00:06
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1140回をお送りします。
2月20日、木曜日、7時38分です。
摂食障害の話
今日はですね、ちょっと摂食障害の話を、これも昨日3ヶ月チャレンジでこの話が出たんで、
あ、そうだなぁと思い出しまして、今日は摂食障害の話をしようと思ってるんですけど、
そうだそうだ、その前に、お知らせはとりあえず一旦置いといてですね。
この番組および3ヶ月チャレンジというものの、前何度目だって話したんですけど、ほぼ毎日ですよね。
1000度目ぐらいじゃないかって感じもしますけれども、
位置付けというものについて改めてお伝えしたいと思うんですけど、
昨日これ、たまたま間違ってライブでやってびっくりしたんですよ、本当に。
寝ぼけてますよね、絶対ね。
多分今の私も寝ぼけてるんだけど、やっぱね、5時半とかに起きちゃいかんのですよね、人間はね。
このアホみたいに寒いのにマイナス3度とかって、おはやどうなってんだぐらいに間違ってるという気がするんですけど、
先日さらに関係者に、昨日のライブはただ間違って僕がライブやっただけだから、それだけの話なんですけど、
その前にね、実はコラボをしておりましてですね、
それがもうどこに撮ってあったんだか、私の声以外は何もないという、
だからね、聞いてる間はシーンとしてるんですよ、相手の方が喋ってくださっても。
とてもいい方なんで、再度収録することに、本当に申し訳ないんですけど、
僕は明らかにスタイフがよくわかっていないという、でもね、これね、わかりにくいんですよ。
前にも思ったんですけどね、スポーティファイのアンカーの時代もですね、思ったんですけど、
絶対これのね、スマホ、アプリというよりはスマホ機能なんですけど、本当わかりにくいですよ。
ボイシーとかも、J松崎さんとコラボで収録することありますけど、
なんかね、じゃあここから飛ばしますからとか言われても、向こうからそう見えても、
こっちからは何をどう飛ばすんだぐらいな勢いなんで、
どこに何のメッセージが来てるのかもよくわかんないし、
なんか本当に撮ってつけたようなURLに行くじゃないですか。
で、スタイフもそういう機能があるから、URLをお出ししてね、そこに載ってもらったんだけど、
そうなったら自動的にではないんですよ。
どこかに相手の方のどこかにあるんじゃないかと思うんですけどね、
声も収録が合成ファイルっていうのになるように思うじゃないですか。
でもなってなかったんですよね。
心のスペースを広げる重要性
本当に申し訳ないし勘弁してくれよっていう感じで、
びっくりさせられたというだけなんですけど、
だからね、要するにこれの扱いは言うほど簡単ではないという、
1000回やってませんけどね、スタイフはね。
でも100回はやってるんだけど、間違うんですよ。
いやーびっくりしたね。
昨日は本当にびっくりした。
何を考えてるのかさっぱりわからない。
ライブ収録をするつもりとか、原則ありませんからね。
あ、そうそう。
それで3ヶ月チャレンジの改めて位置付けというものを、
別にそんなことを真面目に聞いていらっしゃる方はいないんじゃないかぐらいに、
2ヶ月後に言うほど僕変わってそうですからね。
要は何が言いたいかというと、
最近分かってきたというか、
だから最近僕はまた位置付けを、
少しは何かがクリアになってるからこういう動きが少し起こる。
少しずつ少しずつ行くわけですね。
これはですね、私が週に1回セッションをするということが基本なんですけど、
これはまず心理療法では全くないと。
つまりこれね、もうエクスキューズで言ってるわけじゃないんだということがようやく明らかになってきたんですよ。
カンセリングではないんですね。
だからアセスメントしないというのは、
まあしちゃいけないようなことになってるってこともあるんだけど、
そもそもアセスメントを私は別にしたいわけでは、
したいわけでも何でもないということが分かってきたんですよ。
で、あの、何て言うのかな、
方針はないんですけど、あんまり。
ないんですけど、なぜなら私が多分ね、
心の底では人が成長するということを信じてないからですね。
これはね賛否あると思うんですよ。間違いなく。
僕の多分、ある種の偏りだし、何なら病理と言われてもおかしくはないんですけど、
確かに人はこっちの方がいいよねってのは、
なんとなくお金があった方が貧乏よりいいよとか、
何なら人と喧嘩ばっかりするより穏やかな人の方がいいじゃんって言われればそうなんだけど、
それはあくまでも人間社会における一つのある意味、
思維的な自粛だと思うんですよ、私はね。
そうなんだけど、別にそうじゃなくたっていいだろうっていう感じを、
僕はどっか相当強く持ってて、
多分ですが、これは仏教なんですよね。
家が寺に、寺で30年育てられて、影響ゼロってのはおかしいですよね。
すごい受けますよね。
仏教って基本的に、これは正しいとは思いませんけど、
弱滅思想って呼ばれるぐらい、
人類が滅んだからといって別に悪いことは何もないぐらいなところがありますから、
ほら、人の指、連続殺人ですよね、シリアルキラーですよね。
アングリー・マーラとかも、最後はブッダに消えして偉い坊さんになるみたいな話あるわけですよ。
それを言うとアシュラもなるんだけど、アシュラも実在しない人間だと思う。
人間じゃないんで、アシュラは。アシュラなんで。
もう消えしたことになっていて、要するにそこまで行くんですよね、仏教っていうのはね。
非常に極端なものを言うと、スターリンやヒットラーだってちゃんと仏教に救われますよと仏教は言いたいわけですよ。
そんなものは信じられないっていうふうに考えられても、全然不思議はないと思うんですけど、
僕はそれは、究極的にどっか信じてるところがあるんですよね。
だからといってあれですよ。
今ではあれですけど、ミャンマーの誘拐事件とか、いや酷いと思いますよ。
だからそういうのって完全成功とれるとは僕は思えないし、僕の中では全然統合されていないんですよ。
その都度その都度ってことなんですよ。
ただ、犯罪というのは結局人間が勝手に決めることだよねって感じがするんですよ。
だってね、猿が猿ボコボコに殴っても障害罪だって思わないじゃないですか。思うことすらないじゃないですか。
カマキリが交尾中にパートナー食っちゃったって、それはもうちょっと猟奇的すぎるとかって言ったって始まらないじゃないですか。
何て言うんだろう、実存的にはそうだと思うんですよね。
しょうがないと思うんですよ。そういうことを言い出すのは。
犯罪は犯罪で困るから刑務所入れましょうみたいに。
やむを得ないと思いますけど、本当の意味では善悪ではないような気がするんで。
つまり善を目指すとか成長を志向するっていうのは恣意的なものだろうと。
この恣意的だと言ってるのがどのぐらい真面目に受け止めるかはやっぱり人それぞれなんですよね。
3ヶ月チャレンジではこの問題は本当は僕は前面には出てきてないと思うんですけど、理念的にはこういうやりとりって怒っちゃうんですけど、しょうがないと思うんですよね。
私が信じることを信じさせるなんてナンセンスだし、でも私は相手のどの人がどんな成長動機を持っててもそれに対して何かを言う資格はないけれども、
それを押し進めるというのは私がやることではなくていいはずだってのはどっかにある。
3ヶ月チャレンジの考え方
だから3ヶ月チャレンジに入っていただいても成長はしないんじゃないかと私は思うんですね。
どこかで思って。
でもその人が参加者さんが成長するんだということであれば、それはそれでOKだと思うし、それを邪魔しないようにする、妨害はしないようにするという。
ただ私が最初に手がける目標はいつも同じで心のスペースを広げる。
心のスペースを広げるということを思考できるだけでも、それどころか心のスペースという概念をはっきり意識できるだけでも、私は精神力動系が一番手っ取り早いと思ってるんですよ。
今は認知行動系でもそういう話になるんだということがなんとなく理解できてきたんですけど、でも精神分析系が一番早いと思って。
じゃなきゃもう宗教になっていくしかないっていう感じがするんですね。
だから私は精神力動をリファレンスする、参照し、それを個別のビジネスコンサルティングのベースの中で、理念的なことを問われるならば、多分、えーと、なんていうんですかね、心の機能を言うなら、
持ってないという人は、持ってないとか完全に不全であるという人がサンチャレにいらっしゃることは無理だろうと思うんですよ。
入れないだろう。入るための資金を獲得したり、何なら継続的にそういう収入を維持し、かつ言葉のやり取りを持ってここを嗅ぎつけられる人は、
おそらく心的機能が一部弱っていたり、一部シャットダウンしやすく、シャットダウンはないな。
一部ややセーフモードっぽく動いちゃうことがあるにせよ、基本は備わっているし機能してるはずだから、そこを強く意識すれば、あるいはフォーカスすればいける。
それを提供するっていうのがだんだん見えてきたんですね。
この観点に立つならば、もう一つやってるワンオンセッションはこのためにどうしてもいると思うんですよ。
テキストでのやり取りも基本無制限にしていてオプションなんですよね。
使っても使わなくてもOKですと。
精神分析やってるわけじゃないんで、カウンセリングやってるわけでもないんだから、これでいいはずなんですよね。
つまり人生相談愛好会なんですよ。あるいは精神分析愛好会なんですよ。
だからこれについて正しいやり取りをしなくてもいい。
でも完全に間違ってるってことはおそらくないはずなんですよ。
やっぱり世の中野球談義をしていようとピカソ談義。
だから別にこれドストエフスキーについて語る会でも、E線行くとほぼ同じような機能を果たせるはずだと思うんだけど、
それだとみんながドストエフスキー読まなきゃならないじゃないですか。
あるいは文学愛好会でもいいんだけど、そうするとみんなが文学読まなきゃならないじゃないですか。
少なくともある程度文学に興味持ってなきゃならないじゃないですか。
それだったらそれよりは人生相談に興味を持っているという集まりにしておいた方が、話が直接的で早いと思う上に、
別にある種の努力をいらない、別にカラファザフの兄弟読まなくても済むっていうメリットが考えられて、
ここまで考えたんですよね、ここまで。
だからみんなでそれについて話し合う時間と、一応私が温度取りをしているからレクチャーっぽいことをする時間と、
私とそれについて、私という話は結局いつまででもやってられるところがあるから、好きだからね。
ずっとセッションでやっていくと。
その形式をカウンセリングの形式を真似るとか参考にするというのはありだろう、こういう立て付けなんですね。
なので、ついでに言っておくとタスクシュートは直接は関係ない。
ほぼ僕が勝手にタスクシュートやってるだけだし、ただこのセッションの記録をタスクシュートクラウド2のノートに取ってますね。
そのぐらいの関係はあります。
だからタスクシュートは便利ですよっていうぐらいは伝えられるけれども、
タスクシュートの会をやるとかではない。
それだったら是非認定トレーナーさんの方の会に行くなり、何なり、100日チャレンジ、ハンズオンとか、
いっぱいガッチリ、こういう私のようにフワッとしたものじゃないんであっちはね。
ちゃんとしたものなんで、つまり何が言いたいかというとエディプス的なものなんで、
ジェーン松崎お父さんが頑張ってるからそっちに行った方がいいと僕は思うし、
そっちがオススメですね。こっちではやらないよってことですよね。
だからタスクシュートと極めて間接的な関係、つまり僕がタスクシュートを使ってるという以上の関係はないです。
もちろん会の中で会としてやりたいっていうことであれば、別にそれを反対する理由はさっき言った通りないので、
やんなくはないです。やんなくはないけど、それをサービスの軸に置くこともないです。
およびですね、これと100日チャレンジはあまり関係ないです。
事実上関係ないです。これも私が100日チャレンジをやってるということであって、
もともと100日チャレンジと3ヶ月チャレンジは名前が似てるからね、
まぎらしいのはしょっちゅう言い間違えられることがあるんですよ。
ある種の方には、一定の方には言い間違えられて、ちょっと名前変えようかなと何度も思ったんだけど、
変えずにきてうまくいってるものを変えてはいけないというか、
変えないというのは私のフリーランス経験則なんで、変えずにうまくきたものは変えません。
だから3ヶ月チャレンジは非常に紛らわしい。だって3ヶ月90日だし100日チャレンジだと、
どう違うと全然違うのにどう違うのかってことになるんで、説明しておきますと関係ありません。
3ヶ月チャレンジでチャレンジするのは、心のスペースを広げるために、
山崎翔吾と毎週毎週エセカウンセリングみたいに見えるかもしれないものをやります。
ワンワンセッションです。プラスグループセッションをやります。
そしてこの間テキストでのやり取りも受け付けます。
ただしテキストはすぐに返すとか必ず返すとかそういうことではないです。
テキストは私に何かを言いたいということもあるでしょうし、聞きたいということであれば簡潔なお答えを出すこともありますが、
テキストでカウンセリングをするみたいな話とは全く違うんで、これはカウンセリングじゃないんだな。
もちろんそれが精神分析みたいだということで、でも精神分析ではないんですよ。
それを名乗る資格もないんですよ。ここは大事なんですよね、ある意味ね。
それとは違うことをやってます。あくまでも。心のスペースを広げる。そしてそのスペースを活用する。
それは精神分析でしょって言われると、それはそうで、そういう理念というかそういう方針をある意味持っている部分の分析にあるのは確かですが、
これは分析ではない。私は分析と全く同じでなくても、こういうことは起こり得ると思っている。
だって家族でも起きてるから。そして精神分析と同じようにはいかない。それは病理を扱ってないことですよね。
そうですね、そういうことで言ってますと。
さらにこのポッドキャストは最近、別にこのポッドキャストに何の定義も与えてないんでね、私はね。
このポッドキャストは趣味なんですよ。何をやってるのか、一番確実にこれはあるっていうのは、
私はここでいわゆる精神分析やカウンセリングでいうところのスーパーバイズの代わりがこれなんですね。
私が自分の自由連想をしゃべる場である。だからこれはもちろんポッドキャストなんですけど、
SNSとして私が、でもSNS幅広いじゃないですか。別にマーケティングをやるとか、何をやるとか決まっているわけじゃないんですよ。
私はここで、私の言うならば、私は皆様の3ヶ月チャレンジの皆さんのお話を伺う。
だから私はここで私の話を誰かに、おそらくは3ヶ月チャレンジの参加者さんに聞いてもらう。
聞いてもらってどうするの?こうするのはない。聞いてもらう。聞いてもらうことによって私は多分必要な何かを得ているわけですよ。
ここはだから私の必要な何かを得るための発見だったり、それこそメンタルのなんとかはほぼないんだけど、たまにはそういうこともあるでしょう。
話を聞いてもらう。傾聴してもらうということをやっているわけですよ。
いや誰も傾聴してないでしょって言われるかもしれないけど、そういう問題ではないですよ。
これは不在の母親の在だから、いないお母さんがいるということなので、いないお母さんいないんだけどね、ないおっぱいを吸うということなので、これはそういうことなんです。
それが何なのかと言われても困る。ある意味野球を見に行くということに近いということですよね。
演劇でもいいんですけども、演劇だと直接的すぎる気がするんですよね。野球を見に行くのに僕の感覚はほんと近いんですよ。めちゃくちゃ近いんです、はっきり言って。
野球ってほら、もういいや、やめよう。めんどくさくなってきた。
ウィニコットです、ウィニコット。意向空間、能性空間。ここにだって僕は空間出現感を持ってますからね。
別にそれはいいじゃないですか。僕は一人で勝手に喋ってるだけですよね、頭から見れば。
これはもう心的現実なんでね。あるいは夢、夢空間、そういうことですね。
ここで誰が聞いてるとかではないってことなんですよ。
なので、だってこれ3ヶ月チャレンジの前からやってたわけですから。
一番最初やってた時はグッドモーニングバイブスとか言って、私のグッドバイブス実践している倉園圭三さんのグッドバイブスに、
あの頃に、私は今でも深い敬意を持ってるんですけれども、大変感銘を受けていて、また興奮状態覚めやらぬ状態だったので、
グッドバイブスについて語るぞ、みたいな。とにかく語るんだってこと。
なぜならグッドバイブスというものが私の体をどう通過したかということを、通過してるんだぞということを自分に多分フィードバックを送りたい。
だからこれもね、グッドバイブスを広めるためでしょって言われると、
広めるためにやらないと倉園さんには申し訳ないから広めるためにやってる、手を取るよっていう風を装うよって感じだったんだけど、
広がらないじゃん、こんなことやってても。
広げるためならもっとこうね、YouTubeとかでバンバン広める努力をせいって言われるかもしれないけど、僕はその種の能力がないんですよ。
そしてモチベーションもないんですよね。モチベーションないわけじゃないですよ。
グッドバイブスを広めようという意思は少なくとも3ヶ月チャレンジを広める意思よりは遥かにあったんですよ。
あったんだけど失敗したんですよ。要は僕は下手なんですよ、この種のことをやるのが。
僕は思うんですけど広げるためにポッドキャストは向かないと思うんですよね。
なんか特に僕ポッドキャスト始めちゃうと朝のCMこれやるじゃないですか、必ず。
でもあれはやらなければいかんっていうその今しめみたいなもんであって、やらない癖がつくともうすぐやらなくなるから。
僕ね、これをやめる心配をする人がいらっしゃるんですけど、全然意識が違う。意識っていうのは意識が高い低いじゃないですよ。
僕の感覚と関連とあってない。僕多分これね、口が辛くなるとわかんないですけど、できる間は永遠にやめないですね、私これは多分。
で、これをやるということをマーケティングとかとは何の関係もないですよ、本当に。
広がるとかないんですよ。なんならこれ僕、公開しなくてもやり続ける。ここが大事というか、私の感覚なんですよ。
別に今公開してないわけですね。だから昨日のライブは本当僕のミスなんですけど、でもね、なんかこの日のミスが起こるということはやっぱりなんかあるんですよ。
ウィニコットの言う失敗に近いなって思ってるんですよね。なんか非常に大事な何かの要素が入っていると思っているんですよ。
ただそれが何だかを今分析する余裕もなければあまり意欲も湧かないんで放っておいてるんですけど、そのうちわかるはずなんですよね。
とにかくですね、僕がこれを喋ってるのは僕がここで喋りたいからなんですよ、単純に。たったそれだけなんですね。
収録したまんまで公開していないままのやつもかつて結構あった気がするんですよ。
全部削除してますけれども。いろいろ圧迫するんで。全部削除してますけれども。いや、出してよって言われると思うんですよ。
思うんですけれども、だから出したいなって思うんですけど、でもですね、私がやりたい最大の理由はここで私がiPhoneに向かって喋りたいというのであって、
そういう空間を出現させるのであって、その後の公開に関してはお希望がありますから、本当に申し訳ないと思うから出しておく。
別に隠したいと思ってるわけでも聞かせたくないと思ってるわけでもなんでもないんでね。
だけれどもこれを聞かせたいと思ってるわけでもないし、広めたいとはさらさら思ってないという。
広まっちゃ困ると思ってるわけではないですよ。そういう目立ちたくないとかじゃないんですよ。
これをやりたいという意欲がそっち方面とはつながってないんですよ、あんまりっていうことなんですね。
だからここに何の3カ月チャレンジは緩やかながらコミュニティを形成してるんですけど、ここにはコミュニティ感ってないじゃないですか。
私がここでやってることっていうのは1対1感を持ってるんですね。すごく持ってるんですよ。
なんかここで何かが形成されている感じってのは持ってないです。
僕が持ってるこの、さっきから言ってる可能性空間っていうのは洗面所なんですよ。洗面所で喋る私なんですよ。
これより外がないんです、感覚的に。だからある意味一時ナルシシズムの世界なんですよ。
一時ナルシシズムの私の世界を象徴的な言葉で語るとこうなるみたいな、そういう感じなんですよ。
そうであってほしいなっていう。でもそこがどこかとなく現実とつながってる。
だからこれはウィニコット流に言うところの、ここで聞いてくださっている皆様は環境都市の母親として私に環境供給をしているんですよ。
だから聞いてもらってるということは大変役に立つっていうのはおかしいな。
まあ役に立つのか。甘えなんですよ、私のね。
そういう風な感じが非常にあるんだなっていうのをね、最近知ったんですよ。
これを皆様がやってるという実感を多少持っていただくことでですね、
私から何かを受け取ってるんじゃなくて、私に何かを差し出してるんだっていう感じで聞いていただくと多分何かの役に立つんだと思うんですよ。
聞くだけで済むんですよ。
そういう相互のやりとりは絶対インタラクションは母子関係に私はふんだんにあると思ってるんですよね。
母子関係でここで言ってるところでは父親を含みますから、ここが分かりにくいんだよね。
接触障害との向き合い
でもいい加減接触障害の話始めますね。
話っていうか本なんですよね。
月国博さんの接触障害の治療技法。
絶対変われそうにないよね。
接触障害でちょっと苦しんでる思春期系の女性。
もうちょっとなんとかならないんだろうか、こういう世界って。
こういう本じゃダメだってことなのかな。
でも僕はこの本が一番接触障害というものを、自分がもし接触障害だったとすると、これ以上に役立つ本は多分ないだろうなって思うんですよね。
対象関係論からのアプローチ。
月国博長って。
なんかね、いいですね。
今後出版社さんは。
3500円。
安い方ですよ、はっきり言って。
今後出版社さん。
この間というか昨日だ。
ウィルフレッド・ビヨンの家族に罪を告白するみたいな。
あーすげー読みたいと思って見たら6500円とか。
ふざけんなって感じで。
そんなね。
私は専門家として研究してるわけじゃないんで。
なんだその金額はっていう。
本の金額。
おかしいでしょ。
6500円とかって。
それによって分かることはビヨンが家族に迷惑かけた話でしょ。
ある意味ぶっちゃけ。
それもビヨン流の。
分かんないですけどね。
すげー分かりにくい言葉で書いてあって。
おそらく全部は読まないわけじゃないですか。
私はね。
6500円とか。
本当にもう。
650円で買えるとはかけらほども思いませんでした。
ビジネスモデルの難しさ
多分4000円ぐらいはするんだろうなと。
6000円ですからね。
そこまで堂楽に金は費やす。
これ堂楽ですからね。
ある意味。
この堂楽であり。
一時ナルシシズムであり。
ビジネスサービスでもあり。
コミュニティ運営でもあるというこの無茶苦茶さが。
私が3ヶ月チャレンジに徹底的に意識していかざるを得ない。
これが故にいつどこで崩壊するか分かったもんじゃない。
ビジネスってそんなもんじゃないですからね。
やっぱりね。
本当に出版業界には足を向けて寝られないんですよね。
あれほどお父さん感がある世界。
だから男性中心社会になっちゃうんですけど。
でもやっぱあれから持ってたんですよね。
だってパチンコに比べて10分の1産業。
10分の1以下産業じゃないですか。
もう今1兆円切ってんの。
産業全体で1兆円切るっていうの。
本当に持たないでしょそんなんじゃっていう。
しかも再販制があるからどんなに古い本でも価格が全く落ちないという。
いろんな人がいろんなことを語るんですけど。
私なんかもそうだけどビジネスのこと全然わかってないくせに語るんですけれども。
本当に相当頑張ってきたと思うんですよね。
いろんな人たちが。
だからもう素人な考えはだいたいダメなんですよ。
でも素人が参入してくるし素人が考えていくことになるんですけどね。
本当に業界って難しいなって思いますけど。
僕は別に業界人じゃないんでね。
難しいなと思っとけばいいわけですけれども。
何の話をしてるかというと。
あれは本当にカチッとして。
あれがビジネスモデルってものなんだなと。
うまく回ってませんけどね。
はっきり言っても今や。
こんな僕のは本当にまさにこれは素人ママごとなんですよ。
でも僕はこれで生きていこうと食っていこうとしてるんで。
その無謀さが私なんですよ。
これで50年やってきてるんで。
あと50年くらい。
50年はやる必要ないよね。
あと15年これができればもう勝ち切れるみたいな。
別に何ら勝ったと見出してもらえると。
ホリエモンからするとほとんどクズみたいなところあると思うんですけど。
ホリエモンみたいな人からすると。
別に僕は彼に悪意とか持ってないんでね。
やっぱりビジネスモデルってのはそういうことじゃないんだってことを考えさせられる。
最近エクセケンスさんっていう人が。
借金は借りられるならもういくらでもしましょうみたいな。
でも借金で贅沢してちゃダメですよみたいな。
これがやっぱりお金を儲けるプロなんだなっていうね。
私はこういう言葉の意味が分かってないですからね。
投資に回そうっていうのは分かるんだけど。
投資に回して何になるんだみたいな。
そういう人間なんで。
やっぱりなんかうまいステーキ食いに行く方がいいじゃんみたいに。
アホですよね。借金でうまい飯食ってちゃダメなんですよね。
そうなんだけど、そうなんだけど。
やっぱりピッとこないんですよ要するに。
家寺ですからね。残念ながらね。
寺は借金して投資するはずないんですよね。
だって何にも生み出さないわけですからね。
ここ超大事ですよね。
やめよう。
そんな話をしててもしょうがないんで。
接触障害のお話。
なぜ接触障害の話をするかというと。
一つにはもし接触障害というものをこれを聞いてる人には
年代がちょっとね。
世代的にちょっと。
もうちょっと年配な方が多いと思っておりますけれども。
この本はいい本なんですよ。
ただ専門用語はやっぱり連発してくるんで。
そうしないとこの本10倍ぐらい分厚くなる。
10倍はないけど3倍ぐらい分厚くなっちゃうんで。
他の本を参考にする必要は残念ながらあります。
しかもそっちも安くはないというね。
松木邦博さんの対象関係論の基本的な本か。
やっぱり藤山直樹さんの。
でも藤山直樹さんの本って人に勧めるにはちょっと。
相性がね。
両方読んでみて相性いい方だけ最後まで読んでいただければ。
この接触障害の本すごく丁寧に書かれているんで。
この丁寧さが松木さんの本の最大の特徴ですね。
集中抗議精神分析はなんかね。
あんなに入門的にきっちり書かれてるのに何か行間が飛んでるんですよ。
非常に不思議なんですよね。
藤山さんという方は私からすると。
ちょっとだけ読もうと思っているんですけれども。
非常に松木先生の本はですね。
先生言っちゃった。
行間を飛ばさないために引用がしにくいのですよ。
しかもよく読むと結構。
まあいいや。
言い訳をしていても始まらない。
松木さんがまずじゃないんですけど。
接触障害の心理的側面
ここで言ってるのは不安ということを言ってるんですね。
不安ありますよね。
接触障害の女の子みたいなのをパッとイメージして。
シンナーやってて暴走族やってるみたいな。
かなり典型的な本当にそんな人いるのかみたいなのをがっちりイメージしてほしいんですけど。
不安。
すごい伝わってきますよね。
私のようにシンナーやったこともなければバイクに乗ったこともない人間が。
まして盗んだバイクに乗ったことのないような。
カラオケでもう間違っても尾崎豊は歌わないような人間でも。
この人たちから不安で伝わってくるんですよ。
不安ならなんかこうもうちょっと違うことすりゃいいじゃんって思うんだけど。
そうじゃないんですよね。
不安が強すぎて。
彼女らが欲打つ不安。
不安ですよ。
将来への不安とかでもいいと思うんですよね。
実生活の中で必然的に体験していかざるを得ない。
喪失。
傷つき。
悲哀。
在業感って書いてある。
後悔。
重く苦痛な情緒体験に持ちこたえることができないから。
まず喪失。
まあだいたいだって金使ってるしね。
人間関係も若干以上失ってると思うんですよね。
喪失と傷つきが当然ありますよね。
恋愛とかされるでしょうから。
傷つきますよね。
異性から傷つけられずに恋愛するのはほぼ不可能じゃないですか。
ましてその若い頃に荒っぽくやれば当然そうなりますよね。
悲しいですよね。
悲哀。
在業感。
悪いことしてるって意識が。
これ僕強すぎると思うんですよね。
死んだらちょっとあれかと思うんだけど、
バイクに乗るとかそんなに悪いのかっていうね。
在業感強いですよね。
後悔。
結局そういうこと。
重く苦痛な情緒体験ということになるわけで、
別に難しいことは言ってないんですよ。
この接触障害の話でいいのは、
こういうすっごくわかりやすい、
ビジュアルでもわかりやすい世界について、
精神分析用語を当ててきていて、
それが余計な邪魔だっていうのは、
僕はおかしいと思うんですよね。
だったらば、
もっと違う言葉でこれらのことがきちっとわかるように、
誰かが書くべきですよ。
なんかね、
書き方が甘くなるんですよね。
本当は彼女らも寂しいんだみたいなことって、
割と新書みたいなのに書いてあるじゃないですか。
それじゃわかんないって僕思うんですよね。
もっときっちり書いておいてくんないと。
わかるだろ?本当は寂しいんだよみたいな。
そんなんじゃダメだと思うんですよ。
そういう情緒に訴えかけるような。
法治者はそれでわかるかもしれないし、
本当はそうだな。
教育関係者とかならわかるのかもしれないけど、
一般の我々は、
それだとふわっとしかわからないんですよ。
だからどうしたらいいんだ。
寂しいんだから、
一緒になって遊んであげればいいのかみたいな、
だいたい拒絶されるでしょ。
そういうのってどうしてなのかってのを、
こと細かに、
結局だから専門用語というのは、
細かい説明を正確に描写するためにやってるわけですよ。
私は接触障害をここで問題にしたいわけでは全くなくて、
ライフハックを問題にしたいんですからね。
彼女らは幼児期に達成できていなかった、
抑鬱体制での全体対象としての、
もうわかりにくいじゃないですか。
全体対象としての母親との親的分離、
内的には自己と対象の分化に、
再び出会うことになる。
すなわちパーソナリティの統合の過程を、
より意識的に必然的に体験していく思春期に、
もう一度対抗した表面的な具体水準でのやり方である、
理想化された部分対象としての身体表彰を、
かっこ痩せとの投影同一化によって、
くぐり抜けようとするのである。
全然、これ多分語られたんでは、
今みたいにしゃべったんでは、
全然伝わらないと思うんですよね。
でも私はこれを読んで、
ようやくこの本を通過する頃に、
自分精神分析わかってきている気がするっていうのが、
確信めいてきたんですよ。
だから本当はスーパーバイザーなのかわからないですけど、
こういう解釈でいいですよね、いいですよねって言いたくなるんですよ、
この世界って。
でも誰もそれを教えてくれる人がいないんで、
何しろ100人いるかどうかわからないとかいう精神分析家の人が、
そんな人たちに1億人の日本から探し出せないんで、
探そうと思えば探し出せるけど、
家庭教師やってもらうのじゃ高くついてしょうがないんで、
しょうがないから本読んでるわけですよ。
本読んだだけでわかった気になるなっていうのは、
矛盾してると思うんですよね、こういう本が。
3500円混合出版さんとはいえ、
一般書として、一般書じゃないんだけど、
一般人にも手に入るんだから、
読んで、しかもこれ読んで、
すっげー難しそうなんだけど、
そう難しいことは書いてないんですよね。
だったら簡単に書けって言われるんですよ。
それはそれで僕はおかしいと思うんですよ。
これ簡単に書けないんですよね。
残念ながら。
彼女らは幼児期に達成できていなかった
抑鬱ポジションでの全体対象としての
母親との親的分離というのは、
つまり、2、3歳児に、
幼児期と母親との関係
おそらく、せいぜい3、4歳児における
自立を言ってるんですよね。
つまり、お母さんは私のことだけを
考えてくれるわけにはいかないんだっていうのを、
これはものすごい辛いんですよ。
この当時としては。
でもなんとかそこを達成するしかないんですよね。
お母さんは私のために存在しているべきなんだけど、
その用事にしてみればね、
べきなんだけど、
でもそういうわけにはいかないんだと。
で、この時にあんまりシビアなのはダメですよ。
お母さんだって買い物に行くんだぐらいじゃないと。
お母さんだって愛人のところに行くんだっていうのは
3歳児には無理ですよね。
だから、ものには限界っていうものはあるんですよ。
だからこういうことが起きちゃうわけですよね。
無理なことを要求されすぎてはいけないんですよ。
お母さんだって例えば自分に
全体対象の理解
きついことを言うことはあるんだと、
いうことは分かってくる。
それは私のために言ってるんだみたいなんでもいいんだけど、
とにかくそういうのが持ちこたえられないというか、
適切じゃなかったやり方でそういうことをやるから、
全体対象が見るっていうのが嫌。
全体対象というのはつまりお母さんというのは
1個の人格であって、
私のためにのみ存在している存在ではないってことですよね。
だから全体対象なんだ。
全体対象が内的っていうのは分かりにくくて、
全体対象っていうのはやっぱ外的だろうとは思うんですけどね。
その辺はちょっと分かりにくいことも色々ありますけれども、
でも抑鬱態勢っていうのは、
だからそういうことを最初に考えた時は
絶対うつうつとしてくるわけですよ、子供としては。
多分泣くぐらい。
だってお母さん自分のために今までいるとずっと思ってきたのに、
0歳1歳の時はそうなんで、
お母さんのおっぱいっていうのは私のためにあるもんだぐらいに思ってたのに、
いやそうではないですっていうのは悲しいってことなんですよね。
そこで悲しむべきなんだけど、
そこで怒り狂うとかになってしまっては、
くぐり抜けられてないってことになるわけですよね。
で、この分離という問題に僕らは1回では済まないわけですよね。
これはすごく厄介なんだけど、
でも1回目ほど酷いショックは受けないんですけど、
それ以降は常識的に考えて、
でも1回では済まない。
特に思春期では再び出会うことになるわけですよ。
だからもう1個のパーソナリティの統合っていうのは不思議な言い方なんですけど、
統合というのはすなわちですね、
なんて言えばいいんですかね。
まあいいや。
一旦必然的に体験していくというのは、
もう1回、離立っていう問題が表面化してくる。
今度はお母さんが私のためだけにいないってなる。
当然としてこの世の中っていうのは、
ナルシシズムと対抗手段
私のためにできてるわけじゃないっていうのを受け入れなければならなくなってくる。
これは結構対抗すると、
我々はしょっちゅうこうなるんですよ。
絶対に世界は私のためにあると思ってますよ、僕らは。
だから怒るんですよ。
怒るってことは術からくある程度以上に、
この世界は私のためにあるんじゃないのかっていう怒りなんです。
絶対僕はそうだと思うんですよね。
じゃなきゃ怒らないと思うんですよ。
傷つくとかっていうのは、傷つくのはもっとそうで、
絶対傷つくときに人は、
世界は私のためにあるんでしょ。
あんたは私のために生きてるんでしょって言ってるわけですよ。
これはいいんですよ。
ここが大事だと思うんですよね。
僕らは主観を通してしか世界見られないんだから、
夢を見てるのと同じじゃないですか。
世界の中心に自分いますよね、間違いなく。
太陽の周りを地球は回ってるのかもしれないけど、
世界は私の周りを回ってるんですよ。
だって私は回ってないじゃないですか。
実感しないですよね、自分が回ってるってこと。
地球ぐるぐる回ってるし、太陽もぐるぐる回ってるんだけど、
そんなこと実感しないじゃないですか。
自分止まってるだろって思ってるじゃないですか。
止まってないですよね。
だから自分止まってるだろっていうのはもう夢なんですよ。
止まってる感じしか持ってないということは夢なんですよ。
だから佐々木が3ヶ月チャレンジとか、
何だろうな、100日チャレンジとか、
昔で言うとタスクシュートのセミナーとかでは、
本当に酷いことを言われることが時々あったわけですよ。
当然言うんですよ、僕は。
だって僕のナルシシズムの中に生きてるんだから。
そうじゃない生き方をしてる人は、僕の考えではですよ、
いないはずです。
いやマザーテレサは違いますって言われると、
マザーテレサは違うかもしれない。
それはしょうがない。
例えばね、なんだっけ、
どこかの小国の貧乏な国の大統領は、
リアカーとかを自分で引っ張って大統領やってるという、
ああいう人は、もしかするとナルシシズムの世界から出てるのかもしれないけど、
まあでもね、100億近い人類がいて、
100人いるかいないかだと僕はそんな人は思っているんで、
99億9900万何千何百人は、
みんなナルシシズムの世界の中で生きていると僕は思ってます。
そしてそれで世界は絶対回ると思ってるんで、
その外に出るっていうのはおかしいと思うんで、
自分回ってるのを実感するわけっていう感じがするし、
喧嘩して自分が悪いとしか思わないっていうのはおかしいと思うんですよ、絶対に。
それはそれで病理だと思うんである意味。
だから当然自分を中心に回ってるんですよ。
世界は自分のためにあるんですよ。
おっぱいは自分にのみ差し出されるべきであって、
自分が好きなだけ飲めるべきなんですよ。
そういう世界に僕らは生まれ落ちるわけだから、
なんでそうじゃなくなるんだ急にっていう、
怒りと抗議の気持ちを持つのは当然で、
そこが悲哀に変わるっていうのは大変な進歩なんですよね。
だから僕は進歩って信じてないんだけど、
この時だけの進歩を信じるんですよ。
人は抑鬱ポジションに進歩する瞬間がどこかにある。
バーナード・ショーっていう劇作家がイギリスで、
自分に道徳という観念が何の徳にもならないのに突然生じたのにびっくりした。
それまでは狐が鳩小屋から鳩を食べるように、
自分の欲望を満たすのはごく当然のことだと思ったんだけど、
ある年からそうじゃなくなってびっくりしたっていう、
あれに私もびっくりするんですよ。
僕もそういう経験があるんですよね。
びっくりするべきだろうって思うんですよ。
だっておかしいじゃん。
道徳的な気持ちっていうのが突然芽生えるっておかしいと思うんですよね。
それは人間の優しい心ですとか言われるんだけど、
冗談じゃないよって思うわけですよ、ある意味では。
だってその優しい心のおかげで時々損をしたりして、
みんな怒ったりするわけじゃないですか。
その優しい心どこ行ったんだって感じがするじゃないですか。
つまりこの優しい心だけじゃ生きていけないと多くの人は思ってるんだけど、
でも芽生えることは当然だみたいに思ってるんだけど、
僕の中ではちっとも当然じゃないんですよね。
だからここで欲打つ不安というものがずっときてですね、
世界は私のためにどうやらできてないらしい。
すげー怖い。
この怖さがヨルベナサを生むんですよね。
この怖さすなわちヨルベナサですよ。
世界は自分のためにできてるんじゃなかったら、
俺じゃ生きていけないじゃんってこうならないとダメだと思うんですよね。
これが不安なわけですよね。
で、この不安をくぐり抜けられない。
ここで対抗した表面的な具体水準でのやり方というやつ。
つまり何かやるわけですよ。
例えばですけど、おっぱいでいっぱいの倉庫を作るとか、
これすっごい具体的なやり方じゃないですか。
世界が自分のためにできていないというのは理念的な感覚なんだけれども、
理念上そうじゃないってことが、
だって太陽系は回ってますとかいうのは見ることできないんで、
あくまでもそれは記号による理解なんで、
世界を記号化してるわけですよ。
世界という記号は私という記号のために、
いろいろあれこれや、自動的にやる、
自動的というそういう概念を使って説明しようとしてるわけですよ。
してくれないらしい、実に恐ろしいことだっていうことで、
おっぱいをいっぱいの倉庫を作っておけば私安泰みたいな。
これってすごい具体的な対策じゃないですか。
こういうことが書いてあるんだと思うんですよね。
だから対抗した表面的な具体的なやり方である、
理想化された部分対象、要するにおっぱいというのは、
理想化された部分対象なわけですよ。
おっぱいだけが私のためにあればいいって、
お母さんとかは意識されてないわけですよね。
部分なんですよ、お母さん。
親的部分対象としての身体表象で、
私の理想的な状態というものが守てればいいんだ、
っていうイメージを持っちゃうわけですよ。
だからここで女子だからね。
痩せている美しい女の子。
だって痩せている美しい女の子だったら、
世界は多分その人のために動いてくれるからって思うわけですよ。
素敵な男性とか素敵じゃない私のようなおっさんとかじゃなくてね。
素敵な男性とかお金持ちとか、
みんなは私のために動いてくれるから。
そのためには私が部分的な身体表象、つまり痩せですよ。
そう、投影との投影同一化ですよね。
によってくぐり抜けよう。
まず投影するわけですよ。
痩せていて美しくて可愛らしい完璧な私っていうのをまず自分でイメージして、
それと自分が一体になった感覚を持つと。
こうすれば世界が私のためには回ってないというこの現実を無視できる。
世界は私のためには本来回らないものかもしれないが、
その辺はちょっとぼんやりさせておいて。
でも美しく痩せている私のためには世界中がいいようにしてくれるだろうっていう投影同一化によってくぐり抜けようとする。
摂食障害の心理的側面
だからこれは難しいことは言ってないですよ。
それは望ましい友人や、これ松木さんの本ですからね。
望ましい友人やタレントのようになる自分。
あるいは望ましい母親の求める期待を完全に成し遂げている素晴らしい万能的な自分。
子供ですよね。
超優等生で可愛い子みたいなやつですよね。
自分として意識的に彼女らに体験されている。
意識的には彼女らに体験されているものである。
つまり過去そういう時代があったんですよ。
だってそれはね、おはじき3つ3個とおはじき2個を合わせると何個になるの?みたいなのを答えれば、
大いに母親が喜んでくれた時代ならばそれで済むんですよ。
私素晴らしいって済むんですよ。
だから世界もお母さんも自分のために動く。
なぜなら私は素晴らしいから。
これで済むんですよ。
難しいことはここは言ってないんですよね。
でもこのお母さん実はそういう良い面ばっかりじゃないんですよ。
おはじきがじゃあ5個と5個をこうやって正方形に並べたら、
全部で25個になるんだよわかるみたいな、全然わかんない時にぶっ叩かれるとかそういうことが起こるわけですよ。
つまりお母さんは過酷で攻撃的な長時間になったりするという恐ろしいことが起こるわけです。
実に恐ろしいことなんですよね。
で、そういう恐ろしいことを回避するために防衛するために、
こういう恐ろしい目に自分が合わないようにするためには何をすればいいのか。
吐けばいいんですよ。
そうするとお母さんはめっちゃ心配して正方形の面積とか恐ろしいことを言い出さないで済むんですよ。
大丈夫って言ってくれるじゃないですか。
お母さんはいつまでもいいお母さん。
つまり不安がある母親の心配、世話という幼児的一体感を作り出す。
摂食障害の心理
よってそこでは彼女らを支配し、追い詰め、残酷に要求が増し、長寿が対象としての母親の側面は隠されたままなのである。
これを狙ってのことですよね。
で、これをやってる限り抑鬱不安はワークスルーされない。
つまりこの不安というものに持ちこたえたり、それを心の中で消化したりするってところに行き着けないままなし、
虚飾と痩せに充足している自己愛状態の万能感は抑鬱不安そのものが存在していないかのようにしてしまい、
この痩せたい見たり食べないでいるっていうことに超熱心になっているだけで人生はうまくいくような気がしていくってことですよね。
この自己愛状態が慢性に構造化され、自己愛構造体を形作っていく土台が枠付けされるというわけですよね。
この話どんどん続くんですよ。
いくらでもこういう話って周辺的な部分ってあると思うんで、
でもこの話じゃないですか、我々全く同じですよ。
僕は全く同じだと思うんですよ、正直言って。
つまり、我々はですね、やっぱり将来、抑鬱不安なんですよ、老後が不安だと。
だって世界は私のために回ってない。
私が適当にね、兄さんとかよくわからない投資に手を出したって、世界が私のために回ってるんだったら、
100万円で投資始めました、明日には1億円になりました、やっぱり世界俺のために回ってるよねと、
いいおっぱいどんどんジャンジャン供給されるじゃんってことになるじゃないですか。
ならないでしょ実際は、100万円失うじゃないですか。
老後が心配だってことになるじゃないですか。
これが抑鬱不安じゃないですか。
世界って俺のために回ってないんだわ、ひどいねって。
だって最初支給とか使って、私に同意もなくこの世に送り出しておきながら、
世界、お前のために回ってないからって、お前頑張らないと死ぬからみたいな、すっごいひどいじゃないですか。
だから抑鬱不安にも老後が心配とか、将来が不安だってことになるわけですよ。
まして私はフリーランスなんで、社会保障全然ないんで、
社会保障費ガンガン払っても、戻ってくる金額は少ないですよ、年金はこんなもんですよ、
なんとか頑張りましょうねみたいなことが書いてあるわけですよ。
意地悪く言えばよ。
だから何を考え始めるかというと、
いっちょこれはライフハック始めるしかないわみたいな、
私は痩せるしかないわっていうふうに女子は思う。
痩せれば母さんもみんなもいいようにしてくれて、兄さんも成功する。
私は痩せても多分そうはいかないと思うんで、もともと痩せてるし結構、やっぱりライフハックなわけですよ。
ここで時間管理をバッチリやって、みんなをあっと言わせるようなAIで文章をどんどん量産して、
わかります?これですよね。
そして朝から晩までAIをフル活用してやっていくとですね、
うわすごい万能だわの人ってことになって、本を書きませんかと言ってくれたりして、
あ、世界俺の周り、俺を中心に回り出したっていう感じがして、
そしてその老後の不安とかを消し飛ばすことができる気がするんですよ。
まずこれを頭の中で作り出すでしょ。
多分どんな人でも、ちょっと超整理法とかもやろうとか、
ポモドールテクニックもやろうとか、やっぱりタスクシュードだけじゃダメだからGTDもやろうとか、
よくわかんないけど、万能感なんでね。
自己愛構造体なんで。
これ全部自分の頭の中で考えた。
それと自分が同一化していけば、同一化していくほど、老後の不安とか消し飛ばせることができるわけですよ。
で、ついでに、それで睡眠時間を4時間とかに削ると、奥さんとかも心配してくれて、
あのね、8時間とか9時間グーグー寝てると、テメェ起きろみたいになってくるんだけど、
4時間とかしかもう寝ないから。
俺もうAIでバンバン文章作ってるから、超頑張ってるからみたいな。
大丈夫?心配だ。心配だね。夜食作ろうかみたいになるじゃないですか。
これですよね。何にもやってること変わんないですよ。
接触障害の女子と。
見た目が少し違うだけで。
そして自分がなんか弱ったり痩せたりすると、むしろいいわけですよ。
全てがうまくいくような気がしてくるわけですよね。
これはつまり、私は過酷な長寿がを恐れてるんですよ。
なんか老後とかになってね、国がもうペガシーに来ましたみたいな。
恐ろしい長寿がなんて。それが怖いんですよ。
だからこの長寿がに頼るということ、お金に頼るということ、時間管理とかに頼るということと、
自分が不安だという、自分が弱々しいってことが一体になってるんですよね。
この後、戦亡って話が出てくるんだけど、もう時間ないんで。
戦亡は明日覚えてたら明日に回しますけれども。
ライフハックの追求
まあ言うなら戦亡ってのはあれですよ。
ケンスーさんとかホリエモンさんとか、のちあい陽一さんとか。
うわ、超金があって、早くはそこに行きたいわってことですよね。
これがあんまり強くなりすぎると、社会狂ってるってことになって、社会を爆破せねばってことになるじゃないですか。
わかります?この流れ。
これでシンナーとか行くわけでしょ。変わんないですよ、全然。
ある種の考え方としては。
で、まず一つに持ちこたえるっていうのがどれほど大事かってことですよね。
世の中は自分のために回ってないっていうことを、もっとこの悲しさみたいなものを受け入れないといけないんですよ。
ここをすっとばそうとするから、今みたいなおかしな話に普通になりますけど、やっぱなるわけじゃないですか。
だからこの分離ですよね。
母との分離、世界との分離ですよね。
私と世界は一体ではないと。
少なくとも脳内にあるこのよくわからない筋肉流々になった自分が、僕あんまり強いのやんないけど、部屋がきちっと超整理法で徹底的に整理されていて、
全ての引き出しの中身もバッチリエクセルに管理されていますみたいな。
それと一体化しないってことですよね。
それとこれとは別なんで。
そしてそうしたからといって、老後の不安がなくなるはずないだろうっていう、そういうごく当たり前の、つまり面白くもなんともないわけ。
面白くもなんともないわけですよ。
接触障害にも出てくるんだけど、カロリーがたくさんのダメな食べ物は悪い対象として吐き出されると。
まさに具体象徴なわけですよ。
悪い、これは悪いものっていうものが悪い食べ物にとって変わってるわけです。
ものになっちゃってるわけですよね。
接触障害の世界は本当に具体象徴にあふれてるっていうのも、これで具体象徴っていうのがなんとなく理解された気がするんですよ。
乱雑な部屋という悪いものとか、時間管理ができない悪い乱雑なだらしない人とか、こういうふうに限りなく具体象徴に近い世界にLIFACはしばしば引っ張り込まれるんですよね。
もっともっと象徴水準を上げていかないと。
で、それはできるはずじゃないですか。
我々は、やらなかったかもしれないけど行列とかで、AKAリーファミルトンの法則とかまで行ったんだから、象徴機能はもっともっと高い水準で使えるはずなんですよ。
本当に乱雑ってのは悪いのかっていうね。
いちいちそういうことを考えて、面白くもなんともないですよ。
でも野菜ばっかり食えば、世界が自分中心に回り出すっていうのはやっぱりおかしいわけですよ。
良い食べ物を摂取し、悪い食べ物を吐き出すっていうね、この考え方っていうか感じ方なんだと思うんですけどね、それはね。
それはまさに類象徴とか言ってきた世界なんですよね。
どこかそれは象徴水準には達してません。
カロリーが高い食べ物を食べていると、ダメな人間になってしまって世界から見捨てられる、恐ろしいみたいな、そういうのってあまりにも具体的すぎる。
そしてどっか変だ。
それはまあやっぱりですね、お母さんのおっぱいでいっぱいの倉庫、大倉庫を作れば、僕は一生安泰って思っている3歳児の水準に限りなく近いわけですよね。
どっかそれはおかしい。
でもあるじゃないですか、なんか信じ難いほどお金を貯め込んでいく、主宣道みたいな人の話。
それはまさに具体象徴だと思うんですよね。
これで俺は一生安泰みたいな、あんただってもう老人やんみたいな、むしろその中で全部使い切ることの方が無理じゃんっていう、
そういう感じになっても、一円たりとも無駄にはしないみたいな。
それって具体象徴に限りなく近い世界だと思うんですよね。
これをやめるためには、面白くもなんともない世界で生きていくっていう、何つうんですかね、覚悟みたいなものになっちゃう。
もうちょっといい言葉が欲しいですよね。
だから持ちこたえるとか、くぐり抜けるとか、ワークスルーするってことになっていくんだけど、
そうするに面白くもなんともない人生というものが、実はそこのところにしか幸せな生き方はないみたいな、面白くもなんともないことになっていくんですけど、
奇抜なことをあんまり考えようとしないというか、奇抜なことでなんとかくぐり抜けようとしないってことですよ。
誰もだってお母さんのおっぱいでいっぱいの倉庫とか持ってないじゃないですか。
夢の共有と現実
でも我々は奇抜なことを従うんですよ、結構ね。
24時間秒単位で記録をつけるとうまくいくような気がするとか、結構相談に安いんですよね。
芯が吸いまくって幻覚見まくれば幸せになれる気がするとか、まずそういうわけにはいかないはずなんだけど、
どっかでやっぱり超具体的な世界、超具体的な世界には何か救いがあるような気がするっていうのは、やっぱりその人の不安の強烈さっていうものをよく物語っている。
でですね、私こうやって喋っているのは何かをさも皆さんにお伝えしているみたいじゃないですか。
これは松木邦博さんの本にまんま書いてあることを喋っているだけなんですよ。
僕はこれを喋りたい。
で、これをまあ私はこの部屋に受け止めてもらっているって感じなんですけど、
これがつまり僕にとってやっぱり3ヶ月チャレンジというものを支えている、私にとってのこの空間が支えになる。
現実にはこの空間の出現はこの瞬間だけで、夕方になるとこの空間は全くそういう意味を持たなくなる。
これは完全に心理的なものなんですね。
でもこれもまた非常に具体的な面があるわけですよ。
こういうものを皆さんどうなんて言うんですかね。
その持っていくっていうこの、それが私は夢の共有。
夢の共有というのはこれからいいことが起きるとか素晴らしい成果を出すのを2人で共有しましょうって話だ。
全くないんですよ。
そうじゃなくて野球場に行ってホームランを見たらみんなでホームランを見るじゃないですか。
ホームランってものはないじゃないですか。
でもみんなでホームランを見るということはみんなが同じ夢を見ているってことじゃないですか。
これを実現するようにするためのこれは準備なんですよ。