1. 名谷教会
  2. 2014/11/02:聖日礼拝(旧音源)
2014-11-02 39:23

2014/11/02:聖日礼拝(旧音源)

2014/11/02 聖日礼拝(旧音源)




00:01
アーメン、ありがとうございます。
皆さん、おはようございます。
先週はソウルの出張で、セミナーが朝から晩までずっと学びばかりでしたけれども、無事に終えて帰ってきました。
いろいろたくさん教えられてですね、今後の教会学校の教育や、あるいは親子のこととか、いろんなこと、また教会で、あるいは教団で検討しながら取り組んでいく、そういう動きがあるということです。
皆さんのお祈りをありがとうございました。
それでは、メッセージに入る前に、いつものように周りの方と爽やかな声で挨拶をしたいと思います。
よくいらっしゃいました。秋としたいで挨拶しましょう。
はい、ありがとうございます。
それでは一言お祈りします。
神様、今から神の御言葉に耳を傾けます。
聖礼様、御自身が場所ひとりとりにお語り下さいますように。
御手に至り、イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
今日は、キリスト教のエッセンス、その教会の3回目です。
今日はですね、テサロニケ教会から、模範的な教会とはどんな教会なのか、そのテサロニケ教会からですね、いろいろ教えていただきたい。
また見習いたいと、そう願っております。
皆さんは、私たちのローダニー教会がどんな教会になったらいいなと皆さん、ただ考えていますか。
大きな教会ですか。あるいは愛に満ちた教会ですか。あるいはアットホームな、そんな教会ですか。
あるいは、新世界のテイストのように、村にある小さな教会ですか。あるいは幸せな教会ですか。あるいは光と希望になる教会でしょうか。
皆さんが普段ですね、希望して、そして描いている妙谷教会のイメージは、どのような教会なんでしょうか。
あるいは、今年で21周年ですから、21年間、どのようなイメージを、あるいは祈りをもって、期待をもって、描いてここまで来たんでしょう。
03:06
政治を見ますと、多くの教会が登場してきます。
今日はその中で、このテサロニケ教会を共に注目したいと思います。
このテサロニケ、今のギリシアにある、今もその町の名前が同じなんですね、テサロニケ。
そのテサロニケ教会は、100%ですね、完璧な教会ではありませんでした。
世の中にですね、100%ですね、完璧な教会はどこにもないと思います。
ところが、このテサロニケ教会には、本当に模範的な素晴らしい点を持っている教会。
シト・パウルからもイエス様からも賞賛される、とても素晴らしい教会です。
またですね、このテサロニケという町について、ちょっとだけお話したいと思いますけど、今のギリシアにある町なんです。
シト・パウルが殿堂をした時は、1850年頃です。だからですね、もう今から昔々、大昔のあの時です。
しかもギリシアでしたから、皆さんが学生の時代に生まれたかもしれませんけれど、ギリシア・ローマの神話のあれを宗教として信じている町でした。
町ですね、今も言ったらですね、あちらこちらに昔のあの遺跡も残っていてですね。
だから、今は日本がですね、99%がノンクリシャンと言われていますが、おそらくですね、このテサロニケは99.9%ぐらいはノンクリシャンが住んでいる、そんな町だったでしょう。
ですから、そのような町で、異教の町で、イエス様を信じるということは、もう想像できないぐらいのあの時代でした。
それからですね、イエス様を信じたくても、ネロとかローマの皇帝のあのすごい厳しい迫害の中にありましたから、
イエス様を信じるイコール、処刑されるというような時代でした。
おそらくですね、この時代は、イエス様を信じるということはですね、今の日本の人々がイエス様を信じることよりはるかに難しくて危険な状況だったと思います。
06:08
ところがですね、シトパールがこのテサロニケという町に入って、たった3週間滞在したんですよ。
3年でもなく30年でもなく、3週間滞在して、そしてそのうちに福音を述べ伝え、聖書を教えていました。
ところがですね、そのたった3週間のうちにイエス様を信じる人々がものすごく増えて、このテサロニケ教会が誕生したんです。
皆さんすごいと思いませんか?3週間連動したのに、そこに教会が生み出された。しかもこのテサロニケ教会は本当に模範的な教会でした。
初代の僕にですね、テサロニケ、コリント、ペソコロサイとか、多くの教会がありますね。
その中にですね、本当にマケドニア、アカヤにおいての模範的な教会であるといわれる教会。
今日は3つのことを今日の聖徒から教えていただいて、それを私たちも見習いたい。
そして三浦仁教会がそのような教会になりたいと、ともにですね、祈りながら、ともに求めて、また祖をですね、誓えていきたいと思います。
まず第一は、その前にですね、三節をもう一度ご一緒にお読みしたいと思います。
三節、それではご一緒にお読みいたしましょう。
3.絶えず私たちの父なる神の位前に、あなた方の信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
パウロ先生がですね、三週間オークの町を旅をして、その間にテサロンの町に入って、三週間滞在しました。
そして本当に苦労をしながら、危険の中でイエス様の御言葉を述べ伝えた。
そして三週間の後ですね、もう人よりも見たらですね、もう殺されるそうになって、もうそこから逃れたってなんですね。
そして他の所に行って、このテサロニテ教会の誰々さん、誰々さんの顔をですね、思い浮かべながら手紙を書き起こるわけなんです。
その時にパウロ先生は本当に親のような心を持っているわけですから、そのテサロニテ教会のことを考えるんですね。
09:10
そしたら、テサロニテ教会としたら、この三つのことでした。
信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐に満ちている教会。
それをですね、この手紙の一番最初にパウロ先生は、あなた方の教会はこのような素晴らしい教会なんだ。
その頼りを今も私は聞いているとですね、思い起こして感謝をしているんですね。
もう一つ、テサロニテ教会は信仰の働きのある教会でした。信仰の働き。
テサロニテ第一話はですね、わずか5章だけなんですけれども、読みますとですね、この信仰が褒められる箇所がたくさん出てくるんです。
パウロ先生がテサロニテ教会の信徒さん、誰々さん、誰々さんを思い起こす時に、教会全体を思い起こす時に、
テサロニテ教会は信仰の教会。それを感謝して、それを褒めているんですね。
皆さん、もしですよ、もし誰かがから、妙谷の妙谷教会の素晴らしい点は何ですかと聞かれたら、皆さんは何と答えたいですか。
信仰に信仰の働きが素晴らしい教会ですよと答えたくないですか、皆さん。
教会はやはり信仰の働きのある教会にならなければなりません。
ではですね、テサロニテ教会の信仰の働きとは一体どういうことなんでしょうか。
全部は読めますので、今日の中で特に6節、7節を一緒に読みたいと思います。
私が読んでいきますね、6節。
あなた方も多くの苦難の中で、精霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、私たちと使徒にならうものになりました。
こうしてあなた方はマケドニアと赤谷との全ての信者の模範になったのです。
そしてですね、8節を見ますとですね、主の言葉があなた方のところから出て、マケドニアと赤谷に刺激渡っただけではなく、神に対するあなた方の何がですか。
12:14
信仰はあらゆるところに伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。
皆さん、テサロニテ教会はですね、本当に厳しい観覧や試練や迫害の中に置かれて、そこでイエス様を信じる彼らでした。
この迫害というものは、生きるか死ぬかこのような観覧でした。
ところが、このような試練や迫害の中で、このテサロニテ教会のそのマシの信者たちはですね、シトファルから教えてもらった神の御言葉を、イエス様の教えを、6節によりますと、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れたんですね。
これが実はテサロニテ教会の信仰でした。
もう一箇所ですね、2章の13節をご覧ください。
同じの内容がですね、もう一度書かれているんです。
13節を一緒に読みたいと思います。2章の13節です。
それでは、ご一緒に3回。
こういうわけで、私たちとしても、また絶えず神に感謝しています。
あなた方は私たちから神の自身の言葉を受けた時、それを人間の言葉としてではなく、技術通りに神の言葉として受け入れてくれたからです。
この神の言葉は信じているあなた方のうちに働いているのです。
皆さん、テサロニテ教会の素晴らしい信仰は何なのか、簡単に言いますと、
彼らは御言葉を教えてもらう時に、それが基督パウルあるいはシルアの手もてからですね、教えてもらう時に、
それはパウル先生のお話だとか、シルアの話とか、手もての話とか、そういうふうに人間の言葉として、
これは受け取れ、これはしているんじゃなくて、誰の言葉としてですか。
神の言葉として、技術通りに神の言葉として受け入れてくれた。
そしてそれに従っていった、これが皆さん、テサロニテ教会の素晴らしい信仰の様子だ。
これを通して知ることができるのは、テサロニテ教会の信者たちはとても謙遜な人々でした。
15:04
心を慎くして、聖書を教えてもらう時に、あるいはメッセージを聞く時に、御言葉をいただく時にですね、
精霊による喜びを持って御言葉を子供のようにですね、そのまま素直に受け止めて、
自分のものにする、そして、アーメン、主よ、そうです、従います、といった応答をする教会でした。
これがテサロニテ教会の良い信仰の姿だったんですね。
そしてですね、そのテサロニテ教会の信仰は、今のマケドニア、そしたらギリシア、
イスタンブルのポルコの地域、赤谷は広いポルコの地域なんですね。
そこに多くの教会がありましたよね。エペストとかテサロニテとかサルテスとか教会がありました。
そこにですね、もう噂が広がってきたんですよ。
すごい、テサロニテ教会の信徒さんは、その信仰がすごい、もう素晴らしい信仰を持っているんですけどですね。
それが広がっていたんですね。
それが、さっき読まれた7節のですね、8節。
しびきわたっただけではなく、もう模範になった。
もう一箇所、3章7節をご覧ください。
3章7節を、そこにですね、テサロニテ教会の信仰の素晴らしさがどんなものなのか書かれているんですけれども、
もう一度一緒に読みたいと思います。
このようなわけで、兄弟たち、私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなた方のことでは、その信仰によってなぐさめを受けました。
皆さん、むしろですよ。
使徒パウロがですね、この患難の迫害の中にあるテサロニテ教会の信徒から、むしろ使徒パウロたちがなぐさめを受けました。
迫害の中で家族が処刑されたかもしれません。
本当に厳しい中でですね、隠れたクリスタのように信仰生活をしている彼らにですね、パウロ先生たちがむしろなぐさめられた。
信仰によってなぐさめを受けました。
これがテサロニテ教会の素晴らしいところでした。
テサロニテ教会がですね、使徒パウロにですね、何か良い贈り物を捧げたからではない、信仰がよかったから、
18:05
その信仰によってパウロ先生は自分が指導者、牧者でしたけれども、むしろその迫害の中にある彼らからなぐさめをもらった。
イエス様もですね、使徒パウロと同じところでしょう。
皆さん、妙谷教会がこのような教会になりたい。
もしですよ。
もしじゃなくて、今までこの妙谷教会から離れた先者方もいらっしゃいますし、あるいはね、引っ越しとか、そして妙谷教会に皆さんと別れた方々がいらっしゃるわけなんですね。
その方々が妙谷教会の皆さんのお顔を思い起こすときに、私は妙谷教会で信仰成果として本当によかった。
たくさん恵まれた。
慰められた。
希望に満ちた。
そう言われる教会になりたいんですよね、皆さん。
そう思いませんか。
あるいは妙谷教会から離れて、ああ、あそこからもう二度と行かなくてよくてよかったとは言われたくないんですよね。
妙谷製は妙谷製ですから、私もいつかは神教会に移るかもしれません。
いや、むしろここで引退するかもしれません。
分かります?
誰も分かります。
神様だけご存知でしょう。
20年後、30年後、私今年で45歳ですから、引退までしたら30年は働かせていただけますけどね。
もしですよ、そのうちに後ろだったら、確か皆さんのことを思い起こすときに、
このヒト・ファウル・ガササヌギ教会の神徒さんを思い起こすと、
同じくですね、感謝して感謝して、そういうように世界に目指したい。
そのような信仰の関係、愛の関係になる。
セサヌギ教会は何より素晴らしい信仰を持つ教会です。
皆さん、信仰というものは生き物です。
その信仰が私たちの内側で、教会の間で働くんです。
人々が働くのではなく、信仰が働く。
いや、信仰が私たちを働かせる。
21:02
信仰によって働く教会こそ、そこに身がなり、救いが起こり、
愛に満ちて、癒されて、慰められて、自由になる、寛容される教会になるでしょう。
余談に教会が、規模が小さくても、サイズは小さくてもですね、
神様が大きくしてくれたならばそうなりたいんですけれども、
そうならなくても、信仰の良い教会になりたい。
そして、このテサニック教会のように、この神戸に、この日本の教会たちの模範になりたい。
そのような夢を持ちたいんです。
そしてですね、御言葉をいただく時には、神の御言葉として受け止めて、
宗を見習い、そのような教官になりたい。
この日本において、光と希望になる、そう願うものであります。
二つ目は、テサロニケ教会は、愛の老苦のある教会でした。
愛の老苦。
テサロニケ教会は、信仰と共に、愛による老苦が、愛による奉仕に満ちた教会でした。
皆さん、教会は、信仰と共に、愛に満ちた教会でなければならないんですね。
それを主が望んでおられるわけない。
テサロニケ教会は、厳しい患難の中にありましたが、互いに慰め合う教会でした。
互いに助け合う教会でした。
互いに還り見合う教会でした。
愛の老苦をすることを厭わない教会でした。
家様の十字架の愛に満ちた教会でした。
時には苦労しましたけれども、苦労して悔しいと思うのではなく、
あるいは、意思的な愛よりは、家様の愛に自分が満たされて、その愛が溢れ出る、
そして、兄弟姉妹を愛する、愛の老苦をする教会でした。
皆さん、愛の老苦という言葉が今日出てきましたけれども、
このように、愛するというのは、ある意味で老苦をすることなんですよね。
愛はおこないですから、愛することには老苦が、あるいは苦労が、あるいは方針が伴われるわけなんです。
24:02
愛しているんだけども、老苦がない、そこには苦労もなくて方針もなければ、
それだとおかしいと思うんですよね。
例えば皆さん、家族関係を考えれば、わかりやすいと思います。
家族を愛しているお父さんは、数十年、職場で会社で働きをしました。
辞めたり時が何度も何度もあるんですよ。
でも我慢して、引退して、消費が悪くても休みたいんだけれども、
誰々の仏教家長の顔が思い浮かんで、出勤しなくならない。
疲れて疲れて、朝起きにくいんだけれども、会社に行く。
退職しても、契約職として一年ごと一年ごと働きをします。
なぜでしょうか。家族を愛するからです。
そこには、愛があるから老苦をするわけなんですよね。
お母様たちも同じだと思います。家族を愛する。愛があるから老苦をする。
朝早く起きて、食事をする。家事をする。洗濯をする。掃除をする。
帰る時は子供を一人二人三人にも妊娠して産んで育てて教える。
今の時代は、おばかになったらまたお孫をですね、また面倒見なきゃならない。
そういう時代になってですね、お母様たちはですね、本当にありがたいんですけど、
県に行くまでにですね、子育ての老苦をする。
なぜでしょうか。愛するから。
愛には老苦が伴わる。
このように皆さん、愛には必ずのように老苦がついていく。
そういうことです。
同じくですね、教会で互いに愛し合う教会は、まるでお父さんお母さんや家族のために老苦をするように、
教会で兄弟姉妹のために、主のために、教会のために、この愛の老苦を厭わないんですね。
逆にとして報酬するためには、もっと多くの時間を割いて捧げなければならない。
もっと多くの祈りをしなければならない。
時には、他の信徒たちには言えない痛みを苦労することもあるでしょう。
あるいは、教会学校の教師をするためには、教えるために準備をしなくてはならない。勉強をしなくてはならない。
面倒をするためには、いろんなことを老苦をしなくてはならない。
一緒に遊ぶためにはですね、五十六歳になっても、振付をしなくてはならない。
27:04
一緒にですね、汗かいて遊ばなくてはならない。食事の準備をしなくてはならない。
その親のことまで気にしなくてはならないこと。
諦めないでですね、ずっとずっと持続的に勘違いを申し続けていけなさやまい。
ああいうのを老苦する。世間体もそうでしょう。毎週毎週、練習をしなくてはならない。
集まって練習して集まって練習する。その毎週のその老苦をするわけです。
それはなぜでしょうか。主を愛するからです。
教会を愛するからです。兄弟姉妹を愛するからです。
愛するから老苦をするんだけども、それを苦労と思わず、
使命として、喜びとして、そう、仕えさせていただく、そういう私たちなのではないですか。
このように皆さん、教会は、神の国は、愛の老苦によって立て上げられるといっても囲んではないと思いますね。
愛の老苦を厭わない、奉仕をする。
そういう信者たちが多い教会こそ、幸せな教会であって、テサロニテ教会のような模範的な教会であって、主に愛される教会なのではないでしょうか。
ヨダニ教会がテサロニテ教会のように、喜んでですね、愛の老苦をさせていただく教会になりたいです。
私のため、兄弟姉妹のため、あるいは子供たちのために、喜びをもってですね、使えていきたいと、そう願っております。
昨日、先ほど大村姉妹の祈りの中にはありましたけれども、
昨日もですね、勤務兄弟とか、また皆さんが、先生たちが誘って、誘ってですね、昨日の夕方ぐらいに、子供たちが15名ぐらいでしたか、
20名近くですね、土曜日に子供たちがやってきました。
今日もまた、またそのうちに、国が教科大学にやってきました。
そのためには、愛の老苦があったわけなんですよね。灰色の祈り、愛、老苦があったわけです。
これから神様が、今の時代ですね、少子化の時代になって、子供が少なくなってですね、
日本だけではなくですね、韓国に行ったりですね、もう韓国も一緒、同じなんですね。
高齢化が進んでいて、中間の世代はいなくなって、教会には子供がもういなくなって、教会学校を閉鎖する教会が、もう次から次へ落ちているそうなんです。
30:11
その中で、周りに子供たちがいないわけではない。
この街にあってもですね、南教会、小学校だけ見ても、結構子供がいるんですよね。
ところが、いろいろ聞いてみたら、優質な家庭の子供というより、いろんな事情の問題と言ったらあれですけれども、事情のある子供が多いんですね。
親が友働きをしていて、朝の朝ごはんがいつもコンビニでおにぎり買って学校に行く子供も多くて、夜6時、7時、8時になって家に帰っても誰もいなくて、
ずっと公園やどこかでですね、うろうろしている子供たちも多くて。
親が離婚して、そしてもちろん幸せに暮らしている家族もいるでしょうけれども、本当にですね、苦労している子供もいくて。
そういう子供たちがこの周りには多くあることを、つい最近と言いましょうか、もっと具体的にするようになりました。
この地域に置かれているこの明堂に教会が主が指名してきちゃった。
そしてそのような子供たちを送ってきちゃっていることは、私たちに何かああいうの労苦をしなければならない。
そういう聖霊様の指名であり、お声でもあり、その導きの流れで、流れだと私は確信しておりますけれども、
そんな中で私たちがどう応答するか。教会全体がですね、ともに子供たちの世代、若い世代、まだお年寄りの方々の死体のために、ともに仕えていきたい。
そこに教会の存在の意味があると思うわけなんですよね。
3つ目に行きましょう。3つ目。テサロニテ教会は、3つによりますと、主イエスキリストへの望みの忍耐と言っています。
テサロニテ教会は、望みの忍耐を持つ教会でした。イエス様の再臨を待ち望む希望を持っていました。
彼らはこの地の者に対する未練を持たない、天国の望みを持って暮らす彼らでした。そして天国を固く保っている彼らでした。
彼らの望みは、雲に乗って天に昇られたイエスキリストが、同じく雲に乗って再び必ずおいで下さるそのイエス様の再臨を待ち望むことでした。
33:15
まだまた主イエスよ来て下さいと告白する彼らの信仰でした。極めての患難でした。イエス様を信じるということは、死ぬことと一緒のような時代でした。
そんな中にあっても、喜びを持ってイエス様を信じる、今日処刑されても喜んで信じることができることは、彼らの内側に、その教会の中に、よみがえりを信じる、イエス様の再臨を信じる信仰を固く持っていたからでした。
患難を忍耐し、天国を望みとして待ち望む彼らです。みなさんはそれがでしょうか。どこに何に人生の希望望みを置いていらっしゃるでしょうか。
先週、水曜日午後にセミナーが終わって、瓶がなかったから、院長の母のところに行って休みました。来年1月4日に母が80歳になりますけれども、
中学生の時にクリスタになった母は、買い物に二人で行って、「お母さん、もう80歳になったね。90歳まで元気に長生きしてほしいね。」と言ったら、母が、「もう80歳で十分だよ。イエス様を信じて天国に行くのが楽しみなんだ。」
夜中寝ているうちに、神様が召してくだされば、それでいいわと言っていました。そうだなと私は思ってですね。
でも、息子だから母の手を握って、「いや、そうでない。もっと長生きしてほしい。」と言ったんですけどね。
皆さんはいかがでしょうか。どこに何に希望望みを置いていますか。人ですか。富ですか。私たちクリスタは天国に望みを置く。
イエスキリストを信じる信仰、これが人生最高最大の祝福であることを、あさっては忘れてはいけない。
36:02
イエス様の大名を信じ、それを希望する望みを持つ人々は、この世の中で生きているうちに、喜びもありますけれども、苦しみもある。
しかし、イエス様が再び来られるならば、全てのことが新しく変えられる。
全ての苦労から、労苦から、苦しみから、痛みから、解放されるその日を待ち望むこと。
新しい天と新しい地が始まること、それを楽しみにする、それを喜ぶこと、それが信仰なんですね。
この世にいる私たちは、いろいろと心を痛めることも多いでしょう。
傷つくことも多いでしょう。苦しいことも多いでしょう。
ある家庭は、夫から、あるいは妻から、あるいは親から、あるいは子供から苦しまれる人々も、この時代に多くいるわけ。
経済的に苦しんでいる人々も多くいます。
事故や病気のゆえに、身体の病気のゆえに苦しんでいる人々も多く。
あるいは、死んだ後どうなるんだろうか、といった恐れを持つ人も多くいるわけなんですね。
ところが皆さん、このような全ての課題問題の正解は、この地上である程度は教えてもらってわかるんですけれども、正解は。
そして、完全な回復と答えは、イエス様のシャイリンを持ってそれが上場されるわけなんですよね。
イエス様が再びおいでになりますと、全てのことが回復される。
恵みと至極の約束が成就される、全ての関係が回復される。
涙も苦しみも苦労も憎しみも戦いも争いも恨みも、戦争も貧乏も病気も事故もなくなる、その時が必ず来る。
そのシャイリンを待ち望みつつ、信仰の道を歩んでいこうではありませんか。
テサロニカ教会は、信仰の旗描き、愛の労苦、望みの忍耐を持つ教会でした。
このような教会になりたい。そして何より、イエス・キリストから、神様から認められ、褒められ、そして模範になる教会になりたいと願っております。
39:13
そのため、共に協力し合い、共に愛し合い、共に伝導し合って支えていきたいと思います。お祈りいたしましょう。
39:23

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