00:01
本庁のメッセージは、中川敏行先生にメッセージを語っていただきます。
説教題は、切り出された岩、掘り出された穴を見る、と題して語っていただきます。よろしくお願いいたします。
おはようございます。
本来、よく言うんですけども、私が皆さんの側に座らせていただいて、
皆さんの仰がしや、普段、ユンソンホン先生から聞かせていただきますけれども、
いろんな面で罪深いものですので、私が神様の恵みを聞かせていただきたいと思うんですけれども、
40年ほど前から、関西成長新学校で学ばせていただいて、
教団で、電路市とか補強市がありますが、40年間、山口県で川本町、大地軍の川本町というところと、
また、北にあります養保県の西脇市で19年放信しました。
また、宇多崎でも5年間放信したので、その間、道が開きまして、
アメリカに留学して、アメリカの北米ホールネス教団というのが、
ホールネスのロサンゼルスの西にあるんですけれども、日経地の教会で、客員牧師としても青年部を担当させていただいたりして、行ってきました。
しばらくアメリカにおりましたので、英語は少しできるかもわかりません。
向こうのルーテル派の聖書学院、新学校で、2年間修行というか学ぶときに与えられて、
35、6年前に日本に帰ってまいりました。
そういうことで、本当にこんな亡きに等しいものですが、本当、キリストに従って、信じて、悔やためてやるならば、新しい生涯、
ユン先生が、孫先生が、しょっちゅうそういうことを信仰持つ者の幸いを恵みをお話しされます。
先生がおっしゃっていること、本当だな、100%本当だなと、いつも心の中でアメントを唱えつつ、
礼拝を守らせていただいております。
それでは一言、お祈りを捧げまして、そして御言葉、メッセージの方に移ってまいります。
主を待ち望む者は、新たなる力を得、和地のように翼を張って昇る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れることはない。
天皇、愛するお父様、私たち生まれながらの者、残念ながら私たちは、あだもえばいない、
罪の因子をもって、DNAをもって、原罪をもって生まれてまいります。
けれども、教会を通し、クリスチャンを通し、聖書を通して、キリストの復印、キリストの生涯、復活されたイエス様、
03:00
十字架は私の罪や徒が過ぎゆくための十字架なんだとそれを知り、悔やまさめて信じるならば、
本当にその瞬間から、私たちに新しい生涯、新しい日々を与えてくださる生きた者を神様であることをおえ感謝します。
今日も愚かな小さい者です。
かない友ども、三保谷教会で愛する方々とともに生けるイエス様を礼拝できます。
身の特権をおえありがとうございます。
小さい者が準備しましたメッセージを、どうぞ聖書からの見言葉でございますが、
最後まで尊い御用を全うさせてください。
お願いいたします。
待ち望んで主エス様のお名前を通してお祈りいたします。
アーメン。
それでは、二箇所、聖書を読んでいただきましたが、
そのことから、題は五十一章の一節の後半の言葉を引用しまして書いてありますが、
切り出された岩、掘り出された穴を見るという、そういう題で準備しております。
よろしく、祈りのうちにご準備ください。
だいたいもう、明丹教会の礼拝、昨年の3月の終わり頃から4月から来ておりましたので、
お交わり、祈っていただいて、お交わりの中に入れさせていただきましたので、
すべて来ておりませんけれども、集っておられる、敬愛しまする信仰歴の長い方々、
役員の方や尊年の方、婦人会の方々がおられまして、
全部はわかりませんが、だいぶ教会の雰囲気というのを理解しております。
ここで言われるのは、いつも聖書からの信仰の説明であるわけですが、
少しですね、何かまだ休道中の方は、何かイエス様が死んでクリスチャンになったら、
まだわからない方はですね、レストランとか、よそに入口で入ろうかな、入らないか迷っていらっしゃってですね、
食堂に行っても、親切に置かれてある美味しいビーフ的とか料理も見るだけで、
実際食べないで、あるいはこれ考えられることはあるんですが、
実際お金を払って、レストランで食事を食べて、味わうと美味しさがわかるわけですね。
どこのうちもそうなんですけど、招かれて入って、そのうちに招かれて接待されると、
ああ、よかったなと思うんですが、入らない前から、荒木書教は外国の宗教だ、
イエス・キリストと自分の関係があるだろうかと思ってですね、なかなか一歩が踏み出せない方があるんです。
決断して入られたら、本当に素晴らしい世界が開かれます。
私も17歳の、今も忘れることはできないんですが、今年も少し前だったやつ、10日前、
2月の15日、17歳の青年の2月の15日、イエス様を信じて涙ながらに、罪深い穢れ果てたものなんですけど、
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この私の罪や穢れ、これを癒やしてくださるために、イエス様は身がいの死を遂げてくださったんだ。
そのことを信じた、救われるということを、ラジオ福音放送の世の光、鳩田明先生や百万の福音で知っておりましたから、
姉がクリスタンですから、教会よく行きまして、伝道説も聞いておりました。
知識があったんですが、自分もなかなか一歩を踏み出せなかったんですが、
17歳の青年の時、イエス様を信じて幸いな生涯に入れさせていただきました。
ちょっとこれは確認して、皆さんもクリスタンの方そうだと思ってくださるんですが、一言で言うと簡単なことなんですね。
何か信仰を持つと言って、教会行ったら献身も捧げられるし、報酬ばっかりさせられて、いろんなマイナス面を考えられるかもしれませんが、
信じるということは日ごとしております。
これは私が言ってもそうだと納得してくださると思うんですね。
私たちは案外そういうことを信じておるんですが、信仰これは礼拝ですので、聖書、イエス様に対する信仰、そういうことに結び合わせてお話したいと思うんです。
信じることはみんな、子どもも大人も日本人の人も海外の外国の方もしておらんですね。
例えば、普段していることでわかりやすく説明させていただきましたら、私たちこの近くに地下鉄が通っております。
あの宮谷駅からですね、三浦とか長田とか、あるいは西呂方の青春へ行くときですね、地下鉄に乗るわけですね。
あるいは芝生も走っております。あるいは皆さんの運転される車もあり、友達に誘われて乗ることもあるんですね。
そのときにですね、その車は自分が行きたいところに電車は行くんだ、切符買って行くんだ、信じるから電車の中に乗り込むんですね。
この電車が走るうちに脱線を送るんだとかですね、例えばですね、お家で奥さんが、お母さんが子どもたちに、家族の方々に夕食や昼食を作って、
あの中にもしも毒が入っていると思ったらですね、そんなもの食べないんですけど、私たち案外信じるというのは常にしておることでございます。
してるんですね。買い物行ってもいいもの売ってるから自分で選んで着物とかいろんな道具なんか買うわけなんですね。
信じることはしておるんですが、それを信仰、クリスタルの場合は聖書を読んで礼拝。
礼拝をして、また牧師のメッセージを聞いたり、パンフレットというか、そういう信仰書を読んで、そして信仰、礼的な養いを受けるわけなんですけども、
そういうことでありまして、何もですね、信じたら悪いところに行ってしまうのではなしに、先ほど言いましたように、地下鉄の列車に乗るときにも、
友人の知り合いの方の車に乗るときにも、自分は安心して乗るように、イエス様神の御子でありますから、今の人生より幸せにしてくださる、罪を許してくださる、幸いな日々を与えてくださると信じて一歩踏み出したら、その中に入ることができるんですね。
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それは一言言うと、今世界にクリスチャンが24億か25億、だいたい人口の4分の1か3分の1強の人が、世界にですね、ヨーロッパ、アメリカに、またアフリカに、アジアにもたくさんのクリスチャンがあり、教会がある。
そのことを見ましてもですね、教会が、新宿教会、いい加減な宗教ではないんだ。本当に信用していい宗教なんだと思われて、一歩踏み出して、イエス様には飛び込んで、そして救われて、日々楽しんで喜んで生活なさうのならば、たった一回の人生で本当に幸いな実りのある生涯へ、神様は入れてくださるお方なんですね。
そういうことを今日も言っているんです。普段、先生は本当に祈りのうちに、ユン先生、ユン牧師、お話しされているんです。先生の言葉を自分の親とか信頼される方はすべて、大丈夫だと信じて入られると、信仰のスタートが始まって、幸いな、先ほど言いましたように、実りのある日々の生活を送ることができます。
ですから、この信じること、ただ単に品物や車や家とかですね、家族ではない日に、神に対する、神様というのは美しい世界を作られて、今もおられるんだ、目では見えないんですけれども、聖書の中にあるんですね、支援の中にあります。神というのは、自分、御神を隠しておられる神という聖徒があります。
だから、神様は全面に出られないんですね。出られたのはイエス様なんですね。神様が一つなられたイエス・キリスト。で、そのキリストを贈られた天の神様、地上の人類の歴史に足跡は残しておられない。残されたのは、神の御子であるイエス様が大仁人として、見えない神様が見えるように出てきてくださったのが、イエス・キリストであり、神そのものでいらっしゃるんですね。三密一体の神様を信じていきたいと思うんですね。
ですから、宗教的に信仰に置き換えていくときに、神の存在もわかって、そして幸せな平安な日々を送ることができます。
そして、その神様のことを、先ほどマルコの四章の聖句を開いて読んでいただいたわけなんですが、四章三十五節から四十一節のところに話を持っていきたいと思います。
一つは、聖書が言っている神様は、ちょっと専門的に言うと、ペルソナというギリシャ語を使っています。ペルソナ、どういうことかと言いましたら、パーソンとかパーソナリティと英語で表現するんですが、ペルソナはギリシャ語であります。
人格を持っているんですね。私たちが子供でも大人でも高齢でも考えたり、不安に感じたり、将来のことを計画立てたり、いろいろなことをしますように意志を持っているわけです。人間もあるように、この人間を作られて生かしておられる神様は、ご自分ももちろん意志を持っておられて計画を立てられて、神その身も身も心もお持ちなんですね。
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そういうことを聖書は私たちに教えております。そこで大事なのは、これも清めというか、私たちよく表現しているんです。
一つ、クリスチャンと世間の人々の違いはどういうことかと言ったら、車を乗る時も自分でハンドルを握って運転します。例えば船を乗ったり、大きな船だったら操縦する人も操縦する方もおられますが、その車のハンドルを船の舵、それを自分が持つのではなく神様に委ねます。
キリストに委ねていく、自分はもうただ神様に祈って守られて準備された人生、ただキリストに従っていったら間違いのない歩みができるわけなんですが、その操縦権というかハンドルをキリストに明け渡していく時に、私は本当に神に喜ばれる日々の歩みをすることができるんですね。
いつも喜んで絶えず祈って神様に従っていく愛の生活ができるように人生を備えないといけないんですね。それを信じないから思い患いが増えてですね、お金の問題、健康の問題、家族の問題、悩んでですね、せっかく一生そんな時間ないんですが、悩んで悩んで悩んでという時には鬱になって精神科のお医者さんにお世話にならなきゃならないという、そういうことになります。
一言、善から善を成してくださるイエス様に自分を言われると幸せな、本当に英語ではハッピーと言いますけど、ハッピーな日々の生活、人生を歩むことができるんですね。
そのことを知って、一日でも早く、まだ信じられない方があったら、一日でも一分でも早くキリストを信じられたらいい。
私たち教職者、あるいは教会の役員、一人でも多くの方が教会に来て、福音を聞いて信じて、救い渡めてイエス様を信じられるように、私たち斎藤先生もユン先生も生涯をかけてですね、他にもまだいろんな仕事があります。
そういう仕事をつかないで、福音を語ろう、イエス様に伝えようとして生涯をかけてやっておりますので、一日でも早い決断をなさって、キリストを信じる生涯にお入りくださっていいと思います。
今こういったことを聖書が言っている面からお話したいと思うんですが、それは先ほど呼んでいただいたマルトによる福音書のところに書かれてあったところでございます。
私の聖書では、新約の新解約72ページですが、マルトの福音書の4章の35節から41節ですね、ここでクリスマスのお前になったイエス・キリストはどういうお方かということを、聖書は私たちに教えてくれておるわけですね。
15:12
一言で言ったら、今お話していますように、救いと人間、希望、喜びを無未完成な人生に、キリストを信じる時に不思議なように、いろんなことを一気に変えてですね、万寿一気に変えて、私たち豊かな幸せな日々に人生に変えてくださろうからなんだということを、今日のこのところに書かれてあるんですね。
35節から41節、呼んでいただいたんですが、そこのついてお話します。それは今も言ってます。信じない者は悩みや苦労があることをお話ししておりますが、人生の袋地で歩んで迷ってですね、行く先は真っ暗だ、死だけだと思ってですね、絶望しかない。
この人生に今言いますように、キリストという方は、いわゆる私たち人生、希望と救いの道を備えておられるわけですね。この書かれてあることをかいつまんでお話ししましたら、イエス様は30歳の時にお立ち会いになられまして、高尚外のお母さんになられたんですね。
そしてガリラ役の周辺でも、時玉ガリラ広範とあって、参上の説教とか、ヘッと押された。ある時ですね、弟子たちもおったんですが、そして多くの群衆が何百人何千人に、そのガリラ役の広範にイエス様の命のメッセージというか、天国のお話を聞きたいと、大勢集まっておられたんです。
疲れられたのか、イエス様は夕方3時か4時頃になったんです。弟子たち、もう対外に渡って、向こうのガリラ役の向こうを渡って渡ろうじゃないかということをイエス様はおっしゃられたわけなんですね。向こう岸渡ろう、聖句に書いてあります。聖書というのは神の言葉ですが、書いたらいけないわけですね。
35節に弟子たちに、さあ向こう岸渡ろうとイエス様は提案を与えたんですね。そして弟子たちと共に、またイエス様が乗られた船ともう一艘の船が行ったそうですけれども、2艘の船が対岸に向かって出されておられたんですね。
そしたらイエス様はずっと弁道、神の国の話をされて疲れておられて、船に乗られたら途端に船の後ろを最後に見た友の方に行って、ぐーぐーと仮眠というか、眠ってしまった、熟睡されてしまったということが聖書の中に書かれてあるわけですね。
そしたら、しばらくイエス様が眠られたから30分か40分くらい、時間は聖書の中に書かれていないわけなんですけれども、激しい突風が吹いてまいりまして、荒地が来てですね、湖が荒れだしたんですね。
そしてこういうことがあったんですが、これは聖書にありますが、我々は聖書からいろんな励ましとか救いの道を見出すわけです。
18:10
私たちの人生もですね、長い人生、やっぱり悩みがあり、問題があり、苦しみがあり、トラブルとか、あるいは家族のことや病気のことで、この嵐というか平穏な生活が潰されて、突風が吹くことがよくあるんですね。
ですけど、ここの聖書に書かれてありますように、もしも皆さんが、私はイエス様を信じて、イエス様は神の子で何でも御敵になるんだ、祈ったら応えられるんだという信仰も、今先ほど信仰のお話をしましたが、信仰を持って祈るとですね、イエス・キリスト、神の御子の名をとして、どんな願い事でも叶えてあげると。
このお金の福音書の十二章とか十四章の中にあります。どんな願い事でも叶えてあげる。大きいかかろうが小さかろうが、大きさには制限ないんですね。大きいことでも小さいことでも、人間ではできない複雑なことでも、みんな善能の善知の神様ですが、それを直してくださるお方なんですね。
そのことで、この時もなったんですが、だから私たちも、私たちの人生、結婚問題や就職のことや、病気のこととかいろんなことに悩んだり、嵐に見舞われる、そういう時に至った時に、イエス様の名を読んだらいいんですね。イエス様は救い主であり、お医者さんでありますので、病気をもお直しくださるわけですね。
死はあなたのすべての病を癒やし、という支援の言葉もあるわけなんですが、本当に祈りに応えて、私たちから血液とか、体に水をつけてくださって、直してくださるお方なんだ、と信じて祈っていただきたいですね。お医者さんに行くのもいいですわ、それも必要です。
だけど、もっと近いイエス様に祈られる方が、私なんかもう何百回と、この十七歳から五十年ぐらい祈ってきたんです。応えられて今日あるんですね。本当に感謝しております。
ここのところ、マルコのところを開いて、またイザヤの方に話を進めていくわけですが、この船、小さな、私も今から二十数年前に、イスラエルの方、英語ではバイブルラウンドに、聖地と言ってイエス様が生まれられた、バイブルラウンドに、あそこへガリラ役を行きまして、ジーザスボーというのを召していただいて、ガリラ役の船に乗ったことがあるんですが、
あのあたりは、ガリラ役の周辺は山々が、地形的に山がありまして、突風が入ってきて、気象状況がすぐに変わる、そういうところであるわけですね。
ですから、突風が吹いたら、この時も彼らが合わせて、沈むんじゃないか、沈んで自分らも死んでしまうんじゃないか、恐れた是非たちは、イエス様、寝ておられ、あんまり急いで、イエス様、起こして、起こしてください、死んでしまうとわかりません、助けてください、と言ったことが聖書の中に書かれてあるんですね。
21:07
そして、助けてくださいと頼んだ。その時に、聖書はありますが、39節見ていただいたら、その前に弟子が、「先生、私たちは溺れ死にそうでも、何とも思えないのですか。」39節。
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に黙れ、沈まれと言われた。すると風は止み、大泣きになった。
ここのところを見ましたら、たった一言なんですね。日本語でも黙れと言うと、沈まれと言うと、黙れ、沈まれ、一言で、イエス様は自然界をコントロール、統治しておられ、自然も宇宙も作られた神様で、自然界も支配することのできる道からお持ちですので、コントロールなさって、イエス様の言葉が終わった途端に、波も風も沈められてしまったわけですね。
彼らはびっくりしたんですね。それでイエス様は慌てて顔色変わっている弟子たちに、「私が一緒にいるのに、あなたが何で怖がっているんだ。」と、ここで叱責しておられ、信仰がないのかと怒られたわけであります。
私が一緒にいるのではないか。私がおったら大丈夫なんだということを、ここでもう一度信仰をよみがえらせるように、イエス様は弟子たちに注意されました。
ここで、この最後の言葉からイエス様のことについて、イエス様が語ることは神様、聖書が明かしている救い主のことをお話しますので、今朝もお話したいと思うんですが、
41節ですね。大泣きになった、静かな鏡のようになった波を見て、彼らは風も湖までが言うことを聞くとは。一体この方は誰だろう。一体この方だろう。
皆さんにとって、イエス・キリストは誰か。イエス様と自分とのことを考えていただきたい。イエス様がどんなお方かわかって、この方が死んでいると、先ほど言いましたように生涯が変わっていくんですね。
自分の人生のハンドルを委ねてもいい。身を委ねてもいい。そういうのが、我々が信仰を持ってわかってくると、そういう信仰の高めまで引き上げられます。そうすると、安全な平和な幸せな日々を、主が備えてくださるんですね。
ここでも、41節の言葉を言った弟子たちは、心の中に異形の念が、これは宗教的なことですが、異形の念が湧いてきたんですね。そして崇めたんです。ここからイエス様のことについて、ちょっと四つの面からお話したいと思うんですね。
これはイエスキリストだけがお出来になる独自性と、真学的な言葉です。独立の独と、自分の自と、性質の性ですが、ユニークなことで独自性についてお話いたします。これはイエスキリストだけがお出来になる。トランプ大統領もできない。誰もできないんですね。ニュートンだって、ワシントンだってできない。どんな小徳大使もできない。
24:23
神の御子であるイエス様だけがお出来になる。今日もこのことがお出来になるイエス様のことについてお話したいと思うんですが、一つはですね、私たちの人生の目的を教えてくださるお方です。どんなものでもですね、本当は本来、ものあるものには意味があるんですね。あるいは使命があるんですね。すべてのものは目的があって作られ、存在しております。
例えば皆さんが座っている椅子もですね、テーブルであったとしても、衣服であったとしても、食器でも、私が食べるパンでもですね、車も、作られた意味合いというか目的があるんですね。そこは人間が分からないんですね。
あるとこの大学を卒業して、もうまもなく哲学から出た青年だったそうですが、もうまもなく割と成績も良かった青年なんですが、大学卒業してこれから親も喜んで社会で働かせるのかなと思ったらですね、その青年はバッと自殺してしまったんですね。
そうしたら家を調べたら、大きなB5ぐらいの、B4の大きな、真っ暗な隅に載っていて、人生は分からないと言ってですね、不透明だと言って、彼は意味が分からない死んだということが、島中に載っておったことがあったわけなんですけれども、本当、自分がなぜ生きているのか。
これは神の栄光を表す存在として人間は生かされているんです。自分が大金持ちになるとか、有名になるとか、そして人の上に立つとか、そんなこと二の継ぎ三の継ぎなんです。本当は私たち命を与えて生かしているのは神様の栄光を表すために作られているわけなんですが、目的が分からないので、二の継ぎ三の継ぎで人生が終わってしまうんですね。
ですからイエス・キリストという方は、人生の目的を教えてくださいます。
二番目のことについてお話したいと思うんですが、教会ではしょっちゅう言われ、また聖書も書いておりますが、私たちは罪深い人間なんですが、その私たちを持っている罪や不義や汚れというか過ちを許してくださいんですね。これが十字架の恵みであります。
私中川は、他の先生方も教会でも信じておられると思うんですが、やはりこのキリスト教の信仰の最高の恵みは何か、これは人の罪が許され、どんなに過去に失敗があり恥ずかしいことがあって罪があっても、キリストが十字架で身代わりの死を遂げてくださった、とうとう命を十字架に捧げてくださった、あの潔しによって過去にどんなに恥ずかしい罪跡があっても許されるんですね。
これは最高の恵みであります。これを教会は持っているんですね。クリスチャーは持っているんですね。また聖書の中にそのことが証言というか明かされております。
27:10
3番目のことについてキリストが成してくださることについてお話したいと思うんですが、これは私広口である人間が三者、三者と平和に暮らせるというか、英語でrelationshipという言葉があります。
よく国際問題でも北朝鮮とアメリカ、国際間、アジアとよくrelationshipと英語の新聞なんかよく載っているんですが、交わりrelationshipという言葉があります。関係という国際関係ですね。international relationshipと言ったりしますが。
3つの、私たち三者の、1つは自然界と、2番目は他の人々、他の人々と、3番目には神との調和を得ることができるんですね。一番聖が我々は持っていることは自然界。
ところ自然界がわからないと、今でも地球温暖化とかいろいろなのは炭酸ガスを一生懸命するから大変なことになるんですが、昔は30年40年工場がヘドロを出して川が汚くなってしまって郊外が出ておったということになったんですが、この自然界と私たち人間が聖書がわかって神様がわかると、本当にそういうのがうまく調和できるんですね。
2番目には他の人々、家族と、隣近所の人々と、職場の友と同僚や上司との間にもうまくいくようになるんですね。
3番目には神との調和ですね。これが一番大事ですけれども、調和ハーモニーと英語で言いますけれども、神との調和をいただくことができるんですね。神様と平和に過ごすことができる。調和の関係に入ることができます。
今、こうして3つのことを言ってきましたが、人生の目的を教えてくださる。あるいは2番目に私たち罪深い人間の罪や都害を許してくださる。無駄にされ、信じるだけでその恵みに預かるんだ。
また私たち3者と他者との調和が与えられています。最後に充実した日々ですね。私たちを指定、本当にイエス様を信じなかった私なんか本当にむなしい。生きておってもむなしいな、意味のない日々なんだなと思って灰色の日々を送っておったんですが、イエス様を信じた時から使命のある充実した豊かな日々に変えてくださるんですね。
これは既使徒がお出来になる4番目の恵みであります。こういうことでありましたが、それでは何かそこのこと、こういう主はイエス様はそういう方、神様はこういうお方だ、分かっていただいた後、伊沢署の今日のところに進んでいきたいと思います。
ここ51章のところをお開きくださいませでしょうか。この伊沢という旧約の大預言者だと言われておりますが、51章の1節2節3節のところからお話ししたいと思うんですが、この伊沢署ですね、このことを書いたのは、裁きと恵みとによって主が行われる国民の救いのことについて、
30:20
神様はこのことをお出来になるということを預言者、大預言者伊沢が言っておるわけですね。本当そういうことでありますが、これは誰が書いたかということについて言うならば、覚かせずに、著者は大預言者伊沢なんですが、このことをちょっと言って、この聖句1号1号素晴らしいことに恵みをお話ししたいと思うんですが、
4世紀の神学者で偉大なオーガスチンという人がおりました。4世紀の神学者であります。彼がオーガスチンを持って、それまでは堕落した奥さんも二人も三人帰れたり、本当にやっており、お母さんのモニカという人が息子がとんでもない堕落した日々やって、毎日毎日お祈りなさったということで有名なんですが、彼が戒心した後、偉大な神学者になったんですね。
彼がオーガスチンがある友人にこのように尋ねたの。これを改めてから、聖書の中で最も一生懸命読まなければならない、研究すべき書家は何ですかということを、友達でオーガスチンに進行を進めた戒心に影響を与えたミラノのイタリアですけれども、ミラノ主教のアンブロスに質問したことがあったんですね。
その時にアンブロスの人は、イザヤ書だ、イザヤ書を読むのがいいと言ったんです。これはイザヤというのは神の恵みが書かれてあるんですね。ある人は神学聖書にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネがありますが、その福音書以外にもう一つ福音書を加えてみたら、イザヤ書だという人があるんです。福音書なんですね。
イザヤによる福音書と言われたことがあるわけなんです。
イザヤという人は家族の中に、社会の中に出てくるわけなんですけど、そのことを解決のためにイエス様をお使わせくださったわけなんですけれども、そのためにですね、キリスト、恵みはですね、無代化で、キリストを信じるだけで救われるということを言っております。
この人はですね、イザヤという人はだいたい本当に血統がいいというか血筋がいいんですね。王族の出で、そのお父さんがアモツという人だったんですが、その父アモツはユダの王ヨアシの次男だったんですね。
33:17
だから王家の出身、エリート、日本でも今もこうやって皇族とか言ったりして天皇家殿堂のコーノというのがありますけれども、本当にそういうようなユダヤ人の中で非常にエリートというか血筋の良い人物でした。
そして彼は、イザヤは強い威厳のある人格者でありまして、政治家としても本当にイスラエルの国のために凄まじい勢力を誇った、振るったわけなんですね。
この方の大きさも素晴らしく予言する力を持っておられて、その夫人と結婚して、非常に堕落したヘブル人というかユダヤ人の信仰復興のためにイザヤは活躍した人です。
60年間イザヤは予言したんですけれども、マナセオの時に伝説によって120歳で信仰の上に殉教したという、そういう人物であります。
それでは先ほど言いましたが、この内容、これは今の明太の教会のためにも、皆さんで私たちにも同じようなことを意味していることが書かれてありますので、ここのことについて、それはここに書かれてありますが、
これはアブラハムに対して、2節に行ったアブラハムとかサラが出てまいりますので、神様はアブラハム一人に声をかけて、そして一つの民族ができて、多くの子供、やがてえらい苦労してエリブトで奴隷となって、200万の民に一人からですね。
だから神様がなされること、一から多、多く多いといわれる、多様性とか言う、そういうことです。
皆さんも、今日礼拝で言っておられ、皆さん一人を一人を、私たち一人をしてですね、多くになるんですね。
そういうことが書かれてあります。2節の3、4、5行目見ましたら、アブラハムとサラのことを考えてみろと進めておるんですが、私が彼一人を呼び出し、私が彼を祝福し、彼の子孫を増やしたことよと書いてあります。
皆さんが一人信仰を持たれると、不思議なように結婚生活やいろいろなこと、私たち一人をしてだんだん祝福されるんですね。
去年のあれ2回、金先生という方が韓国から来られて、2回目のときにスライドを召してくださったんですが、一本のブドウの枝がものすごく実を見直している、そこでプロジェクターで召していただいたんですが、
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皆さん信仰を持たれることが地域社会の家の中で、例えば学校とか職場でも、我々をして神様、祝福の基礎としてアブラハムがそうだったように、サラがそうだったように、私たちをして小さなアブラハム、小さなサラとして私たちを用いてくださるわけなんですね。
ですから、あなたがその切り出された岩、漕いだされた穴を見よう、私このところから、今回も説教させていただこうと思ったら、考えてみたら、信仰を持つ前のお若いとき、本当に穢れた思いもったいない、何の意味もないことで、変な雑誌を見たり、右に左に添えて穢れた、どうしても何のすくめない、将来に対する望みのない、いつも曇り空のような日々を送っておりましたけど、
本当に悔やかめて、2月の15日、私今も忘れることはできないんですが、夜の10時半だった、火曜日だったと思うんですが、10時半ごろ、一人家の家族がみんな、また子供だって、親も兄弟もおったんで、みんな家族の寝た後、一人イエス様の前に出て、自分一人神の前に出てですね、
こんな穢れた罪深い年を生き渡すために、イエス様は十字架にかかって、尊い血を流して、私の犯してきた罪や、いろんな良くないことを許すために、磨い主を遂げてくださった、贖い主を遂げてくださった。
信じたときですね、ここでも一人の方とお話した、私もそういうことでお明かししておられました。本当に信じたとしたら、夜の10時半ごろだったんですけども、本当に心の中からですね、罪が許された。
私の恥ずかしいような罪跡が、本当に兄弟喧嘩したり、いろんなことがあった。その隅々で、本当に苦しんでおって、もやもやとした日々が、ぱっと晴れてですね、本当喜び、何か心の内から喜びというか、新しい力というか、うちらから湧き出てくるような思いをした経験を持っています。
また、それ以前のことに比べると、例えば歩いておりましてですね、東に向かって歩いておって、こちら右側にある風景が、左側の風景がですね、ちょうど180度、私の歩き方が変わりましたもんで、本当に反対に見えるようになったんですね。
何か自然界が輝いているという、いやそうや、ただの山や木や川やない、神様がお救いになった、創造の手の技で、美しい世界なんだな、何か心の中に静けさというか、安らぎを覚えたことがあります。
皆さんも本当に一日でも早くイエス様を信じられると、そういう日々を神様は、身を渡し新しいことを成すと仰せてくださる主は、私たちの身の上にそういうことをしてくださるんですね。
ですから二説目ありまして、アブラハムを、サラをこのようにしてくださったんですね。こういうことができたらですね、三説はこれはユダヤがですね、堕落しているところを神様、預言者イダワをお盾になって、エルサレムというかシオンを非常に回復するんだ。
39:04
昔の、堕落する前の、あのエレンのそのように温もりのある、そういう世界に作り変えさせるんだということを、イダワは信仰を持って預言しておるんですね。
まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、そのあらのエレンのようにし、その砂漠を主のそのようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。
この砂漠を主のそのように、今年の、この私どもの明太に教会の標語にも今年の書かれてありますように、エレンのそのようにするというのが今年度の教が掲げられてありますけれど、そういう2018年度ですかね、そういうのが明太に教会の標語の御言葉であります。
そういうことになるんですね。なると信じたようになりますので、やっていきたいと。そうしたらそういうことがわかるとですね、そういうことは神様は全能な神様、そういうことを自分の身の上に、またいろんな世界の中にわざわざなされるんだという信仰を持ったらですね、どんな困難の中にもですね、神様に信頼することができるんですね。
一番最初お話ししましたように、信仰というのはそういうことですよということをお話しさせていただいたんです。この信頼できる神様がおられるんだ、わかったらですね、一日でも早く信じたらいいわけですね。神様に信頼して、ハレルヤと賛美歌を歌いつつ、日々の生活を送ることができるんですね。
もう本当に、例えばちょっと極端な表現かもわかりませんが、大空、天は煙のように散りうせ、地も、大地もですね、血も衣のように古びて、その上に住む者は侮世のように死んだとしても、しかし私の救いは常しえに続き、私の義は挫けない。六説みたいで書いてあるんですよ、ここ。
この六説を読んでお祈りを、終わりのお祈りをしたいと思うんですが、五十五十一章の六説ですが、これ私が読みます。そしたら二回目に、皆さんと一緒に読んで、二回目、副章のところ読んで、声を出して読んでくださいませんでしょうか。私、最初のとき私を朗読します。皆さん、二回目のとき、皆さんも声を出してお読みください。
最初に読みます。
42:04
それでは最後のお祈りをささげて、司会の方とバトンタッチいたします。