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2023-01-22 54:39

2023/01/22:慰めの泉が溢れる家

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2023/01/22 聖日礼拝

福本行弘師

ヨハネの福音書 5:1-9


00:01
お祈りをお捧げいたします。イエスは彼が横になっているのを見て、常に長い間そうしていることを知ると彼に言われた。
よくなりたい。非常に馬を堪えた。水がかき回された時、池の中に入れてくれる人がいません。
石を受けると他の人が先に降りて行きます。イエスは彼に言われた。起きて床を取り上げ歩きなさい。するとすぐにその人は治って床を取り上げて
私の愛する天皇父様、あなたの測り知れない高なご愛、恵み慰め、憐れみを心いっぱい感謝いたします。
主の恵みによりまして、私の2023年も、今日1月の22日の第4戦死のこの時まで、私たちを守り一撃生かしてくださっていることを心から感謝いたします。
イエス様の尊い有事家の恩賜によって、過去、現在、未来のありとあらゆる過ちや罪を全部許してくださって、このように主の教会に集まって、まことの神様を礼拝できます御庁を心いっぱい感謝いたします。
この宮谷教会も、あすで神戸西部教会が祈りのうちに、このところに福音の開拓伝道を始められて、
03:25
小野正先生、坂井先生、はじめ兄弟姉妹たちが特別に神様から選ばれ導かれて、ここからこの教会が立ち上げられまして、
今日まで多くの先生方、兄弟姉妹たちの祈りと懸命なる伝道によって、ここまで神様が御教会を立ち上げてくださっていることを本当に心から感謝いたします。
とりわけ私どもは、ユン先生、半田先生、ご夫妻が、この日本よりも遥かに伝道博会がしやすいであろうと思う韓国から全てを投げ打って、日本選挙のためにおいでくださいまして、
私などがおいびもつかない懸命な伝道博会にあたってくださって、それこそ神経と注いでほぼ9年の間、使えてくださいました。
本当に一生懸命、日本人の救いのためにおあげくださりました先生方でございますが、おもわの病におかかりになって人間的にはさぞ残念だったと思いますけれども、
また神様のおみちびきと見守りの中に健康が支えられ、新しい伝道の地に派遣されるであろうということを伺っております。
06:02
まだまだ先生方の働きが必要だと思っております。どうぞ天皇神様が、この豪祭をまだ3人のお子たちを守ってくださって、新しい任地で森のないように伝道博会にあなた様がお持ちくださることをあわせてお願いいたします。
斉藤渡先生豪祭も、当初からこの教会の協力牧師として予期合掌されて来られました先生豪祭をさらにあなたが祝福してくださり、尊くお持ちくださるように。
また加藤光先生、藍野先生、若い牧師豪祭がこのところに派遣されるということを伺っております。このこともまた主から出たことであると信じております。どうぞ主よ。
若い天才方を中心に、今日まで導かれた神徒の兄弟姉妹たちが、心合わせ力合わせて、この明谷教会の健全な成長のために用いられて参りますように、心からお祈りをお捧げいたします。
ただいま、うちのみ広子姉妹が呼んでくださった岩根の御所から慰めに満ち溢れる場所と題して、あなた様から与えられた御言葉を語らせていただきます。
どうか神様、御霊をもってこの子供を助けてくださって、分かりやすく信仰的に語ることができますように、お助けくださることを併せてお願いをいたします。
明谷教会の兄弟姉妹たちの上に、また御家族の上に、神様の祝福は豊かにありますことを信じております。この2023年一年も、神の望みに期待して、どうか信仰と望みにあふれた一年でありますように、私たちを守り導いてください。
兄弟姉妹たちの心にある切なる祈りと願いと感謝に合わせて、愛するイエス様の尊いお名前によってお捧げをいたします。
09:07
アーメン
失礼いたしました。
元々のベテスダという意味は、幸せの家とか、哀れみの家、そういう意味がありまして、もっと元々の意味は、湧き出る水の場所というアラム語の言葉から派生してできた言葉と言われております。
湧き出る水の場所、私たちにとってキリストの恵み、癒しの泉が湧き出る場所はどこか、幸せと哀れみの家はどこか、それは言うまでもなく十字架であり、またキリストの教会がそうであります。
不清書には伏せていた、多くの人が伏せていた、私はこの伏せていたという言葉からいろんなことを考えさせられました。
今の時代だけではないんですけども、特に今の時代は人生に疲れ果てている人がたくさんいらっしゃいます。
12:10
その人でしかわからない悩みとか、あるいは何かの失敗、しくじりで落ち込んでいる人、あるいは夫婦や親子の関係がうまくいっていない、何かぎゅくしゃくしているという過程、人生の生きがいと言いましょうか、よりどころがわからないという、
そして全く人生に絶望している人、絶望しきっても生きていくという、そういうものがほぼなくなってしまって、自らの命を断つ人、そういう人たちがあるいは家庭がずいぶん多くあると思います。
仕事のこととか、学校のいじめなどもそうですが、家庭、子育てなどで悩んでいる人というのは、私どもは限られた人とか家庭しか知らないんですけども、ずいぶんたくさんいらっしゃるんじゃないかと思います。
まさにどうしようもなく伏せたままである、あるいはそういうことの中で欲求満足、ストレスがいっぱい溜まって爆発して、いろんな持っていきようがないという、そういう人たちが集まっている場所がこのベテスタという場所であって、
冒頭に申し上げたように、慰めと哀れみの幸せの家という意味がありますが、現実は決してそうではなかったように思います。どうしようもない。
特にその中で38年間、マステーションにはそこに38年もっとありますが、私たちがここを読むときに、38年というのをちょっと想像がつかないんです。正直言って私はわからないんですね。
15:06
38年間の長い間、病気、もうほとんど伏したままだったんです。おそらくここに来るまではいろんなお薬とか病院にかかったり、お医者さんにも見てもらったり、いろんな多くの人の世話をお受けになっていたと想像しますが、
この彼にとっては、ベテスタというのはベテスタではなくて、本当に死ぬ場所でしかなかったと思うんです。
絶望と孤独、孤独死というものが非常に、今始まったわけではありませんけれどもずいぶん前から孤独死、特にお年を召したご高齢の方々の孤独死というのが非常に大きな問題と言いましょうか、痛み悲しみになっている昨今でありますが、
そのベテスタの池にイエス様が来られた、イダヤ人の祭りがあったと一説の始めにありますが、これは何の祭りか具体的にはわかりません。
イダヤ人には特に三つの大きな祭りがあったと言われておりますが、一つはスイコシの祭り、種なしのパンの祭りとも言われます。この祭りについての詳しいことはもうお話しいたしませんが、二つ目はカリイレの祭り、大メナシウの祭りとも言われます。
三つ目はカリイオの祭り、その三大祭りと言われる、どの祭りかは知りませんが、とにかく三つのうちの一つの祭りだったと思いますが、その祭りの日にはイダヤ人の男の人はすべて神殿に行って、
神を礼拝すべきであるという、しなければならない、そういう大切な日だったんです。イエス様ももちろん人間的には男子ですから、当然神殿に行って、何かを捧げるものを捧げて礼拝すべきであるところが、しかしイエス様は神殿には行かなかった。
わざわざと言いましょうか、わざわざシロアムの池に立ち寄られた。
18:12
私はイエス様が気まぐれで通りかかって、あ、そうかここがシロアムの池かということで、急に気持ちを変えて神殿に行く前にふと立ち会ったのかとは思いません。
イエス様はもう最初からはっきりとこの日はシロアムの池に行くんだという、だからそのたまたまとか気まぐれとか偶然にイエス様がシロアムの池に立ち寄ったのではなりません。
そうではない。この38年間の病でどうしようもない孤独と絶望の中にいた人に会って、この人を元気にしてあげたいという気持ちでここに来たのではないかというのが私自身の考えといいますか、
教えられているところなんです。はっきりとした目的があった、偶然ではないという、そのことを皆さんにしっかり受けてみてほしいんですね。偶然ではない。
北森和夫という、この先生は世界的と言ってもいいと思いますが非常に優れた素晴らしい偉大な牧師でありまた清少学者・神学者であられた方ですが、北森和夫、熊本のご出身です。
この方は生まれ育った家が、たしか浄土神宗の団家の家に生まれて、小さい時からお父さんお母さんおじいちゃんおばあちゃんと一緒に仏壇の前で一生懸命念仏ですか、お題目を唱えていた。
21:08
相当身についたと思うんですが、ところがだんだんと大きくなるにつれて、例えば中学生、高校生になった時に、かなり身についているであろう仏教の教えとかそういうものがもう、
彼の生活から一切もなくなってしまったというか、彼は自分の生活の中で仏教の部門、言うことも感じることもなすことも何にもなくなってしまった。
である時、ふとしたきっかけで聖書を手にした、お友達のおすすめだったと思いますが、聖書を読んででも最初からまたえによる福音書は全然面白くない。
それでも何かあるんじゃないかと思って聖書を読み続けていた。でも彼の頭の中には、物事、世界のすべて、自分の人生もすべて偶然である。
何もかも偶然以外の何物でもない。そこから彼は離れなかったそう。こういう家庭に生まれたのも偶然。自分がこういう学校に行っているのも偶然。聖書を手にして読んでいるのも偶然だと。
ところがある時、聖書を読んでいる時に一つの御言葉に彼はとらえられた。それはどのような御言葉かと言いますと、神は頭の毛、頭の一本一本までもちゃんと数えてそれを知っておられるという言葉が聖書に出てきました。
彼はびっくりしたんです。僕の頭の毛の一本一本まで数もそしてすべてを知っている神様がこの世界にいるのかと。
彼は強誕して自分の人生、この世界は偶然ではなくてすべて神のせすりの中にあるんだという、彼はそこからすっかり生まれ変わった。皆さんそういうことはあるんですね。
24:11
私もよく分かりませんが、何十年聖書を読んでいてもキリストを信じない、神を信じない人、教会に何年も何度も来ていてもアーメンターを信じない人、救われない人。
なぜかなと思うんですけども、私もよく分かりませんが、とにかくこの先生は17歳の時に神と出会った。一つのでもしかして神の毛の全部を知って数えておられる神様と出会った。
それでその彼はキリストに捕らえられて悔い改めて洗礼を受けてクリスチャンになって、やがて大牧師と言いましょうか、大信学者、世界の北森稼働という。
ですから皆さんどうぞ、ぜひ理解して信じてほしい。物事には偶然がない、必ずそこにはプロビテンス、摂理の神の御手の中にあるということをしっかりと捉えていただきたいと思います。
だから今日この明太利教会で私たちが神の前に集まっているのも、もちろんですが偶然ではない。神の摂理の中にあるという。
さてこの38年間の人のお話に戻りたいと思いますが、だから彼がベテスタの池に伏していたことも皆さんこれ偶然ではないと思います。
イエス・キリストに会うための場所であり時であったのであろうと思います。
この人にとって一番つらかったことは何かと言いますと、もちろん病気もつらかったでしょうが、自分のことに心を配ってくれる人が誰もいなかったということが一番つらかったのではないかと思います。
マザー・テレサさんがおっしゃったことですけれども、人間にとって一番不幸なのは私という人間は誰からも愛されていない。
27:04
あるいは誰をも愛せることができないということが一番不幸なんだというような意味でおっしゃったように2回ほど来られたそうですが。
ですからこの場所だけではありません。ベテスタという場所だけではないのですけれども隣人の隣人のために気配りする思いやりが全くなかったここでは。
それこそ我先にという、ベテスタの池だけではなくて大体私も含めて人間というのはどうしても自己中心のところがあるんですね。
どうしても自分が可愛い。ところがイエス様はどうすることもできない。皆さんイエス様という方は自分も人もどうすることもできないことをやってのけてくださる方だということ。
自分という男はもう救うようがない。どうしようもない。でもイエスキリストはそういう私やあなたを愛して許して救ってくださるお方である。それはなぜか。
十字架で死んだままでなくて復活したからですね。コリント第二の手紙の5章17節有名なお言葉ですが
誰でもキリストにあるならばその人は新しく作られたものである。古いものは過ぎ去ったみよう全てが新しくなったのである。これは後語訳聖書です。
イエス様という方は皆さん昔も今もこれからも今日もそうです。今日もあなたは私に対して起きて床を取り上げて歩いてごらん。
つまりこれはイエス様は私を信じて一歩歩み出してごらんなさいということです。
5章の8節の御言葉を皆さんご覧いただきたいと思います。イエスは彼に言われた。起きて床を取り上げ歩きなさい。
30:01
起きてというこれは起きなさい。つまり心を覚まして上を見なさい。上は何か十字架であり天を仰ぎなさい。天を仰ぎ十字架を仰いで前に向かって歩みなさい。
床を取り上げ。床というのはいわゆるマットですね。寝台の上に置いているマットのことです。マットを背負って立ち上がって上を向きながら前進しなさい。
つまりそのマットを担いで大変重かったと思いますが、これはあなたの人生のあらゆる重荷を折って上を見ながら前に向かって進みなさい。私が全部背負ってあげようと。
これはイエス様です。あなた一人で重荷を折るのではない。私も一緒に折ってあげようと。一緒に折っていきましょうと。これはどうか分かりませんが、このキリストのおっしゃる通り、このイエス様という方がおっしゃる通りにしたら大丈夫かなというそんな気持ちにふとなったかもしれない。
でも彼はアーメンと。イエス様はおっしゃる通りにした。イエスキリストがおっしゃる通り彼は信じて従ったという言葉は出てきませんがきっとそうだ。するとすぐにその人は治って床を取り上げて歩いた。
治ったというのは38年間の長い重い病気が治ったというだけではない。神を信じなかった。それは彼にとって一番大きな罪であり間違いだった。しかし治った。その罪もけがれも間違いも何もかももう治った。癒された。許された。清められた。
イエス様という方は今もそう。リテストのこの時も今もちょっともイエス様は変わっていらっしゃいません。私たちの手をとって、いや私たちの全部を背負ってもう共に人生を歩んでくださる。
33:16
だから皆さん方はそうではないと思いますけれども、自分自身や家庭や誰かをダメにするような腐り果てたマットの上にいつまでも寝ている必要はないんです。そんなものはもう取っ払ってイエス様弱い私を助けてください。罪深い汚れたものを押してください。イエス様は分かっている。分かっているから私を信じて従ってきなさい。
イエス様は私やあるいはあなたをダメにしているようなものがあるならばそのすべてから立ち直してくださるお方ですね。復活のキリスト。この礼拝で歌ったかどうかちょっと私忘れましたが、祈祷会で歌ったことがありますが、すべての人には主が必要である。
誰にも。子供にも大人にも女性にも男性にも大統領にも戸敷にももう世界中のあらゆる人にとって一番必要なのはイエスキリスト。絶望を希望に変える主の愛。命の御言葉聞いてみよう。
神聖歌には無いと思いますが、きっと無いでしょうね。きっと無いというのはおかしい表現ですが、無いと思いますが。
えっとね、そうそう思い出しました。恩恵みと恩光りという、三であれでしょう。恩恵みと恩光り、あれの三節。
勤労者も商売人も芸術家も教員も医者も看護師も保健師も弁護士も銀行マンも消費者マンも証券マンも大学生も若者も老人もOLも政治家も官僚も科学者もあらゆる人にキリストは必要である。
36:28
恩恵みと恩光りの三節の中には勤労者、商売人、芸術家、教員までしかない。ありとあらゆる人に、その人がどんな職業であれ、どんな年齢であれ、どんな性格であれ、とにかく全ての人、あらゆる人には絶対にキリストが必要であります。
私が言うまでもなく、この世界には数え切れないほどおびただしい宗教があります。どれほどあるかも私は知りませんが、いずれの教祖様も共通して言えるのは、誕生、生涯、そしてどんな偉い偉大な教祖も必ず死ぬには共通です。
あるいは病気になるかもしれない。しかし、死に打ち勝って、黄泉を突破して復活した宗教はキリストだけで、教祖が復活したという話は聞いたことがありません。どんな偉大な宗教かも。
この復活したキリストという神は、説理の神なのです。偶然の神ではありません。プロビデンスの神です。
若い時に、随分昔の話ですが、舟本坂尾牧師という大先輩の牧師の説教を一回だけ聞いたことがあります。
その時に、その先生が書かれた石竹の花という本を買いました。
39:08
この先生の説教を聞いて、ぜひこの先生の石竹の花という本を読み絶えて買いました。
その石竹の花という本は本当に素晴らしいです。
ところが、最近、この先生が書かれたもう一冊の本を買って読みました。
愛はあふれるという、私はこの愛はあふれるという本を読みながら、涙が止まらなかったのです。
この舟本坂尾先生が小さい子供の頃、小学生の3年生か4年生ぐらいの時に、
お母さんが重い病気になって、小さい島で暮らしていたのですが、
本土の病院に入院せざれなくなって、入院生活をしているお母さんを、
ある時、渡し舟と言いましょうかね、ポンポン船に乗って、
小さい島から本土の病院にお母さんをお見舞いに行く途中、
一人の見知らぬ外人さんから、
「坊や、これお読みになってください。とてもいいことが書かれていますよ。」と言って、
膝の上に置いてくれました。
その優しい外人さんが、「小学校の小さい少年にどうぞ。」と言いました。
後でわかったことは、そのチラシというのが、キリスト教のトラクトだった。
彼はそれをポンポン船の上で目を通して、「あ、いいことが書かれてある。
42:00
これ、お母さんに読んであげよう。」ということで、
病院に行って、お母さんに、イエス様のことが書かれたチラシを読んであげた。
お母さんもすごく感動して、重い病気の中で、
「ああ、いいことが書かれたね。こんな神様がいらっしゃったら、私も知りたい。救われたいな。」と。
後でわかったことは、その優しい外人さんは、実は母国を全て、
宣教師の皆様もそうですが、宣教師だったんですね。
こんな小さな島のポンポン船の上で、本当に豊かな暮らしを本国でしていただろう宣教師の先生が
小さい小屋に渡したトラクトが、この先生の救いのきっかけとなった。
だから、これは余談ですが、トラクトなんて何千枚残ってもどうにもならない。
金と時間がもったいない。そんなことはない。
やがて、この船本坂本先生は牧師になりまして、とても素晴らしい牧師さんだったそうです。
話は、とんでも申し訳ないですが、今年阪神大震災の28周年を迎えまして、
当時、西宮西会教会は全会の認定を受けまして、私どもも教会で暮らしていましたけれども、
教会で生活ができなくなり、もちろん礼拝もやがてできなくなりまして、
礼拝の場所をどこか探さなくてはならないという。
夫婦で、あちらこちら神徒の皆さんにも助けてもらって、礼拝の場所を探し当てまして、
そこで礼拝を守ることができまして、実は一回も礼拝を休んだことがないんですね。
45:01
そしてもうほとんどの人が、当時の震災前に礼拝出席した人のほとんどがもう礼拝に出席して休んでいなかった。
遠い遠い京都とかですね、遠いところ大阪の橋の方からも礼拝に来られていたのですが、
やがてその礼拝ができなくなりまして、もう困ったなぁとお祈りしていた時に、
実は私の頭にふっと浮かんだことが、母校の礼拝堂はどうかなと思った。
あそこを使わせてもらえないかな、でも無理だろうなぁと思ったのですが、
断られてダメ元だと思って、その学校の神学部の宗教総務課に行きまして、
カクカクシカジカで礼拝する場所がなくて困っております。
もう教会堂は壊れて使えません。
あのランバス礼拝堂を使わせてもらえないでしょうかと、それからひどい思いでお願いした。
恥ずかしい話ですが、在学中にランバス礼拝堂にも宗教総務のそういう事務所にも一回も入ったことがない。
恥をしがんで、卒業証書を持ってここなんです。
そうしたらその総務課の課長さんでしたかね、分かりました。
でも私一度んではとても応援してきませんので、
教授会と理事会に諮りますので何日かお待ちくださいと。
後で聞いた話ですが、このランバス礼拝堂という礼拝堂は外部社には解約以来、
外部社には何事でもお貸ししたことがないと。
それでその教授会と理事会が何回か行われたそうです。
48:01
私はびっくりしたんですが、当時教授でありまた理事長をされていた船本博という先生、
どこかで聞いたようなお名前だなと思ったら、
あの時の船本坂本先生のご子息が清木先生だった。
私はもうびっくりして、その船本清木先生が直接私に会ってくださって、
授業が授業だからとりあえず使ってくださいと。
でも朝の10時までにしてくださいと。
10時まで先生何時からですかと。
8時半からにしてくださいと。
でももう時間なんか問題ではないと。
わかりました。
それでその船本清木先生がずいぶん奔走してくださった。
それで立派なパイプオルガンで賛美したのは私の記憶では、
あの時初めてじゃないかなと。
聖火隊の皆さんもパイプオルガンで賛美をされたのはおそらく初めてじゃないかなと私は思いますけど、
そういうことはとりあえずですね。
船本清木先生という先生もすごい先生で、
私はそんなにすごい先生だと知らなかったんですが、
普段なら会っていただけないようなすごい先生で。
勧学を辞められてから東京の東京女子大学とかいろんな有名な大学の学長とかなかった先生でありますが、
調べましたらこの先生はものすごい本を書いておられるね。
数もそうですし内容もすごい内容。
本当に厚かましくお願いになかった。
しかし私がどうのこうのじゃない。
私はもう無力な本当に。
それこそただのどうしようもない男です。
51:01
しかし神様が後押ししてくださったんじゃないかなと。
まさに皆さんこれ偶然ではない。
ザーッと繋がっている。
まさに宗後自身が慰めの家、憐れみの家であると。
最後に少し長くなって申し訳ありませんが、
最後に一つのことだけお話しして終わりたいと思いますが、
これもまた皆さん実はザーッと繋がっている一つのお話なの。
実は1889年アメリカ人宣教師ウォルター・ランバス宣教師が
現在神戸市長谷区のある原田の森、皆さんご存知の大地道物園ですね。
あの場所に木造二階建ての校舎を一棟建てた。
そして電動車の育成とキリスト教主義に基づく青少年教育を目指して
観世学院を創立しました。
ランバスと5人の教師、そして19人の生徒という私塾でのスタートでしたが、
全人教育という高貴な使命を掲げて、理念を掲げて、
世界市民として世界万民のために献身する若者を育てることが
自らのミッション、使命であると確信した。
このランバスの精神は136年に迫る観世学院の歴史に
今もなお脈々と受け継がれております。
これを学院機関誌のポポラという新聞から抜粋した文でやりますが、
私はもう改めて、この神様は絶対に偶然の神ではない。
もう100%絶対と言っていいほど説理の神である。
確信して疑わない。
ザーッと繋がって、そして今もなお繋がっている。
この明大教会にこの1年私たちが導かれたことも偶然ではない。
説理だ。
どうぞ皆さん、この説理の神は、あなたがあなたの家庭に何が起ころうとも
54:00
他のものは見放し、よしんば世界が見放したとしても、
この説理の神キリスト教はあなたやあなたの家族、ご主人、子供さんたち、絶対に見放さない。
必ずどこかで必要な助け、救いを必ず施してくださる。
この方こそ本当に慰めの家、憐れみの家、恵みの泉がいつまでもあふれる源泉であるということを、
いつも覚えていただきたい。
お祈りをお下げください。
54:39

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