冬の気候と日常の雑談
おはようございます。働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト、第1095回をお送りします。
11月25日、月曜日、朝7時52分です。寒い寒いね。寒くなりました。あの、快晴に近いですね。富士山も真っ白になりつつあります。
あの、あれですね。放射冷却と冬型の気圧配置。まあでも、それほど北西の風がここは吹かないし、あの、埼玉にいた頃ほどは寒くは感じないんですけどね。
あと埼玉県って、まあ、えー、私が引っ越す頃はもうそうでもなくなりましたけど、引っ越し縦の頃、私が子供の時は、関東ローム層の赤土がね、この北西の風でバッと舞い上がって、大変冬は不愉快なね、季節になっちゃうんですよ。
静電気バシバシだしね。特に埼玉県は結構来るんですよね。そういうのがね、関東ローム層がここら中にこう堆積している土地柄だったんで、あれは本当に厳しいなーって感じの子供ながらに思いましたね。
習ったんですよ、その、要するに。要するにカラッカゼってやつが吹いてきて、えーと、関東ローム層があります。赤土ですね。で、あの浅間山が噴火すると、なんか皇帝が白くなるんですよね。あれもちょっとびっくりでしたね。
その友達に詳しい奴がいて、そういうことを盛んに教えてくれるんですけど、何アホなこと言ってんと思う。見えもしない山からの灰が吹いてきて、皇帝が白くなるっていうのが、私にはよくわからなかったんですよね。小学校2年ぐらいだったんですけども。見えないんで、その浅間山なんてね。非常にびっくりでした。まあまあ、そんなほぼほぼ関係ない話ですね。
2分近くこれで使ってしまうという。今日は話すこといっぱいありそうな気がしてるんです。予感ですね。何も考えてませんからね、この段階では。えーと、まだ朝起きてゴミを出してトイレに行ってきただけなんで、何かを考える余裕はなかったわけですね。
娘を打った入りがけらに、コロブチカというね、テドリスのバックグラウンドミュージックを弾きながら帰ってきただけなんで、何もしてないんですよ。だから今時間稼ぎしてるわけじゃないですけどね。
12月のお知らせですよ。
マスクシュート総決算というのをやります。これはですね、ちょっとお値段を張ってしまってはいるんですが、12月の14日に銀座のあたりでやることになっていて、オンライン参加もできます。長いんですよ。朝の10時から。朝の10時にはそこに行けるのかって感じもあるんですけど、朝の10時から夕方の16時まで。6時間。
懇親会も含めると、なんだかんだ10時間くらいは行きそうな。僕ね、後半になると何かが戻らなくなってきてね、寝そうになっちゃうんですよね。単純に眠くなるっていうタイプなんで。
寝るのに、僕ほら、徹夜できたことがない。50年生きてて徹夜できたことがないんで、眠ることは苦にならないというか、無理はなくいつでも寝れてしまうんで。
前にね、コテンラジオで、眠れなくなったんで休みまーすみたいな話をされていた方が、やっぱり自分は働き者で実業家だから頑張って、この気持ちが寝てる場合じゃないっていう気持ちにさせるらしいんですよね。
僕それ全く理解できないですよね。だから多分勝ち目のない実業家をやったとするとですね、寝てる場合じゃないとはどんな時も思わないんですよ。だからちょっと運転がね、やっぱり一番問題だろうと思っているわけですけど、寝てる場合じゃないですからね。
12月の24日、よろしければ是非ね、私大橋裕之さん、J松崎さんと、J松崎はちょっとリアルでは参加できないんでパネル参加になっちゃうんですけどね。電子画面、なるべく彼をでかく映したいなと思っているんですけれども、3人の理事が一堂に会し、2.5次元的に言えば一堂に会しますね。
そんな感じの会になって、お祭り的な要素も多分にありますんで、よろしければ。
サスク首都手帳もこのためにリアルにですね、少なくとも5、6冊は撮っておこうと思っておりますんで、是非遊びに来ていただければと思います。
正しさの探求とコミックの影響
ぐじゃぐじゃ喋っておりますが、先日ですね、3ヶ月チャレンジで、厳密に言うと、そうは書いてなかったんですけどね、正しさに振り回されるXのコミックについてちょっと話題を上げさせてもらって、ちょっとね、やりとりが発生したんで、
その時はそれほどいろいろ考えなかったんですけど、その後猛烈に考えるようになったんですよ。
で、これは一つの発見みたいなことをしゅっちゅう言ってるんでね、僕も。精神分析ってそういうところちょっとあるんですよね。
発見を連発しているような気がしてるんだけど、果たして本当にそうなのかという感じもするんですよ。
ウィニコットがその辺のことをね、非常に謙虚かつ皮肉っぽく、何なんだこれは。謙虚かつ皮肉っぽくっていかにもウィニコットらしいんですけどね、その辺のことを猛烈に考えていて、非常にでもいいなと思ったんですよね。
3ヶ月チャレンジは本当に、ガデンインスイッチューのかな、わかりませんけど、体験いいんで、皆さんもぜひ一度は体験、一度体験してそんなにいいと思えないということは起こっちゃうんで、
起こりうるんで、何とも言えないところもあるんではありますが、変な言い方だな。
まあいいや、どういうことが起きたかというと、単純に自分の正しさ、僕はこれを長寿がルールと言いたいんですけどね、長寿が的なものにダメ出しをかけていくというのが有効だったよっていうコミックなんですよ。
そこで言われている正しさっていうのは結構、誤解を招かずに書くと炎上しちゃいそうなんですけど、他愛がないんですよ。100点取んなきゃダメだみたいな、そういうやつなんですね。
それは本当なのかと。自分でツッコミを入れることでその長寿が的なルールを弱らせていく。弱らせていくっていう表現は私はとてもいいなと思うんですよね。
失くしたりはできないんですよ、長寿がってもの。人間の中に長寿がは絶対ある。ないと困るので、本当に。今の時代って外でちょっとこういう話になって恐縮ですが、パチションもできないじゃないですか。
僕昔、子供の頃はみんなしてたんですよ、本当に。そこら辺で。そのことに意外感は持ってなかったんですよ。私が子供の頃っていうのは昭和60年ぐらいなんですけどね。
いや別に普通にやってたじゃんって感じなんですよ。今やってるのほぼ見ないですよね。見たことないですよ、多分。ここ10年は見てない気がするんですよね。
でもこれやっぱ長寿がルールなんですよ。長寿がルールがしかも変更されたわけですよ。変更されるってことはツッコミの位置あるってことなんですよ、これは。
ないと思っている方もいらっしゃるようなんだけど。テストで100点取んなきゃダメなんていうのは全くツッコミどころ満載なんだけど。
この多愛のなさがすごいんですよ。実は私たちが困っていることっていうのはもっと多愛がないルールなんですよ、本当は。
多愛のないルールほどまずリスキーだっていうか、要注意だっていうことが、私は最近サンチャレで、
密かにでも変なんだけど、一般化はできないってこういう話って。だから伝える人には伝えていくみたいな感じなんですけど、これはすごい僕の中では大事な、
方針とはまた違うんで、大事にしているポイントみたいな感じですね。
みんなにこれ大事ですよみたいなことを言うのも、これはこれで意味があんまりないですよね。
多愛のないルールこそ要注意ですってのは一般化してもいいけど、それだけを言ってもたぶんいきなりそれを言われてもほまどうばかりで響く理由はあんまりない。
なんででも多愛のないルールが大事じゃなくて問題。どっちも難しい。問題ではないですね、問題とは言えない。
だって多愛のないルールは大事なんで確かに。
多愛のないルール1、できれば落ちたご飯をそのまま食べない。
多愛のないルールですよね、明らかに。でも大事ですよね。
そしてこの種のルールに僕らはすごい縛られてるんですよ。
自分の子が落ちたご飯をパクって食べたら割とパニックる人はいると思います。
少なくとも結構ワーって思うと思いますね。
多愛のないルールは大事で、しかもそこにロジックはそれほど要求されません。
ダメなものはダメ的世界になっていきます。
多愛がなければないほどそうなっていきます。
そしてこれは大事なんだけど、多愛のないルールです。
だって多愛のないルールですよね。落ちたご飯食べちゃダメって。
憲法9条とかに比べて明らかにそれほど世の中に張り出しておこうみたいにならないルールじゃないですか。
でもこれに僕らはやられるんですよ。
やられるは嫌な言葉だけど、一方違うとこれが政治に関わるんで要注意なんですよ。
多愛のあるルールは、それは人をそこまで困らせることは僕はないと思うんですよね。
例えば最近で言うと道路交通法が変更になり、スマホを見ながら運転しちゃダメですっていうのは、
これはね、これに縛られているが故に離婚したくなるっていうケースに発展するケースはないとは言わないまでも多くはないと思うんですよ。
これに比べて落ちたご飯を平気で食べるパートナーとは離婚したくなる人はいっぱいいるんじゃないかなって思うんですよ。
ここをさらに多愛のないルールを進めていくと、私たちは倉庫的長寿があって、ときどき倉庫はもうご飯のことね。
幼い時の長寿がルールほど私たちにバッチリ食い込んでいて、こいつが厄介なんですよって言いたいわけですね。
僕はこれがサンジャレの一つの大事なポイント。
大事なテーマ。今度はテーマとして取り上げるのもありだなと思っているんですけれども、
これをなんで僕がここで今喋っているかというと、これが働く意欲をものすごく現実させるからなんです。
これね、非常にありますよ。
今はね、ハラスメントって言葉をここにつけちゃうからわけがわからなくなってきていると思うんですよ。
例えば上司がね、他愛のないルールを平気で抵触する上司であった場合、その上司からの指示を聞くと、
多分その人の働く意欲が低下するんだと僕は思うんですよね。
それこそさっきの落ちたご飯を平気で食べて、
最近漫画とかで描かれているパワハラ上司みたいなのって本当に他愛がないなって感じがするんですよ。
つまようじで歯と歯の間を平気で人前で掃除するとか。
そんな人は昭和50年ぐらいにはいっぱいいましたよ、本当に。
そういう人の方が多いんじゃないかぐらいいました。
今はしないからわからなくなっているんですよ。
でもそういう人が平気で描かれる。
つまりそれは幼い頃に、ダメなものはダメという理論でバシッと入れられた。
これはそうしないわけにいかない。だってそうですよね。
トイレでうんこしないとダメじゃないですか。
これはもうそうしないわけにいかない。
なぜダメかとかの説明はいちいちしてないでしょ。ほとんどの場合。
なぜそれはいけないのか。
2歳児とか1歳児半とかにする説明になっちゃいますからね。
せいぜい3歳児でしょ。
毎度毎度のことだからロジカルに説明している場合じゃないですよ。
叩き込まれるってやつなんですよね。
でも叩き込まれたルールに抵触する人はいっぱいいるわけですよ。
人前で大声出しちゃ絶対ダメだって言えばあるんですよ。
でも人前で大声出す人は世の中にいっぱいいるんですよ。
で、抵触するじゃないですか。
でもう一つ、こういうのは人前で大声を出せない人っていう困りごともあるんですよ。
僕少年野球でめちゃくちゃ怒られましたもん。
佐々木声出せ!みたいなね。
これやられても出ないんですよ。
なぜならうちはそういうことがダメなルールの過程だったから。
で、それは明示されてはいませんでしたよ。
人前で大声を出してはならない第一課長佐々木家のルールとかなかったですよ別に。
そういうのは叩き込まれてしまってるんですよ。
しかも怒鳴られたとは限らない。
もうそういう家なんですよね。
そういう家がそういうルールを育んでいて、悪いことではないんだけれども、
ただ育まれたルールはなぜ育まれたのかを当人は思い出すことができないんですよ。
ここでさっきの最初の方で言ったコミックの話に戻るんですね。
範囲のないルールよりは明文化されたルールへのダメ出しは容易なんですよ。
なぜならそれは本当かと問えるから。
でも私たちを本当に困らせているのは僕の考えでは本当かとは問えないルールなんですよ。
本当に自分はどんなルールを守っているのかを意識できないルールっていうのがあるんですよ。
世の中にも。
だからそういうルールに縛られているんだという自覚が持てないときにどうするんだろうっていう問題が、
僕は今認知行動療法側ではどう扱われている5つあるんだろうっていうことが少し気になりだしたんですね。
まだそれをこれ調べるのはかなり手間なんで、
実際調べることに果たしてできるかって感じがするんで、
精神的健康の影響
まだ調べてないんですけど、明らかにこれは精神分析でははっきりと扱ってるんですね。
ただ認知行動でも扱っているだろうと今僕は当たりをつけてるんだけど、
だってこれ扱わないわけにいかないはずなんで、
3ヶ月チャレンジでもこれほど扱うことになってしまっている昨今、
昨今の状況とは何の関係もないんですけど、
これは世の中が口うるさくなってきたということとは微妙に関係あるかもしれないけど、
本質的に関係はないんです。
私たちは長時間に勝手なルールの書き込みをされるのはですね、
そういうふうに僕は今考えてるんですけど、
絶対どの時代でも当然起きたことなんですよ。
例えば鎌倉時代とかでも起きたはずなんですよ。
名上の父親に逆らっちゃダメだとか、
名上の父親に刃物を無闇に振り回しちゃダメだとか、
あるでしょ、そういうルールって。どんな時代にも。
そしてそれは、なぜなのかの説明なんてされませんよね。
なぜ王殿に向かって刃物を振り回しちゃダメなのか。
誰もそんなことは説明しないと思うんですよ。
ダメなものはダメなんですよ。
一族老党が罪に問われるとかになっちゃいますからね。
ダメなんですよ。
これはもう非常に強力なエリフスですから。
無意識的ルールと感情
当然、平安貴族とかの人たちだって、
味方の前でお漏らしとかしちゃダメなんですよ。
そういう話なんですよ、これは。
それ多分書いてなかったと思うんですよね、当時。
名文化されてなんかいなかったと思うんですよ。
で、私たちは、
例えば就職活動に失敗しては絶対ダメだって思ってる人がいたとして、
そこにツッコミは入れられるんですよ。
いや、就職活動全部失敗したとして、
その人は本当にダメな人なのかってツッコミは容易に入れられるんですよ。
こういう水準のやり取りは、
心理臨床でもカウンセリングでも絶対なされてると思う。
ここまではわかるんです。
解釈にせよ、介入にせよ、アドバイスにせよ、何と言っても構いませんけど、
こういう名文化されてるやり取りの中の、
いわゆるこう、
なんて言うんですかね。
不合理な思考って言えばいいんですかね。
気づきを与えるとか促すとか言ったのは、
全部言葉でやり取りできる上に、
日頃から自分の最低でも全意識水準より上にあるもの。
これはいいんですよ。
問題なら無意識水準下にあるもの。
こっちにあって、本人がそのルールを守ってるという自覚すら一切ないんだけど、
破られると動揺が走るっていうもの。
これを突き止めていかないと、
いかないと、
これによって我々は欲打つ的にはまず確実になるし、
これがしゅっちゅう破られてるのを目にするだけでも、
その人によってはめちゃくちゃ落ち込んでいくんですよ。
で、不当人は、
なんていうのかな、分かる。
全く分からない人じゃないんですよね。
周りにいる人は本当に無神経な人ばっかりだぐらいなことまでは分かるんですよ。
でも、なぜ自分がそのように感じるのかは分からないんですね。
で、こうして多積するところにブレーキがかかるんで、
私はこうやって人のことを悪く考えてばっかりいて、
ひどい人間だみたいなことを考え始めるんですよ。
こうやって欲打つが始まっていくんだけど、
その大元になるところ、
この多積をどうやってやめればいいのか、
あるいはこの自責に返ってくるこの流れは、
多積をする以上必然になっちゃうんだけど、
このスパイラルからどう逃れればいいのかっていうのは、
私は課題だな、毎度思うんですね。
課題だなと思うのは、決定だがないなって感じがあるんですよ。
あるっていう風に、これをもし万が一聞いていらっしゃる、
公認心理師さんなり臨床心理師さんなり、
多分ないと思うけど精神分析家の方がいたら、
ぜひ教えてほしい。
これを決定的に打ち破る方法。
松木邦博さんはほぼないみたいな書き方ですから、
これ全くなるわけじゃないですよ。ほぼないんですよ。
手間がかかる。時間と。
松木さんはこういう書き方をしてるんですよね。
気の利いたアドバイスもできないし、
認知行動療法のような認知の歪みを指摘することもしない。
こういう精神療法家である私は怠惰ではないかと相手は思っている。
そうなのかもしれん。と書いてあります。
ほぼ、今の完璧じゃないですよ。本読んでないからね。
でもほぼこういう言い回しですね。
僕はこれ以上いい答えを今のところあんまりよく知らないですよ。
それのどこがいい答えだって思えるかもしれないけど、
ここに果たして本当にアドバイスなり認知的な歪みを指摘できるかっていう、
それは歪みと言えるかという。
例えば電車に乗って静かに寝ようと思って、
あるいはこれから大事なプレゼンがあるから
しっかり構想を寝ろうと思って、
わざわざJR線のグリーン車を取りましたと。
そしたら横に座ってきたおっさんがいて、
大音量のヘッドホンを聞きながらクチャクチャやってると。
うわーってなって全然仕事が進まない。
僕こういうこと実は起きないんですけど、こういう話は聞くよね。
このおっさん何なんだって思う自分がいけないのか、
おっさんがいけないのか。
私はこれに対して認知が歪んでるって言えるかと。
なんならもっと言ってもいいですよ。
体すげえ揺するとか、
グラビアな写真の週刊誌ずっと見てるとかね。
私は全然気にならないですけど。
気になる人は気になるでしょ。
問題だっていう人だっているじゃないですか。
ミマの時代になってくれば。
それはハラスメントですよっていう人もいらっしゃるじゃないですか。
つまりそれはおじさんが悪いってことじゃないですか。
これは多色なのか、歪みなのか。
ツッコミを自分で入れることはできますよ。
社会的圧力と個人の行動
このようなおじさんが本当に悪いのか。
自分の長寿がルールに対してツッコミを入れることはできますよ。
でも僕はそういう問題じゃないと思うんですよ。
なんで際どい異性の写真が載ってるのを週刊誌を隣で見てると、
自分のプレゼン資料の作成が進まなくなるのかというのは、
私はもっともっと自分の中の範囲のない、
うんと思い出しにくいというか、おそらく思い出せない、
自分の家庭で育まれたルールというか長寿が、
つまり相互的な長寿が叫ぶからだと思うんですよ。
叫びますよね。
あの、バカちゃんがビー玉を口に入れたら叫ぶじゃないですか。
ダメーって言うでしょ。
これが相互的長寿がになるでしょ。
言った人にとってではないですよ。
言われた赤ちゃんにとってですよ。
絶対相互的な長寿がとしてダメなんだとは思えないんですけど、
ダメなんだとすら思えないですよ。
あーってなって自分が固まるしかない。
これを狙ってるんでね。
だってそうしないと大変なことになるから。
これは当然狙われますよ。
だからこれはウィニコット流に言うとですよ。
誤解されると思うんですが、
ウィニコット流に言うとこれがトラウマになるんですよ。
なりうる。
でもそれトラウマになろうとなんだろうとしょうがないじゃんってしょうがないんですよ。
だから僕らみんなトラウマを抱えるんですよ。
絶対に。
そしてそれは悪いことじゃないんですよ。
いいことなんですよ。
いいことだけど本人にとっては傷にもなるんですよ。
つまり僕らは傷を抱えるのはいいことだと思うしかないんですね。
こういう傷が隣のおじさんの体の揺するのに反応してるんですよ。
僕はそう思ってるんですね。
間違ってるって言うならそういうコメントが欲しい。
せめて。
まあでもねこいつ間違ってるなと思って聞いててくださってもいいです。
間違うんですよ僕らはね。
間違わないわけにいかない。
そして間違いを指摘されれば傷になるでしょう。
傷つくのはいいことなんですよ。
これが僕らはわからないことだ。
なぜなら赤ちゃんの時だってわからなかったから。
ビー玉飲み込んで何がいけないのって思ってたんですよ。
いや思ってないと思うけど。
なんでそんなに怒られなければならないか。
なぜそんなに驚かされなければならないか。
赤ちゃんは疑問に思ったと思いますよ。
そしてその疑問はついに解消されることはないです。
ないはずです。
だってその当時はわかんないことなんだから。
そのままお互い忘れるでしょ。
その時にあったことなんて。
飲んで叫んだ。
いや覚えてるかもしんないけど全部は覚えてないでしょ。
飲んで叫んだこと。
熱を出しちゃったこと。
その他○○○○○○全部覚えてる人がいたらおかしいですよ。
全部覚えてるわけがない。
でも傷はついてるんですよ。
無数に。
この無数の傷が無数の相互的な長寿がというのか一個なのかはわかりませんが、
ルールを生み出すんですね。きっと。
で、この相互的長寿がっていう表現は、
つまり覚えていない断言的なルールなんです。
覚えていないつまりやっちゃダメってやつですよ。
で、やっちゃダメなことをしかし僕らは目撃してしまうんですよ。
やっちゃダメなことをやってる奴がいるわけですよ。
やっちゃダメな人が実は権力者だったりするわけですよ。
そのために我々は心の傷が揺さぶられて自分の行動が停止していくっていう浮き目に相兼ねないから、
この相互的長寿がというものの扱い方を考えていかなければいけないと。
いや扱い方を教えてくれよって言われるかもしれないけど、扱い方は教えようがないんですよ。
まずその前に扱う対象を思い出さなければならないんですよ。
さらにその前に扱う対象をそもそも扱うべきだというコンセンサスを取らなきゃなんですよ。
私がサンチャレでできることの第一歩は最低ここまでやらなきゃいけないのはこのコンセンサスを取るところなんですよ。
取れてないんですね。
いやそれはおっさんが悪いんだとか、そんなものは無理なんだとか、思い出せないんだとか、認知の歪みを正すんだっていう話がすべて言ってみればこのコンセンサスを取るのの障害になるので、
私は別に認知行動に違反的なわけではないんですよ、実際には。
認知行動とか他どんなカウンセリングでもスキーマでもなんでもいいから、ナラティブでもスキーマでもなんでもいいので、この方法が語られているなら知りたいと思います。
ただこの方法が仮に語られていたとしても、それは心理臨床というかカウンセリングのプライベートな空間のさらに過強に入ってきたところでだけしか扱われてないだろうから、
これについてうまく語ってくれる人が出てくるまでは、聞き握って教えてくれる人があるいはいる見つけるまでは、
多分本読んだところでましてネット上では絶対に見つかることはないだろうという原理的にね、原理的に見つかることはないだろうとは思うんですよね。
明示的なツッコミは見つかるんですよ。
なぜならばそれはみんなが少なくともコンセンセスが完全に取れてないにしてもみんなが課題だなって感じてるんで、
あの変な完璧思考みたいなやつですよ、白黒思考とかね、こうじゃなきゃダメだみたいな、
でもこうじゃなきゃダメだというのが言葉で説明できる文についてはそれだって効果ありますよって。
僕が思うに一つ一つの役点取らなきゃダメとか、いい大学出なきゃダメとか、会社受けたら浮かんなきゃダメとかは、
全部にツッコミを入れていけば最終的にはその総合的な長時間に対する傷も何らかの形で少しは影響を与えると思うんですよ。
でも私はこの方法をずっと取り続けることによって終止符が打てるというふうには思わないです。
なぜならば私自身がそのことならしょっちゅう昔散々やって、ついに終止符は打てない。
だから私自身の体験からしても、3ヶ月チャレンジでずっとディスカッションしているところからしても、
相互的長寿と魔術的思考
これによって終止符が打てる感じにはいたらないんですよ。
これで終止符が打てるならば、今オグデンっていう人の体を取り戻すだけなんです。
このタイトルにすごい惹かれたんですよ。僕ほらだって、働くメンタルを取り戻すって言ってるんで、
性を取り戻すって本当はそう言いたい。性を取り戻すんだって思って、なるほどなぁと思ったんですよね。
しかもオグデンなんで。大変面白いんですよ。上田さんって方が、上田勝彦?すぐ人の名前もわからなくなる。
上田に勝利の章までは正しいと思う。この方も非常にすごい人です。
僕の中では。僕の中の推しみたいな話ですからね。
中に出てくる話に魔術的思考ってあるんですよ。僕は万能空想でいいんじゃないのかと。
わざわざ魔術的思考。面白いですけどね。魔術的思考かって思うんですよ。
この魔術的思考と相互的長寿が僕は同じようなもんだと思うんだけど、
この2つこそが、ここはPRですね。3ヶ月チャレンジの10大テーマです。
10大テーマいっぱいあるんだけど、10大テーマ10個ぐらいにしておこう。
のうちの中でも重要な2点かなと思ってます。
基本的には僕は働くメンタルが損なわれているのは欲打症状だというか、欲打状態に近いもの。
あるいは欲打不安のようなものだと思ってるんですね。
診断はしないんですけれども、そういうもんだと思って。
なんで欲打的になるかは人それぞれなんだけど、根本的には相互的長寿がによる傷がとても邪魔だという感じは持ってます。
ただ相互的長寿がは我々人生に必須なものなので、これに揺さぶりはかける必要があるけど、
なくしたりこれとの付き合いをやめるわけにはいかない。
カウンセリングの重要性
この相互的長寿がを非常に強く支えているものとして、僕はそのいわゆるオグレンが言ったところの魔術的思考ってやつが関係があると思う。
だから魔術的思考をやめて夢思考に行きましょうねっていう話なんですけどね。
オグレンの本読んでてやっぱりすごい思う。
ビヨンの本とか読んでても思うんですけれども、これいいなぁと思うのがやっぱりですね、
日本の方の書いた本は松木さんの本であったとしても、一生朱一なんですよね。
朱一でしかも日本人が受けてるんで、みんなちゃんとしてるよなって思うんですよ。
やっぱ西洋の例って、朱五とか本当なのかって思うんだけど、
朱五の面接が設定されたとか平気で書いてるんで、朱五って平日全部じゃないですか。
なんなんだよって思うんだけど、でもやっぱ朱五だと起こる現状が変わってくるんですよね。
なんか異常事態が発生、だって朱五でね、そんな話を毎日毎日やってたら異常事態も発生しますよね。
普通の人だってなるだろうなって思いますもんね。
この魔術的思考がやっぱり西洋的だなとも思うんですけれども、
だからちょっとモードチェンジして読まなきゃならないですよね。
日本でこれが起きたこととイコールで考えちゃダメだなって思うんですよ。
向こうでは遅刻ってなんかね、日本人が思うのとは違った意味を持ってるんだろうなと。
やっぱ遅刻が出てくるんですよね。
で、朱五だから絶対そういう日はあると思うんですけどね。
でもこれは魔術的思考なんだと。
それはね、アメリカではそうなんでしょうね。
日本人だとちょっとやっぱ違う意味だけど甘えっていう、やっぱりロイさんの表現は妥当だなって思うんです。
日本人がやったら魔術的思考って考えてもいいけど、甘えって考える方がわかりやすいよなと思うんですよ。
とにかく、ある日にですね。
1時間遅く、すごい滑らかな感じの人だって。
この滑らかさってのは超要注意なんだけど。
3ヶ月チャレンジの時も僕が今一番、同じなんですよ、さっきの問題と。
いちいち突っ込み入れる問題と全く同じなんですけど。
一番私が、私のこのサービスにおけるサービスの構造上の問題でもあるところの課題だって思うのが、
問題がないという方の問題なんですよね。
何の問題もないんですけどっていうような、少なくとも私は今困ってないんですけどみたいな。
これですね、心理臨床の方がよくカウンセリングを受けに行きましょうとか、
カウンセリングのハードルを下げましょうっていう話されてるんだけど、
カウンセリングなんて受けたい人いっぱいいるのにっていつも思って、
ああいうものをXとかノートとかで読んでるわけですよ。
ただ僕はPRの仕方が難しいのはよくわかるんですけど、
一つこういうPRがあると思うんですよね。
私が困ってるんじゃなくて、私が困らせてる人をここに連れてきたいんですって言ってる人に来てもらえばいいんですよ。
これは今みたいに言うとわかりにくいですかね。
例えば私は肉親が引きこもりだとか精神病水準だとか言ってるわけですよ、この番組でね。
彼女を連れて行きたいと思っている私がカウンセリングを受けるべきなんですよ。
うちの夫はモラハラで、私何の問題もないんですけど、本当夫ひどいんで、
ぜひ夫をカウンセリングしてやってくださいっていう人がいらっしゃったら、
その人はカウンセリングを受けに行くべきなんですよ。
これが僕が思うところの、これはもう誤解を招くのは百も承知ですが、
症例診断主義で手が届いてないところだと思ってるんですね。
だってその人は自分に問題ないと思ってるんだから受けに来ないですよ。
自分には問題がないのだが、カウンセリングを受けさせたい人がいるんですって人が受けるべきものこそカウンセリングなんです。
二重の意味で。
社会的な問題の考察
一つはそういう困った人に本当に困らせられているならば、
そして自分だけでは手に余るというならば、だから離婚だって話になるんでしょうけど、
離婚って結局こういう見方もできると思うんですよね。
私がその人のケアをするのを諦めました。
他の人たちに任せますっていう意味だと思うんですよ。
モラハラだとかDVだとかいう話になってるから、
いやあいつは社会から本来隔離すべきだぐらいに思ってらっしゃると思うんですけど、
私はこの考え方の中にはやっぱり、
どれほどその人が賢明で離婚するのが悪いとは私は全く思わないですよ。
一方的に私が被害を受けたんですという人が、
どれほど一方的に被害を受けたのが100%正しく見えたとしても、
ナルシシズムであることに変わりはないと思うんですね。
また絶対にこれも炎上ネタなんですけど、
まあもういいです。別に炎上するならすればいいんですよ。
本当に。
あのー、なんつーのかな。
この話は、えーと、被害を受けたかどうかという話をすれば、
必ず社会モデルになってしまうっていうのは先週お話した通りなんですけど、
要するに問題ながら被害を受けたかどうかの事実認定は、
カウンセラーにはできっこないってことなんですよね。
で、カウンセラーにできっこない以上、
そのことをカウンセラーに100回証明してみせても意味はほとんどないんですよ。
カウンセラーは探偵業じゃないんで。
えーと、あるいはまた弁護士とも違うんで、
あ、だったら離婚しましょう。離婚手続きを私がの方で始めますみたいなことは、
カウンセラーにはそもそも権限的にもできないし、
つまりそこで喋ってる時間って無駄になってしまうんですよね。
でも、しますよね。
ここが大事なんですよ。
マラハラの夫を連れてきたいっていう人こそが、
受けるべきものが僕は正規の、特に正規のカウンセリングでは、
ここをPRできたら、うまくPRできてる人は、
多分、ウェイティングリストいっぱいなんじゃないですかね。
っていう気がしますよね。
だって、これほど世の中にハラスメント言われてるということは、
ハラスメントで困ってる人が山のようにいるわけじゃないですか。
そのハラスメントの連中をここに連れてきて、認知の歪みを正してやって、
ハラスメント行動を取らないように、行動変容を促すことができたら、
どんなに素晴らしいでしょうって思ってる人が、つまりたくさんいるってことじゃないですか。
それができるって言っているカウンセラーさんのところに連れてきたいじゃないですか。
どっちも来ないんだけど。
当人は、つまりハラスメントで困ってる人は、
私被害者なんだから、私に何も問題あるはずないじゃんって言うわけだから、
カウンセリングなんか受けに来ない。
ハラスメントやってる人はもちろん受けに来ない。
だから、カンコ鳥が鳴きますって話になってるんだけど、そうじゃないはずなんですよ。
だって来させたい人がいっぱいいて困ってる人もいっぱいいるんだから、
そうじゃないはずなんですよ。
だから、どっかでそのお客さんを大量に殺到されているカウンセラーさんだっているはずなんですよ。
これは僕の全部推論ですからね。
僕の勝手な妄想で統計取ったとかそういう話では全くありません。
統計取る気なんか全くないし。
僕は社会問題扱ってないんで。
正規の方はここをPRするといいんじゃないかと、
僕が勝手に妄想しているという話です。
でも間違いなく、昔ながらのファミリー家族療法、グループカウンセリングとかが一定程度以上、
家族療法でも夫婦カウンセラーでもいいですけどあるのはやっぱりお互いがそう思うからなんですよね。
こいつ絶対カウンセラー受けるべきだ。
いやあなたこそカウンセラー受けるべきよみたいな。
本人たちは受ける気ないみたいなね。
この2人が同時に来ることはあるじゃないですか。
だってそれによって相手を変えることができると思うから。
これこそが僕はカウンセリングの需要だと思うんですよね。
僕は常にサンチャレではそこを意識してPR文は書いているつもりではあります。
まあそれが本当に僕のこの推論が当たっているかどうかはさておきですよ。
でも多分少なくとも私だったら、やっぱりね、肉親連れて行きたいっすもん。
あの人が行ってくれるって言うならね。
まあその連れて行こうとすれば多分私は無事では済まないだろうから。
だからこうなるんですよ。
これぐらい困っているってことですよ。
つまりだからですね。
ツッコミを入れてそれを訂正できるという段階であればいいんですが、
私はその段階には普通にないと思う。
これはもう僕もいつもすごく考えさせられていて、
かなり最初のうちからですね。
山崎隆明さんを以前3カ月チャレンジの方にお話いただいたこともあるわけですけれども、
山崎隆明さんが遠畑海斗さんの言葉として、
贅沢な悩み、そして精神分析というのは要するにお金のかかるものなんだっていう話あるんですけど、
僕はですね、でもこれは決して贅沢な悩みではやっぱりない気がするんです。
ここはねすごく引っかかってるんですよ。
信田沙耶子さんが言論の中で遠畑さんのHAPには納得がいかないみたいな話されてたんですけど、
平成のアリフレタシニ療法って言うんですけど、
あれは非常に上手いネーミングだなと相変わらず思うんですけど、
アリフレタルテルというのは何なんだっていうね、
そんなに楽なことをやってる人は誰もいなかったんだと、
遠畑さんの大先輩たちはね、だから言いたいわけですよね。
言いたいことがいっぱいあるんでしょうね。
その気持ちはよくわかるんだけど、それと似た話だなと思うんですよね。
贅沢な悩み、上手いネーミングなんですけど、
何も悩みがないですっていう人の悩みは決して贅沢じゃないんですよ、僕が思うに。
気づく水準の下にあるものに本当のところ困らされているということで、
人は何か致命的なことをやりかねないところがあるんですよ。
ダメだっていうこの表現は、
多積とか自積という範疇に入れることができないんですね。
多積がいけないとか自積がいけないとかいう話よりも、
ダメだっていうそれがやってくるっていうのは、
主観的にはただやってきちゃうんで。
僕はだからですね、非常に困った話だとも思いつつ、
しかもその非常に分かりにくいと考えられるんだけど、
それでもアリカさんだけの書かれたウツパン、
あんまり引用するのも時々はわかりながらやっておりますが、
過酷な正義感の影響
ウツパン書かれてたあの話はすっごい正しいと思うんですよ、ある意味では。
あの人の起死年齢が一体どこから来るのか全然わからないじゃないですか。
なんですよ、あの漫画。
いきなり死の宣告が来るんですよ。
何にもないんですよ、それ以前。
何がダメだとかどういう生き方が良くないとか、
断片的には出てくるんだけれども、
でもだからなのかっていうのが全然わかるようになってないんですよ。
むしろこれを見つけてしまう。
そうすると何かしたくなるっていう、そういう感じで。
つまり本当にふっとこう何か自分の世界に何かが差し入れられるというか、
ねじ込まれるようにしていきなり棒のようなものがスパッと入ってきて、
もう自分はダメだったみたいになるわけですよ。
100点取れなかったからとか、会社に落ちたからとかが何にもない感じなんですよ。
何にもなくはないと思うんだけど、
でもそれらは多分ですね、理由じゃないんだって感じがするんだと思うんですよね。
きっかけでしかないんだっていう感じがするんだと思うんですよ。
だからお母さんが剥いてくれた梨の話が、
僕はあれはどこもいいシーンなんですけどね、梨が剥いてくれるんですよね、お母さんがね。
私は正直梨が好きではなかったが、
そういうのも悪いので食べることにしているみたいな感じなんですけど、
これでもう非常に極端に言うと死にたくなっちゃうんですよ。
僕ここに長寿がらしきものがあると思うんだけれども、
さっきの何にもないじゃないですか。
上司に怒られたとか、何か大きなミスをしてしまった。
それは本当にいけないことなのかっていう問い合わせができないじゃないですか、この状態では。
梨は好きではなかったが、そういうのも悪いので食べることにしたって言って、
明らかにもう相当うつっぽくなってるんですよ。
っていうかずっとうつっぽいんですけれども。
何が原因かというのが明示できるような水準には、
浮かび上がってくることがほとんどないんですよね。
ただ非常に僕はここは視察的だなという、そういうシーンがほとんどなんですけど、
ゴミ箱、カラスが。
私ね、今朝も車の通勤してるときに、娘を送ってるときに、
カラスがゴミを散乱させていて、うわー大変だなと思ったんですよね。
そこに向かって殴りかかっていくシーンがあるんですよね、うつぱんさんが。
このシーン僕すごい好きなんですけれども、
カーって言ってるときにガーって言って、
カラスに向かって拳を振り上げていくんですよ。
本当にあったことなのか分かんないんだけど、
多分本当にあったことなんじゃないかなっていう感じがするんですね。
そして僕が3ヶ月チャレンジで意識してるのはこういうことなんですよ。
それって正義感なの?っていう感じもしなくはないんだけど、
でもそんなことしたからって、
別に荒らされたゴミ捨て場がきれいになるわけでもなんでもないしね。
これって問い合わせ無理ですよね。
母との記憶と怒り
カラスがゴミを漁るのは本当に悪いことなの?とか問わないじゃないですか。
そういう問いの問題ではないし、
本当に悪いことかどうかはともかくとして、
すごく困るよねって話でありますよね。
でも何かに触れるんですよ、傷に。
だってゴミを散乱させてダメだって、
私たち子供の頃に1回は言われてるでしょ。
そういうことしちゃうじゃないですか。
ティッシュペーパーめちゃくちゃむしるとか、
おもちゃを片付けろって言われて、
うちの母が酷くて、
おもちゃを片付けなさいとか言って、
いきなり平手打ちされたことがあるんですよ。
僕はね、母に殴られたことって数度あるんだけど、
数度しかないんだけど、
うち1回がよっぽどあったんでしょうけど、
でも母は時々そういう風になるんですね。
完璧に忘れてますからね、母はね。
面白いなって思うんですよね。
それは私がそうだなぁ。
留学から帰ってきた頃に、
ちょっとふと話したことがあるんですよね。
その時に、いや、しょうも夢見てたのよそれは。
すげぇなっていう。
殴ったこと1回も私ないからっていう。
これがね、もう、
認知症をちょっと不安になったんですよ。
いや、認知症にしてはまだ若いよね、みたいな。
そういうことをちょっと一瞬よぎったぐらい、
完璧に忘れてるってすごいなっていうね。
覚えてなくても全然いいんだけど、
1回も殴ってないっていうのが、
完全に信じ切って言えるっていうところに、
大変、脳というものについて。
僕は当時脳に凝ってましたから。
アメリカ留学中だったんで。
脳神経科学をやりに行ったわけですから、
基本的にはね。
脳大丈夫かな、みたいな。
そういう心配をちょっとしてしまった記憶があるぐらい、
なんですけれども。
記憶を改変する必要はあるんで、
それ自体は悪いことではやっぱりないんですけどね。
ただ、そんな時のことは滅多に覚えてない。
あの時だから僕はスーッと殴られたって言ってますけど、
覚えてない回数を入れるともっと増えるはずなんですね。
で、覚えてないわけですよ。
で、カラスに殴りかかるというのは、
まさにその人の長寿がの傷が疼いたんだと思うんですよ。
ものすごい凝想で、
しかも既に人号派してないんで、
カラス号になっちゃってた。
で、あの人はすっごい大人しいパンダの絵で、
ただただ先生に怒られ、人にいじめられ、
ある意味では落ち込んでばっかりいるんだけど、
いかに内面の怒りがでかいかっていうのを、
あれはよくよく表現できますよね。
何の意味もない。
カラスに殴りかかりに行ったって、
カラス逃げるだけなんで、
本当に何の意味もないんだけれども、
そうせずにはいられないわけですよね。
それぐらいの長寿が的な怒りですよ。
正義的な雰囲気はないわけじゃないですよ。
ゴミを荒らしてるカラスに怒ってるわけだから。
ただ正義というのか、もう何というのか。
だから子供がダメだーって言ってる感じ。
この感じで僕らは、
僕は一番深刻な事態を自分たちは招くと思うんですよね。
で、なんで途中でちゃんと説明できませんでしたけど、
後日やりますが、
万能空想・魔術思考って話が出たかというと、
つまりこの長寿がって、
万能空想レベルに近いと思うんですよ。
万能的な長寿がなんですよ。
万能だから怖いんですよ。
鬼ヶ島に鬼退治に行ったやつですよ。
これ松木邦博さんの割とオハコなんですよね。
なんで桃太郎を鬼ヶ島に鬼退治しに行こうと思ったんだろう、
的な表現なんですよね。
あの人らしいなって思うんですけど。
絶対的正義感ってやつなんですよ。
なぜならば鬼は退治しなければいけないからなのだとなんですよ。
Xでドキドキ突っ込みが入っていて、
まあ突っ込むのは当然なんだけど、
突っ込むところではないってことなんですよ、
この大事なところ。
鬼が悪いのかとかじゃないんですよ。
鬼は退治せねばならないから鬼なんですよ。
うんこはトイレでしなければいけないんですよ。
食卓に置いちゃダメなんですよ。
なぜなのかとかはあるんだけど、
あんまりないんですよ。
なぜなのかの意味はあんまりないんですよ。
悪であるから悪であるなんですよ。
これに自分が成敗されるっていうことの恐ろしさというのかな、
その厄介さ。
これが自分に向かってきてしまうということの厄介さなんですよ。
それを僕は取り扱ってるつもりなわけで、
これを取り扱うのは決して贅沢なことではないんだと僕は思う。
これはもうみんながやられてしまうことだ。
だってほら江戸時代なんていうのは恥をかかされたとか言って
切腹したりするみたいな話だったわけじゃないですか。
これ完全にそういうものよりも水準は上かもしれないけれども、
そういうところまで入ってきていなければそんなことできませんよね。
今の人恥、恥ずかしい思いをしたからって
切腹しないと思うんですよ。
つまりこれってのは相互的な長寿がというものは
やっぱりこう一番確実に苦労してしまうし
容赦がないんですよね。
よく過劣な長寿がとか容赦のない長寿がっていう表現を取るんだけど
まさに容赦がない。
容赦がないのは赤ん坊だからなんだと思うんですよね。
赤ん坊容赦ないじゃないですか。
どこまでも泣くみたいな。
力いっぱい泣く。
何の余裕もなく泣く。
今が夜中だとかは関係ない。
昔なんかちょっと悲惨な漫画があって
なんだっけなあれはな
吉田家事件か寺田家事件かな
長寿犯の人がですね
赤ん坊が今泣いたら新選組に切られるからつって
赤ん坊が泣きそうになった時に口塞いだら赤ん坊死んじゃったみたいなお話あるんだけど
容赦がないわけです赤ちゃんは。
ここがどういう状況かとか考えてくれないんだよ。
この長寿がにやられるんですよ私たちは。
絶対にお前は間違ってるっていう風に赤ちゃんが泣くように
自分に対して攻撃を加えてくるから
ものすごい僕らは動揺するんですよ。
他愛のないことで関係ないんですよその時何が起きてるかなって。
赤ん坊はそれを理解できてない。
僕らにはそういう力がある。
そういう力道が僕らの心では働くから
その他愛のないことで自分がうわーってなっていってしまって
全く身動きの取れない状態まで落ち込んでしまうと
現実との関係性
ここを取り扱わなきゃいけないと思うんですね。
その鍵を握っている表現というかモデル観念として
私はこれは思考の混乱とか歪みとか認知的なバイアスとか
そういうことでは決してないと思うんです。
たぶん。決してと言いつつたぶんはないだろうって感じなんだけど
でも違うと思うんですよね。
だってこれは必須じゃないですか。何度も言いますけど。必須ですよね。
やっぱり今は外でマッチョはできないんですよ。
必須なんですよこの感覚。
なぜなのかとかそういうことではない。
だけれども現実というものと深くリンクしている。
決して単純に万能空想ではないんですよ。
空想ではないでしょう。やっぱり。
寝ている最中に疎走しちゃいけないと。
なぜなのか。別にしょうがなくないってところもあるじゃないですか。
しょうがなくないですか。
寝ている最中には必ず起きてトイレに行く。
なぜそんなことが人にはできるのか。
これやっぱり倉庫的な生じがのおかげじゃないですか。
意識水準でできることじゃないですよね。
意識水準では僕らは明日ものすごい大事な海外出張があるから
もう絶対どんなに眠くても4時半に起きなきゃなんないんだよって言っている人が
平気で7時だってなるじゃないですか。
意識水準というやつは。
意識水準なんてそんなもんじゃないですか。
オクターニーの取引があるとかも
意識水準は十分に機能させることができないですよね。
だからアラームを鳴らす。
でもトイレも起きますよね。
倉庫的長寿がってのがどれほど現実と密接にきちんと結びついて機能しているか。
ただあまりにも融通が効かずあまりにも容赦がなく
あまりにも現実検討能力が低いので
これが例えばですけれども
なんかちょっと隣のどうでもいいような同僚に
なんか最近仕事なってないんじゃないって言われただけでも
もう1ヶ月寝込むみたいなことが起きちゃうわけですよ。
本当に。
なんならもう日本からいなくなりたくなるみたいなことも起きてしまうわけですよ。
釣り合いが非常におかしくなるわけですよね。
それは今言ったような事情で。
そしてそれは僕はある意味精神病水準なのかもしれないけれども
精神病と心理療法の探求
現状に適応できている人にはいくらも起きていることだと思ってるんですね。
そういう意味では神経症水準と精神病水準を
人で分けることを決してできないっていう美音の考え方は正しいと思うんですよ。
精神病部分と非精神病部分はみんなにあって
精神病部分は僕らの中でいつも私たちを相当悩ませていて
この悩みは僕は絶対精神分析しか扱えないとかではあってはならないと思うんですよね。
実際には認知コード療法だって絶対ここを扱ってるはずだ。
どう扱ってるのかを知りたい。
これを釣りで止めることができるかもしれない。
眠れないっていう人に睡眠導入剤をあげれば眠れる。
これも完全に意識水準ではできないことですよね。
多分これは相互的長時間なのかわかりませんが
精神病部分、完全に無意識水準の中ではまだ寝ちゃダメだ。
単純にそれだけのことなんです。
まだ寝られないっていうそういう声が古典ラジオの人みたいにね。
あるんですよ。
そしてそれは容赦がないんです。
いやすごい眠い。
ここで寝ないとむしろ古典ラジオとか続けられなくなるんだとか
病気になるんだとか鬱になるんだとか
全然効いてくない。
ダメだ。起きてろ。
ただそれだけなんですよ。
そこに理由はいらないんですよ。
やっぱ鬼ヶ島に鬼退治への世界だ。