メモを取る意義とリスク
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1141回をお送りします。
2月21日、金曜日、7時56分です。ギリギリ、なんとか7時台が保てたという程度ですね。
今日はゴミ脱資してたんで、しゃあないんですけど、割と盛大に頑張ったんで。
お知らせどうしようかな。あんまりお知らせをする事項がそろそろ見当たらなくなってきまして、
3ヶ月チャレンジもまだ1ヶ月目だし、ようやく3月が入ろうとしてますけどね。
100日チャレンジは50日を超えたのかな?そろそろね。
これもまだ50日あるわけですからね。
タスク集と手帳は好評発売中でして、間もなくとりあえずは、
まだしばらく在庫はございますし、よく私は数字を厳密には把握していないんですけど、
そういうこともちらほら聞いてますけれども、まだまだありますので、ぜひこの機会に試してみていただければと思います。
最近私またアナログの紙に書くというのを復活させようかなと思っているんですけれども、
紙に書くというのをただやるんだけども、そのことに特別な意味を見ているわけでは全くないんですが、
3ヶ月チャレンジでは時々メモをするんですよ。このメモをするってことは最後まで本当に悩むかもなぁとは思うんですね。
メモをするというのは覚えておくことの代わりにはならないと思うんですよね。
話の脈絡を見失わないようにするという意味は若干あるんですけど、話の脈絡を見失うということの意味を忘れてはいけないわけで、
なぜならば2つあって、1つにはそもそも相手の人は今脈絡のある話がしにくい状態にあるかもしれないということを忘れてはいけないわけですね。
もう1つは自分が話の脈絡を相手の人が整然と喋ってくれているにもかかわらず脈絡を失うということは、
今私はそういう状態にあるということも1つ考えられますよね。
もう1つは要するに転移と逆転移の関係で、話はすじみちだって話されているにもかかわらず脈絡を失わせるような話っぷりになっている。
それは意図的ではないんだけど、無意識ではそうしている可能性は否定できないですよね。
さらには、これは私も本を読むまでちょっと気づかなかったんですけど、藤山直樹さんが指摘しているあまりにも理解しやすい話は、
要するにその話自体が円幕になっている可能性、これはもっと複雑な話なんですけど、その話の可能性は否定できない。
つまりそこには嘘もないし、相手の人もそのつもりもないんだけど、本当に話さなければいけないことはそこでは語られていないってことですよね。
あまりにも滑やかな話とか滑らかすぎるっていう表現を使われてたんですけど、これも十分あり得ることなので、
それを一生懸命メモってたところで意味が全くないんですよね。全くなくはないけど、あんまりないですよね。
そこでは本筋に切り込めていないっていうことであって、なんで切り込めないかというと、切り込むのが怖いからなんですけど、
怖いということをお互いが全く意識せずに済むように、非常にぼっともらしい話がそこで取り交わされていると。
いかにも精神分析家が好みそうで、いかにもここに来ている意味はありますっていう調子で喋っていて、お互いそのことに全く気づいてないということも起こり得る。
この辺のことまで考え合わせてみると、下手にメモを取るということは危険であるということになりますよね。
私はこの種の危険が精神分析家でなければ関係ないだろうぐらいに中をくぐってたわけですが、
藤尾直樹さんの本を読んだ時も、分析家とかカウンセラーはそういうことを考えなければいけないけど、
俺関係ないし、みたいに思ってたんですけど、そんなことはないんだというのは、今の4つを混合したような事態は実に普通にボンボン起きるという、
これは別に3ヶ月チャレンジの外でも全然普通にどんどん起きているということを思い知るためになっているわけですね。
そうすると、メモをするって何なんだろうなって思うんですよ。
私はこの件を全て一応総合的に判断した上で、メモしたくなったらしようと。
メモをするということは2つ考えられるんですよね。
1つはメモをさせられているということね。
メモをする力度がここにかかってきている。
それに従って私はメモをするという、言ってみれば逆転移が起きている。
もう1つは、つまりそれは向こうが例えばですよ、職業という意味じゃなくて、
例えば私は先生をやってみたかったんだと、無意識のどちらかというと職業先生でない人に起こりそうなことなんだけど、
先生やってみたかったんだと。
佐々木に番書をノートさせたいんだっていう力度、これはですね、あったんですよね。
あったっつったって証拠はないんだけど、
いやもう一生懸命考えてみて、自分が一生懸命、変に一生懸命取ってるなと思ったときにちょっと考えたんですよ。
あれ、あれ、なんかこれ俺、学生時代の、しかも予備高生の時のことを思い出すんだけどって言って、
そういう、言ってみれば解釈ですよね。
返してみたところ、実は佐々木さん、私ね、ずっと塾の先生やりたかったんですよみたいな。
いや、やればいいじゃんみたいに思ったんだけど。
なんかそういうことってあるんですよ、世の中にはね。
別にそれは、その話自体は重要な話ではなかったんだけど、
まあ重要な話だったのかもしれませんけど、少なくともその時はそれほど重要な話ではなかったんですけどね。
だからこういう力度って働くんですよね。
だからメモを取る意味っていうのを、何かですね、
いやこれ大事な話だからメモしとこうみたいに思うだけではやっぱりダメなんですよね、こういう件になってきますと。
ので私はそのメモを取るっていうのは何なんだろうなと思いながらノートを用意するようになったわけですよね。
だからこの話、当然後からそのメモを振り返る意味は全くゼロなんですよ。
完全にゼロ。
僕がメモを取っているという光景を見たかったんであって、相手の人はね。
そのために話をしていたわけであって、別に話自体はどうでもいいわけですよ。
どんな話でも。
中身忘れてしまってますもんね、僕完全に。
そんなのは後になったら捨ててもいいわけですよ。
大事なことはここで私がメモを取るということをさせられたと。
だから完全に無意識にお互い怒ってたところが、いやー精神分析って偉いなって最近思うんですよね、私はね。
これを力度と言わずして何で説明すればいいのか全然わかんないですよ。
しかもその人とのやりとりは別段精神分析的ではなかったんですよ。
この動き自体が非常に精神分析的だけど、やってることはどちらかっていうと本当タスクシュートの相談ぐらいの勢いでも、
それは私だったらノートしないんでちょっと違ったと思うんですけど、
ライフハックでも別に全然構わないんですよ。
ここが怖いところでもあり、面白いところでも魅惑的って言ったらいいですかね。
そんな感じがするところだったりするわけですよね。
手書きのメモを用意してるんだけど、そのことはですね、ライブスクライブで後でエバーノートに取っておきましょうって話では全くないってことですよね。
今ので思い出したんですけど、いやーこの話ね、あんまりせずに来たのは訳があるってやつで、
自己愛構造体の紹介
自己愛の話を今日、自己愛構造体、病理構造体と言ったりもしますね。
あんまりですね、この話をするのが気が乗らずに鍛えるんですよね。
めったにちゃんとしてないなって思うんですよ。
特にあるキーワードは避けてる気がして、避けてるってことはしろってことかなーって避けてることを意識しだしましたからね。
今、今ですよ本当に。
うかつなんですよね。下手にこれを喋るというのは本当にね。
まあでも私はうかつなのも一つの持ち味かもしれないんで喋りますが、
なんでこれがあんまり話したくないかというと、感じの悪い話になりやすい。
すでになんか僕のこの言い回しからしても上んな感じで感じよくないなと思っておりますがね。
あの自己愛構造体の話は感じが良くならないんですよね。
どうしても感じの悪い話だなと私が意識してしすぎているのかもしれませんが、
これを聞いていらっしゃる方でですね、いや私のことか思って思わないでほしいんですよね。
これね下手にそう思うことによって一層それを私は最も望まないんですよ。
私だってこうなるときはこれ持ってますし、ある意味持ってるってこと自体が何か悪いことだ。
悪い、良いことじゃないのかもしれないんだけど、
例えばB型肝炎の人がB型ウイルスを肝臓に持ってるのはその人の責任ではほぼないじゃないですか。
針の使い回しとか特にその人の責任ゼロなんだけど。
でもその良い話になりっこないんですよね。
病理構造体もすごくそれと私は今はもうそっくりだと思ってるんですよね。
私が持ってるんだけど、私が持ってる以上私が気をつけるしかないんだけど、
私のせいじゃないよなって思う。私のせいじゃないんで。
これ世代関連さに限りなく近いんで。
私はそれをだからと言って世代関連さ的な話になると、
もうまっすぐ毒親と呪いみたいになっちゃうんですよ。
で私あれもねなんかやっぱりそんなことを言っても、
言うだけでももうちょっと言い淀むよね。
だからその病理構造体なんですあれは。
呪いとか言うのはよそうねって言いたいんだけど、
社会に向かって何かを発するっていうのはやっぱりある種社会運動だと思うんですよ。
松木国弘さんなんかはその辺ちょっとシビアで、シビアすぎると僕は思うんですけど、
いやそれは他者操作的でありPSポジションでしょう。
私はそういうのにはクミしたくないですねみたいなことをおっしゃってるところがあって、
いやそれはちょっとストイックすぎるような気がするなと思いつつも、
でも私もだいたい同感なんですよね。
やっぱり社会運動というのは、だって社会を動かそうとしてるわけでしょ究極的には。
それって他者を動かそうとしてるわけじゃないですか。
つまり多席的ってことになるわけじゃないですか。
いやいやもうこれ言ってるだけでも感じよくないなと思いますよ。
やっぱりソーシャルムーブメントはそれはそれで必要ですよね。
でもこれがPSポジションであるっていうのは非常に精神力動的なものの言い方ではありますが、
その点をやっぱり意識はする必要がどこかあるんじゃないんだろうかって、
人に動いてもらうわけですからね、なんだかんだ。
そもそもデモだって必要だと思いますけれども、
デモをするってことは人に呼びかけるってことじゃないですか。
人に呼びかけるってことはやっぱりどこかPS的なわけじゃないですか。
ディポジションっていうのはそういうことではないと思って。
ここでキーワードの一つ、自他不分離ってのがあるんですよ。
これを言うのが嫌だったんだな私は。
だから多分私この自他不分離、あるいは自他身分化、バウンダリ運のやつね、
ほとんど言ってこなかったんじゃないかと思いますね。
意識はしますよもちろんね。
でも世の中で言うところのバウンダリだからやっぱりそうなんでね、
この自己愛構造体という言葉はやらないでほしいなって思うんですよね、病理構造体。
これが起きると世の中はこれを消費的に使い出すんですよね。
ナルシシズムとナルシストってやつですよ。
ナルシストは間違いなんだけど、僕は一般用語はナルシストだと思うんですよ、日本語では。
これは消費されてるっていうやつだと思うんですよ。
あいつナルシストだよね、こいつもナルシストだよねみたいな感じになって、
みんなナルシストになっちゃうんですよ。
人を悪く言うためにいい言葉になっちゃうんですよ。
それは悪口言ってるのと何も変わらないんですよね。
ものすごく消費的になっていく。
で、藤山直樹さんは複雑な気持ちになるとか微妙な気持ちになるとか、
要するに嫌なんですけど、しょうがないじゃんって思うんですよね。
そうなっちゃったんだから。
それも藤山直樹さんが精神分析家になる前からそうなっちゃってたわけじゃないですか。
フロイトはそりゃ嫌かもしんないけど、そんなのは誤用だっていうことかもしんないけど、
誤用に決まってるんですけど、しょうがないんですよね、そういうのって。
でも私はやっぱり自己愛構造体が同じような病理構造体とかね、
特にナルシシズムの病理とか言い出すと絶対気に食わない奴は全員ナルシシズムの病理にしてしまうんですよ、世の中というのは。
メディアみたいなものに乗っかるとですね、ナルシシズムが蔓延して、蔓延することになるんですよね。
蔓延してねえしって思うんだけど、もうそうなるんですよね。
社会運動とナルシシズム
まあ僕がここでね、言ったところで。
だから私これ、なんつーのかな、私のこのポッドキャストは、一方で広まってくれると私の仕事は楽になる。
でも他方で、いや広まらないでほしいよね、みたいなところがあります。
もうしょうがない、これはね。
Xはいいんですよ。
フォロワーが10万とかになってないですけど、なったら嬉しい。
なぜなら私はどうせそんなに、あそこで頑張ってつぶやこうという日があんまりないから。
あんまないから10万とかにはならないんですけどね。
ここは、私結構何でもかんでも喋ってるんで、ここがね、ものすごい広まるというのは、まあいいんですけどね、別に。
ここもまたそれを恐れるすなわちPSポジションなんですよ。
確か操作できじゃないですか。
外部という現実というものは、私がコントロールしようとするものではないんですよ。
それができると思うのがPSポジションなんだから。
つまり、自他未分離なんですよ。
自他が分離しているということは、他者というのは自由に動いていいわけで、
他者というものがこういうことをやるのは不道徳だとか、大衆消費的だとか、呪いだとか、そういうことを言っていいんですよ、全然。
言っていいっていうか、その許可を出そうという発想自体がそもそもおかしいんですよね。
私の、私という人間のコントロール下に現実があってはまずいわけですから。
それはもう破滅的な話ですからね。
だから、他者を操作しようとしないと。
操作しようとしないということは、他者は私から完全に自由で独立しているっていう話ですよね。
それが嫌だと思わないというか、それは恐ろしいと思わないっていうのが、
Pポジションに入る時には絶対に欠かせない感覚なんだと思うんですよね。
これがあれば、やっぱりこのしがみつきたくなるじゃないですか。
しがみつきたくなるということは、つまり自分がヘルプレスレスですってことになってしまうんですよね。
そうすると今度長寿が支配っていう問題が、この番組ではおなじみの長寿が支配っていうものが、
つまり自分はヘルプレスレスではないんだっていう感覚を維持しておかなければならないと思うんですよね。
だから私の前で、3ヶ月チャレンジのユーザーさんがね、
私を罵ろうと、逆に全然立たないよねって言おうと、怒り狂おうと、全然オッケーなはずなんですよ。
それがすなわちその人が独立、私からは分離して、自立されていて自由であると。
そうでない世界に私が住むということは、必ず破滅的な結果を招くんですよね。
なぜなら私を中心に、昨日言った通りで世界は回ってないのに、
そうだと思い込むことは自己破壊的なことなんで。
だけどこの自己破壊的なことを良しとしちゃうのが、つまり自己愛構造体なんですよ。
自己愛と健康
あの自己愛というのはですね、感覚としてはもっとこう、誰にでもすぐ割と、
いやーこの人はダメだ、無理だ、なりやすいっていう意味で、それは逆転意ってことだと僕は思うんですけどね。
結局そこで起きての逆転意だと思うんだけど。
いやー無理だわ、この人ちょっと傲慢だわ、みたいに思うっていうことはあるじゃないですか。
皆さんのことじゃないですからね。
誰のことでもないんです。
そういうふうに人はなるんだってことなんだと僕は思うんだよな。
自己愛構造体だって、大概の人持ってると私は思いますね。
で、そうすると、安田さん、私そうですかね、気をつけますって。
気をつけちゃダメなんですよね。
気をつけようがない部分があるから、気をつけようがなくはないんですよ。
つまり、これは私ほんと肝炎ウイルスみたいなものと似てると思うんですよ。
私のお友達になったことがある、てかなってたんですけど、見つかっちゃったってやつなんですけど、
気をつけようがあってもなくせないじゃないですか。
肝炎ウイルスってなくならないんですよね。
私そのことの意味がよく分からなかったんだけど、なんかもう撲滅するとか殺し切るとかそういうことをやれるわけじゃないし、
たぶんあれやれても、そうすると今度は臓器をダメにしちゃうみたいなことがあって、
結局のところは付き合っていくしかない。
でもそれって気をつけることあるじゃないですか。
例えば、そういうときに防音防食やだらしないとか、肝臓に過剰な負担かけないとか、
当然それは健康な人だって同じなんだけど、でもやっぱりウイルス持ってる人は特にそうですよね。
で、これと似てるなって思うんですよ。
自己愛構造体私持ってるんだけど、これなくせないんですよね。
で、まあそれはだから仏教徒ということにしてですね、いやブッダはないだろうみたいな、それはないかもしれない。
で、ブッダはないと思うのが信じるのが仏教徒でしょって言われるとちょっと困るんですけど、
なぜなら私は必ずしもそうは信じてないからなんですけれども、
でもですね、自分に関して言えばこれなくせないな、一生なくなる気はしないねっていう感じがするんですよ。
だから気をつけるってことになるんですが、気をつけるっていうのは所詮は、所詮はって言いますが、
所詮は振る舞いの問題なんですよ。
これはね、あれですね、なんていうのかな、
いや後に回そう、いや忘れるかもしれない。
つまりね、まず僕が思うのは、時々やっぱお目にかかるわけですね、セミナーとかで。
昔、今はあんまりない、顔を合わせるセミナーが激減してるんで、
しょっちゅうセミナーやってるとやっぱりいらっしゃるわけですよ。
なんかこうですね、松木邦博さんの書く漢字だと、
私のこと覚えてます?とかって言い出すっていう漢字で書いてるんですよね。
ものすごく盤を開けて、ものすごくじれったく喋り出すっていう、
あれですよ、私のことかも?とかって思う必要ないです。
そういうふうに人がなることはあるんですよ。
この人が常にそうなのかどうかはまた別の問題。
松木さんの前ではそうだったんでしょう。
つまり自他が身分離というか、自分ってものは世界とくっついていると。
それは赤ちゃんがおっぱいを口に含んでね、おっぱいがくっついてて、
いや、おっぱいって僕だよね、みたいに思っちゃってるっていうところに
遡らせるわけですよ、精神分析的には。
つまり世界と自分はくっついていると。
良いものってのは私と一緒なんだっていうふうに考えることができちゃうと。
この辺の話を一生懸命自己愛構造体の病理の話を懸命に説明するよりも、
くっついていて離れてないと思ってしまうっていうことがミソなんですよ。
2つあってくっついてるということは相手はいないってことなんですよ。
これがもうめちゃくちゃ大事ですよね。
つまり私がセミナーでお目にかかったときに、
なんつーのかな、圧がかかってくるわけですよ。
昔でいうと佐々木さん、タスクシュードのことばっかり書いてないですね。
エヴァノートとか、昔でいうスクラップボックスとか、
そういうのを書くといいんですよ、みたいな感じで。
なんつーのかな、別に嫌なこと言ってるわけじゃないんだけど、
すごく僕を操作しようとしてるわけですね。
他者操作的なんですよ。
で、くっついちゃってるわけ、その人に。
その圧ってわかるんですよ。
ものすごい、なんつーのかな、
あなたは私の一部だからねって感じが強烈にしてくるんですね。
だからもうそれがわかるとですね、
いや、なかなかタスクシュードをやっぱ書くのが私の仕事ですからとかは下手に言えないんですよ。
なぜ言えないかというと、ものすごい怒られるから。
なんですごい怒られるかというと、
お前私の一部のくせに何それっていうことになるから。
で、これってすごい嫌でしょ、みたいになると思うんだけど、
これは私がただ嫌なだけだった時代はわかってなかったんですよね、やっぱり。
その人の強烈な不安というものを見えて全然ないから、
なんて困った人だ、みたいになっちゃうんだけど、
これを理解することができるからこそ精神分析ってのはやっぱり、
リテラシーとして欲しいと、僕なんか思っちゃうんですよね。
世の中のリテラシーとしてあってもらいたいと思うんですよ。
まず、よくこの番組で言ってる野良カウンセリングと正規のカウンセリング云々の問題で、
精神分析なんてカウンセラーだけ知っときゃいい、
なんなら精神分析家だけ知っときゃいいんだよっていう、
僕はあれに乗れないな、こういうところなんですよね。
だってこういう人を相手に困るわけじゃないですか。
困るとこういう人からみんなが距離を取ろうとするじゃないですか。
そうするとその人はますます孤立していき、
これはウィニコットの孤立じゃなくて困った方の孤立ね、
していってどんどん自己愛の状態を深めていっちゃうと思うんですよね。
だから大体そういう人とお話をしていると、
過去の栄光の話が出てくるはずなんですけれども、
この過去の栄光の話が出てくるとやっぱりみんな嫌なわけじゃないですか。
でもだからこういう話って本当に感じの悪い話になるんですよ。
まるでこの人のことをあげつらってるようになっちゃうんだけど、
これ間違いなく僕も思ってるんですよ。
大事なのはそういうことを自覚している謙虚さとかではないってことなんですよ。
これはなんていうのかな、フィーエスポジションに限りなく似た話であって、
なんなら肝炎ウイルスみたいな話であって、付き合っていくはずのものであって、
卒業するとか振る舞いを改めるってものでは僕はないと信じています。
これをあげつらったり攻撃したりする対象に、
だから私はこれが世の中に蔓延してほしくないと思っちゃうんですよね。
それもまた私の勝手な願望なんですけどね。
つまり、毒親っていう言い方をしたとき、
私は毒親じゃないですっていうのが案に言われてるわけですよ。
私が毒親だというなら自覚を持って振る舞いを気をつけましょうみたいになりやすいんだけど、
そうはいかないだろうって思うんですよ。
なぜそうなったのかは相当の理由があって、
私はミューラン・ヤコさんの評点、
あれもだから世の中には一般に読まれてほしいなと、
世代間連鎖というものはそんなに簡単に離脱できないから世代間連鎖なわけであって、
仏教では輪廻みたいな言い方をしますけど、
その輪廻から外れることができたらそいつはもう悟ってるわけですよ。
だから私はぶっただけ輪廻から出るっておかしくないって思っちゃうんで、
私はそういうことを自分には期待できないなって思うんですよね。
やっぱりPSポジションは一生もんだし、僕にとっての自己愛行動態は一生もんだし、
その起源は少なく見積もっても母方の爺ちゃんから来ておりますから、
しょうがないでしょって思うんですよね。
だって母方の爺ちゃんが生まれたのは明治時代だし、
明治って令和平成昭和、大正明治の明治でしょ。
こんな時代にあったものを私の責任とか言われても困るじゃないですか。
だからそれは私は気をつけるべきかもしらんけど、
気をつけるのが関の山だよねという、
自己愛行動態が表に出ちゃってるのはしょっちゅう出ちゃってるけど、
しょうがないじゃないですかっていう感じがするんですよ。
恋愛における一体化
その分他の人が出てきてもやっぱりしょうがないじゃないですかっていう感じがするんですよ。
だからそのことが分かっていたいと思うので、
自己愛行動態については知っててみんなが知ってていいはずだっていう感じなんです。
遭遇しますからはっきり言って。
そこそこの人と会うことになる必ず遭遇すると思うんですよね。
自分だってやることあるんですよ。
私これ一番必ず絶対人がやるときは恋愛のときだ。
僕は絶対そうだったんですね。
自家の身分化ってのがものすごく響くんですよ。
本当に身分化感というものに絡めとられる。
だってほら恋人とは一体になりたいじゃないですか。
あれが自体をややこしくするわけ。
私なんかもう彼女できずに大変困って死ぬほど困った人間なんで、
一体化したくてしょうがなかったんで。
一体化すると何が起きるかって。
そいつが気に入らないことをしたとき、いやもう別れてやるって。
で別れたときに、このときに罵してやるって思うんですよね。
お前別れたくないだろ、でも俺を怒らせたら別れるんだみたいに思うわけですよ。
この、このなんか愚かしく聞こえるんだけど、問題なのはその愚かさじゃなくて、
このとき別れることが罰になると考えることが、つまり身分化ってことを象徴しているわけですよ。
別れることが罰になるって思うということはですね、
相手のことを振ったときに相手は自分のもとにいるかのような錯覚を持ってなければおかしいんですよ。
罰になったかどうかを確かめる術がないじゃないですか、本当は。
これ私別なら確実なんですよ。
死んだ後になって、相手がどう私のことを嘆き悲しんだかみたいな。
分かるはずがないじゃん、自分死んでるんだから。
これが分からなくなっていくんですよ。
自他の識別
死後の世界が見えているような感じがする。
つまりそれは自多が身分化になってるわけですよ。
私が相手にしているのは相手の人、人間ではなく対象なんですよ。
赤ちゃんが怒ってる相手はおそらく母親に対してのつもりかもしれないけど、
おっぱいがぶって噛んだときね、これはクラインのメタファーなんだけど、
おっぱいがぶって噛んだとき、がぶっと噛んでるおっぱいはおっぱいだけだと思ってるんですよ。
向こう側にお母さんがいることが分かってないんですよ。
これが自多の身分化と部分対象という問題なんですよね。
その赤ちゃんの世界にはおっぱいだけが浮遊しているような、
口のそばにあるだけなんですけれどもね。
浮遊してるって言うとお化け屋敷みたいになっちゃうんだけど、そうじゃないんですけどね。
そういう部分対象を相手にしている、
部分対象ばっかりを世界の相手にしている人っていうのが、
つまりナルシシズムの世界に生きているわけですよ。
こういう人にしてみるとおっぱいって自分の一部だから操作的になるわけですよ。
今空腹なんだから早く出てきてって言う。だって自分なんだからそうでしょ。
それが他者だということが分かっていないんだから当然そうなるわけですよ。
でも恋人に対してこの種の振る舞いをする人、世の中には男女の別なくいっぱいいるじゃないですか。
すぐ来てとかって電話できる人っていらっしゃるじゃないですか。
彼氏だからいいんだけど、今すぐ来てよみたいな。
これはもう彼氏は自分の一部になっちゃってるわけですよ。
相手が今下痢ですとかは関係ないわけですよ。
だいたい下痢ですとかなんですけどね。結構あるんですよね。
関係ないわけですよ。自分の一部なんだからすぐ来ない。
ボタンを押したらもうそこに登場するぐらいじゃないと怒り出すみたいなことが起こるわけですよね。
これがナルシシズムの世界で傲慢さが目についちゃうかもしれないけど、
そういうことではないということだと私は思うんですよね。
ここで問題にするべきは傲慢さじゃなくてその微分化感というもの。
微分化であることがいいことなんだとその人には思い始めているってことなんですよね。
で、自分のヘルプレスネスっていうのは非常に怖いんで、
例えば扇望が高まるっていう言い方をクラインはするんだけど、
この場合の扇望というのは、例えばですね、彼氏はすっげー金が稼げると。
私はこの彼氏と一緒にいる限りにおいては何でも好きなようにお金が使えるんだけど、
めちゃ怖い。この状態は実はヘルプレスネスのそのものになっちゃうじゃないですか。
だって彼氏はめちゃくちゃ金稼げるけど、それは彼氏由来ですから。
だから彼氏と自分が一体になっている限りはそれでいいんだけど、
ここの間に少しでも分離感というのが出てくると、
いや、彼氏は彼氏の自由だから、これが自立した状態ってことになるんだけど、
別に自分と付き合うのが嫌になったら他の人と付き合えばいいしってことになると、
何もかも一緒に失うじゃないですか。これが戦亡なんですよ。
戦亡が高まるということは、つまり自らが一体になっているか、
そうでないかの問題というのはものすごく激烈に感じられてくるということですよね。
戦亡というものが高まるということは、自分がそれを持っているのか、
それとも自分から分離した存在がそれを持っているのか。
赤ちゃんにしてみるとこれは絶望的な感じですよね。
おっぱいの由来が母親だったら、自分は死ぬかもしれない時に
おっぱいがもらえなくなる可能性があるわけですよね。
恋愛における自己愛
さっきの恋人の話だと、甘えてないでお前自分で頑張れよってことになるかもしれないけど、
赤ちゃんにそれを言われるのはコクじゃないですか。
甘えていないで自分でミルク探してきなさいって言ってもあるかもしれないわけだから、
死ぬしかないみたいなことになるわけじゃないですか。
この時の気持ちが恋愛関係では再現しやすいんですよね。
再年と言ったらいいのかもしれない。
だからそれはわがままというような話ではなくて、外から見るとわがままなんだけども、
その時の気持ちは赤ちゃん状態に入ったから、
彼氏が別れるとかいうことになると、
もう真珠だっていうような話になってくるわけです。
これが究極的に自己愛好状態になる。
嫌な話になるじゃないですか。
すぐここに道徳が出てきそうな感じがするじゃないですか。
ここを道徳語を語るほど虚しいことはないと思うんですけど、
だからここにお父さんが登場して、
いやいや待て待てみたいなことを言い出すんだけど、
いやお父さんの登場は、この場合はお父さんが登場してことが収まる場合はいいですよ。
でも二者関係じゃないですか。
対外の恋愛関係というのは。
二者しかそこにいないから、朝廷役はいないんですよ。
これが父親が登場する以前の段階。
エディプスコンプレックス以前の段階だ。
エディプスはあくまでも三者関係、三角関係を要するわけで、
三人目がいない世界に三角関係はないわけで、
三人目がいない世界に客観はないわけですよ。
したがってコントロールするか、自立するかという問題がそこに生じてくるわけですね。
自立するというのは聞こえばいいかもしれないけど、
現代社会はこの自立自立自立なんですけど、
この自己愛構造体をみんなが、少なくとも僕はほとんど全ての人がって言いたい。
まあ全ての人がって言いたいな。
自己愛構造体をみんなが持っているような世界において、
自立自立言うことほど、スチ違いな話はないんですよね。
自分が自立できるときだけ人は自立を口にしてるんですよ。
気がつかないところで必ずこれをやってるにもかかわらず、
大概これには気づきたくないという事情があるんで。
だって自らは未文化なんでね。
絶対にこれやってるくせに、自分がやんないでいい余裕のあるときだけ、
これをやってる人を道徳的に責めるようなことをやるんで。
二者関係なのにそこで自分がお父さんに勝手になっちゃうという、
それ自体が僕は非常に自己愛的な態度だと思うんですけど。
だから私があれなんですよ。
佐々木さんもね、タスク中毒ばっかりやってないでさって言われたときには、
真剣に聞くべきなんですよ。
それは母親として真剣に聞くしかない。
他の選択肢を取るということは、
私はどれを取っても自己愛的になってしまうなって感じがするんですよ。
そしたらやってることは何も変わらないってことになるんで。
ただどっちにしてもできないことはできないんで、
そこで困らなければいけないと思うんですね。
ここでできることは困ることだと思うんですよ。
メモすることとかではなくてね。
困ったなってことになると。
赤ちゃんが泣いて愚策って、
おっぱいやっても貸し付けをしようとしても、
着替えさせても物を変えても泣き止まないってことはある。
私も経験がありますが、困るんですよね。
親として。
そして困ることが僕は正解だと思うんですよね。
困ったということが、
うちの子には伝わっていてほしかったと思うんですよね。
伝わっていただろうと信じてるというところになるんだけれども、
親は困った。
もちろん認識も何もしてませんよ。
してませんが、困るっていうことをここで伝えておくことによって、
将来そのうちの子がね、お母さんとかになったときに、
何かがそこで発動するはずだというふうに思うんですよ。
で、それが現実世界でも困るなーって感じになると。
困るというのが正解って感じがするんですよね。
そこでどうしたらいいんですかっていう問いこそ、
僕はそこでお父さんを引っ張り出そうとしている。
つまりそこに裁判官を持ってこようとするっていうのはおかしいと思うんですよね。
裁判官の人によると、
自己愛構造体の影響
いやそれはわがままだからお彼氏の言うことに従いなさい。
そういうことを言われると恋愛にならないじゃないですか。
だからこれはやっぱり第三者が、
第三者調停委員会が出てこれない場面なんだと思うんですよ。
自己愛構造体の世界というのは。
ただこれは自己愛構造体というのは超えなければいけないということになってはいるんですよね。
我々人間社会においてはおそらく思春期付近を境にここを乗り越えていく。
ただ乗り越えることはできても、
だから再びDポジションの話、
輸出ポジションに入るんだけど、できてもなくなるわけじゃない。
私持ってると思うんですよねやっぱりね。
私の母を今思うと、
やっぱりね死んだ後もお前こうこうこうでお金を失わないようにしろみたいな。
だからあんたそれ死んでる時の話してるんだから、
あんたはそれをコントロールできないんだよって私10回ぐらい言ってるんですけど、
未だに伝わってないんですよね。
母は自己愛構造体をここで必ず引きずり出してきちゃってるというか、
それにこうメロメロにされていて、
あんたね私が死んだ後でって子供の時はしょっちゅう聞いたんだけど、
なんか我が親ながらなんて愚かなんだと思ったんだけど、
今思えば私の祖父がああいう人だったから、
これが起きるんだということは今ならわかるんですよね。
したが身分化っていう状態を私に相手に作っちゃってるわけですよ。
死んだ後も生きてるつもりでいて、
死んだ後もなんか雲の上から操作できるようなつもりでいるんだけれども、
それはもうしょうがないことなんですよね。
これが自己愛構造体なんですよ。
ナルシシズムの世界なんですね。
私は彼女の一部になっちゃってるわけですね。
でこれを東映逆同一化とかっていう表現もあるんですけども、
専門的すぎてわけわかんなくなってくるんで、
このことを私が過度に受け入れると、
世の中でよく言うところの呪いってやつになるんだけど、
これも流行らないで不自由言葉の一つではありますけどね。
私は母が死んだ後もコントロールされ続けるような感覚というものを持ってしまうと。
まあ私はもう持ちませんけれども、
なぜなら分析しきれているんで、
ここの件に関しましてはほぼ。
まあ親との付き合いは長いですから。
私だって生まれてから50年付き合ってきてるんで、
さすがにフロイトの力まで借りればですね、
一定の、この場合ローゼンフェルドなんだけど、
ある程度はわかります。
というかこれ難しい話じゃない。
よく子供を操り人形にしているとかって言うじゃないですか。
まあ基本あれですよね。
操り人形って自分の一部の、
自分のコントロール下に完全に置けるって話ですよね。
これ完全に自己愛構造体の話ですよね。
だから私がいいものであればあるほど、
母にとっては自分がいいと思える。
まあこれはよくある親子関係で、
別にそれはそれで、
まあそう悪いことじゃないんですけど、
逆のことを考えなきゃいけない。
私が母にとっては悪いことをした時、
全部自分が引っかぶることになってしまう。
だから非常に気分が悪くなってくる。
そして罰するために分離というものを持ち出そうとすると、
分離した以上はもう罰するでは済まないってことだ。
てか罰する対象は分離した瞬間にもう消滅するんで、
最悪のものがその最悪のものが死別ですよね。
意味のない行為になってしまうということですよ。
気がつくと何の意味もないことになってしまうということが起こる。
それを接触障害の世界で、
すごーく松木さんはすごーくですね。
ほとんど全てにこれをまず見ると。
だからさっきのすごくじれったく、
私のこと覚えてます?みたいな。
松木邦博さんは私のこと覚えてます?の女性の一部にされていて、
徴収になっちゃうわけですよ。観客になってしまう。
医者なんだけど、私素晴らしいでしょ。
私を褒めるためにあなたはお医者さんやってんだからね。
っていうノリになるということなんですよ。
松木さんはこの人をつくづく観察して、
おそらく精神病であろうという結論を達するということになるわけなんだけど、
それは医者だからなんですよね。
我々は医者じゃないので、この種の時にはやっぱりこう、
なんかいい名前があるといいけど、難しいですよね。
自己愛構造体とか病理構造体とか、本当に医学用語ですもんね。
でもこの種のことって遭遇するはずなんですよ。
恋愛で少々こじれればみんなこれをどっちかはやる。
自己愛構造体の理解
遭遇させられるか自分がやっちゃうかのどっちかはやる。
大概の場合両方やる。
なのにこれを気をつけるっていう話にしちゃうっていうのはね、
気をつけるって振る舞いの話ですよね。
僕さっき言いかけたのを思い出したんですけど、
つまりよく言うじゃないですか。
奥さん、今の現代の男の人は、
家事面とか育免ができるように気をつける。
で、それが奥さんからすると、
はなはな気に入らないってことになるわけですよ。
いや、私家事もやります。育児もやります。
気をつけてやってますみたいな。
奥さんはこれを手伝いって言うと怒るんですよね。
これは手伝いって言いません。
それは言わないだけで手伝いだと思ってるだろうお前ってことですよ。
つまり自己愛構造体を気をつけるっていうのは、
僕からするとそういう感じしかしないんですよね。
気をつけることはまあいいんだと思います。
対象両方的にとりあえず気をつけておくしかないみたいなところあると思うんだけど、
問題なのはそういうことじゃなくて、
身分化の話をしてるんであって、
やっぱり分化していくということ、
つまり相手は対象ではないんだ本当はと思えることってことですよね。
そのためには自分の究極的なポイントは、
自分の無力感なんですよ。
話をよく伺ってるとタスクシュートの時一番思ったんですけどね。
エヴァノートのことももっとちゃんと書きましょうよみたいな感じで、
すごく自己愛感が伝わってくるわけですよね。
タスクシュートのことばっかり書いてるからダメなんですよみたいにだんだんそうなっていくわけですよ。
いやその話私の話じゃなくてあなたの話だよねっていうことになっていくわけですよ。
その人は究極的には何がやか。
自分に直面したくはないってことなんですよね。
自分はエヴァノートのこともそれこそスクラップボックスとかアウトライナーのこともすごく知ってる。
でも自分が書いたって耳を貸してくれないんだと。
オンラインマガジンとかにも書けないんだと。
ものすごくその辺は脱価値化されていて今時のほんとダメだよねみたいなことをおっしゃってるんだけど、
でも書きたいわけですよ。
それだけはたまたまお前その無能なくせに上手いことインフルエンス持ってるし、
オンラインマガジンも書けるんだろう。
だからタスクシュートのことばっかり書いてるんじゃねえよ。
俺だったらこうするんだよ。だからお前はそうしろってことなんですよこれはね。
これは一見聞いてると大変聞き苦しいんだけど聞き苦しいんだけど、
聞き苦しさというものはもともと私がその人に遭遇する直前までは全く持っていない感覚だったから、
やっぱり逆転意だと思うんですよね。
そういうことは私はそこにはいないってことだ。
これがもう本当に僕は大事だと思うんですよね。
私はそこにはいない人になってるわけですよ。
ただの部分対象なんですよ。
佐々木というアイコンみたいなものであって人間ではないんですよ。
私は彼から独立して生きていくことは許されてないわけ。
彼からすると。
だからそんな勝手にタスクシュートばっかり書いてんじゃねえと。
この話をすると感じが悪い人の話をしているだけになっちゃうんだけど、
そうじゃないってことなんだ。
こういう人にとってはありますよ。
そりゃイライラさせられるとかあるんだけれども、
でも非常にこれはですね、やっぱり聞き込んでいく。
本来そういう余裕があるならば聞き込んでいって、
その人の無力感というものに触れていかないと、
絶望感というものに触れていかないと、
なんて言うんですかね。
この絶望はでかいんですよ、たぶん。
私の母のお父さんというのは、
アルコール依存だっただろうしDVだっただろうし、
そのおじさんその人の絶望もすごい深かったし、
まして私の母にしてみればね、
母なんて7人兄弟の真ん中なんで、
もうあの時代なんで人間扱いされてないわけですよ。
もうなんか北海道の朝日川なのに、
もう親が気に入らないとなったら雪の中に放り出すみたいな、
よく私生きてたよねみたいなことを言うぐらいの世界。
絶望的じゃないですか。
はっきり言って、
なんか靴下にも穴空いてますみたいな、
まっちゅりの仕事やってんじゃないんだからって感じがするんだけど、
そういう絶望的な人にしてみると、
人を部分対象扱いにして、
力を持ってる人間に対する煽謀というものが、
殺意みたいになっちゃうから、
ここのクソ親父みたいになるじゃないですか。
でも自分4歳とかなわけだから、
どうしようもない、
いいようにぶったたかれるわけですよ。
酒を飲んだとかそういう感じの父親にね。
だから、
絶望的に自分をヘルプレスにしたわけですよ。
全然自分には何の力もないということが、
ものすごく残念だということになる。
この感覚で私にタスクシュートばっか書いてんじゃねえと、
言ってるわけなんですよ。
母が言うならよくわかるんですよ。
母が言うならね、
お前なんで東大に入っておいてくれなかったのよ、
みたいなことを母は言うわけなんだけれども、
それは非常にエゴイスティックに聞こえるんだけども、
そうではないんですよね。
母の絶望感からすれば、
本当にお前私の一番いい部分だったのに、
その一番いい部分がなぜ今浪人しているんだって。
でもやっぱり浪人時代にはそんなことはわかんないから、
このクソババア死んじまえみたいになってくるんだけど、
過去の絶望感
これがつまりPSの投げ合いなんですけれども、
それがだから逆転意なんですけれどもね。
逆転意だけじゃないですけどね。
つまりそういうことになってしまいがちなんですけれども、
ここで何とかするためには、
この病理構造体みたいな、
この言葉でなくてもいいと思うんですけど、
概念が欲しいなって感じがするんですよね。
自他身分化みたいなことは、
この世の中でいろんな言葉でいろんな形で語られている、
操り人形のメタファーだって完全に自他身分化ですよね。
私は母の操り人形になっているとするならば、
それはどうやったって一部ですよ私。
全部を操り人形にすることは不可能だ。
私が私の勝手に動いちゃう瞬間っていうのは絶対あるわけですから。
だから自他身分化というのは、
不可能なことを可能にさせようとしているだけでも絶望的なんだけど、
その人はそもそも最初からある意味絶望しているんで、
その絶望感というものを刺激されたときには、
どうしたってこれをやりたくなるんですよね。
世界を自分中心に回そう回そうとかばっちゃうとか。
ここに無理な、ものすごく無理がかかってきて、
母親を見ているとですね、
これは接触障害の話に切り替えてますけど、
母親を見ていると、
豚肉とか食べてるのになんで痩せてるわけ?みたいになるわけですよ。
ものすごく痩せたい人から。
痩せて美しくなって、美しくなることで世界の中心に入って、
世界を回そうとしている人からすると、
なんでこいつ、昨日なんかね、
ダメだ出てこない。
バカ受けとか食ってたくせに、みたいになるわけですよ。
結構足細いし、許せないみたいに。
それが非常に極端になってくると、
入院させられていてですね、
入院患者でお隣さんと仲良くなりましたと。
その子はなんか平気でチョコレート食べてますとか、
許せないと。
なのに私より痩せてますと。
もう絶対あり得ないということで、
なんかこいつはズルしてるんじゃないかとか、
そういう風になるわけですよ。
こうなると言いがかりをつけることになるじゃないですか。
この言いがかりがつまり、
お前持ったエバーノートの子の家計みたいな言いがかりと、
ほぼ変わらない言いがかりなんだけど、
その人の絶望感というものにね、
私はこんなにひどい目に遭っていて、
食べたものもカロリーの高いものは全部下剤で出して、
あるいはオートで出して、
もともと好きでもなんでもなかったセロリしか食べてないのに、
こんなに太ってるのに、
大体全然太ってなかったりするんですけど、
そういう、つまり何が言いたいかというと、
セロリばっかり食べてるのに、
世界が私中心に知っても回ってなくて、
医者も自分の言う話が全然理解できなくて、
こんな病院に押し込めるし、
本当絶望的だっていうこの気分に触れないと、
ダメだと思うんですよね。
ダメっていうか、
どうにもこうにもならないっていうことになってしまうと思うんですよね。
我々だってそうなるってことなんだと僕はやっぱ思うんですよね。
絶望的でしたから、私やっぱり。
大学卒業して、
大学卒業してまだ俺童貞なんだみたいな、
もう絶望的でしたよ。
この絶望感はね、
刑期を切れない少年たちみたいな、
飛行少年的な話あったじゃないですか。
あれと似てるんですよね。
なんか私、
未来への希望
早稲田中学とかに間違って入っちゃったんで、
本当絶望的だったんですけど、
自分に課されてる宿題っていうのが、
丸々参考書一冊分置いていかれるんですよ。
真っ白なのに、
全部埋めて出すやつとかが半数を超えていく。
一人とかならいいですよ別に。
勉強教なんだろうぐらいで済むけど、
半数を超えていくんですよ。
こっちはまだ1ページも終わってないのに、
半数がもう290何ページの数学のが終わってて、
佐々木もういい加減出せよみたいな、
みんな3冊目だぞみたいな、
そういうノリになる。
これが勉強に置いていかれるってことに結構慣れています。
それであれですけどね、
言い方があれですけど、
でも私の表紙に、
小学校時代は学年でも1、2だったっていうような人間にしてみると、
この絶望感ってでかいんですよ。
でもこの絶望感だって、
やっぱり大学卒業した後に彼女がいなかった絶望に比べれば、
まだまだ全然余裕だって感じがするんですよ。
さらにそれを上回るような絶望感を与えられていけばですね、
世界を自分中心に回したくなりますよね。
一発逆転の方法で。
それがケーキを我慢してセロリを食べるだけとか、
ケーキも食べたいからケーキ食べちゃうんだけど、
その後に大量の下剤を飲めば世界が回るっていうならやりますよね。
その一発逆転狙いますよね。
最近あの引きこもりの人の本読み直してるんですけど、
あの人も一発逆転を目指してたっていうことを何回も何回も書くんですよ。
親にいっぱい金を借りてるとか、
大学もまともに出られなかったと、
その後大学院に入り直してるんだけども、
人間関係うまくいかないとかいう、
こういう不才なんですよね。
その人の心にとても不才。
本当にね、こういう時、無理ですが、
無理ですが、
倉津の圭三さんのグッドバイブスの話を聞かせてあげたいですよね。
今すぐ過去のことは全部なかったということにしろと。
なぜなら過去はもう全部ないんだから。
この心の中で勝手に不才を貯めるなということですよね。
禅なんかでよく言うんですけどね、
禅の人がね、何かを数えるなと。
全部幻想なんだから何かを数えるのやめろっていう。
これはまあ修行としてやるとなると結構大変なんですけど、
ついやっちゃうじゃないですか。
この寺に来て今日も100日目みたいな。
やめろってことですよ。
100日前とかは存在してないんだから、
一切やめなさいっていうね。
もう私も基本的にはそういう数えるというのを一切やめてるんですけど、
めちゃくちゃ楽になります。本当に。
私は別にそういうので今苛まれるっていうようなことはないんですけれども、
もう本当にどしどしとタスクシュートに過去が溜まってるけど、
基本前日のもの以外はないものとみなしている。
なんなら全部削除しても構わないと思うんですけど、
まあ別にどっちでもいいような話なんで、
どっちでもいいものとしてとってあるんですけれども。
このとにかく過去の栄光っていうのはやっぱり同じなんですけど、
栄光がないじゃないですか。
私なんかも過去の栄光にさかのぼろうと思うと、
自己評価と過去の影響
小学校時代に勉強ができたみたいなことになっちゃうわけですよ。
でもこれをさっきの松木さんのやつに習って言うならば、
ものすごくじれったくね。
僕ね、小学校時代には結構勉強できたんですよみたいにするしかなくなるんですよ。
絶望的なんで。だって大学出ても彼女いないしね。
つまりそういうことなんですよ。
一発で幸せを逆転してつかみ取りたいと思ったら、
もう相当のことをするしかないような日がしちゃってる。
そしてその相当のことをすれば、
それがつまり万能空想ってことになると思うんですけども、
相当のことをすればあの時代に戻れる。
あの時代っていうのは小学校時代じゃないですよ。
あの時代というのは赤ちゃんがおっぱいを口に含んでいたあの時代なんですよ。
これが精神分析の言いたいことなんです。
だからそこに話が戻っていくんです。
この時代は確かに万能だった。
それすらなかったですっていう人の場合、
この自己愛構造体の話では進まなくなると思うんですけどね。