2021-10-03 24:59

#75 21/10/3 愛を知る力

エペソ-19からの礼拝説教。2021年10月3日録音。愛について、無限大の愛、人格的な知識との関わりの側面、体験的実験的な側面の3点から学びましょう。
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エペソビートへの手紙、3章、17-19 信仰によって、あなた方の心の内にキリストを住ませて下さいますよ。
そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなた方が、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知を遥かに超えたキリストの愛を知ることができますように。
そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなた方が満たされますように。
以上です。
今日はこの箇所から、愛を知る力と題して2言葉を取り継ぎます。
皆さん、あらためまして、おはようございます。
9月30日に緊急事態宣言が明けて、4月以来、日本全国でどこにもそのような制限がかからない状態になりました。
とは言うものの、よく言われますように、いろいろな科学的な根拠がどこにあるのか、それがわからないまま、何となく解除されてしまいました。
最近では、緊急事態宣言があろうがなかろうが、私たちは日常に生きなければいけない。
そんな中で、感染も拡大したり、身近なところでそういうことが起こったり、日々いろんなことが私たちの身の回りで起こります。
私にも自分にもいろいろ出来事が降りかかります。
そういう中で、神様の愛に根差して生きていくということを、今日は学んでいきます。
今日のこの箇所は、先週見ましたパウロの三つの祈りの中の二つ目の祈りです。
塊としてはもっと大きいのですが、私も長年これらの言葉の意味をもうちょっと深く知りたいということもありましたし、
せっかくですから、一つ一つの祈り、いつも言いますが、パウロの言葉遣いは非常に難しかったり深い意味がありますので、
私なりですが、じっくり学んで、私のそして皆さんの信仰の糧になればと思って、ある程度丁寧に取り扱っているわけです。
今日は第二番目の祈りで、人知を遥かに超えたキリストの愛を知ることが出来ますようにということです。
三つの点、まず最初は愛の大きさ。
二番目は人格的な関わりから知る愛。
三番目は経験から知る愛ということを三つの点から学びます。
まず最初はですね、人知を遥かに超えたキリストの愛、無限大の愛ということです。
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ちょっとあまり重なりますけれども、読める方は小さい声でいいですので読んでみましょうか。
愛に根差し、愛に基礎を置いているあなた方が、すべての生徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知を遥かに超えたキリストの愛を知ることが出来ますように。
ここでありますが、神様の愛は無限大だって言うんですね。
インフィニティと英語で言います。無限大の愛。
簡単に無限大と言いますけどね、そんな簡単なものじゃないんです。
この神の愛の豊かさや大きさ、偉大さを17節から19節にかけて、パウロはある学者に言わせれば、精一杯の荒ん限りの言葉を尽くして表現しているというんですね。
例えば、前半の広さ、長さ、高さ、深さ。これは、広さ、長さは横の広がりです。長さと面積。東京ドーム何個分とか言いますけどね。
まあ、そういう広さや長さ。高さ、深さというのは上下の距離です。空の高さとか地の深さ。
一個一個の言葉をそれぞれ詳しく吟味する意味はないと多くの学者が言いますので、それをしません。
ただ、これの見言葉の背景にある旧約聖書の言葉を探ることによって、ある程度イメージできるかもしれません。
一つは、よぶき11章7節から9節。神様ご自身やその知恵の偉大さを語っていて、おそらくパウロもこれを参考にしたんじゃないかと言われています。
ちょっと読める方だけで結構ですので、読んでみましょうか。
次から私が最初に読みますね。
ここから読みましょうか。
それは天よりも高い。あなたに何ができよう。それは黄泉よりも深い。あなたが何を知り得よう。それを測れば、地よりも長く、海よりも広い。
昨日、何時頃でしたかね。夕方かな。散歩をしていましたら、本当に秋の空、雲一つない空、どこまで続くんだろうかなという、空高い秋と言いますけど、そういう秋でした。
また、夜ですね、ブラタモリというテレビの番組を見ていたんですけど、淡路島の特集で、島の発端になった大きな岩があって、そこには穴が開いている。
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その穴は何かというと、黄泉に続く穴だ。
読みって聖書しおると言って、死んだ人が一回入っていく場所だとも言われるんですけど、その地の深み。
このような神様ご自身の偉大さをヨブが言っていて、パウロはこれを参考に神の愛を語りました。
そしてもう一つ、詩編ですね。
偉大な神様の愛は、私たちがたとえ地の果てに行ったとしても、そこに追いかけてくる。そのような愛を詩編で歌っています。
読める方、詩編139編、8節、12節。ちょっと長いので、また私が一人で読んでみましょう。
たとえ私が天に昇っても、そこにあなたはおられ。私が黄泉に渡航を設けても、そこにあなたはおられます。
ちょっと読んでみましょうか。
私が暁の翼を駆って海の果てに棲んでも、そこでもあなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私をとらえます。
たとえ私が大闇よ、私を追え、私の周りの光よ、夜となれと言っても、あなたにとっては闇も暗くはなく、夜は昼のように明るいのです。
暗闇も光も同じことです。
機会があれば、ぜひですね、詩編139編、読んでみてください。
私が母の体に宿る前から、あなたは私を知っておられるという、神に知られている幸いが書かれていますから、ぜひ読んでみてください。
何年か前ですね、私アメリカに行ったことがあるんですけど、そこでお祈りしたんですね。
その時ふと思ったんです。
本当に私たちがどこに行っても、神はそこにおられて、愛を注いでくださる。
それほど神の愛は、無限な広がり、偉大な大きさを持っているということなんですね。
そして、パウルは、この無限大の神様の愛、イエス様の愛を広げてくださる。
そして、パウルは、この無限大の神様の愛、イエス様の愛を知ることができますようにと祈っている。
皆さん、これ何か矛盾に気づきました?
人知を遥かに超えたキリストの愛を知ることができますように。
人知を遥かに超えているんです。
私たちの知恵や知識を超えている。
ある学者は知り尽くせないって言うんです。
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知ることができないものを知ることができますように。
そういう矛盾に満ちた言葉にも思えるんですが、
それは私たちの知る能力を遥かに超えている愛。
私たちが知って想像するよりも、遥かに偉大な愛って言うんですね。
例えば、皆さん勉強したことあると思いますが、
この世界の学問や知識というのを深めれば知れば知るほど、
いくらでも学ぶことがあるわけですよね。
専門分野であればなおさら。
その知識や学問の対象がたくさんあって、
その知るべきことを世界中に見せていますけれども、
神様ご自身や神の愛の無限大さというのは、
どれよりも遥かに勝る、知り尽くすことができないほどの愛だって言うんです。
知り尽くすことができない愛だし、私たちの理解力に限界があるからこそ、
パウロはそれを理解する力を持つことができるようになりますようにと祈っているんです。
これは直訳すると、愛をつかみ取るというですね。
愛をつかみ取ることができるように強くして下さいますように。
愛をつかみ取るために強くされますようにとパウロは祈っているんですね。
どうでしょう、皆さんはこの神様の愛、イエス様の愛をどれほど知っているでしょうか。
この神様の愛、イエス様の愛を知るために、
力が与えられるように自分にも、また愛する人々のためにも、祈り、祈り合っていきましょう。
最初は、人知を遥かに超えた神の愛、イエス様の愛。
2番目、愛に根差し、愛に基礎を置く人格的な知識と関わりって言うんですね。
17節の後半に、愛に根差し、愛に基礎を置いているあなた方がと言っています。
先週金曜日、台風が近づきましたね。
家にいた方、仕事に行った方、色々いたと思いますが、無事済みました。
雨もそうでしたが、風も強かったですよね。
2年前も台風19号など、ひどいものが来ましたが、この暴風の時には、
しっかり根差した植物、あるいはしっかりした土台に基礎を置いた建物というのは、
びくともしない、あるいは守られるわけですね。
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同じように、神を信じる私たちも、神様の愛にしっかり根差して、
そこに基礎を置く時に、確かな歩みをすることができるんですね。
例えば、神様の愛以外のもの、神の愛以外のものに基礎を置くとどうなるか。
よく言われている、ユダヤ教の影響を引きずったクリスチャンは、立法を言いましたよね。
掟に基礎を置くと、私たちは、掟が守れる、守れない、
自分自身が揺らいでしまいますよね。
それと関係していますが、パフォーマンス、
自分の立ち位振る舞いや、行動や成績の良さを土台にしていたならば、
それがうまくいかないと、自分のアイデンティティが揺らいでしまったり、
自分に価値がないと落ち込んでしまうということがあるわけですよね。
だから、私たちはこの無限の神の愛に根差して、基礎を置いていく。
それが、揺るがないことです。
実は、この愛というのは、単なる知識ではないのです。
聖書を知っている、神の愛について知っている、
そういう単なる知識ではなくて、経験や人格的な交わりに関わる愛というものです。
どういうことか、これね、誰か分かりますか?
スワローズの新しいエース、池井理佳子。
すみません、これは競泳の池井理佳子選手。
しばらく前のスワローズ戦で、ピッチャー、何でしたっけ?
ピッチャーを買いました。
ピッチャーを買いました。
ピッチャーを買いました。
しばらく前のスワローズ戦で、ピッチャーを買いました。
支給式をしました。
彼は原口選手、阪神の選手。
二人の共通点は何ですか?
癌ですね。
彼女は血液の癌、彼は大腸癌。
この時、涙を拭っていますが、原口選手は、復帰後のある打席で、
逆転さよなら打を打って、お立ち台に立って、
ただいま、と泣いたわけです。
私たちは今、池井さんにしろ、原口さんにしろ、
この二人のことをよく知ることができますよね。
ネットを通して、メディアを通して、
どれだけの糖尿生活を送ったか、どんな非生活を送ったか。
そうすると、彼らに対する愛着が湧くわけですよね。
今、有名人がテレビに出て、私もそうするんですけど、
誰々が出てるって、すぐネットで検索すると、
その人のことが分かって、
埼玉県の出身だったんだ、分かると、
その芸能人なりの愛着が湧くわけです。
こうやって知れば知るほど、人に対する愛着や愛情が湧く。
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家族やパートナーであれば、なおさらかもしれません。
ましてや、相手も自分を知っているならば、もっと愛着が湧くわけですよね。
今、こういう時代ですから、有名人からSNSのダイレクトメッセージが来て、
びっくりして、もっと不安になったなんて聞きますけれども、
こうやって、知識と人格的な交わりというのは、
この愛と深い関わりがあるわけなんです。
これと同じように、私たちが聖書を読んだり祈る、
それは神様について知る作業なんですね。
私も今朝、聖書を読んでいたんですけれども、
なぜ知っているのかな?
神を知るために読んでいるんだと言うと、また新しい動機や視点で読めるんです。
祈るのも、聖書の言葉や出来事を祈りの中で黙想して、
神様の愛について思い巡らしていく。
私たちが聖書を読んで祈るのは、神様やイエス様、
聖霊なる神様をそれらを通して知るためでもあるんですね。
そうして、神様を知れば知るほど、もっと知りたくなるし、
神様に知られていることも知って、
私たちの神への愛がますます深まっていく。
神の愛を知っていくことができるわけです。
このように、愛は単なる知識ではなくて、
人格的な関わりに関わるものです。
人格的な関わりに関する知識を伴った愛。
私たちは、聖書や祈りの中で、
神を知り、神に知られていることを知って、
神の愛をますます知るわけですね。
失礼しました。
3番目。
愛に根差し、愛に競うことの最後の2つ目の点は、
体験的実験的な愛です。
この言葉、愛は知識だけではなくて、
人格的な交わりと共に体験的な愛で、
ある学者は、エクスペリメンタル、
実験的な愛であるとさえ言います。
つまり、私たちが日常生活で神様の愛を実際に知ってこそ、
本物の愛の関わりを神様と持てるんですね。
言い換えれば、パオラが聖書を通して、
あるいは私が説教を通して、
神様の愛について皆さんにお話ししても、
そして神様が皆さんに愛を知る力を授けても、
皆さん一人一人が生活の中で神の愛を体験し、
実感しないことには、
その愛を神も本当の意味で知らせることができないと言うんですね。
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だからこそパオラは知れるように、
自分が何もできないから祈っていたわけです。
ところで皆さん、何気にって言葉使います?
何気に?使うでしょ?
あれ、方言だって知ってました?
埼玉県の方言。
それで中学生か高校生が埼玉県で使っていたものが、
80年代って言ってますけど、
全国に広がったのが何気にって言葉だそうです。
何気に使ってますけど、そういう意味があるんですね。
なんとなくとか、何気なくとか、さりげないって意味なんですね。
で、私たちは日常生活の出来事を何気に見過ごしてしまいますよね。
しかしですね、その出来事を神様の愛の視点で考えていく。
それが、私はちょっと思ったんですけど、
それこそ、それもですね、
愛に根差して、愛に基礎を置く生活だと言えると思うんですね。
つまり自分の身近な出来事を、
絶対的な神様の愛の視点からどう捉えるのかって考えたり、
この中で自分はどう振る舞い生きるべきなのか、
神の愛の中で、この状況の中でどう振る舞い生きるべきなのか、
この今の状況の中で、神の愛の視点から学べることがあるのか、
そんなことをですね、考えてみることが、
神の愛に根差し、愛に基礎を置く生活やその訓練と言えると私は思うんですね。
また、その自分の周りの出来事や自分に残っている出来事を
聖書や神の愛から考えていくときに、
牧師にどういうことかと聖書から聞いてみたり、
あるいは他のクリスチャンの方にどう考えていますかと聞くことも意味があることだと思うんですね。
パウロもですね、全ての生徒たちと共に、
神の民の交わりの中で神の愛を知るようにと言っていますから、
お互い考え合ったり、尋ね合うということも意味があるかと思うんです。
これはですね、実は神の愛で、
神様の愛の視点で物事を見る眼力とか視点、あるいは理解力を養う。
パウロがですね、力を与えられるように、強められるように祈ったんですけど、
こういう眼力や理解力も含まれているんじゃないかなと私は思うんですね。
そのような神の愛の視点で物事を捉える眼力や理解力を
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つけるために、養うために私たちは日々聖書を読んで、
祈りの中で自分の問題を、聖書の言葉なども合わせながら目想し、
祈りを考えていく必要があるかと思うんです。
またですね、さらに言えばですね、私たちの身の回りの出来事、
自分の身にある面、不幸な出来事が降りかかることがあるかもしれません。
でもその不幸な出来事を安易に簡単に感謝すればいいとか、肯定する必要はないんですね。
でも、そのような悪しき行いをした人に対して神様は、
悪には必ず報いるし、裁くお方ですから、その裁きに委ねます。
しかし一方、私たちがその悪をこう思った側であるならば、
神様に解決の道を祈り求めながらですね、
神様の愛の中で、神の愛や癒し、その導きを祈ることもできるかと思います。
それこそ皆さん、家でじっくりこれらのことについて考えていただきたいんですけども、
私たちが愛に根差して、愛の支点で生きる上に、
助けになる御言葉を最後にいくつか紹介しましょう。
ローマ8章37節から39節ですね。
ちょっと読めるかと読んでみましょうか。
これら全てというのは、このある面、裁きとかですね、不幸な出来事なんですけども、読んでみましょう。3回。
しかしこれら全てにおいても、私たちを愛してくださったことによって、
私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。
死も、命も、高いところにあるものも、深いところにあるものも、その他のどんな非造物も、
私たちの主、キリストイエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。
第1ユーハネ4章18節ですね。読めるかと読みましょう。3回。
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを占め出します。恐れには罰が伴い、恐れるものは愛において全きものとなっていないのです。
これら罰水ですけど、ぜひですね、この前後も時間をとって読んで、祈ったり瞑想していただきたいと思います。
このような神様の無限の愛、またクリスチャン同士の愛の関わりの中で、私たち一人一人また神の群れである教会もですね、
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共に神様の見たけりまで成長していく。それがマダ・パウロの祈りでもあるわけです。
共に祈りながら神の愛の内を歩むお互いでありましょう。お祈りします。
天の神様、皆を賛美いたします。あなたの愛は知り尽くしがたく、また人間が語り得ることのできないものです。
どうかその偉大な愛を小さな私たちが知ることができるように強め導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
どうぞ皆さんそれぞれ1分ほど二言葉に応えてお祈りする時間を持ちましょう。
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