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ルカ二十三章三十九節から四十三節をお読みします。
十字架に掛けられていた犯罪人の一人は、イエスを罵り、
お前はキリストではないか、自分と俺たちを救えと言った。
すると、もう一人が彼をたしなめて言った。
お前は神を恐れないのか、お前も同じ刑罰を受けているではないか。
俺たちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。
だがこの方は、悪いことを何もしていない。
そして言った。
イエス様、あなたが御国に入られる時には、私を思い出してください。
イエスは彼に言われた。
誠にあなたに言います。
あなたは今日、私と共にパラダイスにいます。
以上です。
今日はこのところから
罪の身代わりとしてと題して、御言葉を取り継ぎます。
皆様、改めましておはようございます。
あいにくも少し
小雨の中ですけれども、
皆さんとともに、久しぶりに1月10日以来ですね、
礼拝が持てますことを本当に感謝しています。
緊急事態宣言が出されていて、
外出も回らない中ですから、なかなか季節感がない中、過ごしてきました。
しかしですね、この埼玉県新座市近辺でも桜が満開になりましたね。
そういうところから、春の訪れを知ることができます。
そして、来週4月4日の日曜日はイースターの日曜日です。
食事会などしませんが、礼拝でイースターをお祝いしたいと思いますが、
その前の今日からの週は、受難週ですね。
そして、この受難週はイエス様の受難を覚え、十字架を覚え、
また復活を覚えていく時期ですので、
今日はですね、このルカの福音書から、イエス様の受難に触れていきます。
先週の礼拝、パウロの殺さえびての手紙の最後の部分の挨拶で、
ルカから、愛する医者ルカがよろしく伝えていますということで、
先週ちょうど見たんですね。
そのルカが書いた、医者ルカが書いた福音書から学んでいきますが、
彼はですね、先週も言いましたが、おそらくパウロが殉教した時に一緒にいた、
もしかしたらただ一人の信仰の友だったようです。
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そのパウロの死に寄り添ったであろうルカがですね、
今イエス様の死をこのように伝えているわけです。
そして彼はですね、その緻密な筆使いから、
イエス様が罪がない救い主だったということを丁寧にここで証言しているわけです。
罪なきイエス様が私たちの罪のお見代わりとして死んだということをここに記していますが、
私たちはですね、その神様がルカを通して知らせたい福音を、
今日はですね、割と聖書の箇所を丁寧に見ながら追っていきます。
なぜか、聖書を丁寧に読むとですね、新たな発見があったり、
割と深く神様と出会うというようなことがあります。
そのような喜びや幸いを皆さんにも知っていただきたい、
願わくは家に帰ってもですね、聖書を日々読んでほしいということもあって、
ルカの23章を中心に今日の説教の箇所をたどっていきます。
今日の説教では聖書をたどります。
3つの点から話しますが、3つのカギとなる人物たちとの出会いですが、
まず最初は聖徳ピラト。ピラトがイエス様の無罪性を訴えたということです。
ちょっと例が大きくなりますけども、ローマ聖徳のピラト。
そもそもですね、イエス様を十字架につけるように訴えたのはユダヤの指導者たちでした。
パリサエビトやサイシチョウと出てきます。
しかし彼らには死刑にする権威がなかったので、
十字架にあったローマの聖徳にイエス様を死刑にするように訴えていたんですね。
このピラトというのはローマの皇帝アウブストから直接任命されて、
イエス様、ユダヤの地方の聖徳に任命されていたわけです。
ユダヤという族種に彼は赴任していたわけですね。
おそらく西暦26年から36年の間、この10年間、歴史的事実としてピラトはここに統治していたわけです。
そして彼は裁判官の役面をありましたから、彼の口を通して
ルカは、聖書はイエス様の無罪性を詳しく証言しているわけです。
このユダヤの指導者たちの声を聞いて、まずピラトは4節でこう言っています。
ちょっと小さい声でも読めるかと読んでみましょう。
ピラトはサイシチョウたちや群衆に、この人には訴える理由が何も見つからないと言った。
サイシチョウというのはユダヤの指導者ですね。
ユダヤの群衆に訴える理由が何もないと言ったんですね。
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そしてイエス様がガリダヤ湖周辺、ガリダヤ地方で活躍していたということを知ると、
その当時の王であったヘロデの下にイエス様を押し返したわけですね。
そしてヘロデもですね、このように
兵士たちと共にですね、茨の冠をかぶせたりして、イエス様をからかい、周辺を虐待したんです。
けれどもそのヘロデでさえイエス様に罪が見当たらないと言って、もう一回総督ピラトの下に押し返したわけです。
そのやりとりを含めてピラトは続けてこう証言しています。
ルカの23章の13節から15節ですね。
こちらに書いてあります。
ピラトは最首長たちと議員たち、これはユダヤのサンヘドリンという71人からなる議員たち、
そして民衆、訴えているユダヤの民衆を呼び集めてこう言った。
お前たちはこの人を民衆を惑わす者として私のところに連れてきた。
私がお前たちの前で取り調べたところ、お前たちが訴えているような罪は、
何も見つからなかった。
ヘロデも同様だった。
私たちにこの人を送り返してきたんだから。
こうやってですね、
はっきりとイエス様の無罪性が2回目語られている。
そして彼はですね、
次のような判決を下したんですね。
15節と16節続けて書いてあります。
読める方は読んでみましょうか。
みなさい、この人は死に値することは何もしていない。
だから私は無知で懲らしめた上で釈放する。
こう彼は一つの判決を下しました。
死に値することは何もしていないと言っているわけですね。
しかし当時のユダヤの指導者たちと人々はですね、
イエス様を十字架にかけるために、
バラバという男を解放するようにピラトに要求したんです。
それに反してピラトは
イエス様を釈放しようとしたことが、こう記録されているわけですね。
こうやってピラトは群衆の前でイエス様の無罪性を訴えるわけです。
彼はですね、
このような
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イエス様の無罪性を強調して、一種の妥協案を
提案するんです。
彼らの気持ちを沈めようとした。
ピラトは
彼らに三度目に言った。
ここだけ読んでみましょう。
この人がどんな悪いことをしたというのか、
彼には死に値する罪が何も見つからなかった。
ここでもまた言っています。
三回目です。
そして妥協案ですね。だから私は
無知で懲らしめた上で
釈放すると。
こう妥協案を
宣言するわけです。
その後このルカノフ禁書を続けて読んでいくと、
何度も何度もイエス様を死刑にするこの訴える声が
繰り返し響いてくるんですね。
そしてこの
ローマ皇帝に直接任命されたピラトが
イエス様の無罪性を訴え死刑を認めなかった。
そうではなくてあくまでも訴えるユダヤ人たちが
イエス様を十字架にかけるように
勝手な要求をしてそれを
ピラトが
飲まざるを得なかった点が
強調されています。
それがですね、続き23、24節です。
読んでいますね。
けれども彼らはイエスを十字架につけるように
しつこく大声で
要求し続けた。
そしてその声がいよいよ強くなっていった。
それでピラトは
彼らの要求通りにすることに決めた。
ここに書いてあるわけです。
なぜでしょう?
おそらくですね
ローマの皇帝から
ピラトは
任命されていましたけど
ここで
イエス様を釈放して
暴動が起こるとですね
ピラトには
統治能力がないと言って
皇帝から首を切られる。
そういう恐れがあって
ピラトは十字架につけろという欲求を
のまざるを得なかったわけです。
そして
旧約聖書の立法から言えばですね
本来人を殺した
バラバが死刑にならなければいけなかった。
そしてイエス様が無罪であったのに
十字架にかけられたということ
そのことが強調されています。
失礼しました。
こうやってイエス様は
39回の無知を
討たれたわけですね。
そして
イエス様の身代わりに釈放した人間について
こう言っています。
すなわち
暴動と人殺しの過度で
牢に入られていた男を
願い通りに釈放した方イエスを
彼らに引き渡して好きなようにさせた。
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先ほども言いましたが
これはユダヤ教の
教約聖書の立法では
まさに死刑です。
そういうものが釈放されてその代わりに
イエス様が
渡された。
この引き渡すというのは
ギリシャ語のパラディドマイという言葉で
生産式の時に言いますね。
イエスが渡される夜
感謝を捧げてのチパンを咲きというこの渡されるというのは
特別なそういう
イエス様を渡したという特別な言葉です。
このような一連のやり取りからも
イエス様が罪なき救い主として
その身に罪を負ったということが
浮き彫りになっているわけですね。
皆さんどうでしょう。
なぜイエス様は救い主ですかと聞かれた時に
なんとなく聞いているからと思うかもしれません。
なんとなく身代わりになった
と信じているかもしれません。でも
聖書はこうやって明確に
救い主イエス様に罪がなかったということ
そのことを証言しているんです。だから
聖書にこう証言されているように
イエス様は罪なく
身代わりの死を成し遂げたと
ルカの福音書から私たちは
いうことができるわけですね。
このように聖書を居所する時私たちの
救いの確信も
強まるわけです。
今ピラととのやり取りです。
二人目二組目
十字架の上の犯罪人とイエス様のやり取りです。
イエス様の十字架系が執行された丘の名前は
わかりますよね。
ゴルゴダの丘。ゴルゴ13の由来になったゴルゴダの丘。
そして今賛美歌で歌ったカルバリの丘です。
その違いわかります?カルバリとゴルゴダ。
同じ
ドクロという意味です。カルバリというのはローマの公用語のラテン語でカルバリをドクロと言いました。
そしてゴルゴダというのはヘブライ語でやはりドクロ。
この死刑状の岩がですね
骸骨の頭の部分に似ているからゴルゴダ、骸骨の丘と言われていました。
その上でイエス様は
二人の犯罪人の間に挟まれて
死刑を執行
受けたわけですね。
である学者に言えばこの
二人の犯罪人は強盗か殺人者かあるいは
今で言えば
テロリスト。
ローマに暴力的に反逆し人を殺したかもしれない。
テロリストだった。
とそういうことを言う学者もいます。
でそのうちの一人が十字架の上でイエス様を罵ったわけですね。
お前がキリストなら
お前と俺を救えと言ったわけです。
それに対して
もう一人の
この犯罪人が
イエス様の無罪性を
証言し自分の罪を認めます。
二十三章四十から四十一節
15:00
失礼します。こうやって三人十字が掛けられたわけですね。
この強盗の証言。
するともう一人が
彼を確かめていった。
読める方
小さい声でもいいので読んでみましょう。
お前は神を恐れないのか
お前も同じ刑罰を受けているのではないか
俺たちは自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前
だ。
だがこの方は悪いことを何もしていない。
ここでもはっきりと
このもう一人の犯罪人は自分の罪を認めて当たり前の
十字架の刑を
報いとして受けていると言っています。しかし
この方は悪いことは
何もしていないと言っている。
証言しているわけですね。
そしてそこで
あの劇的なこの二人のやりとりイエス様とのやりとりが
綴られていますね。
私この箇所
とても好きですが
続けて犯罪人は言います。
そして言った
イエス様
あなたが御国に入られるときには
私を思い出してください。
イエスは彼に言われた
読んでみましょう。
誠にあなたに言います。
あなたは今
あなたは今日
私と共にパラダイスにいます。
この死の間際からイエス様に救いを求めた
この男は
イエス様によって文字通り救われました。
テロリストさえ言われたこの男が
救われました。
イエス様はですねこの
最悪な罪人と思われるような
この人間と共にいて
その罪を担われました。
ある学者に合わせればイエス様はたった一人で死んだ。
十二弟子もいた。
ペテロも
勇ましいことを言ったが
弟子たちはみんなイエス様を見捨てて
イエス様が命を落とした時
唯一彼の側にいたのは
酷い犯罪人だったと
言っているんですね。
しかし
その中で
最悪な罪人と共にいて
それだけじゃないその罪を担われて
苦しみのただ中にあったとしても
パラダイスにいる楽園にいると
イエス様は
宣言してくださる。
そんな救い主です。
それはどういうことでしょうか。
私たちにどんな意味があるんでしょうか。
それはたとえ私たちが
私を、自分を最悪な罪人だと思っても
イエス様は私たちの罪を担って
許してくださるお方です。
私たちが
こんなに苦しい状況はなく一人ぼっちだと思っても
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そこにイエス様は
共にいてくださって
十字架の上と思えるような
悲惨な状況でさえも
イエス様が共にいてパラダイスだと
私が一緒にいるからそこはパラダイスだと
約束してくださる。
そこは天国だと約束してくださる。
そういう救い主だということなんですね。
受難所にそのことを改めて覚えていきましょう。
最後
簡単に触れますが3人目の証言者それは
百人大帳です。
ピラトも違法人であり百人大帳も違法人つまり
神の民ではありませんでした。
イエスを訴える神の民ユダヤ人からすれば
下げ積まれる神から最も遠い
軍人の違法人
その百人大帳
彼はイエス様の十字架の足元にいて
イエス様が息を引き取ったその後
こう告白していますね。
こちらを見てください。
百人大帳は
この出来事を見て
神を褒めたたえ
読んでみましょう。
本当にこの方は正しい人であったと言った。
このような
見事な
信仰告白をしているわけです。
この3種類の人たち
そのやりとりを見て
言葉を見て私たちは
イエス様が罪なきお方だということを
改めて聖書から知ることができます。
そして私たちの罪を担われたお方だということを
知ることができます。
この今日から始まる十何首
どうぞこの
聖書の御言葉を通して
もう一度改めて
イエス様のお苦しみを
丁寧にたどってみてはいかがでしょうか。
十字架で私たちの罪を祈って死んでくださった
罪なきイエス様のことを
この十何首
ルカの福音書様々な福音書をたどりながら
もう一度
確認して過ごしてはいかがでしょうか。
そのために日々
聖書に触れてはどうでしょうか。
そのような聖書の中でイエス様を
見つけていく中で
私たちは神様の御心を知りますね。
そして神様の御心を知るときに
先週見ました
私たちは
信仰に固く立って
神様によって信仰の成熟へと
導かれていくわけです。
そのようなイエス様の十字架における
神の御心を知っていく
そのような十何首で
あれば幸いです。
それでは最後に
パウロが
私たちが学んでいる
コロサイビテの手紙の中で
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宣言している
イエス様の十字架の食材について
ともに朗読して
説教を終わりたいと思います。
コロサイビテの手紙の2章13節から14節
そむきのうちにあり
肉のかつれいがなく
死んだものであったあなた方を
神は
キリストとともに
生かしてくださいました
読んでみましょう3回
私たちのすべてのそむきをゆるし
私たちに不利な
さまざまな規定で私たちを責め立てている
歳無称称を無効にし
それを十字架に釘付けにして
取り除いてくださいました
コロサイビテの手紙の2章の13節です。
お祈りしましょう
天の神様
皆を賛美いたします
福音記者ルカの
手を通し
私たちは
イエス様の十字架の足跡を
たどることができました
イエス様は
本当に罪がないお方であり
そして
強盗や犯罪人
人殺しの罪を担って
十字架で死んでくださいました
私たちのその罪を
十字架であなたが担ってくださり
私たちが
どんな状況に仲になっても
罪を許し
共にいてくださると
約束してくださりありがとうございます
どうぞこの受難集に私たちが
このイエス様の十字架の足跡を覚えながら
このイエス様の
福音を
さらに深く味わい
我が者として知ることができるように
どうか導いてください
この願いと感謝を
私たちの救い主
主イエス様のお名前によってお祈りします
アーメン
それではしばらくその場で黙祷しましょう
献金の時間ありませんが
神様に
御言葉に応答する時間をしばし
持ってください