時を最善を尽くして、
自分の思うところの重心の動機で愛を実践していく。
それが私たちのこの旅路の中身なんですね。
でも皆さんどうか分かりませんが、私はすぐ壁にぶつかってしまうんですね。
良いことを始めようとしても限界を感じたり、自分の壁にぶつかってしまう。
あるいは自分の自分勝手さということに気が付いてガッカリしてしまうこともあります。
だからこそパウロはイエス様に頼ることを忘れないようにと言っているんですね。
実はこの11節の義の身に満たされると言っていますよね。
義の身に満たされることへと発展していくんです。
実は義の身に満たされるという言葉を見るときに、この見方を見るとですね、
イエス・キリストによって与えられる義の身と言っているんです。
私たち努力しても結べない時があるかもしれませんが、
義の身はイエス様が与えてくださるということをパウロは忘れていないんですね。
ここで初めてこのピリピリドの手紙の中で、
クリスチャンの中に働くイエス様の力や命が出てくるわけです。
実はこのクリスチャンの中に働くイエス様の命、
私たちの義の身を結ばせてくださるイエス様の命というのが、先週言った信仰の奥義だというんですね。
実はそのことをパウロはこの手紙を通して広く深く話していくわけです。
そのことを詳しく学んでいきましょう。
その導入として三章九節を挙げておきましたから、読んでみましょうか。
私は立法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、
すなわち信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。
ピリピリ三章九節。
このこともおいおい深く広く学んでいきます。
最後のポイント。
三番目のペアは、神の栄光と誉れが表されますようにです。
では十一節の部分を読んでみましょう。
イエスキリストによって与えられる義の身に満たされて、神の栄光と誉れが表されますように。
パウロはこう祈りを締めくくっているんですが、実はですね、とてもこれは大事なことです。
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ある学者はですね、神の栄光と誉れこそ、クリスチャンが目指す究極のゴールだと言うんですね。
カラオケのランキングずっと上位の歌ありますよね。
ユズの栄光の架け橋ですね。
そのクリスチャンの栄光は、神の栄光と誉れを求めていくことなんだ。
それが究極のゴールだと言うんですね。
実はこれはですね、旧約聖書の信仰にも基づいています。
読んでみましょう。詩編の21編13節。
主よ、あなたの御力のゆえに、あなたがあがめられますように、大いなる御力を私たちは歌い、褒め歌います。
自分のした努力も尊いかもしれませんけど、そうじゃなくて、
あなたのなしてくださった力のゆえに、あなたがあがめられますようにと神に栄光を期す信仰ですね。
このように私たちのクリスチャンの究極のゴールは、神の栄光を表すことです。
皆さんはそのことを自分の信念として持っておられるでしょうか。
私たちは先ほども見ました、イエス様の力によって儀の実を結ぶことができます。
それは儀の実を結ぶ自分の素晴らしさが称賛されるためではないんですね。
それは自分を通して神様の栄光が表されるということなんです。
そしてこの儀の実を結ぶということが究極の神の栄光を表すという私たちの目的とつながっているということなんですね。
実はこれこそ信仰の奥義です。神の栄光を表すために生きている。
実はそのことをパウロはやはりこの手紙の中で繰り返し私たちに教えている。
そのことを共に学んでいきましょう。
その代表的な言葉の一つを最後に皆さんで読んで終わりたいと思います。
すぐ出てくるんですね、今度。
フィリピンの1章20節。ちょっと難しいかもしれません。読んでみましょうか。
3、私の願いはどんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
読んでみましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
パウロが書いた手紙から私たちは学びました。
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私たち、この地上の旅路で様々な葛藤を覚えますが、イエス様の御力によって義の実を結ぶことができますように。
また、正しい愛を実行するためにどうか、あなたの御心である知識、相応しい判断力を主が私たちのうちに養って下さいますように。
こうして私たちを通して、あなたの栄光と誉れが表されますよう、どうか導いて下さい。
そのためにどうぞ、ピリピリとの手紙を通して、私たちがあなたからよく学ぶことができるよう、導いて下さい。
その願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
どうぞしばらく1分ほど、主に応えてお祈りしましょう。
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