00:06
書文への手紙、1節から7節。
私は祈る時、いつもあなたのことを思い、私の神に感謝しています。あなたが主イエスに対して偉大いていて、すべての生徒たちにも向けている愛と信頼について聞いているからです。
私たちの間で、キリストのためになされている良い行いをすべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きしたものとなりますように。
私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。それは、兄弟よ、あなたによって生徒たちが安心を得たからです。
以上です。
今日はこのところから、安らぎの関わりと題して御言葉を伺います。
皆さん、おはようございます。
緊急事態宣言が明けたと思いましたら、まん延防止重点措置が、明後日から埼玉県では、埼玉市と川口市で適用されるようです。
本当に行きつ戻りつつの状況で、いろんなことを覚えると思いますが、そんな心情を歌った千流が、昨日、東京新聞に出ていましたので紹介します。
まん延を見届けてから防止措置。
全く、ちぐはぐ感がよく現れて、皮肉で切り返したり笑うしかない、そんな状況が続いております。
しかし、私たちクリスチャンは、神様にあって、この状況の中で共に歩むべく御言葉から学んでいきましょう。
その中で、ピレモンの手紙から、クリスチャンの交わりについて学んでいきます。
3つの点から、交わりについて学びますが、その前に、この手紙の背景を見てみましょう。
御言葉、冒頭の2節まで読める方は小さい声でいいですので、読んでみましょう。
キリストイエスの囚人パウロと、兄弟テモテから、私たちの愛する同僚者ピレモンと姉妹アッピア、私たちの戦友アルキポ、並びにあなたの家にある教会へ。
03:14
このピレモンへの手紙の珍しいところは、個人宛の手紙、珍しいと言いますか、今までと違うのは、個人宛の手紙なんですね。
前から説明していますが、ちょっと読みにくいでしょう。
ここが英外界、ここが大陸になっているんですけれども、今のトルコですね。
おそらく、いろいろな説がありますが、当時、パウロはエペソーで投獄されていた。
西暦55年頃、この手紙を書いた。
そして、約160キロ離れたコロサイにあてて、今まで見たコロサイの手紙を書いていた。
ちょっとですね、間違いがあったので訂正しますが、ラオデキアとコロサイの間が5、60キロと言ってましたけど、間違いで約16キロくらい。
そういう距離のところで、その手紙、おそらくエペソビトの手紙をピレモンの後に学びますが、
このコロサイの町にピレモンも住んでいた。
そして、この当時の教会は今のように建物を持っていなかったんですね。
信者の家に集まっていました。
そのコロサイ教会には、コロサイの4章15節にもありますように、
忍法の家の教会、忍法、他の訳ではヌンパと言いますけれども、
その女性の家、つまり地域の名士の家などに集まって教会をしていたようです。
実はこのピレモンも、おそらく自宅を開放して、今の教会のような礼拝集会を行っていた。
ピレモンは当時自分の教会の指導的立場にあった。
おそらくパウロが自分のことを道路者ピレモンと言っているように、
そのような指導的立場にあったようです。
この冒頭にもありますように、2節のアッピアという女性もその教会にいた。
おそらくピレモンの奥さんか、ピレモンの姉妹だったかもしれない。
そしてピレモンとアッピアと、あと教会のリーダー的存在でもあったアルキポ専用と言われていますね。
そういうアルキポの3人の名前が出ていて、主にピレモンにあてて、
おそらく殺されにあったピレモンの教会のメンバーにも交わりとしてこの手紙を読む、
あてて書いたというのがこのピレモンへの手紙です。
このように狭い範囲で書かれたピレモンへの手紙ですが、
06:03
この手紙からいわゆる教会の全体のあるべき姿が見えてきます。
そのあるべき姿はまさに神様が教会に意図した姿。
それはどういう姿かというと、
教会というのは建物ではない、組織でもなくてクリスチャンの集いであって、
お互いの関わりにあって存在しているのが教会だということです。
その関わりを交わりと言います。
その交わりから3点、私たち教会について学ぶために見ていきましょう。
まず第一点は、教会の交わりとはお互いの関わりですということなんですね。
5節、6節、ちょっともう一度私読んでみますね。
互いの関わりが出てきます。
あなたがシュエスに対して抱いていて、
全ての生徒たちに向けている愛と信頼について聞いているからです。
だからパウロは感謝している。
ピレモンが神様に対して愛と信頼を抱いているように、
その神への愛と信頼からピレモンは教会の兄弟姉妹への愛と信頼に生きている。
ちょっとここから一緒に読んでみましょう。小さい声で。
私たちの間でキリストのためになされている良い行いを全て知ることによって、
あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。
ここでパウロは、交わり、信仰の交わりと言っています。
それは、教会内の兄弟姉妹間の関わりのことを言います。
先ほども言いますが、キリスト教用語で交わりというのは、
その教会の中のクリスチャン同士の関わりです。
これちょっとよく見るとですね、3種類の交わりがあるんです。
私たちの間でと言っているように、
極中にいるパウロとそこのクリスチャンの交わり、
そしてあなたの信仰の交わりと言っているように、
160キロ離れたエペソのパウロの交わりと、
160キロ離れたコロサイのピレモンの教会の交わり、この2つ。
そしてそれぞれの教会の間の交わりがまた、
160キロ離れたお互いクリスチャン同士の交わりに
良い影響を与え合っているということが出てきます。
後で見ますけれども、そういうクリスチャンの交わりを
パウロはここで述べています。
実はその交わりというのをもう少し詳しく言うと、
ギリシャ語でコイノニアと言うんですね、コイノニア。
09:04
私の恩師の練馬バブテスト教会の伊津田明という元牧師はですね、
新学校の時にこのコイノニアをしようと言って集まったんです。
それなんか新学校の庭でみんなでお菓子食べて話し合う時間だったんですけど、
それをコイノニアというのが分からなくてですね、
イコイノニアだと思ったんですね。
イコイノニアの時間、でもコイノニアという。
それはいろんな要素が含まれていて、
境界・共同体の性質を表す言葉です。
互いに与え合うこと、互いに使い合うこと、互いに共有し合うこと。
あるアメリカ人の先輩牧師はですね、
この言葉が表しているように鍵の言葉は
お互いにという言葉です。
each otherという言葉。
英語でですね、学者はinterchangingという言葉だと。
これは交換するとか置き換える、
あるいは他の人の状況に自分の場所を置くという。
もう少し分かりやすく言えば、
相手の身になる、相手の身になる、
そしてお互いに与え合い、使い合うことが
このコイノニア交わりという言葉に含まれている
広い意味なんですね。
その相手の身になるということをもう少し深く見ていきましょう。
それが第二の点です。
第二の点。
この境界の交わりというのは
互いに痛みと喜びを共有し合うものだというんですね。
聖書で境界のことをですね、
一人の人間の体に例えてみます。
おはよう。
羽賀くん、空席のところに座ってもらえますか。
今日は特別にここに座っていいよ。
ここ。
これどかして。
紙持ってっていいから。
この紙ね。
ファイルは置いておいて。
第二の点はですね、
境界の交わりの互いに痛みを分かち合うという要素です。
境界をキリストの体にパールは例えていて、
クリスチャン一人一人を体に属する器官、臓器、内臓、
そういうふうに例えています。
パールは別の聖書の箇所でこう言っているんですね。
ちょっと読める方、小さい声で読んでみましょうか。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、
一つの部分がたっ飛ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
第二コリント十二章二十六節。
12:01
皆さん、病気の中に三大激痛というのを知っていますか。
三つの激しい痛みを伴う病気。
その中の一つが尿路血跡です。
出産の痛みに続く痛みだという人もいますけれども、
腎臓から尿道、膀胱に至る中に石があって、
それが詰まって痛いんですね。
その防止のためにいっぱい水を飲むとか、
コーヒー、紅茶を飲みすぎると血跡ができやすいというので、
私は気をつけないといけないのですけれども、
そういう尿路血跡の痛みとか。
あるいは尿路血跡になったことがなくても、
皆さん、歯を抜いたことはありますか。
何本も私は抜いたことがありますけれども、
麻酔が切れたと本当に痛いですよね。
この尿路血跡による痛みやバシの痛みも、
実際に痛みの原因になっているのは一箇所です。
でも実感としては、
体のいろんな部分が痛かったり影響されたり、
体全部が痛んでいるように感じますよね。
そうだよね。
ちょっと待ってね。
今日は質問なしにしよう。ごめんね。
このように体の一部が痛むことで、
体全体が痛むというのですけれども、
例えば皆さん歯を抜いた後にマラソンできるでしょうか。
歯の痛みがあるのにマラソンできません。
軽やかに歩くことさえできませんね。
これは実は今の御言葉に当てはめると、
一つの部分が苦しめば、
全ての部分が共に苦しむということに当てはまります。
これはクリスチャンのお互い、
誰かが教会内で痛んでいる時に、
やはり私たちもその痛みを共感するものだという
そういう真理につながるわけですね。
その反対に、体全体が元気であれば、
体の一部分が元気であると、
体全体が元気に感じるということがあるかもしれません。
最近、こういう言葉が取り出されています。
脳腸相関、腸脳相関、どっちでもいいんですけど、
腸と脳の間に関係があるんですね。
腸内細菌のバランスもそこに関わってくるんですね。
腸と脳が温かい関係していて、
そこに腸の細菌の状態、腸内フローラの状況も
関わっているということが言われるんですけども、
ある医者がこのように言っています。
前に掲示しましたが、リラックスを感じている時は、
腸内フローラのバランスが整えられ、
腸内細菌のバランスも整えられているんですね。
腸の働きが良くなります。
適切に腸が動き、腸内フローラが安定すると、
15:00
脳が不安を感じることも抑えられます。
こうやって、腸と脳の相互関係があるわけです。
これを仮に、腸も脳も共に喜んでいる、
腸も脳も共に超気持ち良いと喜んでいると表現するならば、
これはキリストの体の境界における、
喜ぶ人と共に喜ぶということにつながるかもしれませんね。
そういう御言葉があります。
あと出てきます。
この共に苦しみ、共に喜ぶという、
人間の体だけじゃなくて、
キリストの体、クリスチャン同士の相互感、
お互いの関係、交わり、
体の部位や器官の霊を挙げましたが、
同じように私たちクリスチャン、
キリストの体である境界、
そこに属するお互いはですね、
共に痛みを覚えて、喜びを共感し合うというんですね。
今からですね、20年ほど前に、
ある信仰の先輩がですね、
私にこう言うんですって言ったんですね。
悲しむ人と共に泣くのはそんなに難しくないけど、
喜ぶ人と共に喜ぶのは難しいって言ったんです。
妬みが働くから。
またですね、反対に元哲学外来の日野先生はですね、
こう言うんですね。
自分より不幸な人の所に行きなさい。
そうやって痛みを共感しなさい。
それによってあなたも幸いを得ることができますって言うんですね。
で、これらの言葉にもありますように、
前にも掲示しましたが、
この二つの種類の言葉がありますが、
クリスチャンの私たちは、
誰かの喜びを妬ましく思ったり、
反対に悲しみや苦しみの中で悩む人を、
不信仰だと裁くべきではないんですね。
お互いに喜びを共感する。
そしてお互いに苦しみを分かち合う。
あの韓国のクリスチャンの方がね、
30年ぐらい前に私にこう言ってくれたんですね。
韓国のクリスチャンでこう言うんだそうです。
喜びは分かち合うと倍になるって言うんです。
で、苦しみや悲しみは分かち合うと半分になるって言うんですね。
まあそれはキリストの体をよく言い表した真理ですけども、
パーロもローマの12章15節でこう言っています。
ちょっと読んでみましょう。
喜ぶ者と一緒に喜び、
泣く者と一緒に泣きなさい。
このように喜びや痛みを共に分かち合うところ。
それが教会であり、それがクリスチャンの交わりです。
最後の点。
真の交わりは、安心と力を与えるって言うんですね。
パーロは7節でこう言っています。
18:04
ピレモン7節。読める方は小さい声でいいので読んでみましょう。
3、はい。
私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。
それは兄弟よ、あなたによって生徒たちが安心を得たからです。
この短い言葉にもたくさんの願蓄を学ぶべきことがあるんですが、
これでパーロは何を言っているかというと、
ピレモンの教会の交わりを見て、その様子を知って、
パーロは喜びと慰めを得たと言うんですね。
ピレモンの教会の兄弟姉妹が、あるいはピレモンがですね、
教会の責任者として、教会の兄弟姉妹のことをケアした。
教会内でお互いがケアしあっていた。
その結果、安心をその教会の中で得た人々がいたからだと言うんです。
このですね、安心を得たという7説の言葉はちょっと難しい言葉で、
こういう意味があるんですね。
リフレッシュするとか、労働の中の中休み、
労働の合間の中休みをリフレッシュ。
引っ越し業者の方が休んだりしてますけれども、
そういう重労働の間の中休みを言うんです。
もともとはこれはね、軍隊用語で、兵隊の休暇、休息と関わっています。
前の新観約聖書では、力づけられたと訳されているんですね。
そのように、戦闘中の戦っている兵隊が休息を得て、
新たな力を養って、再度戦い望むことができる。
そういう意味がこの安心を得たという言葉にあるそうです。
このピレモンが自分の教会の人をいたわる行為、
それをパウロは神様と人への愛と信頼の証だと言うんですね。
そのことのゆえに神に感謝しているとパウロは伝えています。
ピレモンの4節から5節、こうパウロが言っていますね。
私は祈るとき、いつもあなたのことを思い、私の神に感謝しています。
あなたが朱鎔に対して抱いていて、
全ての生徒たちに向けている愛と信頼について聞いているからです。
ピレモンは神様の愛、神様への信頼に生きていて、それを経験していました。
その愛と信頼を教会の兄弟姉妹に向けても愛を注ぎ、また信頼していた。
そしてそれらを知ったパウロは7節で言うように、
21:05
その行為によって、あなたのピレモンの愛によって多くの喜びと慰めを得たと言っているんですね。
教会の交わりについて今日お話ししましたが、
このような交わりが教会でなされているときに、
私たち自身がお互いに安らぎを得る、新たな力を得る、それが聖書の言うところです。
ですからそのような安らぎを、安息と力を得るときに、
まさに戦いが続くようなこの世の中にあっても、
私たちを再び力を得て進むことができるんですね。
その交わりはピレモンとパウロのように160キロも遠く離れた、
その獄中にいたパウロに喜びと慰めを与えたんです。
同じように私たちのこのキリストにある交わり、
私がする、あなたがする兄弟姉妹への共感、
それが私たちの思いを超えたところで、
他の兄弟姉妹を慰めたり励ましもするということなんですね。
今実際コロナ禍において教会での交わりというか、
お互い話す時間や関わる時間は限られていますね。
でも前も祈りの課題を配ったようにお互い祈ることができる。
このように今はコロナ禍で交わりが制限されていますけれども、
祈り課題を配ったりしていますので、お互いのために祈る、
あるいは本当に挨拶をする、それの関わりだけでも
お互いの励ましになればと思います。
またキリスト社の家族がいるならば、
そのような家族の中でお互いをいたわり合うということもできるかもしれません。
教会がどんなところか、交わりの場で話をしました。
教会はサービス業ではないんですね。
教会というのは、サービスというのは、
英語のサービスは本来は礼拝を意味します。
それは神を礼拝して、そしてお互いに使い合う。
その時にキリストからの安らぎと新たな力を私たちは礼拝を通して、
またお互いの存在や関わりを通して知ることができる。
それが教会なんですね。
24:02
そのようなキリストの体である教会の交わりのことを覚えながら、
共に祈り、支え合いながら歩んでいくお互いでありたいと思います。
最後にパウロが御言葉にあって語った教会の真理について
共に読んで終わりたいと思います。
エヴェソの1章の23節。
こちらに掲示しましたエヴェソ1章23節、
共に読んで終わりにしましょう。
教会はキリストの体であり、
一切のものを一切ものによって満たす方の満ちておられるところです。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
あなたが私たちと共にあってこの地を歩んでくださることをありがとうございます。
またこの地の旅を続けていく中で、
キリストの体の交わりを備えてくださったことを感謝します。
私たちそれぞれが強さや弱さを持ったものでございますが、
あなたに与えられた賜物によってどうぞ共に喜び共に苦しむことにより、
キリストの体として互いに成長していくことができるように、
あなたが備えてくださった安らぎや力を体験していくことができるようにどうか導いてください。
これらの思いを私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それではしばらく1分ほどを祈りましょう。
聖書の言葉に応答しながら心にあることを覚えて祈って参りましょう。