00:01
みなさん、おはようございまーす。
それでは、今日も神の言葉に入る前に、隣の方と挨拶をしたり、挨拶したり、お祝い申し上げましょう。
おはようございまーす。
それでは、どうぞお祈りいたします。
とにかく神様、今日もこうして、主の愛する兄弟姉妹一人一人を主が覚え合い、主の宮に、この聖なる主の寺に、主が恵みを与えようとして、私たちを集めてくれました。
ここから感謝いたします。
私たちが生きているのは、全て神の恵みによるものでございます。
今、主の御言葉の前に下り下り、心を無意識に低くして、耳を傾けます。
主の御言葉によって、どうぞお答えください。
イエス様の御名によって、お祈りいたします。
アーメン
はい、先ほども、白石兄弟の祈りの中にもありましたけれども、先週の神道正解。
神様が本当に大きな恵みとチャレンジを、私たち一人一人に、また妙谷教会にお与え下さいました。
僕として、私たちがですね、午前の午後の正解の御言葉をいただきながら、感じられたのは、
神様が妙谷教会に、今この時に最も必要なメッセージを語ってくださったと信じております。
帰りの車の中でですね、先生を新神戸にまで送りましたけれども、その中でですね、いろいろ話し合いました。
その時に、ちょっと私の心の中に考えさせられたのは、ある意味でボールは私たちに投げられている。
そのボールをどうするのかは、私たちの宿題が与えられているんですね。
その宿題をするかしないか。
それは、私たちの側に、ある意味で責任が、あるいは使命があるかと思います。
03:06
信仰を持って応答したいと願っております。信仰を持ってですね、一歩一歩、踏み出していきたいと願っております。
信仰を持ってですね、語ってくださった御言葉を少しずつ、あるいは一つずつ、力をいただいて実践していきたいと思って、また説に願っております。
そうしていく時に、私たちに、明大に、教会に、将来があり、希望があることでしょう。
皆さん、恵みに満ちた政党、教会の特徴は、何かの恵みの、あるいは彼らにの御言葉が語られた。
そしたら、それをどうしたら、これを成し遂げることができるんだろうか。
その方法を考え、祈り、空腹、そして宿にあって、それができると信じて動き出す教会が、恵みに満ちた教会でしょう。
両谷教会が、このような教会になりたいと願っております。
21年前に、あの時の皆さんが、祈って、祈って、また多くの裸物を捧げて、また伝道して、伝道して、その教会がここに建てられました。
そうなんですよね、皆さん。その時私はおりませんでしたから、分かりませんけれども、皆さんのお若い日や今の皆さんの姿を見たら、十分それが想像できるかと思いました。
教会改革という信仰を持って、皆さんが一つになって、神の教会を建てました。
単なるこの建物を建てたわけじゃなくて、教会を皆さんが一つになって建てられたわけなんですね。
今から私は、神様が許してくださるならば、第2、第3、第4、第5の明堂に建てるを建てたいと、そう願っております。
建てられる地域は、まではいくらでもあると思います。
聖神廟もあるでしょう。楽園都市もあるでしょう。神様には土地もあり、金もあり、人もあります。神様にはすべてのものがあります。
私たちに信仰があるか、従順があるか、ということ、それが問われるわけなんです。
だから私たちにですね、信仰と従順さえあれば、すべてが可能になるということなんです。
06:04
皆さんの中では、まるでステイフ・トキ・レビティ・アダムのあの一緒の谷のように、不満のあの地を占領することは、今の私たちの世代の重みではない、あるいはやりたくない。
真の違いから、もう後の世代にしてほしい。あるいは、強が甘いが私とは関係ないと思っている人がいないでほしいんですけれども、いるかもしれません。
今私たちがあるのは、私たちに信仰を継承してくれた信仰の先輩たちが、あの時に20年前、30年前、その兄弟姉妹たちがいたから、その方々が多くの祈りを捧げ、多くの労を取って、多くの捧げ物を捧げてくれたから、今の私たちの信仰があるのではないでしょうか。
そうするならば、私たちも次の世代のために、次のこの日本の福井のために、神の国のために、私たちが追うべき使命がある。
まるでリレー競争のように、前の先生からバトンを渡してもらったわけです。この信仰のバトン、福井のバトン、教会のバトンが、皆さんお一人お一人に渡されているわけなんですね。
そのバトンを握りしめて、自分が走るべき行程を走るか、そこに止まっているか、あるいはバトンを投げつけるか、それは私たちのやることなんです。
ようだに教会は、渡されたこの信仰のバトンを使って、走るべき行程を走り続けたい。誰か走ってくれるだろう。誰かやってくれるだろう。
そういった傍観的な態度じゃなくて、私が走らせていきます、といった信仰の立場に立っていただきたい。そう願っておるところであります。
皆さん、今の時代は、日本もそうでしょうし、アメリカや韓国もそうなんですけれども、多くの教会が礼拝堂建築にあまりにも多くの予算や努力を使っています。
09:16
それすべては悪いとかそういう意味じゃなくて、立ち止まって一度考えるべきではないかと思わされます。
今、世界の教会に一つの動きがありまして、日本にもアメリカにも韓国にも多くのそういう教会の動きはありますけれども、
それは莫大な予算やあるいは金銭を使って街道を建てるよりは、あるいはそのうちの教会と教会建物、その建物にこだわることではなく、
目に見えない教会、礼拝、選挙に最も大きな力を注いで使うことに。
それは神の心がそこにあるという、そういう信仰に立って動いている教会が世界に多くあるんです。
それ、日本にもそういう教会がぼんぼん増えているところなんですけれども、韓国でもそうなんですが、どこか学校の高校やあるいは選挙の建物を借りて、
そこで礼拝している教会も多く増えています。1億円、2億円、あるいはそれよりもっと多くの予算も使って建てることもいいでしょう。
十分能力があれば、それもいいことです。しかし、その予算やあるいは努力を国内選挙、あるいは海外選挙のために使うならば、ある意味である場合は、その方がもっとも価値あることであるかもしれない。
つまり、教会はこれからどうなっていくのでしょうか。今、今日、周りを見ても空いている席がほとんどないんですね。2、4、6ぐらい、7、8ぐらい。
礼拝も今の状況を見ますと、ちょうど今のこのぐらいで新しい街道を建てるか借りるかしないと、これ以上教会は伸びることは難しくなる。
実は不思議なことがありまして、今は50人ぐらい着席できる空間にあって、45人あるいは50人空からたくさん集まっているような気がするんですね。
12:08
しかし、今日のこの人数をそのまま、例えばですよ。500人入る礼拝部にポンと座ったら、あれれ、こんなに少なかった。
どうか皆さん、私たちが足を踏み出していかなければなりません。
ジョルダン川はそれを分かれるのは神様のお働きなんですけれども、足を踏み出すのは私たちが一人一人が足を踏み出さなければなりません。
それは神様代わりにやってくださらないことなんです。
テテロが船から降りて、湖の上に足を踏み出したときに、湖の上を歩くことができました。
どうか、野田園教会が示された二言葉、さらにいただいた二言葉を、それぞれ応答して、祈って、また共に心を一つにして、踏み出していきたい。
沖へ、この野田園教会という船を、そう願っておるところであります。
今日は宗教改革記念日です。おさらば、皆さんは毎年、10月の第40日の聖日礼拝を宗教改革記念日として、今まで捧げられてからだと思います。
この宗教改革を記念するということは、私たちプロテスタント教会の振興のために、とても重要なことなんです。
その精神を記念し、またその振興・進学を継承し、正しい振興と正しい進学をもって、そしてそれをまた、ししそんそんに後悔に、それを鍛えなければならないわけなんです。
皆さん、今私たちが、この野田園教会が健全な進歩の上に、進学の上に、教会が立てられているのは、先ほども申し上げたように、先輩の信徒の方々、あるいは先生の方々が、
この大事な大事なこの振興を持ち続けて、そしてそれを後悔に、後悔に、それをししそんそんに伝えてくれた、それを正しい振興と正しい進学を守って伝えてくれたから、私たちのこの健全な振興・進学を私たちが今持っているわけなんです。
15:18
教会が正しく立つためには、聖書的であって、正しい振興と正しい進学というものは、とても重要なことであります。
皆さん、2000年、このキリスト教歴史の中に、教会が全滅していなくて、ここまで教会が守られているの。もちろん、伊丹もあったり、カルトもあったり、変なキリスト教じゃないキリスト教のような、そういった種類があるはあるんですけれども、
でも福音的で健全な教会は増えているということは、私たちが聖書的振興と進学を失わず、これを命のように守ってきた。
真理を守り、伊丹やあるいはカルトからその教会を守り、制度を守り、真理を守ってきたから、今も私たちがあって、教会があって、このように礼拝を捧げることができるのではないでしょう。
宗教改革のあのときに、改革者たちが、例えばルーターとかカルバンとかツビングリとか、多くの改革者たちがいましたけれども、
そのときに彼らがマスクラガンのように信じるように求めたのは、大きく5つがありまして、その中に今日はその3つのことをともに学んでいきたい。
3つで言いますと、今日のタイトルのように、聖書のみ、恵みのみ、振興のみ、その他2つは、キリストのみ、神の栄光のみということなんです。
まず、聖書のみという、このプロテスタント信仰の改革精神の基礎なんですが、皆さんがご承知のように、ルーターは七丸カルデン信徒においてこう言っていました。
神の言葉が教会の教えと信仰・告白を確立する。それは天使であっても覆すことはできないと主張しました。
18:13
ルーターは、そのときのカトリックの教皇も、あるいは教会の会議も、最終的な権威ではなく、教会における全ての権威の上に聖書権威を置くべきである、そしてその聖書の権威に服従すべきであると主張しました。
そこに私たちプロテスタント教会の信仰と教会が、その上に立ち上げられているわけなんですね。
ところが、そのときにルーターや改革者たちの信徒に対して、カトリック教会は、聖書が神の言葉であることは認めるんですけれども、
聖書だけが唯一の権威であることには同意しなかったわけなんですね。今もその立場はカトリック教会は変わっていないんです。
皆さん、私たちのこのプロテスタント教会において、全ての権威の上に最上の権威には神の御言葉があります。
この聖書だけが唯一の権威である。そして、この聖書の権威に全ての信者は主体を合うこと。
それが皆さん、私たちの信仰であって、信学であります。私たちの信仰も信学の出発も聖書であり、結論も聖書なんです。
もし皆さん、もしですよ、もしも、教会の礼拝の順取りですね、いろいろありますけれども、その中にもし、ただ一つだけ残すことができるんだったら、私たちは迷わず、それは神の御言葉のみだけです。
賛美も祈りも献金も祝禱も、皆さん、神の御言葉なしには無意味なものであります。と言ってもそこではありません。
教会において、いや、私たちクリスタン信仰生活において、この神の御言葉がなく、そうであるならば、他のそれが賛美であろうが、奉仕であろうが、それが献金であろうが、
それは意味のないことになるということです。
21:04
神の御言葉生徒は、神様がすべての人に下さったメッセージです。
皆さんは神のメッセージをどれほど親しんで、どれほど自分のものにして、どれほど読んで、どれほど目視をしていらっしゃるでしょうか。
皆さん、私たちが今日この生徒の御言葉を通ってお会いするということを忘れてはいけません。
目に見えない種に愛するためには、目に見える神のメッセージある生徒に親しんで、この御言葉を日ごと読んで、黙想していかなければなりません。
ヘイブリッドの手紙に、「神の言葉は生きていて。」とありました。
弱音の人々には、「言葉は人となって私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。」とありました。
ですから皆さん、私たちが主に御会いする、神様に御会いする、精霊様に御会いする、最も確実な、それから健全な道は、この聖書の御言葉。
ですから皆さん、私たちがですね、すばしば、「神様、ぼうぞ私にもあなたの御声を聞かせてください。お語りください。」と祈る時があるかもしれません。
その時、神様は、「もうすでに私のメッセージはあなたにあるんだよ。聖書を読みなさい。」と主は語られるんです。
他の声や他のメッセージを求める必要はありません。
聖書にすべて神のメッセージが、神の御心が語られているわけなんです。
語られていないわけではなく、私たちが十分知り尽くしていないだけなのではないでしょうか。
66ヶ聖書の中に、すでに神のメッセージが記されています。
私たちに向かう、教会に向かう、この世界に向かう、この時代にこれからの終末に向かう、神の御心と啓示と御言葉がはっきりと記されているんですね。
ですから皆さん、聖書のみという憲法の上に書く。
なぜなら、聖書の御言葉こそ最も正しくて、最も正確な、そして唯一な神の啓示であるからです。
24:10
ですから皆さん、朝ごと夜ごと、この聖書の御言葉を目指そうする経験な習慣を身につけようでありませんか。
聖書こそ、私たちの正しい信仰、健全な信仰へ案内してくれるガイドなんです。
時々ですね、これはどうしたらいいんだろうか、あれはどうしたらいいんだろうか、そうする時に聖書に行きます。
聖書を開きましょう。
日ごと聖書を読む時に、不思議にもその日の箇所に神のメッセージが語られるんです。
響くようにですね、語られることが多くあるんです。
その恵みを皆さんが恵みに預かっているのです。
ですから皆さん、聖書を読むことを目指そうすること、経験な習慣を持つことをないがしろにすることなく、
この聖書のみの信仰に戻りましょう。
そして、何か神秘的なことを求めるより、御言葉の上に立つ信仰を持ちましょう。
御言葉を二の次、三の次にしてしまって、他の神秘的なことを求めるならば、
自然的に弱くなりやすくなって、惑わされやすくなって、
一方に傾いてしまう信仰、健全でない信仰を持つことがあり得るという。
ですから皆さん、たくさん祈られる方は、それ以上に聖書をお読みください。
聖書を読むこと、目指そうすること、それをおろそかにするならば、
伝適基金が必ずしものようにやってくるんです。
皆さん、主の御心が知りたいですか?これからのやよみが知りたいですか?
主にお会いしたいですか?何か答えを求めていらっしゃいますか?
聖書に戻りましょう。
聖書を読み目指そうしましょう。毎日そうしましょう。
神様はもう既に私たちに会うために来てくださっていますし、
27:07
語ってこの聖書のみ信仰の上に語って下さいと願っております。
法書2番目、恵みのみです。
キリシャンは、ただ恵みによってのみ生かされる存在でございます。
神の恵みが私を生かし、神の恵みは私を導き、
神の恵みが私を救ったということです。
ですから皆さん、神の恵みがもしもなかったならば、
私たちの存在も、私たちの人生も、私たちの救いも、私たちの信仰も、
今持っているすべてのものも始まらなかったことでしょう。
神の恵みのゆえに、今私たちはこの地に生きている。
神の恵みのゆえに、私たちがイエス・キリストにお会いして救われました。
神の恵みによって、私たちが今信仰の道を歩んでいるんです。
神の恵みによって、私たちは神の身元に変えていく。
ですから聖書は、神の恵みについて私たちにこのように教えています。
聖書をちょっと比較しましょう。
ローマ人への手紙、11章36節です。
新約聖書308ページです。
それでは5章にお読みしたいと思います。
3回、というのは、すべてのことが神から発し、神によってなり、神に至るからです。
どうかこの神に栄光が常にありますように。
アーメン。
皆さん、この歌詞は皆さんよくご存知だと思いますが、
ここにですね、すべてのことですよ。
すべてのこと。
誰から始まりましたか?
神から発し、神から始まりました。
そしてそれがなるのは、神によってなるんですよ。
自分の武力によって、自分の拝見によって、自分の頑張りによって、それがなっているわけではありません。
30:07
そしていよいよ神に至る、神に変えるということです。
もう1ヶ所やってみましょう。
第1コリントを読み取りますか。
15章、8節から10節です。
新約聖書340ページです。
第1コリント15章、8節から10節です。
8節、9節は確か読み決まったので、10節をご一緒にお読みしたいと思います。
8節です。
そして最後に、つきたらずで生まれたものと同様な私にも現れて下さいました。
私は人の中では最も小さいものであって、人と呼ばれる価値のないものです。
なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
ところが神の恵みによって、私は今の私になりました。
そして私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、
私は他のすべての人たちよりも多くの働きました。
しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
アーメン。
皆さん、これはですね、シト・パウルの素晴らしい告白です。
シト・パウルが今の自分の立場になって振り返ってみたらですね、
すべてのことは神の恵みによってなっていると。
よみがえられたイエス様が、つきたらずで生まれたもののような自分に現れて下さったこと、
それも神の恵みである。
教会を迫害し、もう迫害しまくったようなその自分をですね、
人が作ってくださってですね、人にさせて下さったこと、
それをいく度もね、いくら考えても考えても、それは神の恵みとしか言わざるを得ない。
だから、実践するようにシト・パウルが告白しているんですね。
神の恵みによって、私は今の私になりました。
今この働きがあるんですけれども、それは自分がやっているんじゃない。
自分が偉いからこれができているんじゃない。
神の恵みによどものだというメッセージなんですね。
33:00
皆さん、私たちは、いかがでしょうか。
シト・パウルように告白したいものであります。
ところが、私たちはしばしばこのような神の恵みを忘れたりすることはあるのではないでしょうか。
私が言うのだから、私に能力があるから、私が熱心に働いたから、
あるいは私が真面目に徒長したから、私がこうしたから、ああしたから。
と言ってですね、人生の文書の始祖が神様が、神の恵みが、神の恵みがじゃなくて、
私が、俺が、僕が、私が、私が、私がに、いつの間にか書いているのではないでしょうか。
皆さん、神の恵みを感謝しているクリスチャンは、
神の恵みによって生きる人は、
私が、私が、じゃなくて、神様が、神様が、神の恵みが、ということを言うでしょう。
皆さんは日頃どうでしょう。
私が、私が、私がと言っていらっしゃいますか。
神の恵みが、神の恵みが、神様が、神様がと言っていらっしゃるでしょうか。
このパオロのローマ書と、このポリントオービートの手紙の御言葉のような信仰のクリスチャンでありたいと、そう願っております。
すべては、神の恵みによるのであり。
三つ目、信仰のみです。信仰のみ。
これはですね、ただ信仰によって祈祷され、ただ信仰によって救われる、という告白なんですね。
宗教改革の当時、皆さんがご存知のように、カトリック教会では、信仰も必要なんですけれども、他に行いが必要である。
救われるためには、信仰も必要なんだけれども、行いがなければならない。
しかも功績が必要である。示現があるいは施しが必要である、といった教えを語っていました。
これはどこを見ても、間違った教えであって、聖書の教えではありません。
神の御言葉、聖書は、私たちにこのように教えています。
また、聖書をいただきたいと思います。
まずはですね、ローマ書3書28節。294ページです。ローマ書3書28節です。
36:16
一緒に読みたいと思います。
3、人が義と認められるのは、立法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
ここにですね、人が義と認められるのは、行いによるのではありません。
何によるんですか。信仰によるんです。
またもう一箇所、ガラテア人への手紙3書26節です。ガラテア人への手紙3書26節。
新約聖書367ページです。3書26節。一緒に読みたいと思います。
3、あなた々は皆、キリスト、イエスに対する信仰によって、神の子供です。アメン。
ここにですね、私が神の子供になったのは、何によってですか。信仰によってです。
もう一箇所、エペストピスへの手紙2書8節です。374ページです。エペストピスへの手紙2書8節。それでは一緒に読みたいと思います。
3、あなた方は恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。アーメン。
ここに明確に私たちに教えているのではないですか。私たちが救われたのは、神の恵みが最初あって、そしてその恵みにあって、私たちが先行もておうとさせていただいた。
そして、だから救われたということです。私たちが君から救い出されたのは、神の恵み以外に何ものではなく、それは私たちが先行もて受け入れたからです。
そしてその先行すらも、自分から出たものではなく、神様から与えられた賜物であって、救いも神様から与えられた一方的なプレゼントである。
自分の力で救いや先行を獲得したものではなく、神様がただ恵みのゆえに、賜物として与えてくださったものである。
39:07
これが、先行のみという先行告白。我々のプロセッサンと先行はこの先行告白の上に立てられています。先行のみ。
先行によってのみをたたけば、君から救われます。イエス・キリストによって神の子供になります。
それが本当に素晴らしい祝福なんです。これは本当にこの世にはない素晴らしい神の祝福なんです。
ところが皆さんは、先行によって自分が救われて神の子供になって神の恵みに預かっているこの恵みをどれほど感激し感動してそれを伝えているでしょうか。
もしですね、皆さん、先行のみではなく先行も必要なんだけれども、他の何かの条件が要求されるならば、私たちはどうなっているのでしょうか。
もしですよ、これはもし、仮定なんですけれども、もし救われるためには先行も必要なんだけれども、イスラエル神社なければならないとか、
先行も必要なんだけれども、聖書を100回読まなければならないとか、先行も必要なんだけれども、1日毎日3時間以上読まなければならないとか、
あるいは先行の年数が30年以上にならないと救われないとか、そういった条件が求めるならば、私たちは救われることはなかったかもしれない。
しかし、私たちが救われ、死から永遠の命に移され、神の子供になった、そして神の恵みと祝福を受けている唯一の条件は、それは先行のみということなんだ。
だからですね、老弱男孽、貧富関係なく、誰でも先行によって、ただ先行によって、メッセージをまとめたいと思います。
聖書のみ、恵みのみ、先行のみ、スピリットのみ、神の栄光のみまで一つなんですけれどもね、この先行の上に、これは本当にプロテスタント先行の根幹であり基礎であり柱でありますから、
この上に私一人一人の先行、この明沢教会の先行を固く、健全に、ともに立て上げてなりたいと願っております。お祈り致しましょう。