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コロサエビトの手紙2章、8節から10節、新開薬聖書2017年版でお読みします。
あの虚しい騙し事の哲学によって、誰かの囚われの身にならないように注意しなさい。
それは、人間の言い伝えによるもの、この世の諸々の例によるものであり、キリストによるものではありません。
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちた御性質が、形をとって宿っています。
あなた方は、キリストにあって満たされているのです。
キリストは、全ての支配と権威の頭です。
以上です。
このところから、今日は、冥心と確かさと題して御言葉を取り継ぎます。
みなさん、おはようございます。
寒い日が続いたと思いましたら、先週は夏を思わせるような暖かい日でしたね。
私も寒くなって、あったかい下着を買いに行ったんですけども、
その翌週には、また真夏のユニクロのエアリズムに引き換えたり、
ブレスサーモンからエアリズムとか、慌ただしい週を過ごしました。
しかし、みなさん、こうやって体調守られてですね、礼拝に集えることを感謝です。
そして、残念なことに、新型コロナウイルスの感染の拡大が、
おそらく第3波を迎えた、場所によっては第3波だと言われていますが、広がっています。
その中で、みなさん、こんな絵を見たことがありますね。
これはね、アマエビかと思ったら、アマビエなんですね。
アマエビじゃなくて、アマビエ。
こういうことですね、なぜこんなものが流行るかと言いますと、
おそらくですね、この目に見えない新型コロナウイルスの感染拡大、
つかみどころがない不安を解消するために、
あるいは早くその災禍が過ぎ去ってほしいという願い、
そういうものを聞き届ける象徴として、こういうアマビエなるものが今流行っているようにも思います。
日本にはこのようなものに似たものがたくさんありますね。
日本だけではなくて、今この御言葉から学んでいるコロサイですね。
コロサイの手紙の受け取りの手の人々、またこの手紙が回ってくると言われているラオデキアの人々も、
同じような宗教的な迷信に囚われて、そして時にはそれに強く縛られていた。
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そのことをパウルは警告して、この手紙を書き、今日の御言葉も伝えているわけです。
その中でイエス様の確かさに留まるようにパウルは教えています。
今日はこの迷信について1点、そして次にイエス様に関わること1点、
最後に私たちに関わること1点の3つからお話をします。
まず一番最初ですが、迷信に関わること、御言葉を読んでみましょう。
2章の8節です。
前に掲示しましたが、
あの虚しい騙し事の哲学によって、誰かの囚われの身にならないように注意しなさい。
それは人間の言い伝えによるもの、この世の諸々の例によるものであり、キリストによるものではありません。
2章8節を書き出しているわけですね。
ちなみに先週、確かな伝統ということで、旧約聖書から脈々と受け継がれた神の民の伝統に留まりなさい。
それは今で言えば私たちにとって聖書であり、また礼拝で告白している使徒信条である。
そんなことを学びましたが、その流れから否定的な命令として、
騙されないように、囚われないようにとパウルは教えているわけです。
この殺罪教会の人々と私たちの共通点、それは先ほども言いましたが、
イエス様を信じる前に影響を受けていた者や、彼らを取り巻く今の当時の宗教環境が似ている。
それはぼんやりとした宗教観、時にそのことの意味、不安を覚えて、
そして時にですね、悪い時には恐れによって支配されてしまう。
奴隷のようだとパウルは時に言いますが、そこが我々日本人と殺罪の人々と似ている点でした。
大人浜辺に限らずですね、占いとか、六曜、仏滅などに象徴される六曜とかですね、占いとか、
数え上げたらキリがありません。
しかしそれらの迷信が取るに足りないということを、三つの点からパウルは強調しています。
ここに赤く書きましたけれども、それは虚しい騙し事の哲学だ。
人間の言い伝えによるものだ、と言っていますね。
殺罪の文脈ではですね、このギリシャやヨローマの哲学的な背景を言っています。
あるいは、ユダヤ教の言い伝えから、細かく旧約聖書の立法を守れ、と言う。
そうでなければ、クリスチャンとして完成しない、と言う。そういう教えにかかっています。
そしてさらに、この世の諸々の霊によるものだからだ、と言っていますね。
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これは例えば、なんとなく霊と言われている迷信です。
この世の諸々の霊というのは、この前の約の聖書、第二版の新改革聖書では、
この世の幼稚な教えという表現でなっています。
その意味ですけれども、この幼稚な教えとか諸々の霊と訳されている言葉の元々の意味は、
元素、元気の元に味の素の素ですね。元素と言います。
具体的に当時ですね、今の元素と違って、大地とか空気とか水とか火を指していた。
この世の物質を構成している、基本の物質を元素と言って信じていまして、
そしてそれを神格化したんですね。
まさに日本人が何でも神とするように、そういうものを神格化して、
それらを霊的な存在とみなしていたのが当時の迷信だった。
それは宗教とも言えますし、それよりも曖昧な概念とか、今言う通俗とか迷信だったんですね。
ある学者が、この言葉や考えについてパウロがこう捉えていたと、こういうふうに解説しています。
前に書きましたが、こういうふうに言っています、学者が。
なぜそういうパウロの言い方をしたかというと、
そのような霊的存在に恐れを感じる人々に対して、安心と保障を与えることを目的としたので、
それは理性より感情に訴えた言葉だったんです。
実はパウロはそういう当時信じられていた霊とか偶像をどう考えていたかというとですね、
失礼しました。それは後で見ます。
この虚しい騙し事の哲学、
そういうものは根拠がない霊的な話ですから奴隷になってはいけませんよ、
恐れる必要ありませんよという、
気持ちに寄り添っていて、リズムで話したということではないんですね。
だから、このじゃあ、
支配している霊とは何だということを詳しくパウロは別に聖書で解説していません。
なんとなくみんなが信じられているものをこの言葉で言い当てたりすぎないんですね。
彼の理解は、なんとなく彼らに影響を与えていた、
しかし時にその迷信に縛られて重要な問題になっていた、
そういう人をイエス様に会って助けるということが彼の目的だったんです。
何回も言いますが、リズムで言うよりは、
不安の気持ちに寄り添って、こういう表現をしたんですね。
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パウロは、曖昧な霊的存在が何かという敵を明確にするよりも、
もっと確かなこと、それは、イエス様にある救いをはっきりと、
明言することによって、人々を助けようとしたわけですね。
あなたの信じているイエス様は神様です。
それをはっきりとパウロは福音として語ることによって解決を与えました。
それが第2番目の点です。
第2番目の点、それは、神様に見知っているイエス様を明示したということなんです。
2章の9節。
こちらに、前に引用しました、2章9節。
キリストの地にこそ、神の満ち満ちた御聖室が形をとって宿っています。
ちなみに、以前見た1章15節では、パウロはこう言っていますイエス様のこと。
巫女は見えない神の形であり、作られたすべてのものより先に生まれた方です。
をはっきりしたことをパウロは断言しているわけです。
来週からですね、教会はアドベントに入りますね。
そして12月20日はクリスマス礼拝です。
実はこの御言葉は、クリスマスと深い関係があるわけです。
この御言葉の意味はこういう意味です。
イエス様は、神様に見知っているというのは、何一つ神と欠けたところがないお方だと言います。
神として何一つ欠けたところがないお方だ。
神のような方ではなくて、神ご自身だ。
それがですね、この見知ったということなんですね。
そのお方が、人間となられた神様だ。
それがですね、ここの形を取って宿っているという言葉に現れています。
このようにしてイエス様は、人間となられたお方ですけれども、神様が完全に現れたお方であると言いますね。
この言葉、神学的に言う専門用語で何というか知っていますか。
ジュニークと言います。覚えていてください。ジュニーク。
神様が人となってこられた、ジュニークという言葉を覚えてください。
このジュニークについて、ある学者はこう解説しているんですね。
歴史において、体をもってこの地上を歩んだイエス様こそが、神聖を最も完全な形であらわすと言っているんです。
神聖という言葉を覚えてください。神の性質、神聖、神そのものである。
それを完全に現したのは、私たちと同じ歴史上存在してこの地を歩まれたイエス様こそ、
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そのイエス様の体にこそ、神の姿が完全な形で現れたということですね。
多分ここにいる皆さん、ほとんどの方、この絵が知っていますね。
未知との遭遇、未知との遭遇。
それはエイリアンでした。
未知との遭遇ならず、このジュニークの真理は、神との遭遇を可能にするという学者がいます。
この形をとって宿っているという言葉に込められた意味は、
私たちに神との遭遇しやすい状況を与えられたという、そういう意味です。
だから大切だということなんですね。
人はですね、いろんな不安から曖昧な神秘的なもの、あるいは神的なものにすがります。
真物にすがりながら、実体がわからない。
だから心もとないわけですよね。
けれども、私たちがイエス様に祈るときに、そのイエス様は曖昧な神のような存在ではありません。
私たちがイエス様に祈ることによって何をしているかそれは、
神ご自身にアクセスしている。
神との遭遇をそこで体験しているということなんです。
私たちの祈り、イエス様への祈りの意味には、礼拝には、
そういう神との遭遇を体験するという意味があります。
皆さん、よく日本で言われている役除けという言葉を聞いたことがありますよね。
役除け、それはですね、男性女性に役年というのがあるわけですね。
3回くらいあるんです。
男性だったら20代、40代、60代に3回あるんです。
その前後を前役、後役というわけですね。
3年間、悪い年だと言うんです。
何をするかというと、役除けの祈願をするんです。
だいたいちょっと調べたんですね。
祈祷料がだいたい5000円から1万円するんです。
だから、本当にそういうところにすがる方は、毎年5000円、1万円、3年間払って役割してもらうんじゃないでしょうかね。
あるいはちなみにですね、七五三の祈祷料、この間ちょっとあることがあって、
お寺に行ったら先週の週末、着飾った人がいたら何かと思ったら、七五三だったんですね。
七五三の祈祷料も、今ググればすぐ分かるんです。
だいたい5000円から2万円だそうです。
なんかこれビジネスとしてすごいなって思って、そんなのかと感心したんですけども。
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そういうことが日本で行われている、不安な人がいるわけですけども、
七五三別として不安な人がいる、あるいは幸せ祈願する人がいるけれども、
先ほどの学者の言葉をもう一度続きをしますと、彼はこういうことを言っているんですね。
失礼しました。
先ほどの続き。
ローマの8章28-29で、パウロはあらゆる可能性をすべて網羅している。
彼は人々の根拠のない不安な心に寄り添いつつ、
いかなる現実的な出来事や事態も、いかなる非造物も、
天に属すると言われるものでも、あるいは霊的存在と言われるどのようなものであっても、
キリストにある神の計画を阻止することはできないと伝えたのだということですね。
ちなみにこのパウロが言うローマの8章28-29で、
私はこう確信しています。
死も、命も、見つかりも、権威あるものも、今あるものも、後に来るものも、
力あるものも、高さも、深さも、その他のどんな非造物も、
私たちの主、キリストエースにある神の愛から私たちを引き離すことはできませんと言っている。
先ほどのこの言葉を解説するとですね、
私たちはいろんな、日本人として祈願したり役を受けする背景にはですね、
現実生活の中でいろんな出来事や事態で不幸な出来事が起こったり、
それが起こらないか不安になるわけです。
あるいはその得体の知れない霊的な呪いやたたりが不安になるわけです。
パウロはですね、別の聖書の箇所でですね、こう言っています。
唯一の神以外に神は存在しないと言っている。
だからそういう迷信というものはあるけれども、
そういうことを言われた者がどんなことがあったとしても、
イエス様にある神の愛と計画を私たちに対して阻止することができるものは何もないんだと言っているんですね。
だからその神ご自身であるイエス様に信頼して安心しなさいと、
パウロはこの際の人々に私たちに呼びかけているわけです。
何となく神的な存在に縋るのではなくて、
私たちははっきりとした神様であるイエス様によってですね、
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神ご自身と遭遇できるわけです。
そのイエス様は実体があるかないかわからないですけれども、
すべて霊的と言われる存在に勝るおかだなとパウロは言っているんですね。
どのような迷信も存在も神様の愛から私たちは引き離すことができない。
だからその確かさをよりどころとしなさいとパウロは言っているわけです。
私たちは曖昧な迷信ではなくて、
確かな本当の神様にイエス様にあって出会っているという、
その確かさがよりどころとなるわけです。
最後に、イエス様は神に満ちていましたが、
今度は私たちはイエス様にあって満たされているということです。
2章の10節でパウロはこう言っています。
あなた方はキリストにあって満たされているものです。
キリストはすべての支配と権威の頭です。
さっきも言いましたが、霊的と言われているものがあったとしても、
あるいはないかもしれないけれども、
イエス様はすべての支配と権威の頭だ、神そのものだと言いながら、
あなた方はキリストにあって満たされているとパウロは言っているわけです。
どういうことか。
私たちはイエス様を信じてクリスチャーになっても、
罪の問題が残ります。
自分自身に神の前に足りなさを感じる欠けが生じます。
しかし、私たちはイエス様にあってというのは、
イエス様を信じたらイエス様と結びつくのですね。
そのイエス様と結びついたゆえに、
神様の前で罪がない、完全なものとされているということですね。
以前お話しした、清められ続けていく聖火の質はありますけれども、
私たちはイエス様の十字架によって、神の前で完全な存在だということです。
パウロはトロサイネシオ22節で述べました。
今は神は巫女の肉の体において、しかもその死によって、
あなた方をご自分と和解させてくださいました。
それはあなた方を清く、きずなく、
避難されるところのないものとして見舞い立たせてくださるためでした。
イエス様の十字架の贖いによって、私たちは神様の前で
清く、きずなく、避難されるところのないものとなった。
それが私たちがイエス様と結び合わされて満たされた存在だ、
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満ち溢れている存在だということですね。
日本の宗族の話に戻りますけれども、
仏滅って何か改めて調べてみたんですね。
仏滅っていうのは、いわゆる六陽という六つの曜日の日取りのことです。
それはですね、仏さえも滅んでしまう、
すべてを物事を終わらせてしまうような災いの日で、
お祝いごとには向かないわけですね。
結婚式はその日を避ける。
もう一つ、ともびきという日があります。
私の小学校の恩師のお葬儀に行った後ですね、
中学生の頃でした。小学校の先生が亡くなってですね。
電車で帰り、何人かで帰ったら、
友達が怪談から怒ったんですね。
そしたら別の知り合いがですね、
今日ともびきだから先生に呼ばれたんじゃないかと言うわけです。
ともびきっていうのは、良くも悪くも友人が自分と同じことをする。
だからですね、ともびきの日にはお葬儀を避けるということがあるようです。
不幸にまつわる行事をともびきには避けるというあれは、
そういうところにあるそうですが、
まあこれらの考えは、
災いや報復という概念と、
私たちの恐れや願いで行き来して、
時に私たちを縛ることが、人々を縛ることがあります。
恐れに支配されることがないと見えません。
しかし、イエスさんを信じるとですね、
そういう日取りは心配しなくていいわけです。
気にしなくていいわけです。
なぜなら、もし私たちに呪いが降りかかることがあったとしてもですね、
神ご自身であるイエス様が、
神からの呪いを、罪の呪いを一手に引き受けて、
十字架で死んでくださったからなんですね。
ですから私たちはですね、イエス様と結ばれたら、
イエス様の幸いが私たちの幸いに結ばれていくわけです。
それだけではなくて、イエス様自身がですね、
呪いを身に受けて私たちを贖ってくださっただけではなくて、
イエス様は私たちを友と呼んでくださったんですね。
友べきで不幸なことが起こることを心配するとさっき言いましたが、
他でもない、神様ご自身のイエス様が、
私たちを友と呼んでくださったわけなんです。
だからイエス様を信じて、イエス様と結ばれた私たちは、
イエス様の幸いを自分の幸いとすることができるんですね。
ちなみにですね、先ほど分かりやすくするために、
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日本の種族の話をしました。
ヤクドシとかロクヨ。
でね、皆さんの周囲にそういうことを心配したり、
そういうことにですね、ゆえに役除けする人がいるかもしれませんが、
無限にそういうことを否定するってはありません。
そういうことを否定して品しく買うだけですからね。
でももし、そういうものが無駄だと思いながらやっている人とかですね、
そういうものを数に恐れている人がいたら、
そんなことを心配する必要はないんだと自信を持って言ってあげてください。
で、必要なら、このイエス様の救いや呪いからの解放ということを、
お話ししてあげることはできるかと思います。
まあ、そのような日本人として生きる意味の知恵を持ちながら、
しかし私たちは、そういう迷信にとらわれない、
確信を持った生き方ができるということです。
最後にこのイエス様の約束の見事を二つ読んで、
終わりにしたいと思います。
前に掲げました、ガラティア3章13節。
キリストは、私たちのために呪われたものとなって、
私たちを立法の呪いからあがない出してくださいました。
なぜなら、既にかけられるものは、
すべて呪われたものであると書いてあるからです。
これはまあ、旧約聖書の立法を全部守れないものには、
罪の呪いが降りかかるという昔の言い伝えを
言ったものですけれども、そうじゃない。
罪ないイエス様が、木に十字架の上で神に、
その呪いを身代となって受けてですね、
私たちを解放してくださったから、
私たちは呪いから自由だという、そういう意味があります。
最後に、ヨハネの15章の13から15節。
イエス様の御言葉です。
弟子たちへの御言葉です。
人がその友のために命を捨てるという、
これよりも大きな愛は誰も持っていません。
私があなた方に命じることを、あなた方が行うなら、
互いに愛し合いなさいということですけれども、
あなた方は私の友です。
私はもはやあなた方をしもべとは呼びません。
しもべは主人のすることを知らないからです。
私はあなた方を友と呼びました。
なぜなら父から、父なら神から聞いたこと、
その御言葉を皆、あなた方に知らせたからです。
このような誠の神であるイエス様を知っている幸いはですね、
27:00
私たちは日々の生活を通し、生涯確立し、
イエス様の道を歩んでいくお互いでありたいと思います。
しばらくお祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
イエス様は誠の神であられ、
神と寸分違わず、神御自身として導したお方でした。
そのイエス様はこの地上を歩まれ、
私たちの罪をその身に負ってくださり、
私たちを罪の呪いから解放してくださったことを感謝いたします。
今イエス様を信じ、誠の神を知っている私たちが、
そのイエス様と共に歩んでいくことができるように、
その幸いをさらに知ることができるように、どうか導いてください。
メカワクは弱い私たちを通して、
言い知れない不安や迷信に縛られている方々がいるならば、
それらの方々をあなたの元へとお連れすることができるよう、
私たちをも用いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それではいつものようにしばらく祈りましょう。
神ご自身であるイエス様と共におられること、
またその神ご自身であるイエス様にお祈りできる、
その幸いを覚えながらしばらく黙祷してください。