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お祈りをいたします。
天の主なる神様、素晴らしい11月のこの日、名谷教会で、今日はお友達共々に主なる神様と、私たちのために十字架に座ってくださって、そしてよみがえってくださった救い主イエス様、そして私たちを導いてくださる御精霊様、
神様こうして、天と地が一つになって、また先に天に埋めされた方々、本当に祈ってくださっている方々、そうした皆の方々と共に、あなたを礼拝するこの一時を、心から感謝をいたします。
今日このように、懐かしい皆様方と共に、格別礼拝を共にできますことを、ありがとうございます。
どうぞ小さなものの口を清めてくださって、また思いも清めてくださって、あなたの皆がただあがめられますようにと、心からお祈りをいたします。
どうぞ大事なことは、あなたが教えてくださるように、あなたが語ってくださるようにと、心からお祈りをいたします。
神様のお名前によって、感謝をしてお祈りをいたします。
アーメン。
今も先生からお話いただきましたように、今年の春に牧師という、牧会という、森を養うという、そういう牧師からは引退いたしましたが、引退教職として、また献身座として、その後を会いましていただいております。
一つ嬉しいなと思うことは、朝ドラを見ることができるようになった。
今まで話についていけないんですよね、いろいろ言われても。でも私朝ドラ、毎日見ております。
夏ドラから始まりまして、今スカーレットという、どちらも小さな子供たちが、本当に大きな夢を持って大人になっていくストーリーです。
戦争後時の夏ちゃんは、第一戦の北海道で、楽の丘の家に、その家で育っていく。その家で出会った。
その後の人生に大きな影響を与えたのが、じっちゃん、おじいさん、祖母のその改革精神でした。はい、ありがとう。
また、いいですよ。私の小声が好きなら困るけど、そうでなかったら自由にしておいてくださいね。将来有望な。
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そしてスカーレットのキミちゃんは、滋賀県神奈川市の白垣の里で、まず最初にね、土を掘ってる男の人に会ったんですよ。
なにしとんって言ったら、これ金になるんや。へえと、土が金になる、お金になる、とても貧乏だったんですね。
それをたぶん、私は吐いたと思うんです。そしてそこで次は、この歩いてる時に、小さな小さな白垣焼きの破片を見つけるんです。
それを大事に大事に、そういう出会いがあったんです。
今日の説教題は説教と言いましょうか、ほぐめの出会いという、出会いという言葉が何回か出てまいります。
その後のキミちゃんは、女流陶芸家、絵付け師として、ステージをしてまいります。
今日のこの集会案内ホームページを見ていますと、私のことがちょっと書いてあって、私が書いたんですけどね、先生がそのまま載せてくださって。
小学校4年生で初めてキリスト教会、タルミ教会に行き、その後67年、このお方に出会い、救われ、真に祝福された人生の喜びの感謝と恵みに生かされた証人として、救いを語らせていただきますと書いてあります。
じゃあその小学校4年生の時に何があったのか。
私の家は熱心な仏教徒で、小学校1年生まで神戸下山手にある禅福寺に住んでいました。
昭和16年に神戸に大きな水害があり、降下したり、六高山から大きな岩のような石が流れてきたということを聞いております。
私の家は当時布引きにありました。栄信堂という店をしていたそうです。タバコも売っておりました。そこの栄信堂のもなかがおいしかったそうです。
私も兄も甘党なんです。私が一番最初に罪を告白した時の罪は何だったか。それはまだあまり世を歩かないのに、そのあんこを食べたという。
亡くなったらまた行って食べたという。それだったんですね。4歳になっていなかったと思います。それが私の罪の一番最初の自分の記憶の中で。
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その家が流されてしまったんです。そこで祖母が残火葬礼のような役員なことをしていたんでしょうね。その関係で神戸下山手の禅福寺に遺葬廊にすることになりました。
父は会社を務め、母は産親婦人のお坊さんたちの賄いをするという、そういう仕事をしておりました。
皆さん禅福寺って分かりますか。モダンデラ。分かります。元町、今日も見てきました。元町から神戸に行ったときに住んでいた熊病院があって、住んでいたモダンデラ。これなんです。
これは大臣にとって言うのは、平成4年に本堂を取り壊しという、このモダンな作りだったからモダンデラって言うんですけども、浄土新宿の本願寺派の別院、神戸別院という、ここの、これが今も同じようにあって、この横にお坊さんたちの賄いのそういうのがあって、その向こうにまたお座敷の広い広い本堂があったんですね。
そういうところで私は過ごしました。お寺の生活は小学校1年生の12月まで過ごし、たるに新しく今日を構えました。
その小学校4年生のとき、一家の中心であった祖母が、朝元気であったのに、学校から帰ってくると、とこを引いて寝てるんですね。
どうしたの?ちょっと気分が悪なりはってな。それからだんだんだんだん息をするようになりました。
お爺さんは、この息が収まれば死ぬか生きるかです。私でも言えるようなことなんですけど。と言われたんですね。
私は一生懸命祈ったんです。誰かわかりませんけど祈ったんですね。でも夜遅くに亡くなりました。
お通夜、禅屋敷の席でお坊さんが白骨の御文章を読まれたんです。朝には黄ばんの美少年、夕には白骨となりきって。
今で言ったらね、こうイケメン、ジャニーズ系の青年が夜には灰になるという、そうだったんです。
私はそれを四年生の時に聞いた時に、人間の死の虚しさ、その現実を知るとともに、死とは何で生まれてくるのか、また何で死ぬのかという、それを疑問に思いました。
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死とが死んだら仏になるというのは教えられておりましたから、家には大きな仏壇が備えられました。
毎朝私はそこにご飯を持って行くという、そういう日課だったんです。
そしておばあちゃん、おばあちゃんと私を一日守ってなというふうに言いながら来たんですね。
そしたら仏壇の真ん中に何か置いてあるんです。過去帳という。
それは何なのかと。そしてその過去帳を開いていったんです。観音になっているのをね、ずっと屏風パタパンになっているのを見ていったら、何かよくわからないけど、とにかく誰々が死んだ、誰々が死んだ、誰々が死んだということが書いてあったんですね。
要は中島家の先祖が記されていました。
死んだ先には何があるのか。死の向こうに何があるのか。人は死んだらどうなるのか。そういうことがわくわくしてまいりました。
そんなとき、近所の高校生のお兄さんがタルム教会の教会学校に誘ってくれたんです。中島家で私が一番最初に教会学校に行きました。
教会学校でしたこと、それは本当に衝撃でした。これが持ってきた聖書なんですけど、60何年前の聖書、文語訳なんですね。
ここで本当に、はじめにいかに天地をつくりたまえるという、この文語訳聖書でそれを読んだんですね。
天地万物の創造者との出会い。これは衝撃でした。
幼い頃、おてなの本堂が朝陽であり、立派な金ピカの仏像。
皆さんは前の方を見てらっしゃるけど、私は後ろを見るんです。来られる人はそこです。みんな座られる。
私はこっち側から入ってきて、後ろから見て、その間をぬって歩くようにして、キャキャキャキャ言うとったんですよね、結局。そういう人間だったんですよね。
そして、これが大切なもんだというのが私の生活だったんです。しかしそうじゃないという。
この世界は偶然にできたのではない、天地万物の創造者なる神様の存在。すんなり入ってきました。
そして、生きる意味を知らされていったんです。
それから、共産学校に熱心に通い、文学聖書を読む生活が始まりました。
当時の先生は三島恒夫先生といいまして、長谷川信恵先生のお父さんになるんです。
それはそれは、もう身振り手振り怖いを変えて、本当に聖書のお話を端から端まで走りながら、面白おかしく話してくださいました。
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私の近郊生活の土台は、教会学校のお話です。主に人物伝です。旧約から人物伝をずっと覚えているんですね、その話を。
1956年、昭和31年の2月の8日。朝元気で勤めに出た父が、夕方警察の人が来られて、お父さんが事故に遭われました。
どこの病院ですか。とにかく一緒に来てください。母と当時高校生であった兄主一が病院に行きました。大阪勤務の少男はまだ帰宅していませんでした。
残されたのは姉二人、三人です。そわそわそわしておりました。しばらくしてまた警察の人が来られ、お父さんは亡くなられましたと言われたんです。姉たちは泣きくぐれておりました。
私はその時、おまわりさんに、2月の8日、冬、夜、お三父さん、ご苦労様でした。ありがとうございましたとお答えしたんですね。
その時の私は、教会学校で、人間の死は恐ろしくない。人間は誰でもやがて死ぬ。しかし大事なのが魂の死の大切さというものを教会学校で教えられておりました。神様を信ずる者には永遠の命が与えられることを私は知っておりました。
ですから姉たちが、ちえちゃん、悲しない、怖いない、怖ないね、と言って、そこで教会小学校の中学1年、2年、1年でしたかね、私の知っている教会学校でジュニアで聞いた、イエス・キリストを信ずる者には永遠の命が与えられるというところを私はそこに話しました。
後々、この日の私の対応を見て、すぐ上の次女の愛子が教会に見つけられました。今もたるみ教会におります。下平愛子です。私は父の気を通して、これから人に迷惑かけないで、後ろ指刺されることなく歩みたいと心から願いました。
聖書は広きませんが、エクストリートへの提案の一章十節。実に私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリストイエスにあって作られたのです。神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えて下さいました。
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また新明記のお言葉十四章の一節二節。
あなた方はあなた方の神主の子供である。非人のために自分の身を傷つけたり、また死体を反り上げたりしてはならない。あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。主は地の表のあらゆる神の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。
私にはもう父はいない。いや、いいんだ。二人でおったら面倒くさい。本当のお父さんはこのお方だけや。このお方に従おうと固く決心する父の死は、誠の神様に従っていくという決心を促した出来事になりました。
1957年、七夜政会に導かれました。昭和32年5月、本田浩二先生の最後の宣教メッセージで、ルカによる福音との巣が老いるようなのです。巣のようなりという。
その招きに、今はまだ中学生で不十分だけれども、この巣に私の人生のすべての手綱をお任せしますと決心し応答いたしました。
先ほど絵手書書のお言葉を開きましたが、「良い行いをするようにあらかじめ備えられたと書いてあった。しかし私は良い行いが出来るようにと教会に一生懸命励みました。聖書も一生懸命読みました。
しかしある日、中学校のホームルームで、みんなが何が言ってもいいという先生がそこにいらっしゃった。その時に一人の女の子が手を挙げて、「中島さんは賢い人には優しいですけれども、私たち頭の悪い者には冷たいです。」とこういう暴露されたんですよね。
もうその時、顔から火が出るような、そういうのはこのことかと思うくらい、そこで、私にはそういう気がありますと必死でそのところで祈りました。
その時、私はこの聖書と賛美歌を、タルミの上からタルミ教会に行くときに、わりと使徒に見えるようにね、鞄を持たんとここに持つんで、そしてこうやって行き寄ったんです。
その心の中は、みんな信じていない。私は本当の神様を知っている。そういう信じていない、私はクリスチャンになるんだ、なっているんだという、そういう誇りみたいなものを使徒を見下すという、そういうことをしていたんですね。
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いろいろいろいろいろ、良い行いをしようとしてもできない自分というものの中に、罪しかないという、励もうとしても、あのロマ書の8章、7章、8章の、あの辺ですよね。
私は何才愚かな罪人だろうと、自分が罪人であることを認めました。
優先準備は恩師三島常夫子の導の中、私の罪のために十字架に身代わりとなって死んでくださった死と、私が新しく神の子たちと生きるために復活してくださった死を信じて、1957年9月2日に沢村吾朗先生の指揮の下、洗礼を受けました。
その記念の聖書に、文語訳でもう古いんですけども、沢村吾朗先生がここに書いてくださった言葉が、
我に従いきたれ、偉ば我男女死闘死なぞる者とせん。
また依存書19、昭和32年9月8日。中島知恵子姉沢村喜と書いてあるんですよね。
この御言葉がずいぶん私の心に毎日くらい刺さってまいりました。
家族の救いは私に大きな祈りの課題でした。
家には父の死によりさらに大きな仏壇があり、不平日にはお坊さんが来られました。
孟瀬の実会、私はあなたをエリプトの地奴隷の家から見しびらしたあなたの神室であり、あなたは私以外に他の神があってはならない。
その時も暗記していたのが、我、汝我が顔の前に我の他何者も神とすべからずという。
もうそれが、神様この家は駄目です。どうぞ中島助を作ってください。
という偶像から離れることができるように。
父は長男だったんですね。そういう父だったから大変でした。
しかし、その中に父にも整然話したりしていました。
兄が新学校に行った後、私がよく定伝があったんですね、その当時は。
定伝になるとよく信仰問答をみんなとやっておりました。
そのうち10年経ったころ、そういう話をして10年経った1967年には家族全員、兄弟全員、家族は全部救われました。
今年5月に私が引退したのという記念で、一応みんなで大木窪栄光に集まったんですよね。
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面白いなと思ったんです。まだみんな健在なんです。
兄道和、87歳。我は道成という。
和江、85歳。私は枝である。
周一山、82歳。愛子、神の愛なり。私、千年長生きすること。
本当にこの仏教で育った家が神様をこうやってみんなを救って、名前変えたんじゃないでしょう。
最初からこうだったんですけども、こういうふうに選んでくださったことを感謝しております。
その後私は20歳で新学校に導かれました。
時来56年様々なことがありました。
1969年、昭和44年、民口雄一氏という、雄一さんという人と私は結婚しました。
彼は牧師の子で、日本起立新学校の出身の方でした。
日本起立新学校というのはね、ギリシャ語とかヘブルとか、そういうのはすごく勉強よくてよく分かっている人です。
私なんかは今、新学校は立ってますけども、あの新学校の前の前ぐらいのところだったら、作業ばっかりしてたような、本当にギリシャ語はほったらかしてたような、
もうそれより精々読むことが大事や伝道することが大事や、みたいなところで、今は違いますけどもね。
そういう、とても弁学の人でありて、優雅でとてもおとなしい方で、全身謙遜を身に覆っているような温厚な方でした。
私も本来素直なものですから、教科学を育ちですから、当時奉仕をしておりました湖南教会の主幹牧師であった佐藤国之先生の一声の祈り、
神の御心なり、アーメン、目の前でアーメンと、昭和してたった一回の出会いで結婚が決まったわけなんです。
私は祖母の日小学校4年、父の日中学1年、そして唯一牧師とは、私が42歳の時、唯一は45歳、2ヶ月の闘病生活で、癌のために死滅しました。
夫の最後は素晴らしいものでした。
病名は胃癌、肺癌、骨に転移、多発性、及びそれによる骨髄低形性貧血、海綿状腎臓、糖尿病、告知された病名は過酷なものでした。
2ヶ月ちょっとでしたね。
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めされるその日、教会役員に、教会のことあとよろしくお願いしますと言いました。
そのうち、だんだん意識朦朧としていく中、上言のように、
信仰は勝利、ハレルヤアーメン、神はあいなり、
信仰は勝利、ハレルヤアーメン、神はあいなりと、ずっと最後はもうずっとそれをずっと言い残して、
私はそのとき、神聖歌の458番の、信仰は勝利、信仰は勝利を一緒に歌いながら、奨和しながら、二人の時を思っておりました。
そして最後にね、主は近いという言葉を残して、渾水状態に入っていったんですね。
天国に凱旋した。
1992年11月号の、この宝島という、今でも宝島、よくいろんな付録がついているから皆さん買いますよね。
こういう本に、願読本という、願をまだその当時ですか、告知するということはあまりなかったんですね。
そこで、これは特集で、医者や看護婦が、あれが、告知する旗、告知したい旗という、そういう中で、
司事であった先生が、これに投稿なさったんですよね。
1986年10月号日、私の外来にやってきた谷口唯一さんは、そのような患者さんだった、46歳。
痩れて一見して、悪い液質だ。
どうしてここまでほっといたんですか。え?働きすぎて疲れるのかと思っていた?
お仕事は何です?牧師さん?
即日入院してもらった。精密検査の結果は、胃がんの全身転移。
当時の常として、まず奥さん、しゅうこさんに告知したところ、全ての事実を本人に告げてください。
転移についてもありのまま告げてください。
夜場、キリスト教病院のホスピスを見学に行ったこともある人なんです。
それでグラッピオな主人ではありません。との返答。
42歳でこんなことを言ったんですね。
そこでこわごわ全てを本人に告知したが、まさに需要を受け入れるとして受け入れられた。
こういう方には本当に本人に直接言ってもいいんだな。
いや、言うべきなんだろうな。そうしないとかえって失礼になるんだろうな。
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それにしても心の葛藤はどう処理されるんだろうというのが、その時の私の正直な感想。
11月中旬には、科学療法後の輸血中ながらがん迫され、自分の教会の説教題で自らの同病について語られた。
そして薬効法なく12月2日、三次科の合授の中で英明された。
ひとしんからわずか2か月にして、保湿室に行こうかどうか話し合ったんです。
もうここでいいということになりました。
三次科の歌えるし、え、病理解剖?ここでもできるんすか?喜んでと千恵子さん。
その後先生から手紙をいただいて、いろんなことの後も話もしてくださいました。脳にまでも行けたとか、そういうことが書かれてたんですね。
で、とに12月、11月の16日には、ドクターもみんな来てくださって、そして支えられるように船田先生、唐木先生に支えられながら、優位音メッセージ、この福音を語ってくれました。
私は優位子さんの口から、「主は近い!」の御言葉が語られたとき、私は、「ああ、主が迎えに来られたんだ。この地上と天国はつながっている。なんと素晴らしいことなんだ。ハレルヤ!」と。
だんだん、主人がそんなに長くないと思ったときに、この人弱そうやけども、最後どうなるやろう。要は本田先生が、あの、白いのをかぶせられて、お母ちゃん言うたらあかんし、とかいろんなそんな話を聞いてたんですよね。
でも本当に良い言葉はずっと出て、主は近い。私はそのとき、「福音とはなんと素晴らしい。まことに主は勝利に呑まれた。もう喜んで悔いちゃしました。」
45歳の夫の死、残された子供3人、高校2年、中学3年、中学1年を抱えた未亡人、かわいそうな悲劇のヒロインのようなものが、イエス・キリストという確かな福音主との出会いにより、その後、子供を育てながら牧師として大胆に福音宣教に奉仕させていただきました。
その後、日本イエス・キリスト教団の100番目の教会として、マイズル福音教会を設立し、改造建築しました。
そして、60歳で西名浩先生と再婚し、押上神教会改造建築、そして75歳で引退し、千和県戸瀬教会で2年間直託牧師もさせていただき、まことに感動かつ華麗な人生を送らせていただいております。
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私たちは今、一番若い時に立っています。特にお友達、あなたの人生設計の基礎、土台は何でしょうか。
この福音によって救われるという。そして私のある意味で大不滅生として、御言葉として思っているのは、この女は私にできる限りのことをしたのだというマリアの信仰姿勢と、
そしてダニエル・サミエル記の第二サミエルの二十三章の一節。これはダビデの最後の言葉である。エスタイの子ダビデの告げた言葉。
御節に、すべてのことに備えられという。新漢訳ではそうなっているんですけれども、皇后訳でしたかね。よろず備わった確かな契約という。このよろず備わるというのはね、先回りして手筈を整えるということ。
お料理をする時は段取りが大切でしょう。私も今日来る時にはちゃんと検索して、何に乗ってどこで何分という。先々手筈をする。私のすべての手筈を神様が先回りして先にずっと備えていてくださるという。ダビデ、ダビデ、本当に私はダビデ。
あのゴリラ手を倒したあのダビデ。そしてモーセが航海を渡る。そしてヨシアがヨルダンの川を渡る。そういう話。ましてやまたダニエルが四季の穴からこうすくい出されるということとか。
カウロ、ペトロ、シーイスで聞いた教会学のお話は、水帳すりつけさらなる深く広く高い宗の恵みにあずかり、奥深い御目を知るようになりました。しかしその根底にあるのはあの幼い時のワクワクドキドキ感ですね。
その後あらゆる境遇に諸する死結がこの教会学校であり、そして教会学校によって知らされたところのイエス・キリストとの出会いでした。だから私はお友達と話すのが大好きです。
今日は小さいお友達がちょっと理解できないところは、お母さん方がしっかり聞いて、また教会のみんなが、ああ小さい時に何に環境を出会うか、何を伝えていくのか。
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私たちは人生で本物の出会い、本当にあなたに平安と勝利と死の解決を与えられるシーイス・キリストをあなたの救い主として心の王座に迎えて、近がう道を受けられるよう心からお祈りをいたします。