2021-03-14 29:20

#46/3/14 手紙とテキコとオネシモと

コロサイ4:7-9からの礼拝メッセー ジ。2021年3月14日録音。獄中からパウロは、コロサイ教会宛ての手紙をテキコに託しました。パウロはそこに、逃亡奴隷のオネシモも同行させます。この手紙、テキコ、そしてオネシモの3者の関りから、聖書の忍耐と励ましのメッセージを学びましょう。

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聖書、殺さえ人の手紙、4章7節から9節を読みします。
私の様子はすべて、愛する兄弟、忠実な奉仕者、主にある道路の下辺であるテキコがあなた方に知らせます。
テキコをあなた方のもとに使わすのは、他でもなく、あなた方が私たちの様子を知って、心に励ましを受けるためです。
また彼は、あなた方の仲間の一人で、忠実な愛する兄弟、オネシモと一緒に行きます。
この二人が、こちらの様子をすべて知らせます。
以上です。今日はこのところから、手紙とテキコとオネシモと題して御言葉を取り継ぎます。
皆さん、改めましておはようございます。
私はですね、毎朝、祈りのガイドを使って祈っているんですね。365日の。
前もここで紹介しました、日野原重明先生のお父様、前助先生が訳した祈りの本なんですが、
今日の朝の祈りがですね、簡単に言うとですね、
神様、今日一日、私の祈りを妨げる者から私たちを守ってください。
私の心を、礼拝を妨げる者から守ってくださいという祈りで、
それを自分のためにも、教会の方々や教会のためにも祈ったんですが、
このパソコンのですね、トラブルとか、簡単に言うとそういうズームアドレスのトラブルで、
今日の朝、入れなかったり、礼拝が遅れてしまったりしまして、
本当にその祈りを祈っておいてよかったなということで、
皆さんとまた、オンライン上ですけども、お会いできることを本当に感謝しています。
また都合で集めない方もいるようですから、覚えてお祈りください。
さて、この災人の手紙もいよいよ終わりに近づいてきました。
昨日ですね、手紙を久しぶりに送るということがあって、コンビニで切手を買いました。
そしたらですね、本当に最近、手紙どころか切手も使わないなという出来事があったんですね。
コンビニでも切手が買えますよね。
それで切手をですね、何枚か買ったんですが、アルバイトの高校生か大学生の男の子がいたんです。
で切手、シートになっていると、切手って繋がってますよね。
皆さんそれ、切るときどうしますか?
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大体折って切りますよね。
でもそのバイトの男の子が折らないでそのまま切ろうとするから、
破れそうになってすごくたどたどしいんですね。
最初の2、3枚は見てたんですけども、あまりにもですね、
彼にも教えてあげればいいかなと思ってですね、
彼に、これ折って切ったら切りやすいよって言ったらですね、
ああありがとうございますなんて、そのように答えてくれましたが、
本当に最近、手紙書かないどころか切手も使わないなということを実感した一番目でした。
でこのパウロの殺された人の手紙は当時、まさにですね、高級な用紙紙などによって書かれて、
そして郵送はないですから、伝令者によって届けました。
でそれが今日出てくるこのテキコという人です。
テキコという人から伝えられました。
手に託されて、おそらくですね、この当時彼はエペソに投獄されていたので、
そこからですね、156キロ離れたコロサイに、テキコに託して手紙を渡したと考えられています。
その時にここにも出てきます、オネシモというもう一人のクリスチャンを連れて手紙を託されていったようです。
でこのテキコとオネシモ二人にはですね、共通点と共通点でない点があるんですね。
ですから今日はこの手紙ということと、二人の共通点あるいは相違点から、私たちクリスチャン生活にとても大切なことを3点学んでいきます。
まず最初の点は、手紙とテキコから得る励ましという点です。
では読める方はちょっと飛び飛びになりますが、一緒に読んでみましょう。
私の様子はすべて愛する兄弟、忠実な奉仕者、主にある道路の下辺であるテキコがあなた方に知らせます。
他でもなく、あなた方が私たちの様子を知って、心に励ましを受けるためです。
この二人がこちらの様子をすべて知らせます。
四章七節から九節の伐推です。
ここで特に言われていることは、テキコによってまず手紙が運んでいかれたということ。
そしてそれだけではなくて、3回テキコとオネシモによって私たちの様子、こちらの様子と3回も繰り返されているように、
エペソの盗獄中のパウロの様子を手紙とともに知らせること。これがテキコの役割だったんです。
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テキコについては、使徒の働きの二十章四節に出てきます。
エペソの彼が盗獄中にテキコが近くで待っていた、そして貧しい中にあったエルサレム教会への募金をパウロとテキコは共にエルサレムに届けた、そんなことが書かれています。
エペソの3年間の恐らく盗獄中にパウロはテキコとまたオネシモと出会ったようです。
そしてこのテキコの目的は、もちろん手紙を伝えること、それだけではなくて先ほども伝えましたが、盗獄中や裁判を待っているパウロの様子を殺されの人々に伝えることだったんですね。
そしてこのパウロの手紙を受け取って彼のメッセージを聞いた教会、また直接テキコの口からパウロの様子を知った、無事であること、元気であること、福音宣教に携わっていること、
それを知ったパウロ、殺されの教会の人々はまさに心に励ましを受けた、そういうテキコの伝令者の務めによって、また様子や御言葉を聞くことによって心に励ましを受けたわけですね。
ある学者は、テキコが伝えた様子についてこう述べているんですね。
殺されの教会の人々がパウロの働きと彼らへの関心を聞くとき、彼らは新鮮な力と確信を得たであろう。
あるところではですね、パウロと殺されの教会の人々には神的なつながりだったから、パウロの働きやパウロがどれほど彼らのことを思っているか、その関心を聞くこともあるね。
さらに去年、パウロの愛の言葉を聞くことによって、知ることによって、殺されの人々は新鮮な力と確信を得たと言うんですね。
実はこのやりとりは、パウロと殺されのテキコの関係は、私たちと聖書の関係にも当てはめることができるんですね。
実はパウロが手紙を書いたように、聖書は神様の手紙です。
聖書の原著者、元々の著者は神様ご自身ですね。
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そしてパウロが手紙を書いたように、神様ご自身が聖書を書いた、そう信じられています。
まあ、聖霊によって霊感を受けた人が書いたと。
第二手も手の3章16節にありますけれども、原著者は神様、聖書の原著者は神様。
そして伝令者がテキコ、パウロの伝令者がテキコであったように、神様の言葉、聖書を書いた、例えばパウロはある面神様の伝令者であったわけですよね。
この伝令者が書き伝えた神の言葉、聖書によって、私たちは神様のことを知ることができるわけです。
テキコによってパウロの様子を知ったように、私たちはこの手紙によって、パウロが書いた手紙によって、様々な著者が書いた手紙によって、神様のことを知り、あるいはイエス様のことを知ることができる。
そしてコロサイの人々が心に励ましを受けたように、私たちも聖書を読んで、神様のことを知り、神の愛を知り、心に励ましを受けるわけです。
このような聖書のことについて、パウロもローマ人の手紙の中で次のように述べているんですね。
読める方、一緒にその場で読んでみましょう。
3.かつて書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。
それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。
ローマ15章4節
このパウロの時代は、羊皮紙、羊皮とかパビリスで非常に高価でしたから、
この手紙を受け取った人たちは、教会で朗読を聞く、そしてそれを一生懸命覚えたりする。
それが当時のパウロの手紙に触れる方法だったんです。
一方、今の私たちは、紙は捨てるほどあるというか、手元に紙の聖書をいつでも置くことができて、読むことができます。
そして、ペーパーレスの今の時代は、このようなスマホなどにデータとして聖書の言葉を携えることができるわけです。
そして当然、場所や時を選ばず、この聖書の御言葉に触れることができるわけですね。
このコロナ禍が続く中で、私たちの心には励ましが必要ですし、忍耐を神様から与えていただく必要もあります。
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そしてそれによって、今を生き抜く希望を私たちは、神様から受け取ることができるわけです。
どのようにしてか、それは、神のメッセンジャーによって書かれた聖書に触れることによるわけですね。
ですから、このような意味におきましても、ぜひ私たちは日々、聖書に触れていきたいと思います。
これが第一の点です。
続いて、第二の点。
愛する兄弟としてという言葉です。
実は、このテキコとオネシモ、この二人はですね、愛する兄弟という共通の言葉で呼ばれています。
この愛する兄弟という言葉は、一般的にクリスチャンとして、神の家族に属する兄弟姉妹を呼ぶときに、愛する兄弟と言われています。
ある英語の訳では、Our Dearly Loved Brother、英語の書き足し、英語の手紙の冒頭にですね、よくDear何々と書かれるんです。
親愛なる誰々様、その親愛なるという強い愛着が、この愛する兄弟というパウロの言葉に込められている。
テキコは、主にある道路のしもべとあったようにですね、主にある苦しみを共に味わったキリストのしもべという、そういう意味がテキコにも使われている。
やはり、そんな嫌な意味でも、愛する兄弟だったわけですね。
ただですね、この二人の共通点のほかの相違点、それはですね、テキコは忠実な奉仕者、英語でディアコノスと言ってですね、英語のディーコンという言葉の意味になりましたが、
テキコは忠実な神の使い人だったんですけども、実はオネシモは奴隷。
オネシモは奴隷、しかもですね、オネシモは奴隷であったんですけども、奴隷というのはですね、当時非常に嫌悪されていた立場だったんです。
で、ある学者がですね、こういうことを書いているんですね。
このパウロの時代の著作、紀元前1世紀の著作、ちょっと前の著作では、奴隷制度へ対する嫌悪感が記されていると。
なぜか、大多数の者にとって奴隷の生活は良くて苦役であり、悪ければ慌れみのない作種であったと言われているんですね。
ちょっと引用文抜けてますけど、このようにですね、奴隷の立場の人と兄弟喚起を望む人は当時の一般社会ではいなかったわけです。
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前もちょっと話しましたが、本当に善良な奴隷の主人はですね、彼を子供のように扱った人もいましたが、多くは兄弟と奴隷を、兄弟の関係を結びたいという人はいなかったんですけれども、
そういう中でもパウロは偉大なキリストの人でありましたし、またコロサイ教会にとっては偉大な尊い教師でありました。
そのような立場であったにも関わらず、この奴隷の身分のオネシモを自分の兄弟と呼んだことが衝撃的な出来事だったわけです。
実はですね、これは私たちとキリストとの関係を象徴しています。
実はですね、パウロはこの後でも説明しますが、一緒に携わっていったコロサイの手紙と一緒に携わっていったフィレモンという個人宛の手紙でオネシモのことをこう呼んでいます。
読める方一緒に読んでみましょうか。
もはや奴隷としてではなく奴隷以上のもの、すなわち愛する兄弟としてです。
愛する兄弟としてフィレモンにオネシモを受け入れてくださいと推薦書を書いているわけなんですね。
この奴隷を愛する兄弟と呼ぶ、これはですね、神様の私たちに対する分け隔てのない愛を表しているんです。
何度もお話ししてきましたが、私たちは違法人ですね。旧約の神の民、イスラエルの民とは違った違法人でした。
しかしイエス様の十字架を信じて神の民とされました。神の家族とされました。
そしてたとえ私たちの今の立場がどのようなものであっても、あるいは日本ではあまりないかもしれませんが、
どのような身分のものであっても、私たちはイエス様の友なんですね。神の家族であり、イエス様の友です。
実はこの言葉に神様のイエス様の私たちへの信愛なる愛が表されているわけです。
イエス様が十字架の上で私たちの罪をあがなうために死んでくださいました。
その十字架の愛についてイエス様は別の聖書の箇所でこう述べています。
一緒に読める方、ちょっと長いですけれども読んでみましょうか。
ヨハネの十五章十三節十五節です。
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3.はい、人がその友のために命を捨てるというこれよりも大きな愛は誰も持っていません。
私はもはやあなた方を下辺とは呼びません。下辺は主人のすることを知らないからです。
私はあなた方を友と呼びました。
あなた方がなぜなら父から聞いたことを皆あなた方に知らせたからです。
この下辺というのは文字通り奴隷という言葉です。デューロスという言葉です。
しかしイエス様は弟子たちを私たちを奴隷と呼ばない。
友であるそしてその証拠に私たちのために最も大事な命を十字架で投げ出してくださった。
そういうことなんですね。最初のポイントでも述べましたが、
このようなイエス様神様の愛を私たちは聖書から知るまた日々の生活で知るときに励ましや忍耐力あるいは希望を得ることができる。
私たちはおねしもやまたてきこと同じように神の愛する者とされている。
イエス様の愛する兄弟ともとされているということが第二の点です。
それでは最後の点、三番目の点を見てみましょう。
それは許され忠実なしもべとしてという言葉です。
このてきことおねしものもう一つの共通の言葉それは忠実なという言葉です。
てきこは忠実な使い人先ほども言いましたが忠実なディーコンですね。
そしておねしもについても忠実なという言葉が使われています。
この忠実なという言葉はギリシャ語ではピストスという言葉で
このピストスというのはギリシャ語の信仰のピスティスという言葉と関係する言葉です。
本来の意味はピストスそれは信頼に値する。
だからこのてきこはもちろんおねしもも信頼に値する人物だとパウロがお墨付きをつけているわけです。
当然てきこはパウロと当国に至るような福音の老夫を分かち合った忠実な人です。
そしてそのような忠実な人だったからパウロはてきこに大事な手紙メッセージを託したわけです。
しかしこのおねしもに関して忠実なという言葉が使われていることはこれも驚くべきことなんですね。
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実はおねしもはただの奴隷ではありませんでした。
彼は逃亡奴隷です。盗みを働いて主人のもとから逃げた奴隷だったんですね。
実は先ほどから述べているピレモンへの手紙、おそらくピレモンというのはコロサイ教会のメンバーでした。
そしてこのピレモンはおそらく裕福な家庭の主人であっておねしもはそこで勤えていた下部奴隷でした。
そして当時の時代よくあったそうですが奴隷が主人の金品を盗んで逃げるということがあっておねしももそれをしたようです。
そしてこのおねしもはなぜかエペソの獄中のパウロと出会って
そしてエペソの獄中でパウロがこのおねしもをイエスキリストへの戒心へと導いた。
だからこの戒心し悔いを改めた逃亡奴隷のおねしもを元主人のこのピレモンが受け入れるように
そのようにピレモンへの手紙をパウロが書いた。
そしてそれと一緒にテキコに携えてテキコがコロサイ人の手紙、ピレモンの手紙
そしてこの逃亡奴隷の戒心したおねしもを携えてコロサイ教会へと訪れたという一連のことがここから分かるわけです。
そしてパウロはこのおねしものことをこう述べているんですね。
読めるかで読んでみましょう。
彼は前にはあなたにとって役に立たないものでしたが、今はあなたにとっても私にとっても役に立つものとなっています。
こうピレモンへの手紙の中で述べています。
このようなある面犯罪歴があったという点でテキコと彼は違いましたが、
罪許されて実は忠実なものとパウロに共に呼ばれているわけです。
パウロはこの当時のタブーを破ってこのような奴隷をかばった。
そして許しを乞う、そのような手紙を書いたわけです。
さらにパウロは同じ手紙の中でこのようにさえ言っているんですね。
1章18節、ペレモンの18節、読んでみましょうか。
もし彼があなたに対して損害をかけたか、不採用を負っているのでしたら、その請求は私にしてくださいと言っています。
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口座の引き落としでいろんなものを処理している方がいると思いますが、
時々、残高が不足していると、
貯金通帳に残高不足、お借り入れ何円となっている場合があります。
実は、オネシモの口座にペレモンに対する不採額が書かれていたとします。
すると、実はこの不採額をパウロが自分の預金通帳に記載してもらって、自分が肩代わりをするということが、
パウロの言葉をそのように例えることができるわけです。
この姿は、実は私たちの罪の不採を負ってくださったイエス様にダブるわけですよね。
私たちがこのオネシモと似ていることがあるとすれば、神様の前に返すことができないこの罪の不採があるということでしょう。
そしてその罪の不採をパウロではなくて、イエス様ご自身が十字架の上で担ってくださいました。
前にも伝えましたが、この手紙の2章の13節から14節には、
この債務証書を十字架の上に釘付けしてくださったというイエス様の十字架の御業が描かれていました。
実はこれこそ神様の真実な愛なんです。
真実なしむべてきことオネシモと述べましたけれども、
その前にイエス様ご自身が、神様ご自身が罪ある私たちに対して真実な愛を貫いてくださいました。
そして私たちの罪をイエス様が約束通り追って十字架で死んでくださったわけです。
私たちがなかなか真実な人間として神の前で生きることは難しいかもしれません。
自分の不真実さを正直に知れば知るほど、その真実に生きる厳しさに胸が痛むかもしれません。
しかしこのようなイエス様の真実な愛を知ってこそ、私たちも罪許された者として、この真実な者として変えられていくことができるわけです。
そしてこの逃亡奴隷のオネシモ、忠実な使い人であるテキコとともに、私たちは神様の前に真実なしのべとして、神と人に仕えていくことができるのであります。
最後にこの神様の真実さをパウロが書いた御言葉を読んで、説教を終わりにしましょう。
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テモテイの手紙第2、2章の13節です。どうぞ読める方、一緒に読んでみましょう。
私たちは真実でなくとも、彼は常に真実である。神には御自身を否むことができないからである。
お祈りしましょう。
天の父なる神様、皆を賛美いたします。
今日は様々なトラブルがありましたけれども、まさに礼拝に集う者に真実を尽くすあなたの導きによって、ともにあなたに会って、礼拝に集うことができたことを感謝いたします。
離れ離れにある私たち、それ以上にパウロとテサロニケの兄弟姉妹は離れていました。
その中、手紙を託された二人の兄弟たちが、神様の前に、人々の前にパウロと共に立っている。
そのことから学ぶことができてありがとうございます。
どうぞ私たちが、あなたの書かれたこの愛の手紙である聖書から、あなたを更によく知り、あなたに愛されているので、
罪許され、あなたに真実を尽くしていただいた者として、その新しい立場をこれからも知り続けることができるように導いてください。
そして、家計のある私たちをどうか、あなたと人に対して真実に生きる者、あなたの人に対して、あなたと人に対して真実に仕える者と作り変えてくださいますように、どうか導いてください。
この願いと感謝を、あなたにおいだねして、私たちの主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
それではしばらく祈りましょう。元気の時間は持ちませんが、それぞれがご自身を主に捧げる時間、また神様に応える時間として、しばらく黙祷してください。
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