2022-02-13 24:07

#93 22/2/13 平安と朽ちぬ愛

エペソ-24からの礼拝説教。2022年2月16日録音。今日朗読した箇所はエペソ人への手紙の最後の区分です。ここにはクリスチャンの3つの大事な特質の「信仰と平安と愛」が語られています。パウロは手紙を締めくくるにあたり、信仰と平安と愛がエペソの教会の人々に神より授けられますようにと祈っています。また、それらがクリスチャンの中で実践されますようにと祈っています。

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エペソビットへの手紙、6章21-24 私の様子や、私が何をしているかを、あなた方にも分かってもらうために、愛する兄弟、主にある忠実な奉仕者である、テキコが全てを知らせます。
テキコを、あなた方のもとに使わすのは、他でもなく、あなた方が、私たちの様子を知って、心に励ましを受けるためです。
信仰に伴う平安と愛が、父なる神と主イエスキリストから、兄弟たちにありますように、朽ちることのない愛をもって、私たちの主イエスキリストを愛する全ての人とともに、恵みがありますように。
以上です。
今日はこのところから、平安と朽ちぬ愛と題して、御言葉を取り継ぎます。
おはようございます。
礼拝で朗読し、説教を行ってきたエペソビットの手紙、今日で最後です。
前にも少し申し上げましたが、今のトルコにあたるアジアの教会に、おそらくエペソの教会を代表として、このエペソビットの手紙は開覧されたのではないかと言われています。
この双子の手紙であるコロサイビットの手紙というのが、まさにコロサイ宛に書かれて、コロサイにラゴデキアから回ってくる手紙を読んでくださいというのが、このエペソの手紙でした。
そしてもう一つ、コロサイの教会院で盗みを働いて逃げたオネシモという奴隷を許すために、ピレモンへの手紙、コロサイ教会の奴隷の主人ピレモンに書いたピレモンへの手紙という、この三つの手紙がセットになって考えられています。
実はこの手紙を運んだのが、今日のところ出てくるテキコという人です。
今日はそのテキコについても大事なんですが学びません。
手元にレジュメを復習の意味で配りましたが、去年の3月14日、およそ1年前にコロサイ3-14から17節から、手紙とテキコとオネシモというのに語ってありますので、そこからテキコについて復習してもらえればと思います。
また前後しますが、今日は大事なクリスチャンの言葉から学ぶのですが、恵みという言葉は取り上げません。
それも去年の6月13日、ピレモンの手紙の中から、23から25節から、恵みとはというのを語りました。
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この両方の説教のレジュメを今日配布しますし、リンクを貼ってメールもします。
また音源はその当日のものを探っていただければ、その説教の音源にたどり着きますので、音声配信のところから聞いてみて復習してみてください。
その上で、今日は信仰と平安と愛というパウロの23・24節の言葉を中心に学びますが、その中でも特に平安と愛について詳しく見ていきます。
この信仰と平安と愛というのは、キリスト教のパウロの手紙の本質を表す大事な3つの言葉です。
これらのものがありますように、特に平安がありますようにというのは、シャロームという言葉でも知られているように普通の挨拶で使われていました。
そして、このエピソディスの手紙をはじめとするパウロ書簡では、平安がありますようにというのは、手紙の最初と締めくくりにほとんど全て書かれています。
ある面、定型語なんですけれども、大事な意味を込めてパウロを語っていますので、そのことを今日まず取り上げていきます。
その後、愛について2つ取り上げていきますので、3つのことを平安と愛ということから学んでいきましょう。
まず最初のポイントですね。平安と愛。平安とは神との平和、人との平和であるということです。
読める方は6章23節をちょっと読んでみましょうか。
信仰に伴う平安と愛が、父なる神と主イエスキリストから兄弟たちにありますように。
この平安、平安がありますようにということをパウロは祈っています。
実は平和と平安というのは、元の言葉では同じエイレーネという言葉、訳すときに書いています。
英語でもピースと言ってほぼ同じ意味で使われます。
先ほども言いましたけれども、大前提として平和、平安というのは、私たちが神様とこの平和の関係を持っている、
私たちと神様との関係はもう平和であるということが大前提なんです。
どういうことか。
私がもう30年以上前ですけれども、バブテスマを受けてすぐ、
アルバイト先の同じ年の男性の仲良い方に聞いたんですね。
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俺クリスチャンになったんだよ。どう思う?って言ったら、
え、俺なんかクリスチャンになったら地獄に行くよ。
矛盾したことに、クリスチャンになって俺は地獄に行くよ。
これはですね、ある面、日本人のなんとなく分かっている神観、広がっている神観と関係しているんですけれども、
まず、なんとなく自分は神の前で罪がある存在。
そしてその聖なる神の前に出たら、自分は地獄に行ってしまう。
そのことをなんとなく分かっている日本人らしい答えだなと今でも思い出すんですね。
実はですね、ある面当たっているのは、神様は罪を放っておかないで正しく裁くお方だということ。
それはイメージ通りなんです。
でも、ある方が言うには、日本人の神観は閻魔大王と変わらないという方もいたんですけれども、
違うイメージはですね、神様というのは、
罪人を救うことを望んでおられる、あまりに深い神様だということなんですね。
私たち、さっきの友達のように、あるいは皆さんもしかしたら自覚しているかもしれませんが、
罪を改めることができない。
ついつい悪い言葉が口から出ちゃうとかですね、いろいろあるかもしれません。
そんな自分であったとしてもですね、たとえ行いを改めることができなくても、
信じるだけで私たちは救われる。それが福音です。
実はそのことをパウルはエピソディティの手紙の中で言っていますね。
まず、神の怒りについて2章3節、前にも掲示して、前にも掲げましたが、
私たちも皆、ギリシャ人もイホウ人もユダヤ人も皆、不従順の虎の中にあって、
かつては自分たちの肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、
他の人たちのように、同じように、生まれながら神の御怒りを受ければいい、これでした、と言っているんです。
だけども、先ほども言いましたが、ひるがえって、その後の8節、9節、2章8節、9節で、
パウルはこう言っています。ちょっと読める方、前の見方を読んでみましょう。
この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。
それは、あなた方から出たことではなく、神の賜物です。
おこないのではありません。誰も誇ることのないためです。
はっきり書いてありますね。おこないがいいから救われたんじゃないよ。
神の恵みがあって、だから信じることによって救われたんです。
この神の怒りの後にすぐ、パウルはそう述べているわけです。
ですから、このさっき読んだ6章23節の言葉のように、
信仰により救われた私たちは、神との平和を持つことができたわけです。
前にも見ましたが、クリスチャン生活は霊の戦いだ。
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その敵の戦略の一つには、私たちの変えられない部分を指摘したり、
この世の基準で私たちの行動が、この世の基準から逸脱してしまっている。
そういう時に、お前は神の前で価値ない人間だ。許されない。
そういう悪い思いを吹き込むという悪魔の日夜がありましたね。
また、当然私たちが暮らしている社会一般では、
行動の良し悪しによって私たちを判断するわけです。
それは犯罪とかもちろんいけません。
でも、何らかの基準の中で私たちの行動の良し悪しによって判断されて、
それが給料の査定に響いたりとか、学校の成績に響いたりするわけです。
そして私たち、先ほども言いましたが、
そんな基準で、あるいはもしかしたらクリスチャンであれば、
精神の高い基準で自分を裁いて、自分を責め立てることがあるわけです。
だからこそ私たちは、檻に触れて、生涯をかけて、
神様との平和を確認する必要があるんです。
だから、信仰による神の平安がいつまでもありますようにとパウロが祈ったわけなんですね。
そんな中で、パウロの強いこのような宣言も覚えておきましょう。
ローマの5章1節です。
読める方は前の御言葉を読んでみましょうか。
私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエスキリストによって神との平和を持っています。
信仰によって義と認められたから、神との平和を持っている。
檻に触れて、このことを生涯かけて、私たちは確認していく。
神の平和とともに、私たちは生きていくわけなんです。
その上で、このように神様との平和を得た私たちは、
パウロがまず、クリスチャン同士でお互いの違いを乗り越えて、平和を実現する関係を求めなさいと言っていますね。
今日引用が多くなります。見言葉引用が多くなりますけど、
エペソの4章2節から3節でこう言っています。
謙遜と入話の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
平和の絆で結ばれて、御霊の一致を熱心に保ちなさい。
神との平和を体験する私たちは、人との間もとぐりまく。
エペソの教会では、ユダヤ人と理法人がぶつかったこともあったんですけど、
平和の一致を保つ。それがまた外の関係にも波及していくということを求められているわけです。
12:00
2番目、愛がありますように。
6章23節の言葉、信仰に伴う平安と愛が、
父なる神と主イエスキリストから兄弟姉妹たちにありますように。
説明しない大前提を皆さんわかっていますけど、
平安と愛は、まさに神様、父なる神とイエス様から来るんですね。
それはそれとしまして、
ここでですね、この1番でお話したように、
神様は私たちに信仰による救いの道を備えてくださったんですね。
行いではない。なぜそれができたか。
その最大の理由は、神様の愛にあるわけです。
神の愛が先に、先にじてあるからでした。
先ほど、エペソ2章3節、
生まれながら神の怒りに預かるものだと後に続けて、
パウルがすぐこう述べているんですね。
4節、5節、前にも提示していますが、
しかし、生まれながら身怒りを受ける私たちだったけれども、
しかし、哀れみ豊かな神は、
その大きな愛のゆえに、
背きの中で死んでいた私たちを、
キリストと共に生かしてくださいました。
あなた方が救われたのは、この恵みによるのです。
しかし、大きな逆説です。
さらに何度も繰り返しますけれども、
ただの愛じゃないんです。
哀れみ豊かな神の大きな愛があった。
大きなチョコレートじゃないですけどね、
明日はバレンタインデーですけど。
大きな愛、大きなチョコレート。
明日はバレンタインデーなんですけれども、
その由来はいろいろあるそうです。
一番ルフしている由来というのはこういう由来です。
紀元後3世紀ですね。
220年くらいのローマの皇帝がですね、
このローマの皇帝、
クラウディウスという人がいたんです。
兵隊たちがこの戦場に行った時にですね、
自分の故郷に奥さんがいたり、子供がいると、
戦争の四季に影響するから、
結婚しちゃいけない。
兵隊は結婚するなという決まりを作ったそうです。
それで、その当時のキリスト教の祭司であった、
いわゆるバレンタインがですね、
秘密にですね、結婚式を取り行ってあげてたそうです。
15:00
バレンタインといってもロッテの昔の感覚じゃないですよ。
なんかあの、この間ラジオで言ってましたけどね、
日本と違ってアメリカのようにですね、
ある日本人の男の子がロッテファンの女の子にですね、
バレンタインデーに当時のロッテのバレンタイン監督の顔が
いっぱい付いた写真を貼り付けてですね、
プレゼントしたら泣いちゃったって感動して、
しかもなんか職場で付き合ってたみたいなんで、
職場でそれをプレゼントしたらそのバレンタインの顔を見たですね、
彼女が大泣きしてしまってですね、
なんとか職場の上司に怒られたっていう、
そんな話が聞きましたけれども、
さておきまして、このバレンタインはですね、
秘密にやってたのが皇帝にバレてやめろって言われたんですけど、
やめなかったんですって。
そしたら殉教皇帝に殺されたって、
そういうまあ言い伝えがあるわけです。
ただまあこれはですね、
言い伝えでローマのカトリックではそんな話なかった、
バレンタインっていうのはどうだったかって言って、
別に彼を聖人にしたりですね、
祝日にはしてないってことは付け加えておきますが、
まあそういう愛のために命を懸けた、
先祖バレンタインにしなんだバレンタインデーだったわけですけれども、
このですね、先ほども言いましたけれども、
バレンタインデーはアメリカでは、
私が30年くらいアメリカにいたとき、
バレンタインのときにいましたけれども、
男性が女性にプレゼントしてやる。
最近はいわゆるトモチョコといってね、
女性同士があげたりということを主流で、
いわゆるギリチョコがもうなくなってきた。
ギリチョコって本当ギリなんですよ。
本当のプレゼントというのは、
相手への真愛の印ですよね。
もっと理想的なのは、
自分が相手に愛してもらったからこそ、
それにお返しするギフトというのが素晴らしいです。
そのときにですね、相手の愛に応えて、
相手が驚くようなプレゼントをあげたら素晴らしいですよね。
こんなの、私の愛に応えてこんな素晴らしいものをくれたんですか、
というところに感動があるようですけれども、
実は、私たち神を愛する者に対して、
神様がプレゼントしてくださった愛というのは、
思いもよらないものだとパウロは言っているんです。
十字架というのは恥の印で、
人々がイエス様、
この神の愛の印であるイエス様を受け入れなかったから、
イエス様を十字架にかけるという、
愚かな行為をしてしまったとパウロは言います。
でもこの人間的に神の愛を拒んだ愚かな行為、
十字架の死がひるがえて、
逆転の愛の大きな奇跡になったとパウロは言っているんですね。
そのことを第一コリント二章九節で、
パウロはこう表現しているんですね。
しかし、人々が愚かにもイエス様を十字架につけてしまった、
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このことは、ここを読んでみましょうか。
目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、
人の心に思い浮かんだことがないものを、
神は神を愛する者たちに備えてくださったと書いてある通りでした。
まさに神の呪いとして人々が神の愛を知り続けた十字架、
それが救いの技であり、それこそ神の大きな愛の記した、
そして神を愛する者への神様の思いもよらないプレゼントだとパウロは言っているわけですね。
この私たちも生涯をかけて神様の大きな愛を知り続けていく、体験していく、
それが共にあるようにパウロは祈っているわけです。
最後、3番目。
朽ちることのない愛。
6章24節締めくりの御言葉。
これちょっとまた読める方、前の御言葉を読んでみましょう。
朽ちることのない愛をもって、私たちの主イエス・キリストを愛する全ての人とともに恵みがありますように。
全ての人、エペソーをはじめ、手紙を読む全ての人とともに、神の恵みがありますように。
それはどんな人ですか?
それは、朽ちることのない愛をもって、私たちの主イエスを愛する人。
実はですね、この朽ちることのない愛というのが非常に珍しい表現だそうです。
この締めくりとして。
で、この朽ちない愛というのはですね、不死の死なないとか腐らない。
よく森なんかに行くとね、カブトムシとかの幼虫がいるオガクズとかっていうのはね、木が腐ったやつですけども腐らない。
死んでも腐らない。
英語でインモータルってよく言われているキリスト教の言葉です。
復活の体や命を表す、朽ちないという言葉なんです。
で、ここにはですね、復活の命や体を意味するということも込められているんですけども、
朽ちることのない愛をもって、主を愛する人はどんな人ですか?
どういうことですか?というとですね、
これはクリスチャンが朽ちない永遠の命を望みとしているという、そういう思いが込められているんです。
もう一つは、4章から6章で、主に召された者としてふさわしい愛をしなさいという高潔な道徳について語られているんですけども、
その通りに生きたい、すなわち純粋な愛でイエス様に従いたい、
そういう願いをですね、この朽ちない愛という一言で表しているというのです。
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朽ちない愛で表すというのは、永遠の命の望みと、純粋な愛でイエスに従いたいという願いが表れた言葉だというですね。
で、そのことを特に後半の部分をまとめて、ある学者がこういう風に言っているんですね。
キリスト社の品性を全うする最も高潔で朽ちることのないものは愛である。
なくなることがない最も大切な品性は何ですか?
すべての高潔な道徳を貫くものは何ですか?それは愛であると言っているんですね。
で、実はこのこと、皆さんも有名な御言葉を思い出したと思いますけども、
パオロはこのように愛の書の中で述べているわけですね。
第1コリント13章の中です。8節と13節を抜粋しました。
ちょっと難しいですけども、最後に読んでみましょう。
せーの。
愛は決して耐えることがありません。
予言なら捨たれます。
異言ならやみます。
知識なら捨たれます。
いつまでも残るのは信仰と希望と愛。
これら三つです。
その中で一番優れているのは愛です。
パオロはこのように手紙を締めくりました。
私たちも朽ちない愛で死を愛し、命の望みを生きていきたい。
そしてその愛を全うし、神の平安を知っていく、また証していくお互いでありたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆お賛美いたします。
しばらくにわたってエブソビトの手紙から学び、今日はその終わりの御言葉です。
まさに手紙を貫くように壮大なあなたの愛、あなたの選び、平安、また恵みの祝福の手紙でした。
それを知り尽くすことは私たちには到底できません。
どうぞ私たちがそのあなたの人生を遥かに超えたイエス様の愛を知ることができますように、
また私たちのうちに働く思いや願いを遥かに超えたあなたの優れた力を知ることができますように、
こうしてあなたの愛と平安、また恵みの地をあなたを信頼して歩んでいくお互いでありますように、
言い尽くせない思いをあなたにお依頼して、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは1分ほど主にお答えして祈る時間を持ちましょう。
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