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おはようございます。みんなのセラピー心理学第717回、ただいま12月14日水曜の朝の7時36分で、これを取って出しする予定でおります。
多分8時過ぎになると思うんですね。
これ実は、大体ですね、私は勤労日で2回は取って貯めておく。つまり月水分は勤労日に取れるということになっていて、しかも昨日も取っていて、全部没にしているんですよ。
そんなに問題あるのかなと思うんだけど、ないと思うんですけどね。なんかそのまま今出せなくなっていて。
取り留めるという転換における難しさみたいなものなんだと思いますね。
でも700回近くやってきているわけで、満足がいかない回などというのを後から言い始めればキリがないんですけれども、
でも今こういうフェーズになっちゃってるというのは、こういうのは何回かあったんですよ。定期的に来るんですよね。
ここに出したくない気持ちとか出したい気持ちについて逆らっていると、つまり自分のその時その時の気持ちに逆らっていると、だんだん出せなくなるんですよ。
これはもうブログとか連載とかの経験から痛感しているんですね。
だから無駄かどうかという、多少の無駄はあるんだけど、無駄かどうかということを真剣に考えてもいい結果にならないので、
雑に考えておくというのが私なりのやり方なんですよね。
一番長くさせていただいた連載として、日経ウーマンというのがあったんですよ。
日経ウーマンでは僕たぶん4年ぐらいは連載させていただいたんじゃないかなと思うんですけれども、
長かったかな、ちょっと正確じゃないんですけどね。
本当にお世話になったところでして、いろんなことを勉強した記憶があるんですよ、あそこでは。
ブログとはまたちょっと違って、オンラインの連載というのは本当に微妙なもので、紙の連載とはたぶんまた全然違うものなんですよね。
そこまでタイトじゃないしね、本当によくあんな風にさせてもらったなと。
その前にね、私がそもそもこの種の仕事を最初に始めたのは、大橋製造さんとの日経ビジネスオンラインの連載から始まったんだけど、
あれはそれでも教材でしたしね。
教材の方が難しい面もありますけれども、日経ウーマンの方は単独だったんで、
単独というのは自由になっちゃいますからね、自由になっちゃう難しさというのがあります。
しかも私は倉園さんなどと違って、編集経験というのは一切ないんですよ。
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ひたすら著者経験だけでやってるから、中が何にも見えないですね。
これは個人差あると思うんですけど、僕は仕事をこれだけ長くしてきている割にですね、
出版社なり編集プロダクションなりの中という内実というものを全く知らずに生きてきているので、
常に素材を提供して、あとは基本的には良いように調理されるという形式に慣れきっているというか、
それ以外は分からないんですね。
企画会議に出たことも、タイトル会議に出たこともないし、
ほぼ出版社にお邪魔しても、待ち合わせブースみたいなところから先に行ったことがない人間なんですね。
何回も何回も行ってるんだけど、そこまでしか僕は知らない。
そこから先ある意味ブラックボックスになっているという感覚の人間なんですよ。
給料のやり取りとか、銀税のやり取りとかもいろんなことを、
出版社さんはもちろん経験してるんだと思うんですけど、
著者側としてのみこんな経験いっぱいしてきてるというのは、
多くいるものじゃないだろうなって感じがするんですよね。
だから私、コンサルタントみたいな人についていただいたってことも実はないんですよ。
銀税払われなかったとか、銀税が滞ったとか、銀税を返さなければならなかったとか、
そういう経験も何回か、何回かというかどれも1回ずつあることはあってですね。
どれも大体いい経験じゃん、今のあげたのは。
というかもう特に、全くもらえない、いただけなかったとかになってくると、もう胃が痛むんですよね。
あるという前提でいた100万近くの金がないっていうのは、
いろんな問題を引き起こすんですよ。
住宅ローンとかもまだありますしね。
そういったわけで、こういう余計なことを喋っている日に時間が経つんですね。
そういったわけでですね、
この連載というのはとにかく、自分の心の流れに身を任せるみたいな、
そういう意味では、やたらと僕が喋っている精神分析と、
ある意味とてもよく似たところがありまして、
あーしようとかこうしようとかいう方向に向かっていると、
それが存在しなくなってしまうという、
喋っててよくわからんことを喋ってるなと思うんだけど、
そういうものなんだと思うんですね。
今日話す前のお知らせなんですけど、
今日話すことのベースにあるんだけど、
まだ12月の枠がありまして、
今のところは対話で、
2023年からはややセラピーっぽくしていくのも作ろうと思っています。
06:03
先送りが多分テーマになると思うんですけどね、その場合は。
先送りと、お希望であればややタスク管理的な話かな。
多分そういう話ってだんだんわかってきたんですけど、
こういうことなんですよ。
先送りから入るセラピー心理学みたいなそんな感じ。
つまり先送りっていうのをおかずにはするんだけど、
ネタにはするってべきですかね。
入っていくともうセラピーになっちゃうみたいな、
それでいいのかと言われるとちょっと困るんだけれども、
それでいいんじゃないかなと最近、
私はもうやや開き直り始めていますね。
でも12月いっぱいはまだ対話で行こうと思っているので、
この枠ございますのでよろしければ是非埋めていただけると、
あなたの経済事情でしょうと言われればそれもあるんだけど、
経済事情おかげさまでじわじわとですけれども、
僕の中では安心領域に入りつつあるんで、
僕も安心領域まで行っちゃうと、
そこから先はあんまり非常に意欲的にはならないんですよね。
なんか受動的になっていくところがあります。
人様からいただいたお仕事は全部大体やりたくなるんだけど、
自分で頑張ろうみたいな気にはあんまりならなくなっていくという。
でもこの対話はですね、やっぱりここで学ぶことが、
先日くれどのさんもポッドキャストとかなんかでおっしゃってましたけど、
ここで学ぶことが一番やっぱり多くて、
今思うとなんですけど、昔からこういうのやってたわけじゃないから、
今思うとやっぱり大橋哲夫さんとやってたタスクカフェね、
あれリアルだったんですけど、
あれがやっぱり非常に対話的なやりとり、事実上の対話をやってたんですよ。
セラピーみたいな、コーチングみたいな、対話みたいなのをやってたんですよ。
一応複数だったんですけど、
大橋さんのご意向と言いますかね、
極めて少数で最後やるようになって、
あの時間が僕は非常に大事だったなと、
後から振り返っても思うんですよね。
つくづく思います。
本当に濃密にというか、
もう全然タスク神でも何でもないような話をいっぱいしているうちにですね、
仕事術における一対一の中から出てくる、
中からしか出てこないやりとりってものは非常に貴重で、
ひょうたんからこまみたいな話じゃないですか、
最初はセミナーでやってたわけだし、
私はそもそもものかきという職業名を立てて、
セミナーをやり、しかもそのお手伝いでサブ講師としてやってたのに、
内実としてやってたのは月に1回のセラピー同然だったっていう、
これ完全にひょうたんからこま的な話なんだけども、
そこで僕は、
大体今の考えていることのほとんどは、
グッドバイブス的な話じゃないやつの部分、
09:04
2014年に新しく導入された部分を除けばですね、
あのタスクカフェで私はある意味だんだん固まっていった気がします。
つまりタスクシュートというものを使って、
私は時間管理ってのはどうやればいいのかは大体つかんだし、
自分はどういう時間の使い方をすればいいのかというのを理解したんですけども、
その理解をですね、どうやって人に伝えればいいのかとか、
仕事術の中ではそれはどういう位置づけなのかとか、
仕事術で人が仕事の仕方というような話で、
少なくとも人がメンタル面とか、
タスク管理面で行き詰まるとすると、
どんな点なのかといったことがですね、
について僕がどういう風なアプローチを取ったり考えたり、
本を読んだりしていけばいいのかがほぼ全部固まっていったのは、
タスクカフェをやったことと、
日経ウーマンの連載をやったことが圧倒的に大事だったように思いますね。
その頃は仕事のとか、自分のライフハックシング学とか山のようにやってたし、
本も書いてたんで、そういうのももちろん非常にあったんだけど、
2個だけ、2個だけ挙げる必然性は何にもないんだけど、
2個挙げるとウーマンの連載とタスクカフェのやり取りっていうのが、
皆さんにとっては分からないですけどね、
日経ウーマンの例えば関係者がそれを喜んでたかどうかは知りませんが、
私にとっては重大な意味を持っていたと思いますね。
だから今の仕事ができているのは、
ほぼそこに由来する部分が大きいです。
今でもやっぱりこの対話から得ているものがやっぱり大きいので、
これはぜひですね、
しかもこれあんまり値下げても意味がなくなる気がするんですよ。
対話がそんなにやりたいならただでやればいいんですけど、
他で稼いだりしてね。
多分ですね、これを無料でやると効果はほぼゼロになると僕は思っているんですね。
これはあらゆるカウンセリングに言えることで、
皆さんもぜひカウンセリング的なものに通うということがあったら、
高いなっていう印象を持つと思うんですよ、絶対に。
マッサージと似てるんですね。
でもこれは安いほどいいってものでは、
力の問題もあるんだけど、
たぶん力強になる人がそんなに値を下げるかってことは考えられないからあるんですけど、
やっぱ払う側の心理としてですね、
一定額払わないと僕はダメだろうなっていうふうに思います。
2000円とかで100分とか話すっていうのは、
効果がすっごい薄くなる感じがしますね。
12:00
しかも毎週やるとかならまだしも、
月1回とかになってしまうとですね、
もはやミラクルになっちゃうんですよ。
その言葉を聞いたから僕は人生立ち直りましたみたいな、
そういうドラマみたいになってしまうんですね。
僕の考えではそういうことは起きないんですよ。
そういうやり取りは世の中にあると思いますよ、いっぱい。
だけれども人間っていうのは、
ずっとこの話をしてますけど、
無意識にやっぱり動かされている部分が、
最も少なく見積もっても6割は超えていると僕は思うんですね。
半分以上は絶対いってると思うんですよ。
そうすると、その時のセラピーなりセミナーなり、
カウンセリングなりコーチングなりで、
いやもうこれでいけるわと思っても、
それは全体の4割を切るんですよ、そう思った自分っていうのは。
これがですね、やっぱりこのことを最も強く意識しているのが、
伝統的には精神分析なんだろうと、
最小関係論なんだろうと思わざるを得ないんですよね。
ここが意識されているということは、
その場で言われていることとか、
その場で目が輝きだしたといった話はですね、
大事は大事なんですよ。
次回来る気持ちになれるとか、そもそもそれをやる気になれるとか、
そういったことがあるから、大事は大事なんですよ。
意識上の部分っていうのかな、意識下の部分じゃなくて、
意識の上の部分がやる気になっているっていうのは大事なんだけど、
やっぱりそれはですね、
国会で言うと野党が喜んだみたいな感じなんですよ。
野党喜んでも話前に進まないじゃないですか。
どうしたって、政府じゃないから。
意外にこの意識されていない部分が、
家に帰ってから出てくるはずなんですよね。
そこの部分が出てくるから、
さっきどう思ったかとかは関係なくなってしまったりもしうるんですよね。
だって、そうでなかったらですね、
先送りとかは一発で解決しちゃいますよね。
やる気になりました、もうお話聞いてすっきりしました、これでやれますみたいな。
でも全員が全員は絶対そうはならないですからね、やっぱり。
先送りがまたしたくなるという日は必ずやってくるわけで、
それはどうしてかっていうと、
人間は意識できている部分だけでは意識が作られていないせいですよね。
そんなこともろもろがあって、
対話というのを私はすごく大事にしたいなというか、
ここからお互いに得るものが大きいんじゃないかなと、
そんなふうに思っているわけですね。
なので、枠はあるので、
よろしければよろしくお願いしますという話ですね。
で、その対話の中から気づいたことがありまして、
ここのところずっと言っているんですけど、
15:02
特にですね、
今日は、昨日実はこれを喋って没にしてるんだけど、
超自我というものが、
これは僕の考え方でしてね、
昨日もこういう言い訳を喋ったなとそういえば思い出したんだけど、
エクスキューズなんだけどね、
許されないと思うんですよ。
ある分野から言えばこういう言い方は。
でも私はどうしてもそう思えてしまうのが、
超自我というのは対象なんだなと思うんですよ。
内的対象ってやつですね。
つまり、いいお母さん。
だけれども、超自我は普通に考えるというか、
伝統的にはいいお父さんなんだけれども、
なんかですね、日本の方のっていうのはおかしいんだけど、
私、日本人の一つしかカウンセリングとかしたことないですからね。
アメリカでカウンセリング受けたことあるんですよ、アメリカ人の手で。
でもこれは受けた側の立場でして、
しかも回数は多くないんですよ。
で、その、
なんかですね、お母さんなんですよね。
特に先送りとか、
仕事、タスク管理でもそうなんだけど、
タスクシュートの、私に言わせると、
記録するのなんて簡単じゃないですか。
何かを開始して終了したら終了時刻を入れるっていう、
基本それだけなんですね。
これが大変ですというのを言ってるお話の中で、
非常にですね、
お母さんとの関係が難しい
だなっていう方が結構多くいらっしゃる。
毎回毎回私も対話やってるわけじゃないんで、
そんなところまでは突っ込んでいけない、
いけないというか、いけないし、
あまり行くところでもないなっていう感じで、
ただそれがお母さんなんだな、多分なっていうのが
すんごく多いんですね。
はっきり言って。
すっごく目につくんですよ。
で、それが長寿が的に動くんですよね。
お父さんのケースも少なからずあります。
要するに、
長寿がなんで厳しいんですよ。
アンナ・フロイトの
自我心理学っていう精神分析の課罰は、
そこから自我理想とかって言い出すんですけど、
僕はやっぱりあれはですね、
全然理想とかじゃないと思うんです。
理想だってみんなおっしゃるんですけどね。
理想というよりは誘惑っていう感じが、
誘惑っていうのは言い過ぎなんですけど、
そんな感じがしちゃうんですよ。
要するにマッチ売りのマッチなんですよね。
マッチ売りの少女のマッチなんですよ。
万能なんですよ。
長寿があたかも万能な対象として取り扱われちゃっている感じなんですね。
ここでこれを持ち出すと
すっごい違和感ある人によってはあると思うんですけどね。
それこそ倉園圭三さんの言う
パチンコなんですよ。
18:02
パチンコと何ら変わらないような気がする時がありまして、
これに頼れない、
頼らないというのを
私の言い方を使うならばですね、
決めてしまってほしいって思うんですよね。
本音を言うと。
長寿があたかも金輪際使いませんと。
どうせ使うんだけど、
これ使ってていいことがあるとは
本当に全然思えないんですよ。
ところがこの話って
今言ったみたいに言うと
そんなもんかなぐらいに思われると思うんですけど、
具体的に言うとですね、
現代じゃちょっと受け入れがたいと思われると思うんですね。
現代じゃなくても受け入れられないと思うんですけど。
長寿がを使わないというのは
恐迫症をやめるってことになっちゃうんですね。
きちんとするのはやめようねって話なんですよ。
きちんとしましょうねっていう話を
そこかしこでされてるわけじゃないですか。
例えば先送りってそうですよね。
先送りやめるって話はつまり恐迫的なわけですよ。
恐迫って強く迫る方ですよ。脅す方じゃない。
きちんとしましょうねってことじゃないですか。
やるべきことはやりましょうねってことですよね。
私が言ってるのはやるべきことなんてないですよ
ってことになっちゃうんで。
やるべきって言ってるのは長寿がなんですよ。
長寿がはよく
毒親とかっていう言葉がありますけど
毒親発事じゃないですか。
ちゃんとやんなさいって言われてきても
耐えられなくなっているわけじゃないですか。
なのにその方はですね、お母さんは嫌いだ。
でも私はちゃんとやんなきゃっていうような話を
よく話を聞いているとね。
それこそ警長ですけど
聞くっていう意思を持って聞けばそういう方から
必ずこの話が出てくるんですよ。
これは月曜日にもお話しした、先週にもお話しした
罪悪感と処罰感情が
同時に出てくると。
まあいいや、ここはもう
僕は同時にって言っちゃいます。
巡盤とか、このからくりにおける
順序みたいな、それはそれで大事なんだけど
ここでそれを喋っていると時間も経つし
同時な感じがするっていうのも
僕の中では割と今は大事なんで
同時って言うんですけど、つまり私は
どうしようもない人間だって、これは
そのお母さんから叩き込まれたんですよね。
お母さんだけじゃないですよ。
一元的にできて分かりやすいんだけど
そんなことはないです。私たちはですね
学校とかに通っていると、自然とね
そういう風になっちゃうんですよ、ある程度は。
だって偏差値ってあるじゃないですか。
21:02
常時、常に全国一でしたって人はいいとして
全く別としても、そんな人は普通いないじゃないですか。
だからどこに行ったって、必ずここにいると
偏差値で、70行くのは無理だよねって
ところに行けば、つまり誰かよりは劣るわけじゃないですか。
だからあんたダメだっていう
厳しめすぎる親がいたとして
それによって叩き込まれている上に
屈辱は学校でいくらも与えられるんですよ。
例えば4教科5教科では
常に全国一でしたっていう人だとしても
例えばサッカーじゃダメだとか、顔面にぶつけられて
鼻血出してたとか、そういうことが起こるわけじゃないですか。
多分子供にとってはそれは屈辱的なことだし
常に競争するっていうことはですね
その競争でどんな競争でも
一位ですなんてことはあり得ないから
やっぱり屈辱感ってのは得るわけですよね。
この得たものがやっぱり
長寺賀的なダメ出しの燃料になるわけです。
私はダメなんだと。
このダメっていう言葉は
判断ですから
評価であり断定ですので
当然これを心の中にインストールするということは
他人にこれも同時に適応するんですね。
この話ももう何度も出てますが
つまり自分がダメだって思うということは
同時にあいつはダメだって言えるってことになるんですよ。
だから恥ずかしいっていう意識は
あれは人として恥ずかしいっていう意識を
同時に持つことになるので
自己肯定感が俗に言う低いっていうことと
人に対してやたらとバッシングするってことは
両立するんですね。
これが申し訳ないと思うとクレーマーになるみたいな
タイトルで言ったことなんですよ。
これは甘えって話で言うと
要するに日本で言う甘えというのは
ここが約束的なんですけどね。
満たされていて誰かが満たしてくれている限り
甘えは悪いものという認識はされないというか
ほとんど誰からも認識されないんですね。
私たちは日本語を使っている段階ですでに
甘えてるんですけれども
相手に日本語が通じるっていう甘えがなければ
使わないはずですから甘えてるんだけど
そういうのはわざわざ問題にしないんですよ。
甘えが出ているって言われているわけですね。
生じがの罰ってのは日本ではもっぱらここに
適用されるんですよ。
甘えの甘えは誰も受け止めないからね。
これ一つとっても攻撃じゃないですか。
つまり私は甘えてるダメな人間なんだと。
そして甘えてる人間とはダメな人間なんだと。
ちょうどこれは申し訳なさと人を攻撃するって気持ちが
両方同時に表出してますね。
こういう感じになるんですね。
24:00
これを私はエヴァノートが盛んだ時の
なぜかエヴァノート側の人間みたいに言われた時に
最も理不尽なクレームって
この種のものだなと思ったんですよ。
私はエヴァノートが使えません。
エヴァノートはクソですみたいなすごい意見として
要約するとこうなるんですよ。
タスクシュートで言えば私はタスクシュートが難しすぎて
あれはダメなツールだと思いますみたいな。
何それっていう感じがするじゃないですか。
つまりそれはタスクシュートを使うのが
自分には難しいってことなのか。
違うのを使ってくださいねって言いたかったんだけど。
そういうことじゃなくてだから何とか良くしろみたいな。
文句を言っているんだか自分を卑下されているんだか
よくわからないなっていう。
でもこういうことがあるんですよね。
これは私は全部長寿がに死壁的にっていうか
長寿がに依存しているんだと思うんです。
親のこと好きであろうと嫌いであろうとですね。
結局この長寿がというものの甘えというものを
押し留める機能に期待しているんですよ。
長寿がが機能してくれないと
俺はどこまでもダメになってしまうと。
私はどこまでもダメになってしまうと。
独的な親の言った通りです。
そこを何とかしてくれるのが長寿がだと。
私はこれはとてつもなく
こんがらがった苦しみだなって。
心理的な苦しみとは全てこんがらがった苦しみなんだけれども
そういう感じがするんですよね。
だから厳しくされないとダメなので
厳しくされたいんですと。
この厳しくすることが
長寿がに依存しているんです。
厳しくされたいんですと。
この厳しくする親みたいなものを
自在に出し入れしちゃうところがマッチなんですよ。
マッチ売りの少女がマッチするみたいにですね。
あれ自在に出し入れしてますよね。
そこにありもしない優しい家族。
温かいお部屋。
美味しいご馳走。
そして最後には亡くなってしまった優しいおばあちゃん。
これって何かに似てますよね。
あらゆる空想と全く同じですよね。
これを確か精神分析では
ファンタジアみたいな表現をとって
基本的にやっちゃいけない。やっちゃいますけどね。
やっちゃいますけれども
こういうことばかりやってるとまずいことが起きるよみたいなところがあるんですよね。
世の中ではそういうこと言われませんよね。
想像をたくましくするほど
人生良くなりますみたいなノリってあるんだけど
僕には精神分析ってその真逆のことを言ってるような気が
いつもします。
それはいいんですが
すいません。
つまり
27:03
あらゆる依存する対象というのは
この出し入れが自在にできるという
性質を持っております。
アルコールしかり、お金がアルコール買えるお金があれば
アルコールがそうだし
それこそギャンブルも基本そうですし
空想がそうですし
全部マッチなんですよ。すれば出てくる。
そこに凄さがあるわけですね。凄さってのは
万能的に出し入れが自由自在
時空を超える。つまり現実じゃないわけですよ。
VRなんかもそうなのかもしれない。
YouTubeとかTwitterとか全部そうなんですよ。
あんまり言われないんだけど
時間がそういうものとして扱われてるんですよ。
時間はみんな万能だと思い始めてるんですよ。
自分の時間さえあれば何でもできるという
それはとんでもない間違いですよとタスクシュート
タスクシュートっていうのは時間の万能感というものを否定するツールなんだと
私は思うんですよね。
だからあれを時間の万能感を得るために使うっていうのが
唯一私はタスクシュートで
間違った使い方っていう言い方は
避けたいんですよね。
操作を完全に間違えるとかは別として
私が一番タスクシュートで
陥りがちな誤解の一つが
時間の万能感
万能な時間を得るツールって思うやり方
私はあれは時間は万能ではない
ということを知るためのツールだと思いますね。
お金もそうです。
お金というのは万能ではないんだけど
お金は万能だと思われてるんですよ。
だから大金持ちになれば出し入れ自由になると
出し入れ自由になれば
人にいくらでも甘えても大丈夫だと
甘えをお金で変えるってことですね。
言ったかもしれませんけれども
何者かになるってのも同じです。
万能な存在になるってことなんですよ。
何者かになっちゃえば甘えは許されると
そう見えるんだと思うんですよね。
その中の一つに
付け加えたくなっているのが長寿がなんですよ。
長寿がもう万能だと
万能な扱いを受けるんですよね。
どこまでも甘えさせてくれるんじゃないんだけど
そういうツールとして使う。
例えばですが遅刻しそうだとか
締め切りを過ぎそうだと言った時に
長寿がここにドンと出てきて
締め切りを過ぎるとお前は死ぬぞっていう
強烈な脅しをかけることで
締め切り効果というものを
先日誰かがおっしゃったんですよね。
締め切り効果というものを最大化して
万能なんですよ。長寿がという存在がないと
30:01
私は締め切り超過してしまう。
だから恐ろしくて長寿がというものを
手放すわけにはいかないんですっていう話になるわけですね。
倉園さんの言うところの正しさとか
評価者といったものですね。
そういうものを手放すと
止めどもないダメ人間が出来上がるからダメなんですと
そういう話なんですよ。
苦しいと。苦しいですよね。評価者なんで。
しかもあまりに抜信をしてくるという評価者なんで。
とても苦しいので
この長寿がから解放されたいという気持ちがいつもあると。
そのためにちゃんとした人間として存在できるようにするために
タスク集となりを使って
良い行動を習慣化したいですと。
理にかなった話みたいに聞こえるんですけど
私はそれは無理ですという風に言いたいわけですね。
そんな風に出来ないだけでなく
やる意味もほとんどないと思うんですよ。
なぜなら結局長寿がを
何でもそうなんですけどね。
万能感を保持したままで
辛い部分だけを落とそうという話じゃないですか。
そういう風に出来るはずがないですよ。
アルコールがないお酒で
酔っ払いたいみたいな話なんですよ。土台無理なんですよね。
長寿がが万能なのは
恐怖というもので
モニタリングするというところに長寿がの
基本機能があるのであって
嫌なのはどこかってその恐怖に決まっているんですよ。
長寿がが機能しなければ恐怖なんか全然ないわけです。
この話も先日したばかりだとは思うんですけどね。
誰かと待ち合わせしていると
青橋さんとでもいいですね。
青橋さんと待ち合わせしていて
待ち合わせとか彼と多分数年してませんけど
遅れて怒られましたと。
ここで怖いわけじゃないんですよ。
遅れて怒られたならその分は謝ればいいんですよ。
そういう言い方はあれですけど。
その後で長寿がにダメ出しを食らう
こっちの方が我々が恐れていることなんですね。
これがないといつまでもどこまでも遅刻する
そうしたくなければですね。
だからここでフラズモさんが
グッドヴァイブスでよくタシャっていうわけですよ。
青橋さんとの約束に
間に合いたいからっていう意識だけで
いいはずなんですよ。
間に合わなかったら長寿害は起こるから
だから間に合わせるように頑張ろうっていうのは
自分で勝手に
万能的な世界を作り出しちゃっているという意味で
依存的なんですよね。
こういうことをやると私たちは依存的になっちゃうわけです。
タシャとの約束のためにっていうのは
非常にストレートなんですね。
そこには依存性がない、間に合わないかもしれないけれども
33:00
たぶんこういう風に
一本でシンプルにやっといった方が
はるかに自体はスムーズに回るんですよね。
ここに保険かけたいっていうわけなんですよ。
長寿害でうんぬんしたいっていうの。
だいたい依存って実は全部保険なんですよ。
仕事でとっても辛い目にあったらお酒で気を紛らわすとか
一つ何かがあるけれども
それがうまくいかなかったときに
もう一つ外側を用意しておくと安心だっていう発想で
これがちっとも安心じゃないんですよね。
このもう一つ作ったおかげで我々は苦しむんですよ。
しかもほとんど全部の苦しみが
そうやって作り出されるものなんですね。
だけどもこれがないと不安だというところまで依存しちゃうとそうなるんですよ。
依存しちゃうと不思議なことに
痛みにさえ依存しますからね。
そういう病気ありますよね、世の中には。
痛みを与えられないと不安だ。
痛みを与えられるのが不安なんですよ、私たちは。
そういうことで長寿害というものに
僕らは多分依存するんです。
だから長寿害というものが死壁的になる。
依存の対象になる。
長寿害依存症が発生するわけですよ。
考えてみるとそういう構造としては長寿害って
よくよく機能してます。
良いおっぱいが悪いおっぱいになるわけですよ。
最初はとても魅力的に見えた。
この苦しみを全部救ってくれる男の人なり女の人なりと
くっついてみたら
非常に現実的で嫌なところもあった。
それはあるんですけどね。
とても良い部分、理想化した部分だけを見ていたんだけど
いずれ脱価値化しなきゃなんだろう、現実に。
アルコールとかもそうですよね、全てを忘れさせてくれる。
とても良い対象だと思って飲むんだけど
飲みまくると翌日になってすげえ胃が痛いとかむかつくとか
つまり理想化と脱価値化の間で
触れるんですよね。
これは何でやるかというと、現実が嫌になるからやるわけですよね。
調子がってのの良くないところは
そもそも現実を嫌なものにしたいのは調子がなんですよ。
ちゃんとやれ、ちゃんとやれ、ちゃんとやれ、ちゃんとやれ、ちゃんとやれだから
おむつの中にうんこもできなくなるし
喉が渇いたりといって泣きをめくこともできなくなるし
そういう時はいいんですよ。
3、4歳の頃にそういうのをする必要はありますよね。
実に簡単に宿題を忘れちゃいけないとか
お客様からの電話は3コール以内に取るとか
そういうことをやっているうちに
全部それをやれるようになってしまうと
甘えで生きている部分が
減れば減るほどいいってことになっちゃうじゃないですか。
こういう生き方をしているうちに
生きていること自体がものすごく味気なくて
ストレスフルなものになってくるわけですね。
そしてそこから逃れるために
なんと超自我に頼っちゃうわけですよ。
いい対象としての超自我。
36:01
こういうふうにキツキツになるのは
全部君がいい習慣を身につけた
できる人間ではないからだと。
だからこの超自我が言うところの理想自我ってやつですよね。
だから私は理想自我って言葉嫌いなんですよ。
理想自我というものを中核にして生きていけば
全ての問題が解決できて
あなたは理想的なスーパーサラリーマンみたいになって
みんなからすごくいい評価を
絶え間なく受け続ける人になれますよ。
しかもあろうことかですね。
どうやらいろんな方の
それこそクラソンさんのお話を伺っていても
私ってそういうふうに見える時があったらしいんですよね。
だから私みたいになろうと。
私はクラソンを持ってないし
そういう人間になりたいとも思ってないのに
思ったことがほとんどそもそもないんですよ。
そんな人間になりたいと。
なんか気色悪いなって思うんですよね、そういう人って。
とりあえずそういう人になればと思うんだけど
それは理想的な超自我のいい部分だけを見ていて
逆に触れるわけですよ。
それに失敗するとどうなるか。
すごい悪い超自我になってしまうんですね。
この経験を多くの人がしていて
すごいいい先生がすごい厳しい人になると。
で、すごく落ち込むと。
欲打つポジションに入るわけですよ。
現実にそのまま放り出されて
一からやり直したと。
元に戻っているわけですよね。
超自我は夢を見させてくれているだけなんてある意味。
全く的な私になれましたと。
元のポジションに置き直されてみると
事実上何も進展はしていないし
別に理想的な自分にも慣れていないと。
この時に他の対象に手を出すこともありますよね。
YouTubeとかそれこそアルコールとか
ドラッグってことはないと思うんですけどね。
もう一回でも超自我に手を出すということも
十分考えられるんですよ。
やっていて楽になれる数も楽しい数もないし
何よりも私がおかしいと思うのは
他人のためにはなってないってことなんですよ。
超自我ってご自分なんですよ。絶対に。
自分がインストールした親なんだけど
心の中にインストールした親であれ先生であれ
先輩であれ
車田正美先生の漫画的教訓であれ
何であれですね。
インストールしてしまった以上自分なんですよ。
つまり自分で自分をこぶして
自分で自分を脅して
仕事に間に合う素晴らしい自分になろうと
自分の中でぐるぐる回ってしまっているんですね。
依存症ってそういうものなんですけどね。
これで他人のためになっているとか
これによって他人が評価してくれるってことは
絶対ないと僕は思うんですよね。
39:02
だからなんとなく脅迫的な人がきちっとやっていても
きちっとやっていて偉いねとは言われるんだけど
その人は実は他人から
そんなに
そういう言い方をしてはいけないかもしれませんけれども
そんなに評価もされていなければ
敬意も払われていないような感じがするんですよ。
これやっぱり他人には分かりますよね。
その人は何かこう
内的な規律というものに
とことん忠実なのであって
他の人のために
別にやっているようには思えないという
他の人のためにも結果的にはなるんですけどね
約束は守るし
きちんとしているし
仕事もちゃんと出してくるしということで
依頼した人のためになってはいるんだけれども
なんかちょっと違う感じっていうのは
やっぱり伝わってしまうものだと思うんですよ。
そういう意味で
恐れている対象がそもそも自分なので
自分の長時間なので
他人を恐れているというふうにも見えないし
いろんな意味で僕はあれは
目指した結果にはなっていないような気がするんです。
あれですよ。要するに
トッピングに近い何かなんだと思うんですよね。
しかもそれは一番うまくいった場合です。
これがうまくいかないとさっきも言ったように
自分にダメを出して
それも自分でやってるんですけどね
欲打つ的になって回らなくなっていくんだと思うんですよね。
こういうことを
私は最近いろんな方の
100日チャレンジとかでもそうですし
会話を通じて日々感じている。
だけれどもこれを全部
相手の人に当てはまるというわけではないし
まんま説明するとしても
これは結局抽象度を上げている話なので
その人その人が
持ってる長時間はいろんな顔をしていますからね。
お父さんだったりお母さんだったりだけでも
すでに違うし
ものすごく理想的だと見える場合もあるでしょう。
そういう違いはあります。
だからその都度その都度チューニングしなければいけないわけですよね。
個別にやった場合は。
でもチューニングできて
個別にすることができるから
やっぱりそうした方がいいわけですよ。
この時に僕は思うんですよね。
クライアント中心じゃないとダメだと。
クライアント中心療法なんですよ。
私がこの時に長時間の理想に乗っ取って
いい対話をしようとか
長時間に怒られるのが怖いから
相手が怒り出すようなことを
言うのはやめようとかやっていたのでは
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どっちでも実りのあるものにならない。
そういう意味でも長時間依存というのは
何者も守ってないし何者ももたらさないような
感じが漂うんですよ。
それはとても当作的な何かに似てるんですよね。
なんだかんだ言って
実りをもたらさないという意味で。