2021-04-04 28:41

#49 21/4/4 /十字架から復活へ

ルカによる福音書24:1-12を朗読。コロナ禍に限らず私たちは無力さ故の苦しみや死を体験します。その極みがキリストの十字架であり、復活はその先にある望みです。この希望について、イエス様の2つの十字架の言葉と復活に至るイースターメッセージの3点から学びましょう、(4/4 13-18時の間音源が違っていましたので修正しました)
00:19
新約聖書、ルカの福音書、24章1節から12節、 イエス様の復活の出来事の箇所から朗読します。
週の初めの日の明け方早く、 彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。
見ると石が、 墓から脇に転がされていた。
そこで中に入ると、シュー、イエスの体は見当たらなかった。 そのため途方に暮れていると、見よ、眩いばかりの衣を着た人が二人近くに来た。
彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。 すると、その人たちはこう言った。
あなた方はどうして生きている方を死人の中に探すのですか。 ここにはおられません。
よみがえられたのです。 まだガリラ屋におられた頃、主がお話になったことを思い出しなさい。
人の子は必ず積み人たちの手に引き渡され、 十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。
彼女たちはイエスの言葉を思い出した。 そして墓から戻って、十一人と他の人たち全員にこれらのことをすべて報告した。
それはマクダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、 そして彼女たちと共にいた他の女たちであった。
彼女たちはこれらのことを人たちに話したが、 この話は戯言のように思えたので、人たちは彼女たちを信じなかった。
しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。 そしてかがんで覗き込むと、
天布だけが見えた。 それでこの出来事に驚きながら、自分のところに帰った。
以上です。 今日はこのところから十字架から復活へと題して御言葉を取り継ぎます。
皆さん改めましておはようございます。 そしてイースターおめでとうございます。
コロナ禍の中で迎える2度目のイースターですね。 そしてなかなかなんて言うんでしょうか、食事会などもないですし、
いろんな事情で礼拝につながる方もいまして、 静かなイースターの朝となりました。
その中ですけれども、改めましてこのイースターの素晴らしさ、 そして実は先週少しお話ししましたけれども、イエス様の十字架を振り返りながらですね、
03:11
私たちの罪の許しとともに、 またそこから見えてくるイエス様の復活の素晴らしさを見ていきましょう。
3つの点。 最初に十字架から2つの点。
特にイエス様の2つの十字架の言葉を中心に2つの点。 そして3つ目に復活について、
今度はペテロの宣言から、この3点からともに学んでいきましょう。 まず第1の点。
何をしているかわからない私たち、というところです。 注目する御言葉、イエス様の十字架の上の叫び声はこちらです。ご覧ください。
ルカの23章33から34節です。 ちょっと読める方は抵抗があるかもしれませんが、小さい声でもいいですので一緒に。
途中から一緒に読んでみましょう。まず私読みます。 ドクロと呼ばれている場所に来ると、
そこで彼らはイエスを十字架につけた。 また犯罪人たちを一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
その時イエスはこう言われた。一緒に読みましょうか。3、はい。 父よ、彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです。
このイエス様の十字架での取りなし。 十字架にかけたこの民、神の民を取りなしして、こう祈っているんですね。
許してください。なぜなら彼らは自分が何をしているのかが分かっていないからです。 このイエス様を十字架にかけたユダヤ人の指導者たちは
最高法院サンヘドリンと言って、71人の ユダヤの指導者たちから構成されていました。
このユダヤの最高の知性、 立法学者をはじめ長老として、
今で言えば国会議員とか、あるいは最高裁判所の裁判官とか、 それに匹敵するような71人が
まさに権威の頂点、知性の頂点と言われる人たち。 神の御心と政治的判断の頂点を極めることができる人たちが、
この最高の人たちが最悪の決断をしたというのが十字架です。 先週、説教でもお話ししましたが、
何度もルカはイエス様が無罪であったと、 ローマの裁判官のピラトが主張していることを繰り返していました。
この人には死に値する罪がないから、 鞭打って解放すると言ったにも関わらず、 ユダヤ人たちは十字架につけろと叫び続けたわけですね。
06:06
このような、 ユダヤとローマの最高の知性が最悪の決断をした。
最近のコロナ禍の状況でも似たことが起こっているんじゃないでしょうか。
皆さんどうかわかりませんが、私がやきもきするのは、 本当に国の指導者たち、あるいはこの最高の権威ある人たちや、
判断を下せる人たちが、この判断がちぐはぐである。 また大阪でも、一番最初に
緊急事態宣言解除したと思ったら、すぐにですね、 まん延防止法を適用するなんて言ってですね、
やっているわけです。一向に日本でもオリンピックが開かれるんじゃないかと言われている中でも、 このワクチン接種が大幅に遅れている。
たった今8%ぐらいって言うんですね、日本人が受けている。 そういう
最高の権威がある人たちが、 上手に決断できないというのが、今のコロナ禍の悲惨を物語っているかもしれません。
それはさておき、実はこの十字架の
決断を、ある学者はですね、私たちのありようと結びつけて、このように解説しています。
私たちの最善の努力により、無実の神の御子を十字架にかけるという、救いようのない結果をもたらした。
それはすなわち、私たちは自分が何をしているのか分かっていない。
そして自分を自分で救えないということである。
このユダヤの指導者たちだけではなくて、実は私たちも同じ、
神にあって最善の決断をしている、 最高の善意を積んでいると思っても、実は私たちのやっていることは神様の目から見たら
ちぐはぐだ、と言うんですね。 皆さんご存知の宗教改革者のルターという人も
このように言っているんですね。 本当の十字架の友は誰か。
ちょっと難しいんですけど、よく言いましょうか。
十字架の友は、十字架が善であり、人間の行いは悪であるという。 なぜなら十字架によって人間の行いが破壊されているからである。
先ほど言いましたが、人間の行いは悪。 私たちがするどんな最善の神への奉仕も、まとはずでなっていることがある。
実は十字架というのは、それを証明した 人間の行為を破壊するような衝撃的な行為なんだってですね。
09:06
一方、十字架の友とないだければ、私たちの善行ではなくて、イエス様の十字架だけが神の前で受け入れられる最高の善行だということを受け入れるんだと言うんです。
このようにですね、後でもう少し詳しく見ますけれども、
最善の善行を願いながらイエス様を十字架にかけてしまう。 何をしているかわからない。
実はそれが的外れであって、この的外れというのがまさに罪の本質だって言うんですね。 しかし福音があります。2番目のイエス様の言葉。
イエス様が寛慮してくださったって言うんです。 こちらをご覧ください。
ヨハネ19章30節、読める方は読んでみましょうか。 3、はい。イエスは水武道士を受けると寛慮したと言われた。
そして頭を垂れて霊を私になった。 イエス様は十字架の上で寛慮したと言って息を引き取った。
これはゲリシャ語でテテレスタイと言って寛慮ということと同時に、ある意味、もうおしまいだという。
もうおしまいという、そういう声にも聞こえるというんですが、 実はですね、
私ちょっと考えました。なぜ私たちは新型コロナウイルスの感染を恐れるのか。 いろんな理由があると思うんですけれども、それは
一つには死んだら終わりだ。 そのように考えているから
その感染を恐れるのではないかと思ったんですね。 しかしイエス様は十字架の上でご自分の死はおしまい、終わりじゃなくて
完成だ、寛慮だと宣言されました。 なぜならイエス様は十字架の上で私たちの罪を完全にあがなって
あがないの技を寛慮してくださったからなんです。 その死をもって完全に私たちの罪をあがなってくださった。
だから死はおしまいではなくてイエス様にとっては 寛慮、寛静の技だと言うんですね。
つまり私たちはどんな 罪を犯しても
その神に償いきれないわけです。また私たちはどんなに善行こなっても的外れ、 そして神様に知らない間に罪を犯してしまいます。
でもイエス様の十字架というのは、それらすべてを帳消しにできる あがないの身技だということなんですね。
12:03
ある学者はこの十字架のあがないについてこう表現しているんですね。 神が私たちのような罪人に近づくには
私たちの流血と不正のすべてを苦しんで受け止める他には道はないのです。
私たちの罪が極まって、 その神様への反逆の罪がイエス様を十字架に追い込んでイエス様の血を流したというんですね。
今から1週間前、ちょっとした大きなニュースがありましたね。
戦死亡落を迎えた大相撲ですが、 テルノフジという歴史がジョニダンという幕打ちの下の下まで起こって大関に改ざく、
それは歴史的な改挙を成し遂げたわけです。
学生さんも見ないかもわかりませんが、相撲でですね、 立ち合いで相手を真正面から受け止めるのが潔いわけですね。
ある横綱は引っ叩いたりですね、逃げたりして、 潔き悪いと横綱ならば相手を正面から受け止めるべきだ、
そういう美学があるわけです。
同じようにですね、イエス様はまさに私たちの反逆と不正から逃れることなく、 それを真正面から受け止めてくださったんですね。
その結果が、この流血、鞭撃ち、十字架、その死という結果に至ったわけです。
そして何度も言いますが、イエス様を信じたクリスチャーになった私たちにさえできないこと、
自分の罪をあがなって失敗を懲戒しにしてくださったわけです。 正々堂々と血を流して。
ですからですね、私もそうなんですが、
私たちは自分の力で頑張って、 失敗しても落ち込むわけですね。でも落ち込みすぎる必要はありません。
むしろイエス様が完了してくださった。
イエス様が失敗したり、 的外れの私のために完了してくださった。
そう信じてですね、無理に頑張る必要はない。 頑張れない、できない自分をイエス様に委ねて、
あるいはそういう自分を受け入れたり許すということが必要であるわけですね。
最後、 そのようなイエス様の十字架、そこだけでも素晴らしいんですが、
しかし神はイエス様を蘇らせてくださった。 それがイエス様の良き知らせです。
15:07
あの挫折者ペテロが、 聖霊を受けた後最初に説教しました。
イエス様十字架につけた最高法院の人々ユダヤ人を責めて、 こういうメッセージを述べたんですね。
使徒の働き2章23から24節を読みます。 神が定めた計画と神の余地によって引き渡されたこのイエスを、
あなた方は立法を持たない人々、今ローマ人ですね。 ピラトの手によって十字架につけて殺したのです。
ここから読んでみましょうか。 読める方、3回。 しかし神はイエスを死の苦しみから解き放って蘇らせました。
この方が死につながれていることなどありえなかったからです。 使徒2章23、24。
このペテロは聖霊を受けた後の説教で、 イエス様の十字架にかけた人々の罪を咎めたわけですね。
人間の最高の善行、このユダヤの最高法院、 神の民の最高法院、ローマの
この最高の権威が最善の結果として出した結末、 それは無実のイエス様を十字架につけるということでした。
実はですね、 イエス様は十字架の上で
我が神、我が神、どうして私を見捨てたんですか?と叫びましたね。 そのいろんな意味があって、ある方はその意味を
敗北と言います。 負けた。
敗北を味わった。なぜなら、 人間の最高の知性がこの無罪のイエス様を十字架という死に追いやったから。
そこでイエス様は敗北を感じた。
そして、 見捨てることがない神に対してどうして私を見捨てたんですか?と
祈られたと言うんですね。 しかし、
そこで終わりではないんですね。 その結果、
敗北を味われたかもしれませんが、 人となれた神様、イエス様、
それを、 あがなう、その敗北をあがなう方法を神様が
驚き呆れるような方法を選んで、あがなわれた。
それは復活だったと言うんです。 最初に読んだ聖書の御言葉、女たちが弟子たちに復活を伝えると、
弟子たちは戯言のように思えた。 死んだ人が蘇った。
驚き呆れるような出来事だと言うんです、復活は。 しかしそれが十字架の敗北をあがなう唯一の方法だと言うんです。
18:01
十字架で死んだこのお方を復活させる。 それ以外に希望がない。
そのような方法でイエス様を神様は 復活させて敗北を勝利に導いたんです。
なぜそれが 素晴らしいのか。
そこにはですね、
私たちが神様に近づくには、この 神様に定められた道しかないと言うんですね。
神に定められた唯一の道は何ですか。 それは
十字架と復活の道だと言うんです。 この命へ至る道として死ぬ。
そしてそこから 命への道としての死から
イエス様と共に蘇る。 これが唯一の道だと言うんですね。
皆さん気づいたと思いますけれども、 このペテロの説教には
ターニングポイントがあるんです。 国語の問題みたいですね。
この文章の中で転換点の言葉は何か。
真ん中にありますね。 しかし神は。しかし。
神のご計画にあったと言っても、 あなた方はイエス様を十字架につけて殺した。
イエスを敗北させた。しかし神は、 イエスを死の中から
蘇らせた。 ある学者はこう解説してこう言ってるんですね。
十字架とは深い苦しみを負うことです。
深い苦しみとは、私たちの最も良い行い、 最も壮大な発想が、
みじめな失敗に終わったと認めざるを得ない時に 襲ってくるような苦しみです。
しかし私たちが信じている神様は、 イエス様を死の中から蘇らせて、それによって
私たちが この世において
世に打ち勝つ存在にしてくださった。 イエスを死から蘇らせることによって信じる私たちを
世に打ち勝つものと神様はしてくださったんです。
この私たちがですね、
そうは言っても、 十字架は私たちの深い苦しみを
負うことを表している。それは先ほど言いましたが、 どのようにして私たちは苦しむかというと、深い苦しみは
私たちの最も良い行いや最も壮大な発想が、 みじめな失敗に終わったと認めざるを得ない時に
21:07
襲ってくるような苦しみです。
私たちは何を望んで最善を尽くしても、 何をしているかわからない。
そのようなことを私たちは認めなければいけないわけです。
つまり、私たちはですね、
自分が無力であることを忘れて、自分の力で頑張ろうとしてしまうんですね。
ですから自分にがっかりして、その度に自分の死を改めて知ることになります。
あの牧師の悩みとして毎週あるのはですね、 礼拝で説教しなきゃいけないことなんです。
何を苦しむかというと、 すごく内容が素晴らしいんですよ。
聖書の内容とか福音。
でもそれをどうやって皆さんに伝えたらいいのか。
皆さんが私が味わっているような神様の祝福とか、 神に応答する、
この神に変えられていくことを、 どうやって皆さんに言葉で伝えようかということに毎週苦しみます。
でもこれはですね、実はこれなんです。
何を私はしているかというと、そこでね、 自分が皆さんを神に向けることができるんじゃないかということ。
自分が皆さんを神様に向けなきゃいけないって感じがしているんです。
もちろんベストは尽くします。
でも本当に皆さんを神様に向けるのは、 精霊様、神様の働きなんですね。
だから私はですね、 説教を作って本当に苦しむのはですね、
まあみじめな失敗に終わったといってですね、 家帰って落ち込むこともあるんですけど、
ここのジレンマが僕氏が説教する時のジレンマなんです。
そしてそれは皆さんもですね、職場とかですね、 家族の中で神様に使いようとしたり、
あるいは一般的にですね、良いことをしようとしても、
できるかな?できなかったな?
そういう悩んだりジレンマに落ちることと似ていると思うんですよね。
そこで最善を尽くしながらも、
自分はどんなに良いことをしても、
この私本来の力では良いことができないということを認めることがですね、
実は一つには十字架に死ぬということなんです。
そして自分が無力であって、十字架にあって一緒に死んでいるということを受ける時に、
イエス様と共に蘇るんですね。
それで自分はできないけれども、イエス様がそれを知ってくださる。
アメリカ人のある僕氏が言ったんですね、 自分の教会にアルコール依存症の人がいました。
24:01
その人はイエス様を信じて、こういう宣言したんですね。
よし、これで私はサタンに打ち勝って、アルコールに打ち勝つぞと。
その僕氏も、そうだといいですねと言ったんですね。
しかしその方はですね、やがてやはりアルコールに手を染めていってしまったそうです。
しかしですね、彼は本当にどん底を味わって、自分にできないことが分かって、
そしてまたアルコールから、依存症から回復して教会に戻ってきました。
彼は言ったんですね、私の力では10ドルのウイスキーに勝つこともできないし、
当然悪魔に勝つこともできないということを学びました。
そして初めて救われましたと言ったんですね。
まさに私たち、そのような依存症でないかもしれませんけれども、でないと思いますが、
自分の力では自分に勝てない、本当に良いことをしてくださるのはイエス様だ。
蘇ったイエス様が私と共にいてくださるんだ、そしてイエス様がなしてくださるんだという、
復活のイエス様に頼っていくこと、それがクリスチャン生活ですね。
実はそうやって、檻に触れて自分の死を受けなければいけない、
自分ができないということを受けなければいけない、
そしてもう一回復活のイエス様に寄り頼むという、そういう繰り返しのプロセスが、
イエス様の死と復活を体験するクリスチャンのプロセスであり、
その途上で私たちは深い苦しみを負うことになる。
しかしそこには必ずですね、
復活のイエス様を頼る幸いがあるというんですね。
最後に、
使徒パウロが明かししたイエス様の復活の御言葉を読んで終わりたいと思います。
最初は2つですけれども、コリント第一コリント15章16節17節です。
読んでみましょう。
もしキリストが蘇らなかったとしたら、あなた方の信仰は虚しく、
あなた方は今もなお自分の罪の中にいます。
第一コリント15章16節。そして次コロサイ2章13節です。
読んでみましょう。
そむきのうちにあり、また肉のかつれいがなく、
死んだものであったあなた方を、神はキリストと共に生かして下さいました。
イエス様のこの朝は共にイエス様とともに蘇らされたことを思いを馳せながら、
新しい歩みを共にしていきましょう。お祈りします。
天の父なる神様、皆を賛美いたします。
できない私たち、的外れな私たちの罪をあがなうために、
27:03
イエス様を十字架の上でその命を捧げ、私たちの罪をあがなってくださったことを感謝いたします。
私たちの罪をイエス様、あなたが真正面から受け止め、
その死の極みにまで受け止めてくださったが故に、
私たち罪あがなわれたものとなったことを感謝いたします。
私たちの古い性質は、いつまで経っても自分に頼ろうとします。
どうぞ、その世の中で私たちは苦しみや死を体験しますけれども、
その旅ごとに復活のイエス様、
蘇り共におられるイエス様を思い出しながら、
イエス様と宮沢を共になしていくお互いでありますよう、どうか導いて下さい。
4月が始まり、最初の礼拝となりました。
どうぞお一人お一人、新しい旅立ちを始められた方もいると思います。
そのお一人お一人と共に、蘇られたイエス様があって、
その新しい歩みをお導き下さいますよう、あなたにお祈りいたします。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それではしばらく、御言葉に応えてお祈りしましょう。
1分ほどお祈り下さい。
28:41

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